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☆★☆最新情報7☆★☆


 
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  木星とガリレオ惑星  仲條拓躬 2026/07/31(金) 15:42 
  海流について  仲條拓躬 2026/07/31(金) 15:41 
  東武線・東向島駅の歴史  仲條拓躬 2026/07/31(金) 15:40 
  神の名前は  仲條拓躬 2026/07/31(金) 15:39 
  米軍は日本国民を守ってくれるのか  仲條拓躬 2026/07/31(金) 15:36 
  両国駅の歴史  仲條拓躬 2026/07/29(水) 19:01 
  ユダヤ人の懺悔の言葉  仲條拓躬 2026/07/29(水) 18:59 
  彗星について  仲條拓躬 2026/07/29(水) 06:28 
  危険な食品添加物の主  仲條拓躬 2026/07/29(水) 06:26 
  乃木大将と石原莞爾の出会い  仲條拓躬 2026/07/29(水) 06:24 






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木星とガリレオ惑星
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/07/31(金) 15:42
No. 8330
 
 
太陽系でいちばん大きな惑星は、木星です。太陽とほぼ同じ成分です。地球などの岩石惑星とは違い、そのほとんどがガスでできています。ガスの約9割は水素で、残りはほぼヘリウムです。

木星の中心には、金属や岩石があると考えられています。 しま模様は、メタンやアンモニアなどを含む雲です。雲の厚さや、含まれる元素の違いなどによって色が異なると言われていますが、正確には分かっていません。

しま模様の色が淡くなったり、風によって模様の形が変わることもあります。「目」みたいな部分は、巨大な大気の渦です。大赤斑と呼ばれ、台風に似た現象が起きていると考えられています。約6日の周期で左巻に回転しており、最大風速は時速数百kmにもなります。

ガリレオ衛星とは、60個以上ある木星の衛星の中で、 ガリレオが発見した4つの衛星を「ガリレオ衛星」と呼びます。この発見などをきっかけに、ガリレオは地動説を唱えるようになります。

イオ。いちばん木星に近いガリレオ衛星。活動中の火山がたくさんあります。エウロパ。氷でおおわれた衛星。氷の下に水がある可能性があり、生命の存在も期待されています。ガニメデ。:直径は5262qで、水星 (4880km) より大きく、太陽系でいちばん大きな衛星です。

カリスト。いちばん木星から遠いガリレオ衛星。表面には、たくさんのクレーターがあります。天動説=太陽や惑星などが、地球のまわりをまわっているという考え方。地動説=地球や惑星などが、太陽のまわりをまわっているという考え方。

 





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海流について
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/07/31(金) 15:41
No. 8329
 
 
海水の温度・塩分差は深層海流を、洋上の風は表層海流を生みます。洋上を渡る風は海水を動かす原動力になります。ここに地球の自転の影響も加わり、海中の浅いところに表層海流が生まれます。

また、温度が低く、塩分が濃い海水は密度が高いため沈もうとし、逆に密度が低い海水は浮かぼうとするため、これが原動力となって海中の深いところに深層海流が生まれます。海流は、地球の自転の影響で北半球では時計回りになります。

貿易風や偏西風など年間を通じて一定方向に吹く風は、海面で摩擦を起こし表層海流を生みます。このとき、海流の進行方向は、地球の自転の影響を受け、北半球では右向きへ作用する力が働き時計回りの海流ができやすくなります。

同じ理屈で、南半球では、反時計回りの海流ができやすくなります。海水は海の深層を流れる地球規模の海洋循環があります。塩分の濃い大西洋の海水は、北部で冷やされると深く沈み、深海を南極海へと巡ります。

また、南極海でも、氷ができる時に塩分が濃縮された冷たい海水が沈みます。海氷は真水なので、まわりの海水は塩分が濃集して重くなるのです。合わさった流れは、太平洋やインド洋を巡るうちに暖められて表層へ戻り、北大西洋で再び冷やされ深層に沈みます。

この海洋循環のことを熱塩循環と呼んでいます。ちなみに、このひと巡りには、なんと2000年もかかります。暖流と寒流の違いですが、赤道地域でできるのが暖流、極域でできるのが寒流です。

赤道地域で太陽の熱で暖められた海水が高緯度地域へ移動するのが「暖流」です。日本で有名なのは「黒潮」です。対して、北極や南極のまわりで冷やされた海水が中緯度へと移動するのが「寒流」です。日本で有名なのは 「親潮」です。栄養に富み魚がよく育つため 「親」の名がついています。

海流は、地球上の暑い地域の熱を寒い地域に届けています。もし、海流が止まると、地球の寒暖の差が激しくなり、人間が住みにくい環境になります。また、熱塩循環によって深海へ酸素が運ばれているため、その供給が止まると深海の生物は死滅してしまいます。

海流との因果関係は分かりませんが、1億年前、2.5億年前に、海中の広範囲で酸素が欠乏した「海洋無酸素事件」が起こり、生物の大量絶滅が起こったと考えられています。

 





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東武線・東向島駅の歴史
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/07/31(金) 15:40
No. 8328
 
 
「愛妾」にちなむ地名から付いた珍名称。東向島←玉ノ井←白鬚。東武鉄道 伊勢崎線。東向島駅←玉ノ井駅=1987年12月21日(復活)◇玉ノ井駅←白鬚駅=1924年10月1日/所在地:東京府東京市本所区寺島村(現墨田区東向島 4−29−7)/設置者:東武鉄道/開業日:1902年4月1日。住民要望の「玉ノ井」は復活ならず。

「東武鉄道」が1902(明治35) 年4月、北千住駅から吾妻橋駅(現とうきょうスカイツリー駅)まで延伸した際に「白鬚駅」として開業した途中駅。称呼由来は隅田川に架かる白鬚橋です。

1905(明治38)年7月に休止し、3年後の1908(明治41)年4月に廃止している (東武鉄道は当駅を白鬚駅開業の1902年としているので継続・改称駅とした)。1924(大正13)年10月、花街・玉ノ井の進出によって賑わいを見せたことから「玉ノ井駅」として復活し営業を再開します。

地名・玉ノ井は「悪代官がこの地に囲っていた愛妾の名と伝えられる」(東武鉄道HP)という。しかし戦時の娯楽御法度に伴い、不要不急駅とされ、1945 (昭和20)年5月に休止となります。

終戦後の1949(昭和24)年10月に「玉ノ井駅」は復活しました。だが、地名は1965(昭和40)年の住居表示の施行で東向島に変更されました。そこで1987 (昭和62)年12月、新町名にちなんで、現在の「東向島駅」に改称しました。向島は「浅草から見て、 隅田川の向こう側にある町」を指します。

東武鉄道が1989(平成元)年5月、当駅高架下に東武博物館を併設する際、地元からは玉ノ井駅の復活 改称を申し入れましたが、その願いは叶わなかった。「玉ノ井駅名変更を荷風とともに嘆く」(読売新聞投書欄要旨)などの要望もあり、現・東向島駅の駅名標には、いまでも「東向島駅(旧玉ノ井)」 と玉ノ井の表示が併記して掲げられています。

「京成電気軌道」(現京成電鉄) でも1928(昭和3)年4月に「白鬚線」 (向島〜白鬚間=1936年廃線)を開業した際、東武鉄道・玉ノ井駅との交差地点に「京成玉ノ井駅」を設けたが利用者が少なく、1936(昭和11)年2月に8年間で路線そのものを廃止しています。

 





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神の名前は
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/07/31(金) 15:39
No. 8327
 
 
古来のユダヤでは、神の名を発音する事さえ間違っているという迷信的な考えが生じた時があったようです。また、神のみ名は不完全な人間の唇で語るにはあまりにも神聖すぎるとも考えられていました。

現在の多くの方たちは、神の特有のみ名を排除する伝統に従う方法を擁護しています。まことの神は至上性と独自性を有しておられるゆえに、特定の名を持つ必要はないと言うのです。ですがこのような見方には、キリスト教時代以前の聖書であれ、クリスチャン・ギリシャ語聖書であれ、霊感を受けて記された聖書からの裏づけは全くありません。

そしてまことの僕の誰かが神の名を発音するのを躊躇した事を示す証拠は1つもありません。「わたしの名を全地に宣明させ」敵対者にさえしられるようにとも記されています。(イザヤ64章2節)

 





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米軍は日本国民を守ってくれるのか
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/07/31(金) 15:36
No. 8326
 
 
過去のお話ですが、週間金曜日の代表取締役社長であり、評論家でもある佐高信先生にお会いしてお話をした中で「米軍は日本人を守ってくれると思うか、日本の自衛隊が日本国民を守ってくれるか」と言う事を問われました。その問いに答えるべき一冊の本を紹介して頂きました。その本の一部を紹介します。

亡くなられた和枝さんのお父さんの立場から書くと家にいたのは、夫の妹、和枝、息子の3歳の裕一郎と1歳の康弘の4人。子どもたちは、アイスを食べながら、8畳の茶の間でテレビを見ていました。和枝と夫の妹は、テーブルをはさんで向かいあい、おしゃべりを始めた。いつもとおなじ、平和な昼下がりでした。

そのとき「バリッ!」と大きな音がした。大木が倒される時のような音だった。「なにかしら?」妹が窓のところへ見に行こうとした一瞬、部屋の中が真っ暗になり、爆風が部屋を突き抜けた。子どもたちはテレビの前から飛ばされ、妹は飛んできた置時計に背中を打たれ気を失った。

和枝は、意識がはっきりしていたが、なにが起きたのか理解できなかった。ハッと我に返って部屋の中を見まわすと、妹と子ども達が血まみれで倒れている。窓ガラスは破れ、部屋の中は真っ黒に焼け焦げていた。熱風が一瞬のうちに部屋を吹きぬけていったのである。

和枝は、倒れている妹をゆり動かして、テーブルの下まで飛ばされていた康弘を抱き上げ、裸足で外にとび出した。康弘を地面におろして初めて、自分の衣服に火がついている事に気づき、あわてて脱ぎ捨てた。妹が意識を取り戻したのは、和枝が部屋を出た直後だった。

気がつくと、テレビを見ていたはずの裕一郎が、押入れの前にあお向けに倒れており、「ママ、ママ」と弱々しく呼んでいる。ついていたはずのテレビは消えている。近寄ってみると、裕一郎は血まみれだった。ハッと自分の姿を見ると、血だらけになり、着ていた服は黒焦げで、皮膚も焼けただれている。

「ユウちゃん、だいじょうぶよ、おばちゃんが助けてあげる」そう言って裕一郎を抱き上げ、外に出た。割れて散乱する窓ガラスが、足の下でギチギチと音をたてた。厚木を飛び立った墜落した米軍のジェット機はRF―4Bファントムであった。最大速度マッハ2・4離陸後1分間で高度1万メートルにまで飛び上がれるという高性能のジェット機である。

米海軍7艦隊の航空母艦ミッドウェーに所属する戦術偵察機で、事故の前に米海兵隊岩国航空基地から訓練のために厚木航空基地に派遣されていた。ファントムとは、日本語で「妖怪」という意味である。2人のパイロットを乗せた、この妖怪は、9月27日の午後1時17分ころに2機編隊で厚木基地を飛び立った。

千葉房総沖で待機する母艦ミッドウェーに着艦せよ、との命令を受けていた。タッチ・アンド・ゴー、つまり母艦発着訓練である。そのうちの1機、ミラー大尉とダービン中尉の乗った611号機が離陸直後に左エンジンから発火、3分後の1時20分ころ、緑区荏田町に火を吹きながら墜落、この惨事を招くことになった。

墜落地点には深さ4メートルもの大穴があき、エンジンの1つは火の玉となって90メートル離れた和枝宅を直撃。満載されていた燃料は爆発と同時に扇状に広がり、火炎となって行く手の家々や木々を焼き尽くした。ファントム機のパイロット2人は墜落前に緊急脱出。地上の騒ぎと対照的にパラシュートでゆっくりと空から降りてきた。

降下場所は荏田町から3キロほど手前の緑区鴨志田町。地上に降り立った2人は、ケガもなく、約20分後に海上自衛隊のヘリコプターに収容され、厚木基地に運ばれた。大惨事のさなか、自衛隊が活動したのは、この2人のパイロットの救助にだけだったのである。米軍関係者が現場に到着したのは、事故から1時間も経った2時20分ことであった。

その後マイクロバスやヘリコプターが到着したが、米兵たちがまず行ったことは、被害者の救助や被害状況の調査、ではなく周辺の人たちを事故現場から閉め出すことだった。怒りにふるえる人たちに、彼らはニヤニヤしながらVサインを出してみせたりした。

応急処置を終えた子どもたちは病室に移され、目、鼻、口を残して全身を包帯で巻かれていた。「痛いよ、痛いよ」2人は、うめき声をあげなから体を動かし、ベッドからずり落ちそうになる。医師は裕一郎の手足を包帯でしばり、ベッドに大の字にしてゆわえつけた。

「とってよ、ユウちゃん、おとなしくしているから、これとってよ」裕一郎が、ひっきりなしに訴える。やけどした皮膚の下から体液がしみ出し、巻かれた包帯はベトベトになっていく。そして子どもたちの体からはどんどん水分が失われていく。「水ちょうだい。おサジいっぱいでいいから水ちょうだい、ジュースちょうだい」裕一郎が必死に訴える。

周囲の人たちが、水を与えてやってほしいと頼んでも、医師は頑として受け付けない。水を飲ませては危険です、の一点張り。「ちょっとならいいだろ。子どもがあんなに頼んでいるじゃないですか」付き添っていた彼の母親に、「おばあちゃんバイバイ」それが最後の言葉だった。

9月28日午前0時40分「あの子は最後まで水をほしがって。水を、ジュースをちょうだいって……。かわいそうに」もの言わぬ裕一郎が目の前に横たわっている。全身に包帯を巻かれ、水をほしがりながら息を引き取っていった……。

ベッドに駆け寄り、その手を握りしめてみる。いまにも握り返してきそうな気がする。昨日までは、元気に走り回っていたのに。弟の康弘の容態がおかしくなってきたのは、それから2時間ほどして、午前3時をすぎたころからである。時間が経つにつれて康弘の呼吸はどんどんあらくなってくる。裕一郎が亡くなったときには、康弘はまだ元気だった。

康弘の息の乱れが激しい。「ポ、ポ、ポ、ハトポッポ……」康弘の声がはっきりと聞こえた。「パパ、ママ、じいちゃん、ばあちゃん」突然、康弘がそう言った。一瞬、まわりの誰もが息をのんだ。パパ、ママは言えても、これまで一度もいえなかった言葉――じいちゃん、ばあちゃんを、このときはじめてはっきりと言った。

康弘が息を引き取ったのは、明け方の4時30分だった。このような悲惨な出来事を知ってしまうと果たして米軍や自衛隊は日本国民を守ってくれるのでしょうか。米軍が駐留し、年間何千億円以上の経費を日本が負担する。沖縄では米軍の犯罪や事故が後をたたない。日本を守るためなのであろうか。

海兵隊と空母機動部隊の母港などがおかれているのは日本だけです。日本の防衛とはまったく関係ありません。アメリカの世界戦略の前線基地なのです。基地をなくし、軍事同盟をなくしてもアメリカと敵対関係に入るのではありません。友好条約をむすび、対等、平等の真に安定した関係をつくるのです。

日本に仮に戦火がおこるとしたら、単独でどこかの国が侵略してくる事は考えられず、アメリカの先制攻撃によって介入戦争がおこったとき、それが日本に及ぶと言うのがもっとも可能性の高いものです。この火種をなくすことは、日本の恒久平和とアジアの安定にとって大きな役割を果たすと思います。

 





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両国駅の歴史
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/07/29(水) 19:01
No. 8325
 
 
由来は東京と千葉を結ぶ役割の橋名。両国←両国橋、JR東日本・総武線。両国駅←両国橋駅=1931年10月1日/所在地:東京市本所区本所横網町(現墨田区横網1−3−20)/設置者:総武鉄道/開業日:1904年4月5日 。

橋梁名から地名・両国へ変更。房総(現千葉)〜東京(武蔵)間の鉄道敷設を計画した私鉄「総武鉄道」(現JR総武線)は1894 (明治27)年12月、佐倉(千葉県)から本所(現錦糸町)までを開業させますが、目の前を流れる隅田川を越えて、東京方面へ乗り入れるには独自に橋を架けなければならず、資金的にも難しい。

そこで1904(明治37) 年4月、やむなく川手前に、ターミナル駅「両国橋駅」を設置しました。東京と千葉の両エリアを結ぶ役割を果たしながら、隅田川に架かる大橋梁の「両国橋」から呼称を決定。なお、地名としての両国は俗称として、江戸時代から用いられた。

駅舎はターミナル駅にふさわしく、中央棟を囲んで洋風三角屋根を持つ棟を左右に施すなど、木造建築ながらモダンな洋風デザインで建設した。初代駅舎は関東大震災で失うが1929(昭和4)年12月、現在の鉄筋コンクリート2階建てで、アーチ型の3つの窓や時計をデザインした駅舎を建てます。

そして新駅舎竣工から2年後の1931(昭和6)年10月、両国橋の「橋」を取り、周辺地区の地名 両国(本所区東両国)にあわせて「両国駅」と改称しました。当時の当駅の乗降客数は東京周辺の駅の中でも、東京・上野・新宿・横浜・新橋に次ぐ第6位を誇っていたといいます。

だが1932(昭和7)年7月、隅田川を越えて御茶ノ水駅までの直通運転開始に伴って通過駅となり、ターミナル駅としての役割を終えて寂しくなっていくのでした。

 





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ユダヤ人の懺悔の言葉
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/07/29(水) 18:59
No. 8324
 
  ユダヤ人の懺悔の言葉
戦後15年の頃、ユダヤ教のラビであるモルデカイ・モーゼというユダヤ人が「日本人に謝りたい」という本を出版しました。非常に参考になるので要約致します。「ユダヤ人は信じがたいほど頭が悪かったのだ。東京裁判、新憲法への改悪等戦後日本に持ち込んだ改革の全てはユダヤ的思想と民族的悲願の所産だった。」

「マルクス主義もユダヤ民族解放事業のための虚構理論だったのだ。戦前の日本にこそユダヤ民族の悲願の姿があったのだ。マッカーサー司令のブレーンは殆どユダヤ人で、我々はこんな理想の国体が20世紀の地球にあるとは知らず、その殆どを打ち壊してしまった。」

またユダヤ教の指導者トケイヤーは、「日本人は死んだ」という本の中で、「ユダヤ人の真の理想とするものが、戦前の日本には多々あったとし、それが戦後全く失われてしまったのを非常に悔やんでいるのです。」「天皇制は古代からユダヤ民族の理想だった。」「日本民族が持つ最大の財産は天皇制である。これはまったく世界に類例のない偉大なものであり、人類の理想である。」

また、ユダヤ人の大思想家ルソーは、「人がもし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのような国はこの地上に存在する筈がないだろう。従って自分は止むを得ず民主主義を選ぶのである。」と言っております。

そして終わりにこの占領憲法を1日も早く、君民共治の天皇制の元の姿に戻してもらいたい。と結んでおります。ユダヤ人のアインシュタイン博士の言葉として有名な次の話があります。即ちアインシュタインが相対性原理を発表し、1922年に講演に日本を訪れ、東北大学での話しに、伊勢神宮を参拝し非常な感銘を受け

「近代日本の発達程、世界を驚かしたものはない。この驚異的な発展には、他の国と異なる何ものかが無くてはならない。果たせるかな、この国の三千年の歴史がそれであった。この長い歴史を通じて一系の天皇をいただいているということが今日の日本をあらせしめたのである。私はこのような尊い国が世界に一箇所位無くてはならないと考えていた。」

「なぜなら世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か戦いは繰り返されて、最後には戦いに疲れる時がくる。その時人類はまことの平和を求めて世界的な盟主を挙げねばならない。この世界の盟主たるものは、武力や金力でなく、あらゆる国の歴史を抜き超えた最も古くまた尊い病柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。吾々は神に感謝する。吾々に日本という尊い国を作って置いてくれたことを・・・。」と。

 





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彗星について
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/07/29(水) 06:28
No. 8323
 
 
太陽が溶かす氷を、我々は彗星と呼んでいます。彗星はガスや塵を含んだ氷の塊です。太陽に近づくと、次第に氷が溶けて、内側にあったガスや塵が飛び出します。太陽に近づくほど太陽の光が多く当たるので、より明るく見えるようになります。

地球から見ると、飛び出したガスや塵がほうきのように伸びて見えるので、「ほうき星」とも呼ばれるのです。太陽に近づいたら必ず大きな彗星になると言うわけでもありません。2013年11月に太陽に大接近したアイソン彗星があります。

かなり明るくなると期待されていましたが、太陽に近づいた際に中心が崩れ、ほとんど見えなくなってしまいました。ちなみに、地球から見える彗星の大きさは、 彗星がどれだけ地球に近づくかなども関係します。 彗星は必ず戻ってくるのかというと彗星によって違います。

彗星には、何年かおきに太陽に近づくものと、一度太陽に近づいたあとは二度と戻ってこないものの2種類があります。何年かおきに近づく彗星は、定期的に見ることができます。たとえばハレー彗星は約76年周期なので、次は2061年に見られると言われています。彗星の氷は、直径数km〜数十kmくらいのものが多いです。

 





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危険な食品添加物の主
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/07/29(水) 06:26
No. 8322
 
 
私の地元で週間金曜日の代表取締役社長であった評論家である辛口で有名である山形県酒田市出身の佐高信先生と石原莞爾平和思想研究会の現状についてと食品添加物の話をしながらご馳走になりました。先生の出版している「週間金曜日」という雑誌にはCM広告が一切掲載されていないので、はっきりと一流企業の行いを書ける素晴らしい雑誌です。

その時の先生に様々なお話をお聞きして勉強になりました。また、佐高信先生の方からいろいろと質問していただいたことは嬉しかったです。機会がありましたら食品添加物についてはホームページで掲載して行こう思います。佐高信先生のお話は食品添加物だけに言及することなくすべて私とコアの部分が一致するところでした。

そこでひとつ、味の素が脳細胞を破壊するという事を知っていますか?脳生理学の分野では神経興奮毒物と呼びます。脳には血液・脳関門と呼ばれる保護機能があります。それはバリアのようなもので、有害物質の侵入を防ぎます。

ところが出生直後は、バリアを閉じていないので神経毒物「味の素」はフリーパスで未成熟の赤ちゃんや幼児の脳を直撃するのです。このバリアの完成は3歳頃で、乳幼児に「味の素」を与えては大変な事になるのです。

しかも、脳の視床下部や下垂体などには脳バリアはないのです。グルタミン酸塩濃度が幼児は大人の15倍で、化学調味料入りワンタンメンなどを食べるとしびれ、頭痛、圧迫感など中華料理店症候群と呼ばれる急性中毒症になる場合があります。

フィリピンなど東南アジアでは、野犬を捕獲する時に缶詰の魚にアジノモトを振りかけて広場に置くと野犬がガツガツ食べ、そのうち足がふらつきはじめ、昏倒するので、そこを捕まえるそうです。日本でも、悪質なスナックでは、ホステスが酒に「味の素」を振りかけ、金品を奪う事件も起きました。

「味の素」の急性神経毒性は、有名な話なのでご存知だと思いますが、脳損傷破壊により、さまざまな副次症状が引き起こされ、甲状腺や副腎・重量低下、ホルモン類の著しい減少、不妊・生殖異常・ビタミン欠乏症、指がくっつくなどの骨格異常、染色体異常、催奇形性・脱脳症・唇裂・無眼症などなど。

加熱すると強い発ガン物質にも生成されるので、バーベキューなども危ないです。油と加熱しても強烈な突然変異原生物質に変化して、腎臓障害・痛風・網膜損傷などなど。有害性を指摘する内外の論文の多さに驚いています。

味の素は味覚を狂わせる、白い悪魔です。聞くところによると、味の素・広報部にコメントを求めると「反論はありますが、公表できません」との事ですが、何故でしょう。恥の素と呼ぶ方もおります。

 





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乃木大将と石原莞爾の出会い
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/07/29(水) 06:24
No. 8321
 
 
石原莞爾が若かった頃、日露戦争の話を聞く為に乃木将軍の屋敷を訪ねました。その時、石原莞爾は誰の紹介状も持っていかなかった。だが、時間があれば間違いなく会ってくれるという確信が、あったのです。門をくぐり、玄関で案内を乞うと、乃木大将本人が現れて気軽に屋敷に上げてくれました。

その時の石原莞爾のエピソードとして、乃木大将に父親の年齢を尋ねられ思い出せないので咄嗟に「約60歳です」と答えて、叱られたと言います。日露戦争での補給戦について質問すると、乃木将軍は地図を出して丁寧に教えてくれた。「乃木の戦下手」は、陸軍の内部では有名でした。何しろ西南戦争では軍旗を奪われています。

その後の旅順攻略から、失敗ばかり続きましたから。だが、乃木大将は多くの方から崇拝されていました。前線の砲火をくぐった下士官たちが、口汚く幕僚たちの判断ミスをなじる一方で、乃木大将に対しては、尊敬を向けていたのです。しかもその畏敬の念は、軍事的才能によるものではないのは確かでした。

日本の国家が乃木大将を必要としていました。乃木大将の戦のような犠牲ナシに、近代日本が成立し得ないということを、幼年学校時代の石原莞爾は必要である、と理解していました。軍事的才能の欠如によるために、旅順要塞攻略では、無意味に大量の兵士を殺した、と云われているのです。

大事なことは、当時の日本人が乃木大将を許しただけでなく、尊敬して信仰し、このような指揮官が存在してくれたことを慶び、涙を流した、というのです。そして、その涙のために乃木大将は夫婦で殉死せざるをえなかったと思うのです。乃木希典は、長州藩の革命グループの吉田松陰をめぐるサークルに生まれました。

そのために乃木大将が、新政府で重要な役割を果たすことははじめから約束されていたのです。その役割が軍事であったことが必然であったのかも知れません。だが、決して才能に恵まれたとはいえない分野に生涯を捧げる事になった乃木大将は、自らもひたすらに精神的な存在へと育つしかなかったのです。

対外的な影響を鑑みると、日露戦争は日本人のイメージを決定したところがあります。アメリカ人の従軍記者ウォシュバーンが、「乃木」という乃木希典の本を書いたり、農学者の新渡戸稲造が英文で「武士道」がイギリスでベストセラーになったり、このとき流布したサムライとしての日本人のイメージはかなり大きいと思います。


 



 

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