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エリコの塔には世界最古の階段があります。どれぐらい古いかというと、エジプトのピラミッドより5000年も昔です。あまりに古いので、地球がゆっくりと少しずつ飲み込む時間は十分にありました。かつては2段上って最上段に出れば、ヨルダン川とその周辺が一望できたはずですが、今は地中深くに埋まっています。
エリコの塔は侵略者から町を守るための監視塔だったのでしょうか。あるいは夜空の星にもっと近づくための手段だったのか。いずれにせよ、建設にのべ1万1000の労働日数を要したという大工事は、農業が生み出す余剰食糧がなければ不可能でした。
この塔に上れば、300世代にわたる人間の足跡をたどれるでしょう。放浪生活を終えるか終えないかという時代に、これほど持ちこたえる建造物をよくつくったものです。一説には初期のテル・エッ・スルタン時代(新石器から旧約聖書の時代)に建てられたともいわれていますが、多くは謎です。
アナトリア平原のチャタル・ヒュユクと同様、エリコの塔をつくった人びとも死者の頭蓋骨を自宅居間の床下に埋葬し、いつでも取り出せるようにしていました。 しっくいで生前の顔を復元し、貝殻の目を入れ、小石の入れ歯もはめる。いったい何のために?
頭蓋骨は崇拝の対象なのか、芸術作品なのか、それとも「ここで死んだ祖先に守られているのだから、この土地は私のもの」という斬新な宣言なのか? その可能性があるということは、誰のものでもない場所がいくらでもあった時代から、既に土地所有の意識が芽生えていた証拠かもしれません。
エリコとチャタル・ヒュユクは、歴史のなかで同じ時代に繁栄していました。だがエリコには、チャタル・ヒュユクにはない危険がありました。小さな町に大勢の人間が暮らすと病気が蔓延しやすい。 収穫や城壁も足かせとなります。
新しい生活様式は、階級間の闘争や性差別を助長しました。出土した骨や歯を分析すると、奴隷や身分が低い者には栄養不足が見て取れます。早くも格差が生まれていました。狩猟・採集生活では、食べ物の幅が植物や昆虫、鳥などの動物と広かったが、農業によって数種類の穀類が中心の炭水化物食に切り替わりました。
日照りやイナゴの襲来、カビによる病害は、飢饉を引き起こします。ときには地球の反対側で起きた自然現象が原因となることもあり、そうなると防ぐ手立てはない。1600年2月1日午後5時、ペルー南部でワイナプチナ火山が噴火しました。
記録に残る限り南米で最大級の噴火です。火山から勢いよく吐き出された石、ガス、塵は大気中に吹き上がりました。対流圏、成層圏も過ぎて、ダークブルーというよりほとんど真っ黒な中間圏に達したところでようやく降下を始めました。
大量の硫酸と火山灰は太陽光線を遮り、冬がやってきた火山の冬です。ロシアは6世紀ぶりの猛烈な寒さとなり、それから2年間は夏でも夜は気温が零下になりました。大飢饉が発生し、当時の人口の3分の1にあたる200万人が死にました。
人びとは凍える顔にぼろ布を巻いて巨大な穴を掘り、死体を埋めたといいます。ツァーリ (君主)だったボリス・ゴドゥノフの治世は終焉を迎えました。すべては1万3000キロメートル離れたペルーの火山のせいでした。「地球は一つの有機体である」という表現は、多くの人が感傷的な言葉のあやととらえますが、れっきとした科学的事実なのです。
18世紀のインドでは、度重なる干ばつで飢饉が発生し、英国の植民地運営の不手際も手伝って1000万人が死にました。中国では19世紀に何度も起きた飢饉で1億人以上が死んだといいます。
1世紀のアイルランドで起きた大飢饉は、またしても英国の植民地運営が一因であり、100万人が餓死し、200万人が国外へ脱出しました。ブラジルで 1877年に起きた干ばつと疫病もすさまじく、一つの州では飢餓と、免疫力が低下した人がかかる日和見感染で人口が半分以下に減りました。
20世紀に入ってからも、エチオピア、ルワンダ、それにサハラ砂漠の南では大きな飢饉が頻発しており、死者の数はいまだ確定していません。記録に残っているだけでも、この2000年間に地球のどこかで必ず大量の餓死者が発生していました。
近代科学は目覚ましく発展し、新たな発見や技術の進歩のおかげで、人びとの暮らしは完璧なものに近づきつつありました。ならば農業も科学の一分野となって、ニュートン力学の重力と同じぐらい確かな交配予測理論を確立できないだろうか。そうすれば干ばつや病気に負けない品種を生み出せるはずでしょう。
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