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☆★☆最新情報7☆★☆

 
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  バビロフが守り抜いた植物の種子  仲條拓躬2026/01/20(火) 14:33 
  飢饉で亡くなった人々  仲條拓躬2026/01/17(土) 08:43 
  緑十字銀賞を頂いた時の高市総理の動静  仲條拓躬2026/01/17(土) 08:25 
  飢饉で亡くなった人々  仲條拓躬2026/01/13(火) 16:50 
  地球と生物の誕生の仮設  仲條拓躬2026/01/13(火) 16:49 
  太陽系について  仲條拓躬2026/01/13(火) 16:48 
  名前について  仲條拓躬2026/01/13(火) 16:45 
  見習期間中の解雇について  仲條拓躬2026/01/07(水) 20:11 
  内服薬について  仲條拓躬2026/01/07(水) 20:09 
  2026年熱海のお正月2日目  仲條拓躬2026/01/06(火) 16:48 






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バビロフが守り抜いた植物の種子
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/01/20(火) 14:33
No. 8113
 
 
1940年8月5日の夜、バビロフがいたウクライナ西部の実験農場に1台の黒い車がやってきました。バビロフはモスクワに連行され、NKVD (内務人民委員部) 秘密警察のルビヤンカ刑務所の中でも、奥まった区域に収容されました。

最初のうちバビロフは、科学的な見解の相違だけで罪は犯していないと主張しました。だが国家保安委員会のベテラン将校アレクサンドル・グリゴリエビチ・フバートは、こういう頑固な容疑者の扱いには長けていました。まずは10時間、12時間ぶっ通しの尋問です。夜中にベッドからたたき起こすのも当たり前でした。

拷問もあったと思われます。両足が腫れて歩けず、引きずられて監房に戻ったバビロフは、床に倒れたまま動けなかった。400回以上、1700時間に及ぶ尋問で、ついにバビロフは力尽きて供述書に署名しました。逮捕から1年後、銃殺刑が宣告されました。年秋、モスクワのブトイルカ刑務所の死刑囚棟に入りました。

バビロフは独房で執行を待つ日々でした。その年の冬、独房の扉がついに開いて看守に引き出されました。ところが処刑は行なわれない。ドイツ軍機甲部隊がモスクワに迫っているので退避するというのです。ヒトラーはスターリンと結んだ不可侵条約を反故にして、戦車を含む大軍勢でソ連侵攻を開始していました。

ドイツ軍がモスクワの手前まで接近するころ、バビロフたち囚人はさらに内陸へ移送されていました。モスクワの空は黒い煙に覆われ、ドイツ軍機の巨大編隊が市街地に影を落とします。爆撃の音は鳴りやむことがない。ただそれでも、史上最大の激烈な市街戦となったレニングラード包囲戦に比べれば何ほどでもなかった。

バビロフの植物生産研究所は中心部の聖イサアク広場にあり、爆風に備えて窓はすべて板で覆われていました。暗くて寒く、天井からほこりが舞い降りてくるような建物に、農業が始まってから1万年ものあいだ、遺伝子を受け継ぎながら人類の生命を支えてきた世界中の植物の種子が保存されていました。

その計り知れない価値を知っていたのは、スターリンではなくヒトラーでした。この建物の地下に、バビロフの忠実な研究員が集合しました。ゲオルグ・クリエル、アレクサンドル・シチューキン、ディミトリ・イワノフ、リリヤ・ロージナ、G・コバレスキー、アブラハム・カメラズ、A・マリギナ、オルガ・ボスクレセンスカヤ、エレナ・キルプです。

彼らは寒さに震えながら、バビロフは自分たちにどうしてほしいだろうと考えました。バビロフの生死はわからないが、彼ならどうしただろう。それは研究を続けることです。バビロフが尊敬してやまないマイケル・ファラデーのように。包囲戦が長引けば市民は飢えます。この研究所には食用の標本がたくさん保管されているのです。

世界が正気を取り戻すまで、種子を最後のひと粒まで守り抜く手段を考えなくては。1941年のクリスマス、ドイツ軍によるレニングラード包囲は既に100日を超え、餓死者は4000人に上っていました。気温は零下4度で、都市基盤は崩壊しています。もう時間の問題だとヒトラーは思ったに違いない。

この状態で長く持ちこたえられる都市などない。ヒトラーは祝勝会の招待状を印刷し、晩餐のメニューまで考えていました。会場は聖イサアク広場に面したレニングラード随一のアストリアホテルと決め、広場は標的にしないよう爆撃機のパイロットに指令を出していたのです。

レニングラードにはエルミタージュ美術館があり、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロなど古今の名画を所蔵しています。それを案じたスターリンは人員を投入し、作品を鉄道で避難させたのです。バビロフの種子標本はスターリンに見向きもされなかったのですが、ヒトラーが欲しかったのはむしろそちらだった。

パリのルーブル美術館を手中に収めているから、絵画はもう十分。それよりバビロフの財宝の方が、はるかに価値が高いと考えたのです。何カ月にも及ぶ作業で、研究員たちは、日に日にやせ細り、寒さで青ざめていきました。

それでも大きなテーブルに集まっては、ろうそくの光を頼りに、白い息を吐きながら種子や木の実、米を分類し、目録を作成していく。ヒトラーは、生きた財産である種子標本を押収し、第三帝国で利用することを見据えて親衛隊に特別部隊まで編成していました。

引き綱を放たれるのを待ち構えるドーベルマンのように、部隊はいつでも出動できるよう待機しています。一方、研究員は1日にパンを2切れという乏しい配給に耐え、仕事を続けていました。ある意味、研究員にとって町の外側を固めるドイツ軍は脅威ではなかった。 ある日、種子を入れた皿がずらりと並ぶ作業台にネズミの一群が上がってきました。


 





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飢饉で亡くなった人々
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/01/17(土) 08:43
No. 8112
 
 
エリコの塔には世界最古の階段があります。どれぐらい古いかというと、エジプトのピラミッドより5000年も昔です。あまりに古いので、地球がゆっくりと少しずつ飲み込む時間は十分にありました。かつては2段上って最上段に出れば、ヨルダン川とその周辺が一望できたはずですが、今は地中深くに埋まっています。

エリコの塔は侵略者から町を守るための監視塔だったのでしょうか。あるいは夜空の星にもっと近づくための手段だったのか。いずれにせよ、建設にのべ1万1000の労働日数を要したという大工事は、農業が生み出す余剰食糧がなければ不可能でした。

この塔に上れば、300世代にわたる人間の足跡をたどれるでしょう。放浪生活を終えるか終えないかという時代に、これほど持ちこたえる建造物をよくつくったものです。一説には初期のテル・エッ・スルタン時代(新石器から旧約聖書の時代)に建てられたともいわれていますが、多くは謎です。

アナトリア平原のチャタル・ヒュユクと同様、エリコの塔をつくった人びとも死者の頭蓋骨を自宅居間の床下に埋葬し、いつでも取り出せるようにしていました。 しっくいで生前の顔を復元し、貝殻の目を入れ、小石の入れ歯もはめる。いったい何のために?

頭蓋骨は崇拝の対象なのか、芸術作品なのか、それとも「ここで死んだ祖先に守られているのだから、この土地は私のもの」という斬新な宣言なのか? その可能性があるということは、誰のものでもない場所がいくらでもあった時代から、既に土地所有の意識が芽生えていた証拠かもしれません。

エリコとチャタル・ヒュユクは、歴史のなかで同じ時代に繁栄していました。だがエリコには、チャタル・ヒュユクにはない危険がありました。小さな町に大勢の人間が暮らすと病気が蔓延しやすい。 収穫や城壁も足かせとなります。

新しい生活様式は、階級間の闘争や性差別を助長しました。出土した骨や歯を分析すると、奴隷や身分が低い者には栄養不足が見て取れます。早くも格差が生まれていました。狩猟・採集生活では、食べ物の幅が植物や昆虫、鳥などの動物と広かったが、農業によって数種類の穀類が中心の炭水化物食に切り替わりました。

日照りやイナゴの襲来、カビによる病害は、飢饉を引き起こします。ときには地球の反対側で起きた自然現象が原因となることもあり、そうなると防ぐ手立てはない。1600年2月1日午後5時、ペルー南部でワイナプチナ火山が噴火しました。

記録に残る限り南米で最大級の噴火です。火山から勢いよく吐き出された石、ガス、塵は大気中に吹き上がりました。対流圏、成層圏も過ぎて、ダークブルーというよりほとんど真っ黒な中間圏に達したところでようやく降下を始めました。

大量の硫酸と火山灰は太陽光線を遮り、冬がやってきた火山の冬です。ロシアは6世紀ぶりの猛烈な寒さとなり、それから2年間は夏でも夜は気温が零下になりました。大飢饉が発生し、当時の人口の3分の1にあたる200万人が死にました。

人びとは凍える顔にぼろ布を巻いて巨大な穴を掘り、死体を埋めたといいます。ツァーリ (君主)だったボリス・ゴドゥノフの治世は終焉を迎えました。すべては1万3000キロメートル離れたペルーの火山のせいでした。「地球は一つの有機体である」という表現は、多くの人が感傷的な言葉のあやととらえますが、れっきとした科学的事実なのです。

18世紀のインドでは、度重なる干ばつで飢饉が発生し、英国の植民地運営の不手際も手伝って1000万人が死にました。中国では19世紀に何度も起きた飢饉で1億人以上が死んだといいます。

1世紀のアイルランドで起きた大飢饉は、またしても英国の植民地運営が一因であり、100万人が餓死し、200万人が国外へ脱出しました。ブラジルで 1877年に起きた干ばつと疫病もすさまじく、一つの州では飢餓と、免疫力が低下した人がかかる日和見感染で人口が半分以下に減りました。

20世紀に入ってからも、エチオピア、ルワンダ、それにサハラ砂漠の南では大きな飢饉が頻発しており、死者の数はいまだ確定していません。記録に残っているだけでも、この2000年間に地球のどこかで必ず大量の餓死者が発生していました。

近代科学は目覚ましく発展し、新たな発見や技術の進歩のおかげで、人びとの暮らしは完璧なものに近づきつつありました。ならば農業も科学の一分野となって、ニュートン力学の重力と同じぐらい確かな交配予測理論を確立できないだろうか。そうすれば干ばつや病気に負けない品種を生み出せるはずでしょう。

 





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緑十字銀賞を頂いた時の高市総理の動静
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/01/17(土) 08:25
No. 8111
 
 
(1月14日)時事通信社から引用
午前7時57分、宿泊先の奈良市のJWマリオット・ホテル奈良発。
8時49分、奈良県斑鳩町の法隆寺着。
9時5分から6分まで、韓国の李在明大統領を出迎え。
7分から59分まで、法隆寺を視察。
10時から3分まで、李大統領を見送り。
4分、同所発。
11時21分、伊丹空港着。
午後0時10分、全日空24便で同空港発。
0時56分、羽田空港着。
1時15分、同空港発。
1時39分、官邸着。
2時23分、官邸発。
2時43分、東京・春日の文京シビックホール着。
49分から58分まで、玄葉光一郎衆院副議長、関口昌一参院議長、赤間二郎国家公安委員長。
59分から3時34分まで、大ホールで交通安全国民運動中央大会に出席し、あいさつ
3時35分、同所発。
3時54分、官邸着。  
4時20分から30分まで、磯崎仁彦自民党参院議員、大山一郎香川県議ら。
4時54分から5時19分まで、片山さつき財務相、市川恵一国家安全保障局長、赤堀毅外務審議官、三村淳財務官、経済産業省の成田達治貿易経済安全保障局長、伊吹英明製造産業局長。
20分から29分まで、片山氏。  
5時30分から6時44分まで、吉村洋文日本維新の会代表と与党党首会談。木原稔官房長官、鈴木俊一自民党幹事長、藤田文武維新共同代表同席。
7時34分から35分まで、報道各社のインタビュー。
36分、官邸発。
37分、公邸着。
10時現在、公邸。(了)

このタイトなスケジュールの中、シビック大ホールにてお言葉を頂けたのは感激の極みでございました。


 





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飢饉で亡くなった人々
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/01/13(火) 16:50
No. 8110
 
 
エリコの塔には世界最古の階段があります。どれぐらい古いかというと、エジプトのピラミッドより5000年も昔です。あまりに古いので、地球がゆっくりと少しずつ飲み込む時間は十分にありました。かつては2段上って最上段に出れば、ヨルダン川とその周辺が一望できたはずですが、今は地中深くに埋まっています。

エリコの塔は侵略者から町を守るための監視塔だったのでしょうか。あるいは夜空の星にもっと近づくための手段だったのか。いずれにせよ、建設にのべ1万1000の労働日数を要したという大工事は、農業が生み出す余剰食糧がなければ不可能でした。

この塔に上れば、300世代にわたる人間の足跡をたどれるでしょう。放浪生活を終えるか終えないかという時代に、これほど持ちこたえる建造物をよくつくったものです。一説には初期のテル・エッ・スルタン時代(新石器から旧約聖書の時代)に建てられたともいわれていますが、多くは謎です。

アナトリア平原のチャタル・ヒュユクと同様、エリコの塔をつくった人びとも死者の頭蓋骨を自宅居間の床下に埋葬し、いつでも取り出せるようにしていました。 しっくいで生前の顔を復元し、貝殻の目を入れ、小石の入れ歯もはめる。いったい何のために?

頭蓋骨は崇拝の対象なのか、芸術作品なのか、それとも「ここで死んだ祖先に守られているのだから、この土地は私のもの」という斬新な宣言なのか? その可能性があるということは、誰のものでもない場所がいくらでもあった時代から、既に土地所有の意識が芽生えていた証拠かもしれません。

エリコとチャタル・ヒュユクは、歴史のなかで同じ時代に繁栄していました。だがエリコには、チャタル・ヒュユクにはない危険がありました。小さな町に大勢の人間が暮らすと病気が蔓延しやすい。 収穫や城壁も足かせとなります。

新しい生活様式は、階級間の闘争や性差別を助長しました。出土した骨や歯を分析すると、奴隷や身分が低い者には栄養不足が見て取れます。早くも格差が生まれていました。狩猟・採集生活では、食べ物の幅が植物や昆虫、鳥などの動物と広かったが、農業によって数種類の穀類が中心の炭水化物食に切り替わりました。

日照りやイナゴの襲来、カビによる病害は、飢饉を引き起こします。ときには地球の反対側で起きた自然現象が原因となることもあり、そうなると防ぐ手立てはない。1600年2月1日午後5時、ペルー南部でワイナプチナ火山が噴火しました。

記録に残る限り南米で最大級の噴火です。火山から勢いよく吐き出された石、ガス、塵は大気中に吹き上がりました。対流圏、成層圏も過ぎて、ダークブルーというよりほとんど真っ黒な中間圏に達したところでようやく降下を始めました。

大量の硫酸と火山灰は太陽光線を遮り、冬がやってきた火山の冬です。ロシアは6世紀ぶりの猛烈な寒さとなり、それから2年間は夏でも夜は気温が零下になりました。大飢饉が発生し、当時の人口の3分の1にあたる200万人が死にました。

人びとは凍える顔にぼろ布を巻いて巨大な穴を掘り、死体を埋めたといいます。ツァーリ (君主)だったボリス・ゴドゥノフの治世は終焉を迎えました。すべては1万3000キロメートル離れたペルーの火山のせいでした。「地球は一つの有機体である」という表現は、多くの人が感傷的な言葉のあやととらえますが、れっきとした科学的事実なのです。

18世紀のインドでは、度重なる干ばつで飢饉が発生し、英国の植民地運営の不手際も手伝って1000万人が死にました。中国では19世紀に何度も起きた飢饉で1億人以上が死んだといいます。

1世紀のアイルランドで起きた大飢饉は、またしても英国の植民地運営が一因であり、100万人が餓死し、200万人が国外へ脱出しました。ブラジルで 1877年に起きた干ばつと疫病もすさまじく、一つの州では飢餓と、免疫力が低下した人がかかる日和見感染で人口が半分以下に減りました。

20世紀に入ってからも、エチオピア、ルワンダ、それにサハラ砂漠の南では大きな飢饉が頻発しており、死者の数はいまだ確定していません。記録に残っているだけでも、この2000年間に地球のどこかで必ず大量の餓死者が発生していました。

近代科学は目覚ましく発展し、新たな発見や技術の進歩のおかげで、人びとの暮らしは完璧なものに近づきつつありました。ならば農業も科学の一分野となって、ニュートン力学の重力と同じぐらい確かな交配予測理論を確立できないだろうか。そうすれば干ばつや病気に負けない品種を生み出せるはずでしょう。

 





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地球と生物の誕生の仮設
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/01/13(火) 16:49
No. 8109
 
 
我々が住む天の川銀河は、若いときは実に多産で、現在の30倍もの星々を爆発的に誕生させていました。今から30億年ほど前、年齢が数十億歳だった頃のことです。太陽が誕生したのはもっと後、それから50億年後のことです。そのおかげで我々は存在しています。先に生まれた重い星々が死に、重元素を後世に残したのです。

太陽と、太陽系の惑星や衛星が重元素を取り込んで誕生しました。我々の体も星々の残骸からできています。生まれたばかりの星々を、ピンク色に輝く水素ガスが包み込む。重力の働きでガスから星々が生まれたのです。

星団の中で明るく輝く青白い星々が周りの塵やガスを照らし、水素がピンク色に光ります。そのような星団同士が集まり、より大きな星の集団、天の川銀河へと成長していきました。宇宙の中で銀河が生まれ、銀河の中で恒星が生まれます。

そんな恒星の一つが超新星爆発を起こし、その衝撃波がガスと塵の雲にぶつかります。衝撃を受けた雲の一部が収縮し、回転して瞬く間に円盤ができます。円盤の中心が十分に高温高密度になると、核融合反応の強烈な光が発生します。太陽が生まれたのです。

恒星が高速で噴出するエメラルド色の宇宙ジェットは、雨のように円盤に降り注ぎます。こうしてダイヤモンドやかんらん石といった、物語の主役でもある貴重な鉱物が周囲にもたらされます。回転を続ける円盤の中にいくつもの同心円状の溝ができます。

その一つで塵が集積して成長し、そこにガスが集まり大きさを増していき、やがて巨大な惑星となります。これが太陽系の中で最初にできた惑星、木星です。恒星の周りで惑星、衛星、彗星が生まれます。ほかの溝でも、自動車激突レースのように塵の衝突と合体が繰り返され小天体となります。

これらはほかの小天体を集めて雪だるま式に成長し原始惑星となり、太陽を巡る軌道から残された小天体は姿を消します。こうした原始惑星やその衛星には、有機分子、つまり生命の材料が豊富に含まれています。

先に死んだほかの恒星から受け継いだ重元素でできた分子です。恒星や惑星は自然の成り行きで出来上がったが、生命も同様にすんなりと誕生したのだろうか? 今から40億年以上前、地球がまだ若かったころのことです。

高さ15〜30メートルの塔が林立する海中都市がありました。海底にしっかり根を下ろした塔が、この高さになるまで何万年もかかっています。当時の地球に生命は存在していなかったのです。では、この海中摩天楼は誰がつくったのか? 答えは自然です。母なる自然が、貝殻や真珠と同じ成分である二酸化炭素と炭酸カルシウムでこしらえました。

休むことなく大地が割れて、灼熱のマントルに冷たい海水が流れ込む。緑色のかんらん石をはじめ、さまざまな有機分子や鉱物が海水に溶け出す。海水の温度が上昇して激しく荒れ狂い、後に摩天楼となる炭酸塩の岩石の孔にも入り込んだのです。

孔の内部で有機分子や鉱物はどんどん濃くなり、孵化器のような役割を果たしました。生命の最初の住まいは岩石だったといわれるゆえんです。宇宙に比べるとほんの小さな我々の地球で、鉱物と生命の関係はこうして始まりました。我々の体も含めてすべての物質がそうですが、有機分子も原子でできています。

有機分子の中で素早く動いているのが、陽子という光るエネルギーの点です。無生物である分子に生命を吹き込むにはエネルギーが必要です。石塔に閉じ込められたアルカリ水と、海洋の酸性水が反応して発生したエネルギーで、自己複製できる分子が誕生したと考えられています。RNAやDNAの前身となる分子です。

石塔の孔の内壁には、ほかの分子がすき間なく並んでいます。それが後に脂質となり、細胞膜を形成していきます。熱水作用でできた石塔は多孔質で、時間とともに崩壊していきました。だが、そこで生まれた複雑な分子は生き残り、地球最初の細胞となりました。

それが進化を遂げて、繁殖できる微生物になりました。生命の起源を説明する科学的な創造の物語として、この説はいちばん説得力があるといいます。長らく分かれていた科学の4分野、生物学、化学、物理学、地質学の大統一が求められる仮説だというのです。

 





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太陽系について
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/01/13(火) 16:48
No. 8108
 
 
地球の1日は、太陽が東から昇って、西に沈みます。太陽は、地球とは違って、自ら光り輝く星です。このような星を、恒星と言います。夕方、太陽の沈む方向に、明るく輝く星を見た事があると思います。それは、金星です。

この金星は、とても明るく見えますが、自らが輝いているのではなく、太陽の光を受けて反射しているのです。このような星を惑星と言います。自分達が住んでいる地球も惑星のひとつです。

惑星は、太陽のまわりを回っています。これを公転といいます。現在、太陽のまわりを公転している惑星は、太陽から近い順に、水星・金星・地球・火星・木星・土星・天王星・海王星・冥王星の9つあります。

太陽のまわりを回っているのは、惑星だけではありません。例えば、彗星の中にも太陽のまわりを回るものがあります。彗星というのは、ほうき星と呼ばれ、長い尾がとてもきれいな星です。

惑星に比べると、非常に小さな、小惑星と呼ばれる天体も太陽のまわりを回っています。さらに、月は、地球のまわりを回っています。このように惑星のまわりを回る天体を衛星といいます。これら、太陽・惑星・彗星・小惑星・小天体・衛星など全部を太陽系といいます。

太陽系は、銀河に属していて、太陽系は,ブラックホールがあるとされている銀河の中心のまわりを回っているのです。銀河もただひとつあるのではなく、たくさん集まって、銀河団というものを形成しています。恐ろしく無限に広い宇宙からみれば、地球などは陽炎に過ぎない。

 





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名前について
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/01/13(火) 16:45
No. 8107
 
 
2025年5月26日より施行された改正戸籍法により、戸籍に氏名の読み仮名が記載されるようになりました。これにより、漢字本来の意味とかけ離れた読み方や、「キラキラネーム」は認められないことになります。

少し前の話ですが、息子の名前に「悪魔」と命名したところ、マスコミで取り上げられ大変な話題になり愚論のコメントや投書が出ていました。「悪魔」という名前だからといって差別する社会が悪いという「進歩派」と、子供は親の玩具じゃないという「保守派」。どちらも自分たちこそ子供の人格を尊重する「真の人権派」だと思っているようです。

釈迦は、妻のヤソダラーが懐妊したとき、お腹の子供を「ラーフラ」と名付け、妻を捨てて家を出るのです。「ラーフラ」とは「蝕魔」すなわち日蝕や月蝕を起こす悪魔です。そうすると「悪魔」と懐けた佐藤重治氏は釈迦なみの大思想家だったのかも(笑)

名前は戸籍上にあるものですが、名前を何かの事由で改める場合があります。改めるには家庭裁判所の調停でその必要性を認められなくてはなりません。しかし変名は誰でも自分の名前を、自由に変えて名乗る事が出来ます。何かの理由で戸籍名が嫌な場合など勝手に名乗れます。サブネームも戸籍とは関係なく日常的に使えます。

呼び名が変わりませんから、自分でも相手にも抵抗がありません。たとえば「拓」でしたらサブネームでも同じ「タク」のままです。字画は変りますから使用してみるととても気に入ったりします。読み方は同じで漢字を変えるだけでも姓とのバランスがあるので自分の一生を向上させるかも知れません。

名前は原点になりますから付ける方は大きな責任が伴ってきます。親が精魂を込めて付けてくれた名前ですが、何度も修正を重ねているうちになぜか実際に決めた名前と違う漢字で登録されてしまったと言う事もあるでしょう。私の名前もそのように父から聞かされました。

サブネームを使用する事は法的には何の制限もありませんので、就職でも履歴書だけで住民票のいらない場合でしたら自由にサブネームで記載しても全く差支えはありません。名刺を作成して、どんどんPRして、その名前に早く馴染むことで、自分が段々変わって行けるかも知れません。

サブネームは出発点の自分が発揮出来なかった自分を発揮でき驚くような新鮮な自分を発見する事が出来るかもしれません。サブネームは年齢が若い人ほど性質の変化が早く現われると言います。

不運な嫌な状態を何とか改善したいという願いのある場合はしがらみを捨てて思い切って見るのも良いのかも知れません。あまり良くない名前は病気や事故とかの原因かも知れません。自分の人生を心の幸せも自分で見つかれば、きっと手に入れられるかも知れません。

ちなみにワシントンと言う名前がアメリカの首都に決定したのは、初代大統領ジョージ・ワシントンが現在の場所を選びました。都市の名前はアメリカの初代大統領の名前をとって「ワシントン」とすることに決定したのです。

さらにアメリカに喧嘩を売っていたウサマ・ビンラディンの名前は「ウサマ」で「ビン」は〜の息子という意味で、「ラディン」父親の名前です。だから、ウサマ・ビンラディンとは、ラディンの息子のウサマということです。

ビンラディンとはラディンの息子たちを表わし、彼個人をさすのではないのです。このような名前の表現法はイスラム圏だけではなくインドやマレー語圏など世界に多くあります。NHKがビンラディンと放送するから、勘違いしている人はたくさんいると思います。

名前を間違えられたり覚えてもらえなかったりすると悲しいです。お得意先の問い合わせの電話で、「えーと、顔は思い出せるのだが名前は出てこない」「えーっと、小太りで、強面であたまがハゲていて、うちの会社ではチャイニーズマフィアといえば直ぐにわかる人で…」ってそんなこと伝えたら首になるよ。爆(((●〜*>

 





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見習期間中の解雇について
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/01/07(水) 20:11
No. 8106
 
 
殆どの会社では、従業員が入社した際には見習期間を設けています。期間は通常3ヶ月で、長くて半年でしょう。見習期間は、本人の適性を見極めるための試用期間であると考えられますが、簡単に本採用を拒否できるわけではありません。

判決によれば、見習期間は「解雇権留保付労働契約」と解され、通常の解雇よりも広い範囲での本採用拒否の事由が認められます。但し、見習期間の解雇であってもその理由に正当性が求められることは当然です。

一般に解雇事由として認められるのは、
 1、勤務成績・勤務態度。
 2、健康状態。
 3、勤怠状況(出勤率)。
 4、協調性。
 5、書類提出状況、などに問題があったとき。

などです。要するに、採用してみたらどうしようもない加減な奴で、仕事をやる気も見られないというような場合には、本採用の拒否も止むを得ないと認められると言う事です。それでも14日を超えて使用した場合には、一般の解雇と同じように30日前に解雇予告を行なうか、30日分の解雇予告手当を支払う必要があります。

会社側は本採用の拒否を一般労働者の解雇と同じ重さがあると考えたほうがいいでしょう。そして、本採用の拒否に至るということは、採用選考時に十分な見極めができなかった面接担当者や人事・総務部門の失敗と言えます。

最近では、法的な制約を逃れるために、当初3ヶ月は契約社員として採用して、その後、正社員に登用するという手がありますが、まぁ〜契約社員での募集では応募が極端に減ることでしょう(笑)

 





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内服薬について
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/01/07(水) 20:09
No. 8105
 
 
一般的な内服薬は、口から入って、胃を通過し、小腸で吸収され、門脈を通して肝臓に運ばれて代謝され、代謝物や代謝を免れた薬物は全身の血液中に分布します。血液中ではアルブミンというタンパク質と結合し、結合を免れた部分のみが標的臓器をはじめ全身の臓器に行きわたり、薬の効果を発揮します。

それと同時に、アルブミンと結合していない薬物は、肝臓で代謝され、腎臓から排泄されます。腸からの薬の吸収、分布、代謝、排泄には日内リズムがあるため、薬効は服用時刻によって左右されることになるわけです。小腸の蠕動運動や血流は、夜間より活動している昼間に高いということは想像しやすいかと思います。

したがって、薬物の吸収も昼間が高くなってきます。また、肝臓で作られる胆汁は、脂肪の消化吸収を助ける働きがあります。長く絶食したあとの朝は、胆汁分泌がさかんになります。そのため、脂溶性の薬物は夕方より朝方に服用した方が吸収に良いということになります。

次に肝臓での薬物代謝について考えてみると代謝のリズムは、肝臓での血流量リズムと、薬物代謝酵素の活性のリズムに依存することがわかっています。肝臓の血流量は早朝に最大になり、その後減少し、夕方に最小になります。

たとえば肝臓などで働くコルチゾールというホルモンのある代謝酵素の活性は、ヒトでは夕方に亢進していると考えられています。この酵素は医薬品の半数以上の代謝に関与するので、夕方に高くなるリズム性が時刻による薬の効果の違いにつながりますので、注意をする必要があるでしょう。

分布に関しては、薬物で、アルブミンなどの血中タンパク質との結合率に、リズム性を示すものがあります。具体的には、抗てんかん薬のバルプロ酸のタンパク結合率は、午前2時から午前8時にかけて最小であるのに対して、他の抗てんかん薬のカルバマゼピンのタンパク結合率は午後2時から午後8時にかけて最小となります。

すなわちタンパク結合率が最小である時刻には、フリーとなった薬物が組織へと移行する量が大きくなり、作用が強く出る可能性があるのです。薬物あるいはその代謝産物は、尿中もしくは胆汁中に排泄されます。

薬物の尿中への排泄は、腎臓の糸球体というところでろ過されるというしくみが重要ですが、もう一つのメカニズムとしては尿細管へ直接分泌され、尿中へと流れていく仕組みもあります。腎臓への血流は昼間に高いことがわかっており、そのため糸球体でのろ過率も夜間より昼間に亢進しています。一方、尿細管への分泌は夜間の方が高くなります。

このようにどちらの機構で排泄されるかにより、尿中への排泄リズムが決まります。我々は、マウスの実験で、高濃度の食塩水を夕方に投与すると、朝方に投与する場合と比べて尿への排泄が遅くなることを見出しています。

ところで、胆のうでの胆汁への薬物の排泄リズムはよくわかっていないのですが、夜間は絶食状態にあるため、食事中の脂質成分分解のために分泌される胆汁は、朝が一番多く溜まっています。

そもそも胆汁の働きは、水に溶けにくい脂質を包み込むようにして親水性があるように働き掛け、脂肪分解酵素の働きを助けます。したがって、食事中に胆汁が十分に放出されないと消化不良になりますが、胆汁が十分にある朝食時には、少し脂っこいものを食べても大丈夫でしょう。

 





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2026年熱海のお正月2日目
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/01/06(火) 16:48
No. 8104
 
 
二日目は、夜中まで歌って吞んでいたのでかなりお酒が残っていたようで、本日は電車で出かけることに決定しました。朝食をすませた後は、歩いて網代駅に行き、伊豆多賀駅までの短い移動時間でしたが、電車が1時間に2本しかないので待つ時間が長かった。

伊豆多賀駅から「蕎麦処 多賀」に向かいました。駅からは急坂を下りる感じで歩きました。帰りもここを上ると思うとぞおーとしました。「蕎麦処 多賀」には40分前につきました。入口まで行くとタッチパネルが置いてあるので予約を入れました。2番目でした。

40分ありますが、縁側に座って待つことにしました。正月だというのに熱海はとても暖かく気持ちがよかったです。30分前になると続々と地方から来たと思われるお客さんでお庭もいっぱいになりました。SNSの力はすごいと感じました。

「蕎麦処 多賀」は、静岡県熱海市多賀にある、由緒ある建物を移築した蕎麦屋さんです。江戸末期の豪商の建物を移築したもので、梁を巡らせた高い天井や漆喰塗りの土間が特徴です。2番目に入ったので、店内からは庭園や海を眺めることができる良い席に案内されました。和風建築でゆったりと一杯なりながら蕎麦を楽しめます。

昨日の俳優の高倉健氏が愛したという「石川屋」も熱海観光の際に「伊豆の名店」として紹介されるのでSNSで引き寄せられてくるのだろうなぁ〜と思った。お箸袋にもなにやら句が入っていました。蕎麦もうどんもやっている店なので同じかまで茹でるので蕎麦湯はお湯なのかなと思いました。自宅近くのソバ屋がとてもおいしいのだと確信しました。

蕎麦屋を出た後は、近くの長浜海水浴場に向かいました。熱海サンビーチに比べて混雑が少なく、落ち着いて過ごせるのが魅力です。海水の透明度が高く、波も穏やかなので、子どもでも安心して楽しめるでしょう。長浜海浜公園の一部であり、隣接する公園には遊具もあるため、海水浴以外でも楽しめます。

公共トイレ、自動販売機、駐車場も完備されており、イベント行っており充実しています。周辺には宿泊施設や日帰り温泉もあります。砂浜の砂はきめ細かく、素足でもさらさらしているのですぐに砂を落とせそうです。カサゴを釣っている方もいました。

散歩した後は、駅までぞぉーとする急坂を11分間、上り続けました。足がパンパンになりました。お土産を購入しに熱海駅に向かいました。伊豆多賀駅から熱海駅までの電車です。混んでいたが、ボックス席が空いていたので座った。満員電車の中、態度悪い若者が座っていると見てみると音信不通だった方が座っていたのです。偶然とは恐ろしい。

熱海駅のラスカ熱海は、JR熱海駅に直結しているショッピングセンターです。お土産、食事、お買い物など、旅行者にも地元の方にも便利な施設として親しまれています。よくここのすし屋で呑んだりしました。以前は小さな駅でしたが、2016年にラスカ熱海がオープンしてからは、立派な駅になりました。

まずは、トイレに行きたくてトイレ探しの旅に出ました。ラスカ熱海では1階と3階に駅の直結入口から入って奥の突き当たりにありますが、どこも行列です。歩くのも大変。仕方がないので外に出てロータリーの反対側のファミリーマートに行ったが、コンビニなのにトイレはありません。マクドナルドもトイレは一つしかなく行列です。終わっています。

熱海といえば、温泉の蒸気で蒸した温泉まんじゅうが有名です。食べ歩きをしました。お土産にも喜ばれます。1個100円です。いつも同じところで購入します。ふかふかの皮と甘さ控えめのあんこがぎっしり詰まっていて、一つで満足感があります。

熱海は観光客で賑わう人気の観光地です。特に近年は「X字回復」と言われるほど観光客が増えており、活気が戻ってきています。熱海駅前仲見世通り商店街・平和通り商店街昔ながらのお店と新しいお店が混在し、食べ歩きグルメやお土産探しに最適です。

老舗の菓子店や干物屋さん、お寿司屋さんなど、多様な店舗が軒を連ねています。熱海駅直結の「ラスカ熱海」では、飲食やお土産品をまとめて購入できますが、ラスカ熱海では人が多すぎたので 電車で網代まで戻りました。熱海市網代にも、明治5年創業の老舗和菓子店「菓子舗 間瀬」があります。

2022年には創業150周年を迎えた歴史あるお店で、季節感あふれる美しい和菓子が評判です。熱海市網代に本店を構えるほか、網代駅前店、熱海咲見町店、熱海ラスカ店の計4店舗を展開しています。テレビに出てしまったので網代まで混んでいました。いろいろと購入しました。網代駅より徒歩1分の場所にあり、喫茶室も併設しています。

3日目、帰るときにロビーにお土産があったのでまた、間瀬の代表銘菓で、川端康成の小説「伊豆の踊子」をイメージした和菓子を購入しました。白あんに香ばしいくるみを混ぜ、サブレ生地で包んで焼き上げた上品な味わいが特徴です。3日目は朝食を食べた後は、観光せずに渋滞を考えて速攻で帰り、電化製品やお正月の福袋などを購入しました。


 






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