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未遂に終わった、三月事件の影響はとても大きかったといいます。事件そのものは極秘にされ、新聞記事もさし止められ、橋本欣五郎、大川周期らを処分しなかった事が、禍根を残す事になります。
1931年には、9月の満州事変勃発をはさんで10月にもクーデター計画が練られました。この「十月事件」の首謀者も橋本欣五郎や大川周期であり、この計画は三月事件とは比べようがない程、大きいものでした。
決行日は10月23日を予定し、約120人の陸軍兵力を動員して、首相官邸の閣議の席を襲撃して首相以下を斬殺、警察庁を占領し、陸軍省、参謀本部を包囲、新聞社も襲撃して、宮中に東郷元帥が参内し、新興勢力に大命が降下するようとりはからうというもので、首相には荒木貞夫陸軍中将を想定していました。
だが、内報告者が続出して、10月17日、橋本、重藤千秋ら12名の将校が憲兵隊に検束されて未発に終わったが、この時も橋本欣五郎と同志の長勇が重謹慎に処せられただけです。
翌1932年、515事件が勃発して犬養首相が首相官邸で射殺され、また、これに先立って民間右翼血盟団の手によって井上準之助間前蔵相が、続いて団琢磨三井合名理事長が暗殺されました。そしてついに1936年2月26日早朝の226事件となるのです。
これは軍隊の動員によるクーデターですが、軍隊を利用しての要人の襲撃は「十月事件」が原型となっており、遡って「三月事件」で首謀者らを放置した事が、一連の昭和動乱の根源となったのだと言います。
三月事件で注目すべきは軍の少壮将校と民間右翼との結託です。その根源にはカネの流れがあります。三月事件では徳川義親が金主として登場しましたが、こののちはマレーの鉄鉱石発掘で金持ちになった石原広一郎、上海で麻薬のブローカーをして大儲けした藤田勇などがスポンサーとなり、テロリストが形成されたのです。
三月事件にかかわった小磯国昭が永田鉄山に書かせた「計画書」はのちに大波乱を引き起こします。永田鉄山はこの「計画書」を始末しないで置いたところ、山岡重厚軍務局長の手に渡ってしまいました。
当時の陸軍大臣は荒木貞夫ですが、山岡を通じて荒木貞夫と真崎甚三郎が手に入れたのです。真崎甚三郎は永田鉄山の計画書を極秘公文書ときめつけて、三月事件に永田鉄山がかかわった動かぬ証拠として、末席に控えていた永田軍務局長を糾弾しました。
激論になり、真崎甚三郎の後任の教育総監渡辺錠太郎が「極秘公文書といわれるものがどうして一軍事参議官の手に入ったのか」と真崎甚三郎に逆襲するなど、この時の軍事参議は興奮に包まれた(高宮太平『順逆の昭和史』)。
それからひと月もたたぬ8月12日、反皇動派の統制派のリーダーで将来の陸軍を背負うといわれた永田鉄山は、突然軍務局長室に侵入してきた福山連隊付の相沢三郎中佐によって斬殺されるのです。
また渡辺教育総監も、翌年の二・二六事件で皇道派将校がひきいる軍隊によって殺されます。相沢三郎中佐は当時朝鮮総督だった宇垣も、上京の際に福山付近で襲撃するつもりだった、と公判で供述しています。この男は永田鉄山を斬殺後、平然と転任地台湾に赴こうとした異常な神経の持主だから、宇垣も危なかったのです。
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