| ホーム | RSS | 携帯用 | 過去ログ/検索 |


☆★☆最新情報7☆★☆


 
新規投稿 ] 
  星の死である超新星爆発  仲條拓躬 2026/02/18(水) 19:08 
  独自の意見を模索する  仲條拓躬 2026/02/18(水) 19:05 
  顕微鏡が明らかにした世界  仲條拓躬 2026/02/17(火) 16:32 
  マリ・キュリーの見た地上の星  仲條拓躬 2026/02/16(月) 18:22 
  海の色合いとは  仲條拓躬 2026/02/16(月) 18:21 
  オリンピックで有名になったクオーツ  仲條拓躬 2026/02/16(月) 18:12 
  大物であった久原房之助の人生  仲條拓躬 2026/02/16(月) 18:10 
  医学の進歩を千年以上遅らせた理由  仲條拓躬 2026/02/13(金) 14:42 
  ダーウィンの恐るべき慧眼  仲條拓躬 2026/02/10(火) 15:02 
  はめられて湾岸戦争  仲條拓躬 2026/02/10(火) 15:01 






[ 一覧 ]
星の死である超新星爆発
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/18(水) 19:08
No. 8148
 
 
地球が生まれていない遠い昔のことです。冷たくて希薄なガスが浮かんでいました。中身は水素とヘリウムだけです。ガスの濃い部分が自己重力で収縮し、回転とともに平たくなっていました。中心部分ではガスが収縮するにつれて内部の原子同士が近づき、動きが活発になり、温度が上昇していきました。

やがて十分に高温となり、天然の核融合炉になったのです。漆黒の闇の中で、原子は物理法則に従って出会い、くっついたのです。やがて光が暗闇を照らしました。恒星の誕生です。水素原子が核融合して、ヘリウム原子が形成されていきました。

それから数十億年が過ぎ、星はすっかり年を取りました。もっていた水素燃料をみんなヘリウムに変えてしまったのです。近づく死を前に、星は幼少期のように再び内部で核融合反応を行います。

今度は、たくさんあるヘリウム原子3個が一つになって我らが炭素原子へと変身し、宇宙空間へ旅立ちました。天の川銀河の別の場所でも、恒星の誕生と死が続いていました。物語のもう1人の主人公も、死にゆく星の中心部で形成されました。

星の死である超新星爆発の中で、合計238個の陽子と中性子が融合してウラン原子になりました。それぞれ別々の場所でできた炭素原子とウラン原子、2個の原子は天の川銀河をどこまでもさまよいました。炭素原子は長い旅をして、小さな惑星の一部となりました。

そして数億年後、複雑な構造をした分子の一員となります。この分子は自己複製という珍しい特徴をもっていました。これこそが生命誕生の立役者であるデオキシリボ核酸、DNAです。生命の始まりには、炭素原子が微力ながら貢献したことになるといいます。

深い海の底に出現した単細胞の生命体にも、古代魚の虹色のうろこにも、海から陸に上がった両生類のかぎ爪にも炭素は必ず入っていました。どんな形を取るにせよ、炭素原子には自己意識も自由意志もなかったのです。

自然の法則に従って作動する宇宙装置の、ごく小さな歯車の一つでしかなかったのです。 では超新星爆発でできたウラン原子はどうだろうか。生まれたばかりの地球が燃えさかっていた時、そこにウラン原子が引き寄せられました。

超新星爆発の衝撃波に運ばれたか、太陽の重力に引っ張られたか。ともかくウラン原子は地球に飛び込んで、奥へ奥へと潜っていきました。地球は表面が冷えた後も、内部は融けた岩石や金属のマグマでどろどろしていました。

マグマはゆっくりと回転し、ウラン原子もその流れに乗るうちに地表へと押し上げられていきます。地球の深部は温度も圧力もすさまじいのですが、ウラン原子はびくともしなかったのです。原子はとても小さくて固く、古くて丈夫なのです。

最初の頃は地表の岩石にウラン原子がたくさん存在していたが、長い時間とともに岩石は深く沈み込み、高いマツ林にすっかり覆われました。万物は原子でできています。もちろん我々も。でも1世紀終盤になるまで、原子内部が熱狂のるつぼだとは誰も知らなかったのです。天の川銀河の両端に別れた2個の原子が、ついに出会うときが来たのです。

 





[ 一覧 ]
独自の意見を模索する
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/18(水) 19:05
No. 8147
 
 
北朝鮮が様々なミサイルを発射してから、日本の報道は常に北朝鮮への制裁問題です。国連安保理15カ国のうち日本の制裁案に反対するのは、中国とロシアだけです。結局、中国・ロシア・北朝鮮という昔の共産主義が庇っているのです。

アメリカの高官は中国・韓国・日本を訪問して、協議に向けて中国政府との話し合いを模索します。その協議の場ならば、アメリカは北朝鮮と個別で会合してもよいといいます。これは、北朝鮮を協議に参加させるための米国の提案です。

北朝鮮は、前々から米国との直接交渉を求めていました。米国は、直接交渉には応じないと言いながらも、米朝が直接対話しても言いというのです。以前米国はマカオの銀行が北朝鮮政府のマネーロンダリングに協力していると非難して、北朝鮮の政府系企業の銀行口座を凍結しました。

北朝鮮政府は、マカオの口座の資金は違法なお金ではないと反論して、正当性を認めない限り協議には参加しないと宣言しましたが、米国は口座の凍結を解除するつもりはないといいました。日本政府は、安保理で北朝鮮に経済制裁を行う決議でないと意味がないと主張しています。

だが、日本政府の制裁案は、土壇場で安保理評決が延期され、中国による北朝鮮への説得の結果を待つことになりました。日本が強硬姿勢を崩せないのは、米国が日本の強硬姿勢を強く支持しているからです。

米国が赦してやれと言えば、日本政府は直ぐに態度を軟化させるでしょう。戦後のマインドコントロールされている日本は、米国が反対する外交政策は出来ません。日本にとって米国は唯一絶対の大親分なのです。これからの高市政権も同じ道を辿ることでしょう。

中国は、日本や米国が北朝鮮に経済制裁するのは構わないけど、中国が北朝鮮に経済制裁を強制させられるのは嫌だと考えています。北朝鮮の経済を支えているのは、中国なので国連制裁を発動すれば経済活動の息の根が止められてしまい、北朝鮮は追い詰められて、朝鮮半島での戦争の可能性が高まり難民が中国や韓国に入り込む事が考えられます。

日本政府が提案した北朝鮮への制裁案には、イギリスやフランスといった欧州も賛成していましたが、それは、国連の機能を維持する為に、日本に賛成していたのです。国連は米国中心の世界体制に意見できる唯一の機関なので国連の力を何としても維持したいと考えていました。

一方、アジア周辺諸国はというと中国側を支持して日本に対する批判的な姿勢を強めていました。そうなれば日本を外してアジアの問題はアジアで解決していく体制を作るかも知れません。

日本国が、孤立しない為にはアメリカの言いなりなるだけではなく、他国の意見も取り入れ独自の戦略を練った方が良いのではないかと思うのです。日本が独自の戦略を模索し提案して米国には十分理解してもらうことが大切だと思うのです。

 





[ 一覧 ]
顕微鏡が明らかにした世界
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/17(火) 16:32
No. 8146
 
 
十六世紀後半に顕微鏡が発明されるまで、人の目に見えないものは「存在しないもの」でした。細菌やウイルス、寄生虫といった微生物、血液に含まれる白血球や赤血球、毛細血管のような細かな血管を肉眼で見ることはできません。

ゆえに、その存在は全く知られていなかったのです。イギリスの科学者ロバート・フックは、自作の顕微鏡を用いて昆虫や植物などを仔細に描写し、1665年に『ミクログラフィア』を著した。

その中でフックは、コルクを顕微鏡で観察すると小さな孔が無数に見えることを報告しました。それはまるで、修道僧が住む質素な独居房のようだった。フックはこの孔に、「小さな部屋」という意味で「セル(細胞)」と名づけました。

これは、生物学における極めて重大な発見でした。のちに、それは単なる「部屋」ではなく、生物を構成する最小の「単位」だと判明するからです。その後、生物学に大きな進歩をもたらしたのは意外な人物でした。

アントニ・ファン・レーウェンフックというオランダの織物商人です。レーウェンフックは、布地の縫い目や織布の糸を確認するため、拡大鏡をよく使っていました。彼はレンズに強い関心を持ち、500個以上のレンズを自作しました。

中には270倍にまで拡大できるものもありました。そのレンズで水滴を観察した時、彼は驚くべき世界を目の当たりにするのです。そこには、目に見えない「微小動物」が無数に存在していたのです。レーウェンフックは、さらに人体をも観察しました。

肉眼では見ることができなかった血球や精子を観察し、口の中にも微小動物(のちに細菌と呼ばれる) を初めて見つけたのです。ところが、こうした微生物が、単に「小さい」だけでなく、当時もっとも多くの人命を奪っていた「感染症の原因」であるということは、十九世紀後半まで知られなかったのです。

病気が流行することは知られていましたが、それが微生物によるものだとは誰も気づかなかったのです。十八世紀以前は、多くの科学者が流行病の原因を「瘴気」と考えていました。瘴気とは「有毒な空気」のことです。

腐ったものから発生した有毒な気体が、さまざまな病気の流行を引き起こすと考えられていたのです。マラリアの語源がイタリア語の「悪い空気(マルアリア:mal aria)」であることも、瘴気説の名残です。

また、過去何世紀にもわたってヨーロッパやアジアで大流行したペストは、致死率80パーセントにもおよぶ恐ろしい病気でした。医師たちは自らの感染を恐れながら、奇妙なくちばしのついたマスクをかぶって患者を診療しました。

くちばしの部分には大量の香料が詰められていました。これによって、瘴気から身を守れると考えたからです。もちろん現在は、ペスト菌という細菌が原因であることがわかっています。

微生物が病気の原因になるとわかったのは19世紀後半であり、抗生物質の開発は20世紀以降のことです。それ以前は、病気の根本的な原因はわかっておらず、その特効薬もなかったのです。

現代に生きる我々にとって、細菌やウイルスは病気を引き起こす恐るべき存在です。しかし、18世紀以前の人たちからすれば、目に見えない生物が体内に入り込んで増殖し、それが多くの病気を引き起こすなど、あまりに荒唐無稽に思われたに違いないでしょう。

そのような時代に、瘴気説に異を唱えた医師がいました。イギリスのジョン・スノウです。1849年、ロンドンでコレラが大流行した際、スノウはその原因を詳しく調べたいと考えました。コレラは、激しい下痢や嘔吐を起こす病気です。

今の言葉でいえば急性胃腸炎です。スノウは、もし空気に原因があるなら肺に症状が出るはずだと考えました。コレラの症状は胃や腸に現れます。この事からスノウは、病気の原因となる何かが口から入り、これが胃や腸に異常を引き起こすのではないかと考えました。

コレラが糞便や吐物を介して広がる細菌感染症だとわかるのは、約40年近く後です。スノウは当時から病因をほぼ正しく言い当てていたのです。しかし、瘴気説が有力だった当時、スノウの報告は医学界から黙殺されました。

1854年、コレラが再度流行した際、スノウは町の地図に感染者がいた場所を細かく書き入れました。この作業で彼は、感染者がブロードストリート周辺に不自然に密集していることに気づきます。その中心には、住民が使うポンプがあったのです。

このポンプの水が病気の原因であるのは明白でした。スノウがポンプの取手を取り外し、水を使えないようにしたところ感染者は激減し、コレラの流行は3日で終息しました。のちの調査で、排泄物がブロードストリートの井戸に漏れ出しており、これが水を汚染していたことがわかったのです。

だが、コレラの原因が水にあるというスノウの報告は無視され続け、相変わらずコレラは定期的に流行しました。下水設備はなかなか改められず、スノウの提言は公衆衛生に反映されなかったのです。やはり瘴気説を捨てられなかったのです。

 





[ 一覧 ]
マリ・キュリーの見た地上の星
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/16(月) 18:22
No. 8145
 
 
舞台はパリ。1898年のある朝、キャンバス地の袋を積んだ馬車がロモン通りを走っていました。袋の中身は、はるばる東欧のボヘミアから取り寄せたくず鉱石です(その中にはウラン原子も含まれていたはず)。

馬車が停まったのは粗末な小屋で、以前は近くにある医学校の死体置場でした。小屋で待っていたのが31歳のマリ・キュリー、それまでの物質観を塗り替えた科学者です。(我らの炭素原子は目の網膜に存在していた) 薄汚れた大きな袋を見てマリは小躍りします。

エックス線発見からまだ数年しかたっておらず、マリと研究仲間で夫でもあるピエールは、皮膚や壁さえも透過する驚きの性質が生まれる仕組みを突き止めたかったのです。夫妻のお目当ては岩石に含まれるピッチブレンド鉱石でした。

現在は閃ウラン鉱と呼ばれ、エックス線に似た放射を生み出す物質です。ひもを切って袋の口を開けると、鈍い茶色の鉱石が出てきました。松葉も混ざっていて、さわやかな香りが漂う。これからピッチブレンドから物質を分離しなければならない。

それは想像を絶する重労働で、のちにマリは「その作業が生活のすべてとなり、まるで夢の中みたいだった」と書いています。劣悪な環境のなかで夫妻はウラン含有量が50〜80パーセントのピッチブレンドを精製しました。

抽出された物質はガラス容器に入れて壁際に置かれました。これだけでも十分に立派ですが、マリとピエールはもっと希少な獲物を狙っていました。2人はさらに3年かけて何トンもの鉱石を精製し、1グラムのわずか10分の1という微量の物質の分離に成功します。

それが、マリがラジウムと名づけた物質でした。ほとんどの物質は高温にさらされると性質が激変しますが、貴重なラジウムは極端な温度にも全く影響を受けないことがわかりました。不思議な性質はほかにもありました。自発的にエネルギーを出すのです。

化学反応ではない未知の仕組みが働いているようです。マリはそれを放射能と呼んだ。計算すると、ラジウムが発するエネルギーは同じ量の石炭を燃やした時よりはるかに大きい。放射能は化学的なエネルギーの10万倍にもなりそうだ。

マリとピエールはこの時点では理解しきれていなかったが、これは分子がもつエネルギーと、もっと深いところに蓄えられたエネルギーの違いでした。実験小屋の棚には、ピッチブレンドの精製に使用したビーカーや瓶がずらりと並ぶ。

ある夜、夕食後に小屋に行ってみた夫妻は驚いた。ガラス容器がぼうっと光を発しているのです。マリはガス灯をつけようとする夫を制した。瓶やフラスコや試験管がどれも青っぽく光っているのです。

「粗末で貧相な小屋で光を放つ試験管、それは地上の星だった」とマリは後年記しています。放射能を有する原子の内部で何かが起きています。青い光はそのせいに違いない。マリの出した結論は正解でした。

何千年ものあいだ、原子は不可分なものとされてきました。そもそも原子を意味するatomという単語が、ギリシャ語で「切り分けられないもの」という意味です。だから原子は物質の最小単位となります。

夫妻が見た「地上の星」は、原子それ自体が一つの世界であり、誰も知らなかった舞台で、誰も見たことのない活動が行なわれている証拠でした。しかも化学反応の影響を受けないときている。謎を解くには、新しい戦略、新しい自然法則、新しい技術が必要です。

マリ・キュリーが使ったノートや料理本は、1世紀以上を経た今でも放射能をもっています。1906年、ピエールが馬車にひかれて即死します。マリはその後2年間精力的に研究を続け、66歳、再生不良性貧血で死去しました。

放射線を日々浴び続けたせいではないかといわれています。マリは、自分が世に送り出したラジウムが医療や産業に貢献すると信じていたから、その危険性は頑として認めなかった。しかし先見の明を持つ作家H・G・ウェルズが、ほどなくその不吉な側面に気づいてしまいます。彼は科学の最新成果を取り入れて、胸踊る物語に仕立てる天才でした。

タイムマシンを登場させ、宇宙人の襲来を描いたウェルズは、原子が兵器になる未来世界を想像しました。1914年に出版された『解放された世界』のなかで、彼は「原子爆弾」という言葉をつくり、無力な一般読者に向けて発射しました。

設定は1950年代で、当時からすると想像もつかない遠い未来です。ライト兄弟が初めて飛行機で空を飛んでから10年しかたっていないのに、ウェルズは原子力でイギリス海峡を渡る飛行機を想像したのです。

ゴーグルとヘルメットを着用したパイロットは、目の前に現われたベルリン市街をまっすぐ見すえています。表情を引き締めた彼は前かがみになって重たい爆弾を持ち上げ、針を歯でひっこ抜き、腕を伸ばして下に落としました。

爆弾は目標に命中してさく裂し、すさまじい爆風で飛行機は左右に激しく揺れます。ベルリン中心部は、火山が噴火したように火の海となりました。科学が小説に追いついたのは、それからわずか20年後のことだったのです。

 





[ 一覧 ]
海の色合いとは
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/16(月) 18:21
No. 8144
 
 
目に飛び込んでくるのは、海中ではね返った青い光です。白っぽい太陽光には、さまざまな色の光が混ざり合っています。色の違いは光の波長の違いで、波長が短い方から紫、 藍、 青、緑、黄、 橙、赤に見えます。

太陽光が海の中に入ると波長の長い赤などは吸収され、波長の短い藍や青はあまり吸収されません。それが水分子や水中の微粒子などに当たってはね返ると、我々の目に飛び込んで青く見えるのです。

青にも様々な色合いがあるのはなぜかというと青の波長にも幅があるためです。海中に入った光をはね返す物質には様々なものがあります。水分子のほかに、海底の砂や石、プランクトン、浮遊している微粒物質などです。

物質により特定の波長の光が吸収され、吸収されなかった光が反射します。そのため、反射する光も物質によって異なるので違った見え方をするのです。熱帯の海はなぜ美しい青色なのというと透明な海水と白い砂の海底のおかげです。熱帯の海の浅いところは栄養分が少なく植物プランクトンがあまりいないので綺麗な透明です。

その上、サンゴ礁が作った白い砂の浅い海底は、光を均等にはね返すので、その「白」と「青」が混じって美しい色になるのです。 夜の海が暗く見えるのはなぜかというと月の光がとても弱いためです。月の光は太陽に比べてとても弱く、満月でもおよそ37万分の1の明るさです。

弱い懐中電灯で夜の海を照らしても海中が見えないのと同じで、エネルギーの少ない月の光は海の水を透過できないので黒っぽい色にしか見えません。満月に照らされる夜の海。月の弱い光は海に反射してしまい、黒に近い青になります。

 





[ 一覧 ]
オリンピックで有名になったクオーツ
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/16(月) 18:12
No. 8143
 
 
クオーツ時計はクオーツ片を使い、電流を流すと規則正しく振動し、LSIを使用して、正確に時を刻む時計で水晶発振時計と言います。クオーツとは水晶という意味で、反射的に「時計」を想像する人が多いと思います。

この「クオーツ」が日本で初めて登場したのは、東京オリンピック(1964年)の時でした。大会の公式時計に使われ、一躍世界に日本の時計の優秀性をアピールしました。このクオーツを武器に、日本は世界の時計市場に進出し、ついには時計王国スイスを追い抜きましたが、それまでの道のりは長かったのです。

クオーツを開発したのは服部セイコーグループです。しかし、セイコーが初め開発を目指していたのが「音叉式」という、まったく違う技術の開発でしたが、この音叉式時計の特性を持っていたのはアメリカの会社で、商品化の許可がどうにもおりないので、それなら、クオーツを開発しようということになり、苦労の末に完成したのです。

世界初のクオーツ式腕時計は、当時の価格は45円です。庶民にはダイヤの指輪なみの値段でしたが、今では価格もぐっと下がり、その優秀性が全世界に認められ親しまれています。

ちなみに、電池の寿命がくると、クオーツの腕時計は進んだり、遅れたりせず、パタっと止まるそうです。中には寿命がきたら、秒針が2秒おきに動いたりするものも出ているそうです。

 





[ 一覧 ]
大物であった久原房之助の人生
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/16(月) 18:10
No. 8142
 
 
戦前の昭和初期には政治勢力が4つありました。一つは天皇周辺の宮中グループで、これは元老、首相経験者や大臣、侍従長、宮中高官、それに枢蜜顧問官、貴族院議員でもあった華族の大部分が含まれていたと言います。

二つ目は軍部、とくに陸軍で、中堅、小壮軍人が上層部を動かしていました。三つ目は政党で、1928年の第一回普通選挙から、政局に影響があったのは政友会、民政党の二大保守政党で、1940年にすべて解消しました。

四つ目は官僚で、外務、内務、大蔵、商工各省の官僚が、行政の実権を握っていました。このような時代に久原房之助と言う大物がいましたが、毛嫌いされていたので、この四つのいずれにも足場を築けませんでした。

それは田中好義一内閣の退陣の頃から「重臣ブロック」という言葉を口にして、批判の対象としたので、重臣側の反発を買い、久原房之助の批判は昭和天皇の耳にも届いていました。『昭和天皇独白録』には「久原房之助などが『重臣ブロック』という言葉を作り出し田中内閣が倒れたのは重臣達、宮中の陰謀だと触れ歩くに至った」と。

昭和天皇が指しているのは、張作霖爆殺事件のとき田中首相が「犯人は帝国軍で、これを厳罰に処します」と上奏していたのに、のちには一転して「帝国軍人が犯人とは確かめることができませんでした」と上層し、天皇から「前と言う事が違う、辞表を出したらよかろう」と叱責され、内閣総辞職に追い込まれたことにあります。

このほか久原房之助が「日中ソ三国緩衝地帯」設置論で朝鮮を「手渡す」ことに言及したことも、重臣層を刺激したことは間違いなく、久原房之助は危険人物と見られていたのです。久原房之助は阿部、米内内閣で内閣参議に就任していましたが、これに先立つ近衛内閣で参議候補にのぼった際、内大臣の湯浅倉兵が久原房之助の名前に×印をつけました。

首相が元老、重臣の推挙で決まった戦前戦中の昭和で、久原房之助が天下をとる事は不可能だったのです。次に軍部はどうだったかと言うと陸軍の実権は、二・二六事件のあと皇道派を一掃した統制派が握り、東条英機、梅津美治郎、武藤章の系列です。

久原房之助が親しかったのは荒木貞夫や小磯国昭など皇道派の人脈で、二・二六事件に関与したことから陸軍主流からは疎遠でした。二・二六事件後から東条時代が終わるまで軍との関係で時の流れに乗ることは出来ませんでした。

第三に政党は、政友会の幹事長になりましたが、当選回数がモノをいう党内では「鈴木喜三郎・鳩山一郎」の大派閥の壁は大きかった。政友会正統派の総裁は、鳩山一郎派の力を借りて乗っ取ったもので、実力で制圧していたのではありません。

最後に官僚の力はこの時代でもとても強かった。内務・警察官僚は治安の要所を押え、地方には官僚出身の知事が君臨していました。経済官僚は国家総動員法をはじめ統制経済を推進しました。外務官僚は阿部内閣で貿易省の新設を結束して潰しました。

久原房之助の「官歴」は田中内閣の時の逓信大臣の短い期間だけです。息のかかった官僚を育てる時間はなかったのです。こうして久原房之助は時の四大権力に基盤を持たず怪物として異端者として終戦を迎えました。

二・二六事件に関わって空費した2年の歳月はこの激動期に才能を発揮する機会を奪ってしまったのです。だが、終戦を向かえても久原房之助の政治に対する意欲はまだ消えてはいませんでした。占領軍から戦犯容疑者に指定されましたが、病気で拘留は免れました。

容疑は田中義一や荒木貞夫ら「軍国主義者」とされた人物と親しかったこと、二・二六事件に関与したことでしたが、一年足らずで指定が解除され公職追放されました。ようやく政界復帰のチャンスがめぐってきたのは、吉田内閣の1952年の総選挙です。

時すでに82歳。山口二区から無所属で出馬して、佐藤栄作(のち首相)に8000票の差をつけてトップで当選しました。だが衆議院の議席はたった5ヶ月しか続かなかった。翌年3月、吉田内閣は解散を断行し、総選挙で久原房之助は落選しました。

岸信介、佐藤栄作の兄弟がこの山口二区で立候補し、公認されず組織のない久原房之助がはじき出されてしまい政界を永遠に退いてしまったのです。一匹狼では難しい、この事からも助け合いの輪とはとても大切なものだと実感する久原房之助の人生でした。

 





[ 一覧 ]
医学の進歩を千年以上遅らせた理由
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/13(金) 14:42
No. 8141
 
 
世界保健機関(WHO)のロゴマークをご存知ですか? 国連のシンボルの中央に、蛇の巻きついた杖が大きく描かれています。これは「アスクレピオスの杖」と呼ばれ、古くから世界中で広く用いられている医療のシンボルマークです。

アスクレピオスとは、ギリシャ神話に登場する名医です。紀元前五世紀頃の古代ギリシャでは、その神殿「アスクレペイオン」が病人の治療施設になっていました。今人類が享受している医学のルーツは、古代ギリシャにあるのです。

そして、この頃にギリシャで生まれ、今でも「医学の父」と尊ばれるもっとも著名な医師がヒポクラテスです。ヒポクラテスとその弟子たちが著した『ヒポクラテス集典』は、七〇篇を超える資料からなる医学書です。

中でも、医師の心得や守秘義務、倫理観を説いた「ヒポクラテスの誓い」は、医師が学生時代に教科書で勉強し、国家試験にも出題される重要なテーマだといいます。二千年以上前のコンテンツが、いまだに医学教育で用 いられているという事です。

むろんヒポクラテスの偉業は、これだけではありません。当時、多くの人が病気を神がかり的なものと捉え、いわば魔術的な治療を施されていた中で、ヒポクラテスは患者を丁寧に観察することの大切さを説いたのです。

患者の脈拍や呼吸、肌のつや、尿、便など、多くの情報を熱心に記録し、症例集としてまとめたのです。当時の治療は、食事や入浴、運動などの生活習慣の改善や、薬草を用いたものでした。のちの医師たちは、こうした記録を参照して治療に生かすことができました。

ヒポクラテスは、まさに世界最古の医療データベースをつくったのです。ヒポクラテスは、四種類の「体液」のバランスが乱れて病気が起こると考えました。この「体液」を、血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液と呼びました。

人の体はこれらの体液でできていて、それぞれに独自の機能があるとしました。現在は、黄胆汁や黒胆汁といった用語は存在せず、架空の理論であるにすぎません。だが、この「四体液説」は、その後二千年近く正しいと信じられ続けることになります。

例えば、うつ病のかつての呼び名「メランコリア」は、ギリシャ語の黒 (melas) と胆汁(khole) の造語です。黒胆汁が原因の病気だと考えられた名残でしょう。また、「リウマチ(rheumatism)」 は、ギリシャ語の「流れる (rheuma)」が語源です。

体液の流れが停滞することで、関節などの腫れが起こると考えられていた名残です。19世紀頃まで広く行われた瀉血も、四体液説に基づくものです。瀉血とは、血液を抜く治療のことです。余った血液を体外に排出することで体液のバランスが改善し、あらゆる病気がよくなると考えられていたのです。

医療の歴史において、瀉血は長らく人気の治療でした。静脈を刀で切開して流血させたり、ミミズに似た吸血動物であるヒルを体に吸いつかせたりして、患者の血液を除去するといった治療は日常的に行われていました。

19世紀頃になってもなお、医師たちは患者の血を抜くためにヒルを壺の中に備蓄していたほどです。「ヒル」の英語である“leech” には、「医者」という意味もあります。ヒルが医者自体を表す俗称として使われるほど、ヒルによる瀉血は長らく好まれたのです。

ヒポクラテスののち、西洋医学にもっとも大きな影響を与えた人物が、二世紀頃の古代ローマで活躍したクラディウス・ガレノスです。ガレノスは、ヒポクラテスの教えを発展させ、古い文献を収集して膨大な理論を築き上げ、中世では医師の君主ともいわれました。

宗教的な理由で人体解剖が禁止されていた当時、ガレノスは猿や豚などの動物の解剖を繰り返しました。脊髄を様々な部分で切断し神経の支配領域を調べたり、腎臓と膀胱をつなぐ尿管を結んで尿が腎臓でつくられることを示したりなど、様々な知見をまとめました。

また、ガレノスは四体液のバランスを整える上で瀉血をもっとも重視し、加えて薬草治療や下剤、手術など、数々の治療法をまとめ上げました。ガレノスの著作は計500万〜1000万語に上るともいわれ、その学説はキリスト教の教義と結びつき、侵すことのできない理論となったのです。

当然ながら、動物を解剖した経験に基づくガレノスの理論には、様々な誤りが含まれていました。しかし、その大きすぎる権威に誰も異を唱えることはできなかったのです。時にガレノスは医学の進歩を千年以上遅らせたとまでいわれていますが、こうした経緯が理由なのです。

 





[ 一覧 ]
ダーウィンの恐るべき慧眼
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/10(火) 15:02
No. 8140
 
 
キリンの首はなぜ長いのか。かつては、高所の葉を食べるために首が伸びた、と考えられていましたが、進化の過程で懸命に首を伸ばすうち、目的にかなうように少しずつ首が長くなってきたと考える「用不用説」は、現在では誤りとされています。

激しい筋力トレーニングをして筋骨隆々になれば、筋骨隆々の子が生まれるわけではない。美容外科手術を受けて鼻を高くすれば、鼻の高い子が生まれるわけではない。子に伝わるのは、原則としてDNAに書かれた遺伝情報だけです。

だが、こんなふうに説明できるようになったのは、遺伝学が進歩した二十世紀以降のことです。1859年、イギリスの地質学者チャールズ・ダーウィンは、世界で初めて「自然選択説」を提唱しました。

生存競争の結果として、環境にもっとも適応した種が生き残り、適応できなかった種は淘汰される、というものです。つまり、キリンの首は「目的」があって伸びたのではありません。全くの偶然によって生まれた少しだけ首の長いキリンは、他のキリンに比べて生存に有利であったため、より生き残る確率が高かったのです。

首が長いほど、低い位置の葉を他の動物と取り合うリスクが少ない。長い年月を経て、首がより長い遺伝子のほうが保存され、首の短い遺伝子は淘汰されていく。より環境に適応できる特徴が「自然に選択されてきた」のです。

なお「キリンの首」は自然選択を説明する際によく登場しますが、あくまで話を理解しやすくするための一例であり、実際に特定の遺伝子がこのような現象を起こしたことが判明しているわけではありません。

現代に生きる我々は、ダーウィンのこの恐るべき慧眼を、どのように見るだろうか? 途方もなく長い進化の過程を明確に思い描くのは難しい。我々は、長くても100年ほどしか生きられない。その上、次の世代を生み出すのに年単位もの長い年月を要する動物たちを見て、そこに「進化」の営みを感じることなど不可能なのです。

だが、我々の体内には、分単位で次の世代を生み出し、我々の観測可能な範囲で進化を遂げる生物が存在する。例えば、細菌です。大腸菌は約20分で2倍の数になり、2時間で64倍になります。

このペースで増え続ければ、1日では22桁という途方もない数に膨れ上がります。抗菌薬の濫用はさまざまな耐性菌を生み出しましたが、これは抗菌薬から生き延びる「目的」で細菌が進化したのではありません。

偶然の遺伝子の変化によって抗菌薬に耐性を獲得した細菌が、自然選択されたのです。癌についても同じことがいえます。ガンは抗がん剤によって一時的に小さくなりますが、完全に消えてしまうことは少ないです。あるときから抗がん剤は効かなくなり、再び癌は増大に転じます。この時、がんの中では何が起こっているのだろうか?

遺伝子レベルで癌を調べると、驚くべき事実が明らかになります。特定の抗がん剤から逃れるしくみを身につけ、耐性を獲得したがん細胞に置き換わっているのだといいます。偶然生まれた耐性細胞は、抗がん剤によって自然選択され、多数派の座を奪ったのです。

また、その耐性メカニズムは実に多様であり、その狡猾さには背筋が寒くなるほどです。耐性の仕組みを暴き出し、そこをターゲットに抗がん剤を開発すると、再び耐性を持つがん細胞が現れます。近年、がん治療は驚くほど進歩し、抗がん剤のラインナップは数え切れないほど増えましたが、そこには「いたちごっこ」に近い戦いの歴史があるのです。

このように、ミクロの世界を覗き込めば、まさに「自然選択」をありありと観察できます。とてつもない速度で次の世代を生み出す生物は、極めて短い期間に進化の過程をたどるのです。

近年、環境因子が遺伝子に影響を与え、これが次世代に引き継がれる現象が存在することがわかってきています。これを「エピジェネティクス」といいます。限定的ではありますが、生後に獲得した性質は子に伝わらない、とする説明は必ずしも正しくないことがわかっているのです。

 





[ 一覧 ]
はめられて湾岸戦争
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/10(火) 15:01
No. 8139
 
 
イラン革命が起きると、アメリカはイランを攻撃するよう、密かにイラクをけしかけました。イラクの侵攻を止めようとせず、反対を表明しなかったばかりか、非公式にはイラクの行動に対して支持を与えていたのです。イラクは、イラン国内の混乱を絶好のチャンスと見て1980年9月に、イラクはイランに侵攻したのです。

この時、アメリカはイラクにはイランを倒せないと分析し、両国とも消耗するような長期戦こそがアメリカが望んでいた事態であり、サウジアラビアをはじめとする湾岸の産油諸国も、戦争が長期化するのに必要な資金を喜んで提供するつもりでいました。

ここで道徳的な国際政治でない事を指摘しますが、アメリカにはすでに第二次世界大戦中、大量虐殺をした独裁者ヒトラーを倒すために、別の大量殺人を犯した独裁者スターリンと組んだ実績があります。

アメリカはソ連軍を使ってドイツ国防軍を消耗させた上で、初めてノルマンディーに自国の陸軍を上陸させたのです。また1970年代には、ニクソンがソ連を封じ込めるために毛沢東の中国と同盟を結成しています。

このような同盟関係とは奇々怪々なものであり、利害が原則に優越する外交はアメリカのお家芸なのです。さらに言えば、1つの問題を解決することで、次の難問が生じるというのも、アメリカにとっては、いつものことなのです。

対ヒトラー戦で英米と組んだおかげでソ連がすっかり国力を強化し、第二次大戦が終わると超大国へと成り上がっていたことなどは、非常に分かりやすい例でしょう。さて、カーター政権ではイラン攻撃をそそのかされたサダム・フセインだったが、イランを攻撃したからといって、直接得るところは少なかったのです。

フセインが欲していたのは、ペルシア湾岸の覇者となることでした。オスマン・トルコ時代にはイラクの一部であり、後にイギリスによってイラクから切り離されたクウェートを取り戻す重要な戦略目標でした。

フセインは、イランを倒せば、イラクが湾岸最強の国家となることを理解していました。イランを倒した後クウェートを取り戻しても反対しないという暗黙の了解を、アメリカから取り付けていました。

但し、この了解はあまりにも暗黙のうちになされたために、後でアメリカが騙まし討ちしたのです。アメリカはイランVSイラクの、どちらの敵とも見方ともつかない対応を続け、ケイシーCIA長官が中心となったイラン=コントラ事件も、こうした戦略の一環でした。

アメリカはイラクに武器を供給する一方で、ホーク地対空ミサイルとTOW対戦車ミサイルをイランに提供することで、イランの敗北を防止しようとしていたのです。イランVSイラクは10年近く続くこととなり、戦死者の数は何百万人におよんだが、最後にはイラクが勝利します。

正確には、イランよりもイラクの方が消耗の度合いが少なかったので、数ヶ月間平和のうちに過ごした上で、サダム・フセインはかねての約束のクウェートを取り返しに向けて動き出したらまんまとはめられて湾岸戦争となってしまったのです。

 



 

     + Powered By 21style +