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愛子様は、初めての海外公務として、東南アジアのラオスを外交関係樹立70周年の記念すべき年に現地の民族衣装をまとい、ラオスの要人らと会談されました。過去、アジアは白人の植民地支配で中国に手を出し、ベトナムやラオスと次々に支配されました。
アジアで植民地でなかったのは日本と同盟国のタイ王国だけです。この時を生きていた日本人が抱いた切迫感はよくわかるのでないでしょうか。日本国が白人支配をくい止めなければアジアの民が奴隷にされてしまうという論理から満州合衆国を建設しようと石原莞爾は立ち上がり満蒙問題の解決には石原莞爾の描いた満州事変を行ったのです。
満州国は決して植民地国家ではなく、欧米の帝国主義支配を排してアジアに理想国家を建設する運動の場でありました。満州国建設は一種のユートピア実現の試みで建国育成は、歴史上前例のないトライアルです。侵略、植民地化万能の歴史的時代にあって、満州の地に民族協和する理想国家を作ろうとしたことは、日本民族の誇りです。
しかし、日本が満州国だけを大切にしていれば、中国側に不満が残ったとしても、いずれ国際的にも認められるようになり、日中戦争の悲劇はなかったと思うのです。だが、関東軍は石原莞爾の反対を押し切って軍事力を背景に、万里の長城を越えて中国本土に対する圧力を加えたのです。
中国の忍耐力は限界に達し、反日運動は全国的に広がり、戦争の危機が迫ってきました。その局面を打開する為に行われた日中外交交渉が、日本側の強硬態度と関東軍の暴走により失敗した後、中国側は綏遠事変、西安事件を契機として抗日民族統一運動の体制を固めていきました。
ようやく日本は反省して、蒋介石率いる国民党と通じ合い政策転換も行われたのですが、真相は不明の盧溝橋での関東軍に向けての一発の銃弾は日本政府の不拡大方針が、上海事変を誘発して首都南京占領となり、ついに本格的な日中戦争に陥ってしったのです。
その間に戦争回避のチャンスがあり、日本の軍部の中では石原莞爾が努力しました。とくに盧溝橋事件直後から上海事変までの段階では、和平の可能性はなお強かったのですが、中国共産党が中国国民党を後押しして抗日気勢は高揚し、有力な和平案も試みられましたが、タイミングの悪さもあり実を結ばなかったのです。
上海占領後も、南京攻略のとき日本政府が講和を行わなかったのは大失策だと思います。戦勝に酔いしれ、ドイツの調停工作も積極的に利用しようとせず、それが日本側の高圧的な態度によって失敗した後、交渉相手の存在を無視するという日本政府の政策により、長期戦に移行して、ついに泥沼化していったのです。
日中戦争は長年に渡る日本の大陸政策と中国ナショナリズムとの総決算であったのですが、その対立は、戦争によってしか解決できなかったというわけではないのです。日中戦争を行わないという信念のもとに、さまざまな和平努力も行われていたのも歴史の真実です。
だが戦争を避けることは非常に困難であったこともまた真実なのです。戦争を避けられない難しい要因のひとつは日本という国家の性格です。功名が欲しがる軍人の行動を制御する難しい状態になってしまった事です。このことは2・26事件によって象徴されています。
軍からの心理的圧迫によって萎縮させられ、外交・内政両面における軍部の発言力が強化され、その独走、横暴がまかり通ることとなり、それは現状打破を求める国民感情と結びついていたのです。
さらに、日本は中国と戦っても決して負けることはなく、服従させることができる。中国と戦争しても決して国を滅ぼすようなことはないという思い上がった考え方が、国民全体に広がっていたということです。
日清戦争後、顕著となった日本の対中優越感、中国蔑視の観念は中国民族を理解することをせず、抗戦能力を過小評価して中国に武力行使し、侵略をおしすすめてしまったのです。中国からみれば、満州事変以降の日本の帝国主義は、中国のナショナリズムをまったく無視するものでしょう。
したがって中国国民の対日不信感、反日感情は、地域、階級、身分、職業を問わず、限界に達していたのであり、もはや安易な妥協を許さず、抗日意識は戦場での士気をあげてしまいました。中国を容易に武力で制圧できるという先入観が、日中戦争を避けることを困難にした大きな理由なのです。
ただこの点は、この戦争の泥沼から抜け出すべく米国に期待して日米交渉に入り、その決裂の結果、ついに戦争へ突入した、日米戦争とは異なるところです。日米開戦の経緯については検討しなければならないのですが、ただ日米戦争の方が日中戦争より回避することが容易であったのだと思うのです。
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