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アメリカとイギリスが仲悪かったということは、あまりよく知られていませんが、政治史や世界史を勉強している人はもちろん知っています。出版され本で、中西輝政氏が、『大英帝国滅亡史』という面白い本を書いていますので、その本の記述を借りて言うと、奇跡のような事が起こるのです。
19世紀の半ばに英米は対立していました。ちょうど日本人女性である山川捨松たちが留学する30年前で、イギリスの外務大臣パーマストンの時代です。この時にマクラウド事件が起こります。
カナダ人というのはイギリス人ですから、カナダ人をアメリカの裁判所が裁こうとすると当然、イギリスが抗議します。そこで英米の対立が起こったときに、イギリスはアメリカに対して「戦争するぞ」と脅迫します。アメリカは屈辱の屈伏を遂げるのです。
このとき以来アメリカには、独立戦争以来の反英感情が燃え上がるのです。南北戦争で、暫くは持ち越されるのですけれども、1895年に南米のベネズエラと英領のギアナの間で国境紛争が起こります。
時のイギリスの総理大臣はソールズベリーで、ここで極めて教硬に「モンロー宣言を否定する」と言ったものですから、アメリカのクリープランド大統領は、議会に対して対英戦争の許可を要求しているのです。
面白いことに、レーニンがそれを見ていて「しめた、英米戦争不可避である」と考えているのです。なぜこれが回避されたかと言うと、ドイツの台頭でした。ちなみに1890年におけるアメリカ海軍は、チリを含む世界12カ国のまだ下にいたのです。
それぐらい海軍力が弱かったのです。それが1900年になると、日清戦争が終わって日露戦争の直前ですが世界3位になります。そして、有名なマハンという将軍が、『海上権力論』というものを書くわけです。
つまり、アメリカが海上帝国として登場してくるのです。実に20世紀の到来とともに、イギリスがアメリカに対して完全な譲歩をするのです。それは、ドイツが怖かったからです。皮肉なことに、ソールズベリーの甥であるバルフォアという外務大臣が議会で演説をしまして、「ともに英語を話す国民が戦いあうことはない」という宣言をするのです。
これは、イギリス側から言えば屈伏なのです。アラスカを含むアメリカの権益を全部含めて、つまりカナダから手を引いてしまうのです。ちょうど19世紀の後半から20世紀にかけて、英米関係が大きく変わるのです。
ここで英米が対立していてくれたおかげで、イギリス帝国主義の力が日本には非常に軟らかくしか働かない。困るとアメリカに逃げ込めます。面白いと思うのは、山川捨松が留学していたヴァッサーの卒業講演でどういう演説をしたかと言うと、英帝国主義の暴虐と、それに対する民族自決の正義を語ったのです。
そうしたら、会場は拍手なりやまず。彼女の英語もうまかったのでしょうけれども、時のアメリカの新聞が大きく書いているのです。主題の選び方が、頭が良かったとは思いますが、感心するのは、そのことを教えたのは多分、山川健次郎だと思うのです。
つまり、世界の情勢とか日本の置かれている地位を教え、「この際、アメリカの反英感情を刺激してやれ」と言ったのは、恐らく兄貴だと思うのです。それほど日本の指導階層は、20代の青年や10代の娘まできちんとと日本の置かれた国際情勢を知っていて、外国人のどこを刺激すればうまくいくかという外交感覚に長けていたわけです。
これは感動的だと思うのです。こうしてアメリカの力を借りてイギリスを牽制しながらやってきて、しかも英米が手を結んだ瞬間に日本は日英同盟を結んでロシアと戦争するわけです。だから、この間の動き方というのは実にうまくいっているし、運もよかったのです。
この頃の明治の政治家は才能があったのです。本当に知的階級全体が、現在よりよっぽど国際感覚があったのです。それは単に政治家だけが才能があるということではなく日本人全体の国際感覚が高かったのでしょう。
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