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「柳美里」論 柳美里という作家は毀誉褒貶の激しい作家だと言われる。「ファミリー・シークレット」に続き、週刊新潮「私は絶望的に子育てに失敗した」の記事について柳美里に対するバッシングがある。 これらについて私は違和感を覚える。というよりバッシングについては真っ向から斬り捨てたい。 また、柳美里の人間性と作家性にはそれらを跳ね返すだけの力がある。
角田光代が関西大学で講演した「読書から得るもの、読書からしか得られないもの」の抜粋が掲載されていた。 「今、感動というのは、いい話を読んで、ああ気持ちがよかった、おもしろかったという感想だけが感動になってしまっているんじゃないかという危惧を私は抱いているんです。本が与えてくれるものはもっと複雑だと思います。わかるとか泣けるだけじゃなくて、どうしてもわからない、感情移入ができない、全く共感できない、というのは、イコールつまらないことではないと思うんです。なぜわからないのか、もしくはなぜ共感できないのかどこに感情移入できないのか、なぜ私はこれを読んで不快に思うのかと考えること自体が、既に受身ではない読書、自分が能動的にかかわっていく読書だと思うんです。読んでいて、嫌な気持ちになったとか、不安になったとか、ドキドキした、怖くなった、足元がぐらつくような印象を覚えた、憤ったという気持ちを揺さぶられること全般を私は感動と呼ぶんだと思うんです。 そして、それは小説にしかもたらすことのできない種類のものなんじゃないかと思うんです」。 (角田光代関西大学講演「読書から得るもの、読書からしかえられないもの」より)
柳美里についての異論は角田光代が述べていることと表裏を為す。 すなわち「どこに感情移入できないのか、なぜ私はこれを読んで不快になるのか」と気持ちを揺さぶられていること自体が重要なのだ。 その意味で柳美里は極めて「今日的」作家であり、このような作家は今の日本に少ない。というより、いない。
Twitterによる柳美里批判で比較的おとなしい論調は以下のようなもの。 「QT@tinasuke 前に世界で一番嫌いな作家は村上春樹だってつぶやいたんだけど、訂正するね!世界一嫌いな作家は柳美里ですっ!グワシ!凸」
これは褒め言葉とも読める。つまり村上春樹より柳美里の方が「良いもの」を書いているということだ。
いつの時代も人間は地べたの上をどろどろと生きている。その時代のどろどろを切り取って表現し投げかける。それが作家の仕事だ。読者は投げかけられたどろどろを受け止めて自分を見つめその生き死にを考える。文学が絶えないのは人間がそれを求めているからだ。
村上春樹はそのどろどろを別のどろどろに言い換えて表現し、柳美里はそのどろどろをありのまま、あるいはデフォルメして表現する。作家の気構えとしてはそのまま真剣勝負する柳美里の方が、強い。
現実世界と距離を置いて書く在り方と、現実世界に身を置きながら同期的に書く、という在り方、があるが、柳美里は常に今に身を置きながら書いている。過去の作品もその時代の匂いがする。 柳美里は常に「今」の「リアル世界の暗部」を全身で表現しているのだ。
よって、一連のセンセーショナルな柳美里批判について、ちょっと口汚く言わせてもらうと 「電車の中吊り広告や雑誌の見出し、本の帯のキャッチコピーだけ読んで、柳美里を嫌いだとか最低だとか言うヤツは、自分で頭悪いです、感性ゼロです、思考停止してます、ってゲロしてるようなもんだぜ。中身と作品を読んでから言え、このボケなす野郎どもが! あなたたちがそんなに立派な人間だとは思わない。私たちがそんなに立派な人間でないのと同じように。人生は終わってみなければわからない。 柳美里を表面的にしか読めない、感性の鈍さ、頭の悪さを、いつか思い知ることができたなら、あなたの人生は少しはましなものだったと、あなたが死ぬ時に誰かに言ってもらえるかもしれない」 となる。
柳美里の今後の創作活動、私生活ともに、目が離せない。それは私たち自身の暮らし、生そのもの、の裏面でもあるからだ。
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