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情緒とは、人間の持つ一番大切なコアの部分だと思います。その人間がどの様な親に育てられ、どのような先生に教えられ友達に出会って来たか、どのような本を読み、映画を観て涙を流したか、どのような恋愛、失恋、片想いを経験して、悲しい別れに出会って来たのかという様々な事が交じり合い、その人の情緒を形成して、態度や言葉を決めていくのだと思います。
幼少の頃は、お母さんに対する「甘え」があるでしょう。友達から苛められ、喧嘩をした後では、お母さんの膝の上に乗ろうとします。そのときに、膝に乗っているだけで、情緒の安定が図れるのです。
また、両親や兄弟姉妹と楽しく遊ぶ機会を作る努力が大切だと思います。その努力によって、一家の団欒が生まれ子供の情緒の安定に大きな役割を演ずると思うのです。親しい家族とバーベキューやピクニックにいくことも、生活経験も豊かになり、適応能力も発達してよい情緒として育っていくことでしょう。
さらに成長すれば宗教や慣習からくる形や伝統も無視できません。卑怯を憎む心とか、名誉や誠実や正義を重んじる心だとか、精神の形がいろいろあるのです。キリスト教やイスラム教にも、固有の形があります。国や文化に由来する形から行動や言葉が決められる場合もあります。だが、行動や言葉を選択するのには、情緒や形なのです。
最近、出版された本にジャンバル・ジャンに似たようなお話が書いてありました。それは泥棒にどう向き合うかで情緒の違いがはっきり現れると説いています。例えば、もう何日は食事を食べていない子どものために親がお店のパンを盗んで近くに隠れていた子供にパンを与えた。
この出来事を目撃した人は「日本は法治国家なので、法律を遵守し窃盗罪として、処罰しなければならないので、警察に突き出すしかない」だが、別の人は同じ出来事を見て「可哀想、確かにこの親はパンを盗んだ。しかし、今このパンを子供が食べられなかったら死ぬかも知れない。人間の命は法律より重い場合もあるので見ない事にして許してあげる」
どちらにも言い分があります。前者は「日本は法治国家」で始まり、結論は「警察に突き出す」。後者は「可哀想」で、結論は「見ない事にして許してあげる」。どちらとも論理は通っているのですが、始まりが異なったので、結論が異なってしまいました。
行動や言葉は重要で、始まりを選択することはそれ以上に決定的なものです。要するに子どもの頃から歪みが表に現れないままに育った子どもは、情緒が不安定であり、自発性も芽生えないままに、学校生活を終えてしまった子供、つまり、潜在的に問題をかかえている子供の方が、心配な子供です。
社会に出て、人生の荒波に出会ったときに、適切な判断ができなかったり、ノイローゼになったり、心身症を起こしたりする可能性が大きく、豊かな人生を送る事ができない場合が多いのです。
だから、一番困るのは、情緒に欠けて、論理的思考力は誰にも負けないという人です。そのような人は東京大学などを卒業していれば、論理的思考は得意中の得意です。しかし、子どもの頃からお母さんの膝にも乗らず親に褒められたいがためにすべてを我慢してきた子供には情緒力は発達していないのです。だが、論理は間違えません。
人生に生きがいを求めず、漠然と生きているだけのような人は情緒の不安定や自発性の発達の遅れや適応能力の低さによって、知的能力が、低い状態で停止しているので子供の頃の能力の向上がいかに大切であるかを痛感しています。
仮に、知的が高く、学校の成績がよく、挫折するような状況に遭わずに、エリートコースを辿った大人が、社会に出て挫折したときの反応は、実に惨めなものでそれに耐えられず自殺してしまう人もいるのです。
あまり頭が良くない人なら、途中で論理が二転、三転して、最後には正しい結論に辿り着いたりします、下手に頭が良いとそのまま行ってしまう。頭はよい人がはじめに大事な選択する場合に情緒力の育っていない人だと、非常に怖いのです。現実には、こういう人が非常に多く日本の中枢をしめているのだと思います。
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