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  地球に生きる種族の争い  仲條拓躬2025/10/21(火) 17:05 
  国防総省とCIAの組織  仲條拓躬2025/10/21(火) 17:04 
  英語よりも母国の歴史を  仲條拓躬2025/10/21(火) 17:02 
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  民主主義の貧富の差  仲條拓躬2025/10/15(水) 18:49 






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地球に生きる種族の争い
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/10/21(火) 17:05
No. 8025
 
 
最も生活しやすい場所に住むのが一番強い種族で、それは温帯だと言います。次に強い種族は熱帯に住み、弱い種族は寒帯に行き、最も弱い種族は寒極帯に行かざるをえなくなりました。

その自然環境の中で何千年も生活を続けてきた種族間には大きな文明的な違いが出来た事は必然です。一番恵まれていた環境は温帯で、人間の生死や霊魂等を考えるゆとりがあり、宗教哲学が生まれました。世界の宗教、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教などは半径2キロ以内に地に発祥しています。

対照的な物資文明が生まれたのは寒極帯からです。北欧のスカンジナビア半島付近がアングロ族・サクソン族の居住地帯で、この寒極帯は冬期には零下40度の地で動物を捕獲して食糧とせねばならず、大自然と常に対決して闘わなければ生きて行けない地帯でした。

先祖代々数千年との厳しい自然と対決して生き残ってきた民族には、その環境に応じた体質になる宿命がありました。東洋人と比べて北欧白人の腸の長さはとても短い、温帯民族の腸の長さこそ、穀菜食の人間の腸とは体質が違ってしまったのです。

この発生の原点が自然との戦い、自然征服の姿勢、覇道性が染み付いています。それが近代西洋文明の基本姿勢です。スカンジナビア半島からバイキングとしてアイルランドを侵略占領したのが現在のイギリスで、それから三百年まだ先住民アイランドとの争いが続いているのです。

このアングロ族とサクソン族がひとつとなって、第一次産業革命を生み、その化学と機械文明を武器として世界中に侵略を進め、この西欧民族の世界侵略によって数万年の貴重な人類の歴史を粉砕してしまったのです。

中南米では、インカ、マヤ文明を築いた原住民からスペインは黄金を掠奪しました。また17世紀北米に侵入してきた北欧民族は、それ迄大自然に順応して生きていたインディアンを襲って、今日のアメリカを建国して世界を牛耳っています。

アフリカ大陸も殆ど植民地となり、現地民を奴隷として売買し、その資源を奪い取りヨーロッパ文明を築いたのです。アジアでは最も酷く、インドを始めビルマ、マレー、シンガポール、インドネシア、べトナムと侵略し、支那大陸にまで触手をのばし、アヘン戦争をしかけたのが大英帝国です。

インドで造ったアヘンを支那に持ちこみ莫大な利益をむさぼるという、史上最も汚い国家戦略でした。続いて狙いをつけたのが我が日本で、東洋の黄金の島として先ずオランダ、ポルトガルそして幕末に向かってロシア、イギリス、フランス、アメリカと謀略をつくしたのです。

 





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国防総省とCIAの組織
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/10/21(火) 17:04
No. 8024
 
 
米国はイラクが大量破壊兵器を所持していないのに、イラクを攻撃して日本も後方支援しました。同じように、イランは核兵器を開発しているのか解らないのに、イランを攻撃しました。イスラエルがイランを攻撃したら米国も追随しました。

米国の主な機関のトップにはすべて軍人がいて、諜報機関も例外ではありません。他国の動向を探り、マスコミに嘘の情報を流して情報操作するのはお手の物です。ベトナム戦争ではマスコミが戦争を終わらせました。

だが、湾岸戦争ではマスコミの規制をかけてまんまと嘘の情報を世界に配信させて戦争を行いました。米国の諜報活動は、戦争のきっかけを作ろうとする軍事行動の一部に思えます。同じことは日本国もやられたわけですからよく勉強していただきたいです。

諜報機関はCIAが行っていましたが、911のテロ事件が発生した時から国防総省に移りました。だからこの奇妙な911事件の責任は、国防総省にあると思うのです。事件当日ハイジャックされた旅客機へ非常に遠い基地から戦闘機を発進させました。

スクランブルがかかったのは、国防総省の本部に旅客機が突っ込んだ後でした。9・11事件が起きたとき、当時のブッシュ大統領はフロリダ州のホテルにいました。ホテルを出たとき、待ち構えていた報道陣から「ニューヨークで起きた事件をご存知ですか」と聞かれ、「知っている。そのことについては後でコメントする」と返事をしました。

大統領のその日の予定は小学校の授業参観をして教育問題について話すことになっていたのですが、ABCテレビによるとその予定を変更せずに、専用車で小学校に向かったそうです。常識で考えてこんな大変な事件が起きたというのに予定を変更せずに小学校に行くのかな?当時の北野たけしの番組で特集が組まれていました。

番組の特集によると、911事件のビデオの映像を分析した人達からの話では、突っ込んだのは旅客機ではなくミサイルだったと言うのです。さらに国防総省に突っ込んだ飛行機に乗っていたとされたサレム・アルハズミは、実はサウジアラビアのヤンブという町の石油化学工場に勤め、アメリカには一度も行った事もない人でした。

本人は自分の顔写真が新聞に掲載されたので驚き、あわててサウジアラビア当局に無実を報告しました。本人の話では「3年前にエジプトに行った時、旅券をすりに盗まれたことがある」と地元の新聞に話しています。また自作自演を行ったのであろうか。

CIAは911事件の起こる前に、何度もブッシュ大統領に対し、テロが起きると報告しているのですが、ホワイトハウスの国防総省のネオコンから相手にしていなかったのです。ブッシュ大統領の側近には諜報機関のウォルフォウィッツ前国防副長官やリビー前副大統領補佐官などのネオコンの人々がいます。

この方々はイラク攻撃の時に大量破壊殺人兵器を持っていないのに、嘘の情報をマスコミに報道させたのです。911のテロ事件は、国防総省が素早く戦闘機をスクランブルさせていれば、突入を未然に防げたかも知れません。

CIAの分析ではイランが、もし核兵器を作るのならば完成するまでには何年はかかると発言しました。それを聞いたネオコンはCIAがいると、積極的に戦争しようと画策しているのにアメリカ国内の世論が反対するかもしれないので、邪魔なCIAを潰そうとするかもしれません。

 





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英語よりも母国の歴史を
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/10/21(火) 17:02
No. 8023
 
 
インターネットの世界では、英語が標準語です。ただし、英語を母国語とする人の割合は下がります。母国語とする人口の順でみると、圧倒的に多いのは中国語、正確には北京語で9億人近い。次いで3億5千万人の英語、以下スペイン語、ベンガル語、ヒンディー語、ポルトガル語、ロシア語、日本語、ドイツ語、中国の呉語が、上位10言語です。

かつて民族と言語は、密接に対応するものとされていましたのだが、移住や混血が進み、また少数民族の言語が保護されずに消えていく現在、民族と言語の関係はそんなに単純なものではありません。

また民族の言語をどれくらい意識するのかは、民族や集団、個人レベルでも、様々なのです。現在の85歳以上の日本人で、英語をうまく話せる人はあまり多くないと言います。だから外国へ出掛けた方々は、にこやかに微笑んでいたので、昔の日本人は何か胸の根底には思慮深いものを秘めていると思われていたと言います。

だが最近の若者たちが、海外旅行に出掛けて、内容が何もない英語を話すから、日本人の中身が何もない事がわかってしまったと言います。それは英会話が出来るだけで日本人のイメージを壊してしまいました。

母国の事を勉強していない日本人は外国では黙っていて欲しいものです。昨今では小学生から英語を必修で、週1回行うという事で2010年から導入されます。日本語がロクに話せないのに本当にこれでいいのであろうか。

小学校では母国語を学び、一生懸命本を読ませて、真実の歴史や伝統文化を教え込むことが大切だと思うのです。確かに支配者の英語を話せなければ何かと不都合があるでしょうが、それだけでは国が滅びかねません。

文部科学省は小学校での英語を決定してしまいましたが、東京青山学院高等部の入試を例に挙げれば、ひめゆり学徒の証言を「退屈で飽きた」と英語感想文が提出されて、問題になったことを聞くと残念でなりません。

ちなみに昭和22年4月25日の極東国際軍事裁判所から証言聴取命令を受けて、酒田商工会議所での酒田出張法廷に私の父が石原莞爾将軍をリヤカーに乗せて出廷することになりました。その時の逸話があります。

その裁判はニュージーランド代表のノースクロフト判事の宣言で始まりました。検事「証人ジェネラル石原は英語を話せるか」石原「日本語なら、ちょっぴり話せる」石原莞爾は山形弁丸出しで言ったので法定内に笑いが起き、急に和やかな雰囲気になったそうです。ドイツ語も英語も堪能だった石原莞爾が自信を持って母国語で証言する瞬間なのです。

 





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トルコのクルド人の問題の要因
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/10/20(月) 20:07
No. 8022
 
 
第1次世界大戦が終わり、パリ講和会議が開かれ、ヴェルサイユ体制が始まります。講和会議を仕切ったのは、アメリカの大統領ウッドロー・ウィルソンと大英帝国の首相ロイド・ジョージ、フランスの首相ジョルジュ・クレマンソーの3人でした。

ウィルソンは理想家で、「こんな戦争はもう二度とやったらいけない」「国際連盟をつくらない」と、熱く主張します。フランスのクレマンソーは筋金入りのドイツ嫌いです。このチャンスにドイツが二度と起き上がれないように痛めつけてやろうと手ぐすねを引いています。 理想もへったくれもないリアリストです。

ロイド・ジョージは、英国人らしい現実主義者ですから、クレマンソーにつきます。このような構図で始まったヴェルサイユ体制はどうなったでしょうか。国際連盟は発足しましたが、ウィルソンの主張は反映されていませんでした。

そして提唱したはずのアメリカは上院が否決して、国際連盟に入りませんでした。講和会議で、クレマンソーは欲を出し、ドイツに1320億金マルクという賠償を課します。金マルクはドイツ帝国で使用された通貨で、1320億金マルクというと、当時の日本の国家予算のおよそ40年分です。

今の日本の予算は100兆円くらいですから、40年分といえば4000兆円です。当時のドイツ国民1人に対して1000万円以上の負担です。最終的には、30億金マルクぐらいに減額されましたが、むちゃくちゃな要求です。

ドイツ国民はおかしいと激怒します。第1次世界大戦の戦況を振り返れば、アメリカ参戦で劣勢にはなったけれど、ドイツ国内に一兵たりとも敵兵は入れませんでした。ロシアには勝っていましたから、ドイツ国民にしてみれば、引き分けかなというくらいの感覚です。

最後は分が悪くなったにしても、「6:4」くらいの条件に落ち着くと見ていました。それが、蓋を開けたら1人1000万円です。これが、ナチス台頭の素地になります。パリ講和会議が開かれた年にドイツ労働者党が結成され、ヒトラーが入党します。

ヒトラーは「ドイツは負けたのではない。ユダヤ人と国際資本の陰謀にはめられた」という理屈を展開して、支持を集めていきます。民族自決のダブルスタンダードに、トルコのアタテュルクが抵抗理想主義者のウィルソンは「民族はすべて自分の国をつくる権利がある」という「民族自決」の方針を打ち出します。

その結果、ハンガリーやチェコスロヴァキアなど、新しい独立国が生まれます。オスマン朝と連合国が結んだセーブル条約では、クルド人とアルメニア人の独立も認められていました。しかし、クレマンソーとロイド・ジョージが結託して、「民族自決は、負けたドイツとオーストリア、オスマン朝の領地、 植民地にしか適用しない」ことにしてしまいました。

大英帝国の生命線のインドも当然、独立できません。ダブルスタンダードです。このダブルスタンダードに猛然と反対したのが、トルコのムスタファケマルです。第1次世界大戦後、アンカラで政権を樹立したケマルは、クルド人やアルメニア人の独立を実力で阻止し、トルコの一体性を守ろうとします。

英仏は、これをトルコの内政問題として不問に付しました。ケマルはケマル・アタテュルク (トルコの父)と呼ばれ、トルコの英雄になります。しかし、今日も続くトルコのクルド人の問題は、ここから始まっているのです。

 





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第1次世界大戦の頃の歴史
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/10/20(月) 20:06
No. 8021
 
 
1916年の年末、ドイツが「 講和したい」と漏らしました。それを受けて翌年、アメリカが、仲介役を買って出ます。 ところが、この申し出を英仏口の連合国が蹴ります。「ここでドイツをやっつけておかないと大変なことになる」と。

困ったドイツは、通商破壊作戦 (無制限の潜水艦作戦)を始めて、連合国の船を徹底的に沈めます。アメリカはこれに怒って参戦します。アメリカの参戦で、第1次世界大戦の帰趨は決しました。ドイツ組と大英帝国組の工業生産力は1:1で拮抗していました。

それがアメリカの参戦で1:2強になるわけです。火事場泥棒を働いた日本は、中国の恨みを買います。日本はヨーロッパの戦争と何の関係もありませんが、日英同盟を名分に勝手に参戦します。そして中国にあるドイツの植民地を奪っていきます。

列強はヨーロッパの戦争で死に物狂いなので、ちょっとくらいアジアで勝手をしてもいいだろうと考えたのです。1915年、「対華21カ条の要求」を出します。中国に「日本のいうことを聞け。韓国のように」と要求したのです。要求した相手は袁世凱です。

袁世凱はひどい人ですが、さすがに中国人の魂は持っていました。火事場泥棒のような日本の要求に腹を立て、日本の要求を上手にプレス発表します。中国の人々は激怒します。 21カ条の要求を承認した5月9日は「国恥記念日」とされ、反日感情が巻き起こります。

1918年に入るとスペイン風邪がアメリカから広がり始めます。いわゆる、インフルエンザです。恐ろしいパンデミックで、第1次世界大戦で死んだ人よりも多くの死者を出したとされます。そのために両軍ともやる気が失せてきます。

そんなとき、ドイツのキール軍港で水兵が反乱を起こします。これがきっかけとなって、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位して、ネーデルラントに亡命し、ドイツは休戦協定に署名します。そして、第1次世界大戦が終結しました。

皇帝が逃げ出したドイツでは、ヴァイマール共和国が生まれ、民主的なヴァイマール憲法ができます。オーストリアの二重帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)は解体され、ハンガリーやチェコスロヴァキア、ユーゴスラビア王国が独立します。小さくなったオーストリアのもともとの領土は、オーストリア共和国になりました。

 





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2025日光・鬼怒川の思い出2日目-2
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/10/20(月) 20:04
No. 8020
 
  二宮金次郎が渡邊佐平商店の創業年である1842年から「尊徳」を名乗り始めたとされることから、名づけられました。栃木県で開発され、日光で育てられた酒米「とちぎ酒14」を全量使用しており、まさしく「地酒」と呼ぶにふさわしい銘柄です。

渡邊佐平商店の酒蔵見学では、蔵元や杜氏、製造担当者が案内してくれるため、お酒の造り方や飲み方、歴史などについて、多方面から楽しく学ぶことができます。ただ単にお酒の造り方について説明するだけではなく、お酒にまつわる言葉や歴史的背景など、あまり知られていないうんちく話もしてくれました。

製造過程や味を知るだけでなく、その裏にあるストーリーや歴史も含めてお話がとても楽しいです。見学の最後に、利き酒をいろいろと飲ませていただきました。ちなみにスペーシアXコックピットラウンジでも販売しています。社長は墨田区にも来ているので話がとても合いました。とても楽しいひと時でした。

帰りのスペーシアXに乗車するまで時間があるので道の駅日光・日光街道ニコニコ本陣で時間調整を行い、下今市駅に向かい。予約してある、スペーシアX・コックピットラウンジに乗車しました。東武特急にしか無い特別な席を予約していたのです。

長距離を移動する乗り物の醍醐味は流れる景色です。それを最も良い場所から眺められるのです。コックピットラウンジに席のある乗客は、ラウンジに併設されている車内カフェを自由に利用できます。ワゴン販売の無いこの列車において、オリジナルの飲食物が提供されるのは嬉しいです。

最後尾車両のコックピットスイートやコンパートメントの乗客も同様にいつでも利用可能ですが、そちらは車内の移動が必要です。それ以外の乗客はネット注文で、希望者が多そうな時は抽選になるそうです。これは感動したポイントです。

運転士さん、車掌さん、車内カフェの乗務員さん、みなさんが最高のおもてなしをします。出発直前に運転士さんからご挨拶をいただき、我々が4人掛けソファ席3区画を予約していた一行である事を察していただいた上で集合写真を撮っていただきました。

カフェの乗務員さんからも、飲食の注文方法を親切に説明していただき、ラストオーダーの案内もいただけました。ワインレッドの絨毯でソファとテーブル。その名の通り、高級ホテルのラウンジの雰囲気を感じる空間です。

コックピットラウンジは、日光金谷ホテルのラウンジや大使館別荘をモチーフにして作られたといいます。テーブルは、「人工大理石」で造られたテーブル。4人席だともう1個欲しいところではありました。1区画ごとに電源コンセントも完備してあるのでデジカメを充電しました。忘れてしまうか気になりましたが(笑)

ライトの照明も独特。世界文化遺産「日光東照宮」の模様をモチーフにしているそうです。スペーシアX独特の六角形の窓が多いことや、座席の背もたれが低めということで、1号車の車内はとても開放感があり、快適に過ごすことができます。

あっという間に都内に入りました。浅草で降りずに北千住で反省会です。場所は東武さんの関連会社のお店である「八重寿」です。八重寿銘醸は販売者で製造場は栃木県の安酒メーカー・北関酒造と書かれているので納得しました。

八重寿銘醸の他の酒も酒屋さんにあったので見てみたら製造場は書かれていませんでしたが、製造所固有記号があったので大仙市の八重寿銘醸の住所地では自醸してなくて他社から買った酒を自社ブランドで販売している丸投げ酒造メーカーみたいです。

酒は精米歩合70%でアルコール分14度とやや低めの純米生貯です。初日の夜同様、いろんな地酒を呑んで魔界に入って、旅は終わりました。皆様、お疲れ様でございました。

 





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2025日光・鬼怒川の思い出2日目
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/10/20(月) 20:04
No. 8019
 
  とても狭い温泉なので、早朝から行ったが、すでに入っている方がいました。温泉に入る時間帯は夜であれば1日の汗を流して、疲れを癒やすといった良さもあるのですが、朝には違った良さがあります。朝から風呂に浸かると、優雅な気分になるのです。

お風呂に入ってからだとお腹がすきます。ご飯と味噌汁に、漬物、焼き鯖、おでん、温泉卵、焼き海苔、納豆など、ご飯をおいしくいただけるおかずが複数並んでいます。バイキングでないのがとても良いです。部屋・風呂・食事の3つのポイントは大切です。

出発まで時間あるので、館内で卓球を行うことにしました。仲間には卓球のプロがいるので久しぶりに卓球をしました。特に習ったことはないのですが、温泉に行った時などによく卓球台を見かけて、そこで楽しんでいました。

温泉卓球は、不思議と特別な思い出になります。卓球は狭い空間でもできるのに、すごく盛り上がるのがとても良いところです。ルール自体はシンプルなのに、いざやってみるとラリーを続けるのが難しくて、つい熱中してしまいます。

出発時間が来たので、龍王峡に向かいました。龍王峡とは栃木県日光市にある峡谷で、ことから、その名がつけられたそうです。龍が通ったような峡谷ということで、この名になったようで、その景色は絶景です。

龍王峡駅は、「野岩鉄道」の駅です。開業時より東武線と直通しており、龍王峡駅までは、都内からだと東武線の北千住から特急で2時間程度です。お土産屋さんがいう事聞いて杖を持って行けというので持っていくことにした。

ずーと階段を下っていきます。なぜか、卓球をしたせいか、足が震えます。虹見の滝越しに見えてきたのが、虹見橋です。滝の音がすごいです。とても綺麗なところでした。この景色見ただけでも来た甲斐があると思います。

ここまでは、かなりの観光客がいましたが、その先の橋を見てからは、急に人がいなくなりました。我々の仲間も半分は引き返しました。ですが、この時はあまり気になりませんでした。さらに進んでいくと、むささび橋がありました。

何か雰囲気が違う。いつの間にか一人で歩いていました。この道で正しいのだろうか。戻ろうかなと思ったが地図を見てみると半分は来てしまいました。戻るのは嫌いなので先に行くことにした。なんか体力がなくなったなぁ〜と思いながら歩き続けた。

写真を撮って楽しむ余裕もなくなってきました。狭い山道を歩きますが、熊に気をつけろとの看板、杖を持ってきてよかったと思い始めた。いつクマが出るか分からないので戦闘の準備も始めた。不気味な静けさもありました。とにかく先に進むことを選択したことを
ひどく後悔しましたが引き返すことはできず、くたくたになってバスに戻りました。(笑)

そのあと、東武ワールドスクエアに行きました。東武ワールドスクウェアは、世界の建造物や世界遺産を25分の1のスケールで再現した世界建築博物館です。入って目につくのは、東京スカイツリーのミニチュアです。ミニチュアといえどかなり大きいのです。

しかもかなり精巧にできていて、東京スカイツリー下の施設までかなり手の込んだものなのです。その精巧なミニチュアを102点あるのです。この102点は「とうぶ」という語呂合わせだといいます。

現代日本ゾーン・アメリカゾーン・エジプトゾーン・ヨーロッパゾーン・アジアゾーン・日本ゾーンとエリアがあります。アフリカはエジプトしかないような、オーストラリアや南米は含まれていないような。北極も南極もありません。北半球の有名な建造物を集めた感じの施設のようです。人気や知名度の関係もあるのかな。

しかも各展示には必ず人のミニチュアが配置されており、総数14万体いるといいます。毎日入れ替えているそうです。実際自分が回っている間も、絵師が展示の塗り替えをしていたりし、日々メンテナンスが行われているところを見ました。

ワールドスクエアの人のミニチュアへのこだわりがすごいです。ワールドトレードセンター、エンパイアーステートビル、クライスラービルが揃い踏みで健在でした。自分はデジカメで撮りまくっていました。この施設は写真が趣味な人は大興奮できると思います。電車のミニチュアは見ていて感動です。動くものは楽しいです。

十分に撮影した後は、日光水車蔵に行きました。御食事処水車屋お昼御飯です。鬼怒川バイパス沿いにある御食事処水車屋は、団体も受入れ可能なたまり漬等を販売しているお土産屋さんに併設されている大きな店舗です。

ここは、広々とした店内、団体客が入るお店は、あまり得意ではありませんが、仕方がない。蕎麦はすでに水分をも失っているようなものがテーブルに置かれていました。冷酒は醸造アルコールが入っていて残念でした。お土産処が10%の割引券も置いておりました。

前に東武ワールドスクエアに来たときは近くに手打ち蕎麦「たくみ」に入りました。以前から気になっていたのですが いつも車がいっぱいでした。入って食べたところ、とてもおいしかったです。遠くまで来たら美味しい蕎麦を食べたいものです。

まずい冷酒を飲んだので、渡邉佐平商店は楽しみでした。渡邊佐平商店の創業は天保13年(1842年)と、200年近い歴史を誇ります。日光山の清らかな水や涼しい気候を生かしながら、丁寧な酒造りを続けてきました。

特に純米酒にこだわっており、製造量の約9割が純米タイプです。さらに、地元の酒米を率先して使用しており、日光市産と栃木県産を合わせると、9割以上が地元産の酒米です。大吟醸から定番の純米、普通酒に至るまで、すべてのお酒で活性炭を使わないなど、お酒の本来の旨味にこだわった造り方も大きな特徴です。

そのこだわりの味わいは世界でも評価されており、IWCでは「生酛純米尊徳」が2年連続で大会推奨酒に選ばれました。また、2023年のミラノ酒チャレンジで「純米吟醸日光誉」が金賞、「生酛純米尊徳」が銅賞を受賞しています。

渡邊佐平商店の数ある商品の中でも「生酛純米尊徳(きもとじゅんまい・そんとく)」は、創業当時に用いられていた「生酛造り」を約100年ぶりに復活させたという、こだわりの逸品です。この尊徳は、近くの神社に祀られている二宮尊徳翁にまつわります。


 





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2025日光・鬼怒川の思い出1日目
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/10/20(月) 20:01
No. 8018
 
 
集合場所は浅草待合室です。行ってみると改札と乗り場は2階で、その改札手前に「待合室」と書いてある場所がありました。工事中のようで座るところは少しだけです。浮浪者らしき方も座っていました。とても暑くてなんか、朝から気分が悪いです。

しばらく暑さに耐えて待っているとやっと皆様がそろいまでした。スペーシアXに乗り、下今市駅に向かいました。下今市駅に到着するとSL展示館が併設されており、鉄道模型やSLの仕組みが楽しく学べるようになっています。室内は空調が効いていて快適です。

下今市駅構内には転車台があります。転車台の近くにはSL展示館があり、2階の館内からも転車台がよく見えますが、すぐ近くまで歩いて行って動画を撮影しました。なんか昔懐かしのいい匂いです。記念品も売られています。

見学を終えた後は、SL大樹ふたらの撮影などを行い乗車しました。SL大樹には展望車が連結されておらず、窓が開きません。つまり乗ってしまうとほとんどSLを体感できないのです。窓は固定式ということもあり、SL列車という風情はほぼないです(笑)

だが、行き違う列車は運転士まで手を振ってくれます。散歩している方もお店の方も東武鉄道の仲間なのか、SLの手振りに力を入れているらしく、駅員や乗務員だけでなく沿線の関連企業ビルから手を振ってくれていました。こうやって盛り上げてくれるのはとてもいいです。記念の乗車証も配られました。

手を振り続けていたら、いつの間にか、東武日光駅に到着しました。いつもは車で移動するので日光駅は、ずいぶんご無沙汰している気がします。本日のお昼は1時半になっていました。なんでこんな時間にしているのか、皆様、元気がないです。

東武日光駅にはお迎えのバスが到着していませんでした。お昼も過ぎているので「まんじゅう」を購入して食べました。近くには、金谷ホテルの長い歴史に培われた伝統の製法を守って添加物を使わずに厳選した素材のうまみを十分に引き出したパン、クッキー、ケーキ等を年中無休で販売しているお店がありました。

食べたいパンを選んだのですが、人数分はないのでいろいろと購入して配ってもらったところ余りものになってしまいました。ベーカリーは、有名なこともあって日光には何店舗かあります。カレーパンが有名なのです。

やっとバスが到着した。宇都宮から来たといいます。お昼もだいぶ過ぎているというのに田母沢御用邸へ向かいました。旧御用邸で、上皇様が疎開していた時に住まわれていたことで有名です。なんとお部屋が106室もあり、屋根は銅板1枚でできているそうです。

現在御用邸は3つだけですが、過去には11もの御用邸が存在していました。神戸・伊香保・鎌倉・熱海・塩原など、今では観光地として賑わっている場所に多くあったようです。田母沢御用邸と沼津御用邸の2つだけが記念公園となり、現在でも当時の姿のままで一般開放されています。

田母沢御用邸は1899年(明治32年)に完成しました。1925年頃まで大正天皇のご静養所として機能し、その後は昭和天皇の避暑地、戦中は今上天皇の疎開先とされ、1947年(昭和22年)に廃用となり、この年から一般公開となりました。つまり田母沢御用邸は120年以上の歴史があり、天皇家と皇室に愛された特別な場所と言えます。

見学後は、昼食の場所、日光金谷ホテルに向かいました。バスは坂の途中でエンストして何度も上がろうと努力しますが、皆様に恐怖を与えたのでサイドブレーキを引かせてドアを開けさせて皆様を下して歩いてもらいました。松葉づえの方もいるのに困ったものです。

坂を歩いて上るとレトロな回転扉に心躍らせながら館内に入り 回転扉の上には日光東照宮を思わせる彫刻が際立っていました。クラシックホテルとは、戦前に創業した日本のホテル、もしくは戦前に建設された日本のホテル建築を指すようです。明治26年、そこから増築や別館竣工などを経て今日に至り、登録有形文化財にも登録されています。

明治から続く伝統と格式を感じながら味わう「百年ライスカレーランチ」は、訪れた人を魅了する名物メニューです。歴代シェフが受け継いできた秘伝のレシピで、深みのあるルーとやわらかなビーフが絶妙です。スパイスの香りが上品に広がり、口に含むたびに幸福感が広がります。だが、饅頭やパンを食べてしまって美味しさが半減しました。

正直、皆様、無理に苦しいと食べている姿を見るとカレーセットに5,500円は少し高い思いがしました。ちなみに、ポットで提供されるカレーを前に皆様、「どうやって食べるるの」と悩んでいました。スプーンで少しずつお皿にかけていただくのが正式です。日光で味わう特別なランチとして、是非、きちんとした時間に赤ワインでお試しください。

食事後は、東武さん主催の館内ツアーが開催されました。いつも一緒に呑んでいる東武さんが館内を案内しながら、ホテルの歴史や見どころをたっぷり説明くださいます。分からないことを知ることができ、とっても貴重な時間でした。すっかりクラシックホテルの素敵さに魅了されてしまいました。廊下。どこをとっても画になります。

これまでに日光金谷ホテルに泊まった著名人の一部が展示されています。本館1階ロビー脇には過去宿泊した著名人の宿帳が展示されていて、アインシュタイン、ヘレンケラー、アイゼンハワー、吉田茂、新渡戸稲造、湯川秀樹など著名人の名前を確認できます。

すでに3時です。宿泊施設で食事をとるのは厳しいので急遽、途中にある鬼怒楯岩大吊橋に行くことにしました。バスの運転手は食事のお礼も坂が上れずお客様を歩かせたことの謝罪を一切行わないので、チップをお渡しするのをやめました。

現地に着くと鬼怒川の溪谷が思ったより雄大で、橋も揺れの少ない立派なものでした。吊り橋遠望。温泉街と楯岩を結ぶ140mの鬼怒楯岩大吊橋は、雄大な鬼怒川の流れを橋の中央から見ることができます。

下までの高さは、37mという。楯岩の高さは100m、戦いのときに使う楯の形に似た岩で名勝らしい。渡りきったところに鬼がいました。楯鬼と書いてありました。吊橋近くには、お土産屋さんがあり、新米10キロが6000円でした。欲しかったが重い。

しばらく散歩してから鬼怒川の宿泊地に向かいました。一人一室なのでストレスがたまりません。洗練されたデザインの客室と、地元の旬の食材を使った料理が楽しめます。窓からの景色を眺めながら、部屋でリラックスできましたが、温泉は浴槽も洗い場も狭かった。

宴会の時間は少し遅くしましたが、おなかいっぱいで皆様、食べていませんでした。料理を残していたので持参した地酒をならべて、二次会で地酒の品評会を開催しました。三次会は地酒四天王と呼ばれている仲間ですべてのアルコール類を飲んで魔界へ入りました。

 





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情緒を大切にしましょう
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/10/15(水) 18:51
No. 8017
 
 
情緒とは、人間の持つ一番大切なコアの部分だと思います。その人間がどの様な親に育てられ、どのような先生に教えられ友達に出会って来たか、どのような本を読み、映画を観て涙を流したか、どのような恋愛、失恋、片想いを経験して、悲しい別れに出会って来たのかという様々な事が交じり合い、その人の情緒を形成して、態度や言葉を決めていくのだと思います。

幼少の頃は、お母さんに対する「甘え」があるでしょう。友達から苛められ、喧嘩をした後では、お母さんの膝の上に乗ろうとします。そのときに、膝に乗っているだけで、情緒の安定が図れるのです。

また、両親や兄弟姉妹と楽しく遊ぶ機会を作る努力が大切だと思います。その努力によって、一家の団欒が生まれ子供の情緒の安定に大きな役割を演ずると思うのです。親しい家族とバーベキューやピクニックにいくことも、生活経験も豊かになり、適応能力も発達してよい情緒として育っていくことでしょう。

さらに成長すれば宗教や慣習からくる形や伝統も無視できません。卑怯を憎む心とか、名誉や誠実や正義を重んじる心だとか、精神の形がいろいろあるのです。キリスト教やイスラム教にも、固有の形があります。国や文化に由来する形から行動や言葉が決められる場合もあります。だが、行動や言葉を選択するのには、情緒や形なのです。

最近、出版された本にジャンバル・ジャンに似たようなお話が書いてありました。それは泥棒にどう向き合うかで情緒の違いがはっきり現れると説いています。例えば、もう何日は食事を食べていない子どものために親がお店のパンを盗んで近くに隠れていた子供にパンを与えた。

この出来事を目撃した人は「日本は法治国家なので、法律を遵守し窃盗罪として、処罰しなければならないので、警察に突き出すしかない」だが、別の人は同じ出来事を見て「可哀想、確かにこの親はパンを盗んだ。しかし、今このパンを子供が食べられなかったら死ぬかも知れない。人間の命は法律より重い場合もあるので見ない事にして許してあげる」

どちらにも言い分があります。前者は「日本は法治国家」で始まり、結論は「警察に突き出す」。後者は「可哀想」で、結論は「見ない事にして許してあげる」。どちらとも論理は通っているのですが、始まりが異なったので、結論が異なってしまいました。

行動や言葉は重要で、始まりを選択することはそれ以上に決定的なものです。要するに子どもの頃から歪みが表に現れないままに育った子どもは、情緒が不安定であり、自発性も芽生えないままに、学校生活を終えてしまった子供、つまり、潜在的に問題をかかえている子供の方が、心配な子供です。

社会に出て、人生の荒波に出会ったときに、適切な判断ができなかったり、ノイローゼになったり、心身症を起こしたりする可能性が大きく、豊かな人生を送る事ができない場合が多いのです。

だから、一番困るのは、情緒に欠けて、論理的思考力は誰にも負けないという人です。そのような人は東京大学などを卒業していれば、論理的思考は得意中の得意です。しかし、子どもの頃からお母さんの膝にも乗らず親に褒められたいがためにすべてを我慢してきた子供には情緒力は発達していないのです。だが、論理は間違えません。

人生に生きがいを求めず、漠然と生きているだけのような人は情緒の不安定や自発性の発達の遅れや適応能力の低さによって、知的能力が、低い状態で停止しているので子供の頃の能力の向上がいかに大切であるかを痛感しています。

仮に、知的が高く、学校の成績がよく、挫折するような状況に遭わずに、エリートコースを辿った大人が、社会に出て挫折したときの反応は、実に惨めなものでそれに耐えられず自殺してしまう人もいるのです。

あまり頭が良くない人なら、途中で論理が二転、三転して、最後には正しい結論に辿り着いたりします、下手に頭が良いとそのまま行ってしまう。頭はよい人がはじめに大事な選択する場合に情緒力の育っていない人だと、非常に怖いのです。現実には、こういう人が非常に多く日本の中枢をしめているのだと思います。

 





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民主主義の貧富の差
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/10/15(水) 18:49
No. 8016
 
 
第一次世界大戦後、イラク・ヨルダン・パレスチナはイギリス、シリア・レバノンはフランスの委任統治領となりました。戦勝国だった日本も、ドイツ領だったマーシャル諸島やカロリン諸島などの南洋の島々を委任統治領としました。

パリ講和会議の時に、日本が真剣に訴えた「人種平等法案」が否決されています。黒人や日本からの移民を差別していたアメリカや、植民地を抱え込んでいたイギリスやフランス・オーストラリアなど白人が反対したのです。

白人の間の平等なら良いのですが、アジアやアフリカの人々との平等には反対ということです。残念な事です。唯一の白人ではない黄色人種でありながら一等国である日本は深く落胆しました。これは天皇陛下の日譚にも残されていますが、来る第二次世界大戦への遠因となったのです。

人種差別を行い、植民地支配を続けるために、帝国主義は本当にいけない事として認識していながら利益を求め続けた。日本が降伏して第二次世界大戦が終わってからも、イギリスやフランスは、何とか植民地支配を維持しようと努力を重ねていました。

だが、それは出来ませんでした。日本人の心の底にはアジアの解放があり、植民地であった諸国が今度の戦争の後に独立を獲得したことに依って、日本人の願いは達せられました。共産主義も帝国主義のような素晴らしい論理があります。

すべての生産手段をすべての人が共有する。それによって生まれた生産物もみなで共有する。そうして貧富の差がない平等な、公平な、幸せな社会ができるという論理です。しかし現実は、ソ連が74年間の歩で証明してくれたように、ソ連崩壊により失敗に終わりました。現在世界を覆いつくしている民主主義とは実力主義のようなものです。

実力主義は競争社会です。企業の繁栄には良いかも知れませんが、激しい競争の中、能力が劣る者などが落ちこぼれて行きます。有能な者だけが生き残るのです。裕福であるはずの日本国だけでも貧富の差は益々進み、自殺者が過去最高となりました。

日本国を出て世界を鑑みれば、1度も電話をかけたことがない方もいますし、電気やガスなどのエネルギーを利用出来ない方もいます。世界人口増加の大半が、貧困に集中する発展途上国で起こるのです。

先進国の消費者の多くは恵まれた生活をしているため、科学やテクノロジーの着実な進歩と商業の革新によって世界の貧富の差は縮まっているという幻想を抱いているのでしょうが、実際は全く逆なのです。世界の大部分は貧困にあるというのが変らぬ事実です。

現在路上で生活する人や安全でない住まいに暮らす人もいます。世界銀行の予測では、上下水道設備のない場所に住む人が増えるといいます。驚くべき事に国連開発計画によれば、世界の裕福な人を上から順に358人選んでその資産をあわせると、全人類のほぼ半数の所得を合計した額より多くなるのです。これが民主主義による貧富の差の実態でしょうか。

 






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