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満州国承認の直前では、連盟脱退はしておらず、それへの配慮から低姿勢であったともいえますが、このころ血気にはやり功名心にとりつかれた一部の軍人たちを除いては、政府および軍中央には、満州を越えて中国本土に軍事的進出を図ろうと考えていたものは殆どいませんでした。
当時の駐米大使斎藤博は、得意の語学力を駆使して日米親善強化のため、全米内で八面六臂の活躍をしたことで有名ですが、1934年半ば一時帰国した際に「日米国交当面の問題」と題する小論を『文芸春秋』1934年9月号に寄稿しました。
それによれば、斎藤は5月21日シカゴからの全米向けラジオで「満州は日本の生命線であり、満州での軍事行動は断じて侵略の意思あるためでなく、単に自衛手段に過ぎない。我々の目的は、善き満州帝国の建設を援助するにあり、支那の問題については、毛頭干渉する意思も欲望をももたない」と放送したのです。
斎藤はさらに「この主張はアメリカ人によく諒解された。それは彼らが根本的に東洋の指導者たる日本の地位を認めているからである。僕は予め演説草稿をハル国務長官に見せたのであるが、ハル長官も一読して非常におもしろいと言っていた」と述べているのです。
少し我田引水的な言い分ではありますが、日本がこれ以上侵略的行動を取らず、おとなしくしていたならば、米国の対日感情も次第におさまる雰囲気があったと見てよいでしょう。しかし斎藤も満州における日本の行動が、1922年締結の九カ国条約に抵触するのではないかという点は、なお米国人に執拗に突っ込まれる問題であることを認めています。
日本の終戦後の反省として、日本は満州事変だけでやめておけばよかった、という感想を単に前記のような軍人たちだけでなく、多くの国民が抱いたことは事実です。確かにそのような政策を選択したほうが良かったに違いないでしょう。
その後の中国政策がまともなものであれば、石原莞爾が中国国民党の蒋介石と通じてのちにしめすように中国側も黙認という態度をとったこともあるので、微妙な問題でありますが、それによって日中間に一応の妥協点に達しえるチャンスが、全くなかったとは言えないのです。この点では近衛文麿の優柔不断だったことが悔やまれます。
結局は関東軍の暴走は許されないでしょう。満州国建設の実績をあげて五族の人々にも喜ばれ、石原莞爾や斎藤のような外交的努力を重ねれば、国際的にも認められるようになり、歴史は別な方向に動いたかもしれなかったと思うのです。
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