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皇帝溥儀、1906年2月7日生まれ。 1908年11月、2歳。清朝の帝位につき宣統帝を名のる。 1912年2月、6歳。中華民国誕生にともない退位。清朝滅ぶ。 1917年7月、11歳。張勲の腹辟で再度帝位につくが失敗して退位。 1925年2月、19歳。天津に移る。 1931年11月、25歳。満州事変勃発(9月)により、奉天特務機関長土肥原賢二大佐の指導で天津脱出、旅順に移る。 1932年1月、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と会う。 1932年3月、26歳。満州国執政となる。 1934年3月、28歳。満州国皇帝となり、年号を康徳と定める。 1935年4月、29歳。日本訪問。 1940年5月、34歳。日本訪問。天照大神を祭神とする建国神廟を建立する。 1945年8月17日、39歳。日本降伏により皇帝退位、満州国解散を決定。8月19日、日本亡命のために奉天飛行場に到着したさい、ソ連軍に逮捕され、チタ市を経てハバロフスク収容所に抑留。 以上が、東京裁判に入るまでの皇帝溥儀の人生ですが、3回も帝位につき退位したその40年は、文字どおりに数寄の半生といえるでしょう。
東京裁判で、皇帝溥儀は壇上に右手をあげて宣誓して、証人席へ座りました。紺の背広、濃い茶色のネクタイをした皇帝溥儀は、中国人らしい広い額に、ばらと細い一束の頭髪がたれています。被告席には、皇帝溥儀の顔なじみの板垣、土肥原両将軍は、皇帝となるために努力した者。南次郎、梅津美治郎両将軍は関東軍司令官として、交際が深かった。
星野直樹被告は、満州国総務長官で膝をまじえての会話をしました。しかし、皇帝溥儀は被告席には視線を向かず、扇子をとりだすと、2、3度扇ぎだし、直ぐに閉じてキーナン検事を注視しました。キーナン検事は、生い立ちとこれまでの経歴を話すことを求めた。「私は北京で生まれました。名前は溥儀。本来の満州姓は愛新覚羅です」
この日の法廷は、午後3時で休廷を予定されていました。昼食のための休憩1時間半を除くと、証言時間は正味約2時間です。証言は、旅順で板垣関東軍高級参謀の来訪をうけ、満州国新政権の領袖になることを求められたところまでで終わりました。
皇帝溥儀は、扇子で証言台を叩き、肩を竦め、眼鏡を押え、額に垂れる頭髪を振って、板垣参謀が「拒絶すれば断乎たる手段をとる」と脅迫したので、「やむをえず屈伏した」と、述べました。被告席の星野直樹は眼をそらし、板垣被告は口ヒゲを苦笑に歪めて、退廷する皇帝溥儀を見送りました。
2日間をおいて、再開された法廷でも、皇帝溥儀はヒステリックに我が身の悲境を強調しました。満州国執政を引き受けた理由について「一面においては軍隊を訓練し、一面においては人材の養成にあたり、適当な時がきたならば中国軍と相呼応して失地を回復しようと、心の中でひそかに考えていたのであります。このような理想の下に、私はトラの穴に飛び込んだのであります」
リットン満州調査委員会に真実を告げられなかった事情については「もし私がそういうことを告げれば、あとで必ず殺されると言う事を思った。ピストルをつきつけている、当時の私の状態はこのようなものでありました」
何かと言えば、脅かされた、恐かったと繰り返す皇帝溥儀に、たまりかねたように、ウェップ裁判長が「こういう事をいうのは嫌だが、生命に対する危険、死の恐怖は、戦場における卑怯な行為や戦場離脱の口実にはなり得ない。我々は、証人から、彼がなぜ日本軍と協力したか、その言い訳を聞かされたが、これ以上聞く必要はないと思う」と口を挟んだ。
皇帝溥儀はキーナン検事のリードに従い、日本側から受けた迫害を語り続けました。「執政としても皇帝としても、官吏、軍人の任命権も、立法権もなかった。自由という言葉はこの十数年来、まったく私とは縁遠いものでありました。たんに皇帝としてのみならず、個人としての自由も、です。吉岡中将は親戚や家族に会うのさえ許しません。」
「梅津司令官は吉岡中将に命令して、私が祖先の墓詣りに行くことを許可せず、私の夫人は非常に私との仲がよかった。歳は非常に若くて23でありました。常に私に対して、将来、時がきたならば失った満州国の地を中国に取り戻すように致しましょうと話しておりましたが、私の夫人は日本人によって毒殺されました。その下手人は吉岡中将であります」
皇帝溥儀は、板垣関東軍高級参謀の「脅迫」によって満州国執政に就任したというが、「脅迫」をうけたのは、むしろ、板垣参謀のほうでした。皇帝溥儀は、帝位につくのでなければ出馬せぬ、と主張したのです。
日本側としては、溥儀皇帝の出現は、中国の清朝という印象を与え、反清朝意識の強い大部分の現地民を離反させる恐れがあると考えたが、他に適当な人物がいないため、やがて帝政を施行する約束で皇帝溥儀と妥協したのです。強制されて訪日した、という証言には、星野直樹元満州国総務長官が呆れました。皇帝溥儀が列挙した他の日本暴政にしても、あまりに無根の偽証が多すぎるのです。
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