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1940年8月5日の夜、バビロフがいたウクライナ西部の実験農場に1台の黒い車がやってきました。バビロフはモスクワに連行され、NKVD (内務人民委員部) 秘密警察のルビヤンカ刑務所の中でも、奥まった区域に収容されました。
最初のうちバビロフは、科学的な見解の相違だけで罪は犯していないと主張しました。だが国家保安委員会のベテラン将校アレクサンドル・グリゴリエビチ・フバートは、こういう頑固な容疑者の扱いには長けていました。まずは10時間、12時間ぶっ通しの尋問です。夜中にベッドからたたき起こすのも当たり前でした。
拷問もあったと思われます。両足が腫れて歩けず、引きずられて監房に戻ったバビロフは、床に倒れたまま動けなかった。400回以上、1700時間に及ぶ尋問で、ついにバビロフは力尽きて供述書に署名しました。逮捕から1年後、銃殺刑が宣告されました。年秋、モスクワのブトイルカ刑務所の死刑囚棟に入りました。
バビロフは独房で執行を待つ日々でした。その年の冬、独房の扉がついに開いて看守に引き出されました。ところが処刑は行なわれない。ドイツ軍機甲部隊がモスクワに迫っているので退避するというのです。ヒトラーはスターリンと結んだ不可侵条約を反故にして、戦車を含む大軍勢でソ連侵攻を開始していました。
ドイツ軍がモスクワの手前まで接近するころ、バビロフたち囚人はさらに内陸へ移送されていました。モスクワの空は黒い煙に覆われ、ドイツ軍機の巨大編隊が市街地に影を落とします。爆撃の音は鳴りやむことがない。ただそれでも、史上最大の激烈な市街戦となったレニングラード包囲戦に比べれば何ほどでもなかった。
バビロフの植物生産研究所は中心部の聖イサアク広場にあり、爆風に備えて窓はすべて板で覆われていました。暗くて寒く、天井からほこりが舞い降りてくるような建物に、農業が始まってから1万年ものあいだ、遺伝子を受け継ぎながら人類の生命を支えてきた世界中の植物の種子が保存されていました。
その計り知れない価値を知っていたのは、スターリンではなくヒトラーでした。この建物の地下に、バビロフの忠実な研究員が集合しました。ゲオルグ・クリエル、アレクサンドル・シチューキン、ディミトリ・イワノフ、リリヤ・ロージナ、G・コバレスキー、アブラハム・カメラズ、A・マリギナ、オルガ・ボスクレセンスカヤ、エレナ・キルプです。
彼らは寒さに震えながら、バビロフは自分たちにどうしてほしいだろうと考えました。バビロフの生死はわからないが、彼ならどうしただろう。それは研究を続けることです。バビロフが尊敬してやまないマイケル・ファラデーのように。包囲戦が長引けば市民は飢えます。この研究所には食用の標本がたくさん保管されているのです。
世界が正気を取り戻すまで、種子を最後のひと粒まで守り抜く手段を考えなくては。1941年のクリスマス、ドイツ軍によるレニングラード包囲は既に100日を超え、餓死者は4000人に上っていました。気温は零下4度で、都市基盤は崩壊しています。もう時間の問題だとヒトラーは思ったに違いない。
この状態で長く持ちこたえられる都市などない。ヒトラーは祝勝会の招待状を印刷し、晩餐のメニューまで考えていました。会場は聖イサアク広場に面したレニングラード随一のアストリアホテルと決め、広場は標的にしないよう爆撃機のパイロットに指令を出していたのです。
レニングラードにはエルミタージュ美術館があり、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロなど古今の名画を所蔵しています。それを案じたスターリンは人員を投入し、作品を鉄道で避難させたのです。バビロフの種子標本はスターリンに見向きもされなかったのですが、ヒトラーが欲しかったのはむしろそちらだった。
パリのルーブル美術館を手中に収めているから、絵画はもう十分。それよりバビロフの財宝の方が、はるかに価値が高いと考えたのです。何カ月にも及ぶ作業で、研究員たちは、日に日にやせ細り、寒さで青ざめていきました。
それでも大きなテーブルに集まっては、ろうそくの光を頼りに、白い息を吐きながら種子や木の実、米を分類し、目録を作成していく。ヒトラーは、生きた財産である種子標本を押収し、第三帝国で利用することを見据えて親衛隊に特別部隊まで編成していました。
引き綱を放たれるのを待ち構えるドーベルマンのように、部隊はいつでも出動できるよう待機しています。一方、研究員は1日にパンを2切れという乏しい配給に耐え、仕事を続けていました。ある意味、研究員にとって町の外側を固めるドイツ軍は脅威ではなかった。 ある日、種子を入れた皿がずらりと並ぶ作業台にネズミの一群が上がってきました。
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