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ソ連が仲介とする和平工作というのは非常に微妙で、日本の敗戦が濃くなってきて急に出たものではなく、戦争が始まって間もなくすでに始めていたのです。日本の当時の政府首脳たちは、実に不可思議なぐらいソ連に対する親近感を持っていて、ソ連とは日ソ不可侵条約を結んでいるのでソ連を仲介とする和平というのが可也早くから考えられています。
この中心人物が木戸幸一で、これに反対するのが皇道派の流れをくむ人達です。つまり、近衛文麿以下、小畑敏四郎、石原莞爾、吉田茂です。こういう人たちはソ連を仲介とする和平には反対であるということをはっきりと言っています。
とにかく木戸幸一を中心としたソ連に仲介を依頼する工作が、昭和19年(1944)ぐらいから始まっているわけです。そういう工作の一端がこの6人の戦争指導会議に持ち込まれています。そこで、鈴木内閣の戦争指導会議の6人は、いざというときにはソ連を仲介とする和平工作をやるということを6人だけの秘密の条件として決めている訳です。
大東亜戦争の最初の目的は、国体を護持し、皇土を保護することではなかったわけです。大東亜共栄圏を確立して、植民地支配から白人を追い払って八紘一宇の精神に基づくアジアをつくると言うのが、大東亜戦争の目的であると決めたわけですが、そんなのは一切止めたと鈴木内閣は宣言したわけなのです。
その代わり、戦争の目的を国体の護持と、皇土の保護という2点に絞ったわけです。アメリカがこれをよく読めば、「日本は国体の護持が目的だな、これさえ認めれば降伏する」と思うに違いないと鈴木首相は考え、それでこれを採択したと言っています。
しかし、アメリカにはそれが通じなかったのです。同時に、日本国内でも通じませんでした。このようなことに気がつく人は殆どいませんから、「あくまで戦争を完遂し」という言葉の方に重点がかかり、大本営は天皇命令として本土決戦をやって最後の一兵まで戦う、というふうに受け取ったわけです。
天皇はいつもの無言のまま御前会議の国策決定を承認します。そして、天皇はその国策決定の書類を持って帰って来て、木戸がいかがでございましたかと聞きますと、めったになかったことだそうですが、その書類をぽんと投げ捨てて、こんなものが決まっちゃったよと言ったといいます。
そのとき木戸は、陛下はこの決定、つまりあくまで戦争を完遂していくということを認めておられない、反対なのだと受け取った。それから木戸は和平工作を自分なりに始めたといいます。
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