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20世紀は、戦争の世紀です。20世紀後半は冷戦で、前半は熱戦でした。19世紀に成立した新興のドイツ帝国は、「3B政策」を構想します。ベルリンからビザンティウム(イスタンブール)、そしてバグダッドにつながる鉄道を敷設する計画です。
鉄道は軍隊の高速移動に適しています。狙いはバグダッドの先にあるインドです。ナポレオンは、大英帝国の力の根源であるインドを狙ってエジプトに遠征しました。ドイツも同じことを考えて、ここにくさびを打ち込もうとしたのです。
これに対して、大英帝国は「3C政策」です。3つの都市を結ぶ三角形ですが、次の2つのラインが重要です。1つはエジプトのカイロから南アフリカのケープタウンを結ぶライン。 アフリカ縦断政策です。
フランスが西アフリカのセネガルから東に向けてとったアフリカ横断政策を断ち切ります。もう1つは、カイロとインドのコルカタ (カルカッタ)を結ぶラインです。ドイツが打ち込んできた楔を、海で食い止めます。
「3B 政策」や「3C政策」という名前は、都市の頭文字を取って後から学者が付けたものですが、わかりやすいです。要するに「ドイツ帝国と大英帝国が世界の覇権を争っていた」というのが20世紀初頭の構図です。
1902年、日英同盟が結ばれます。19世紀末、大英帝国はボーア戦争で大軍を南アフリカにくぎ付けにされてしまったのでした。一方で、南下するロシアは大英帝国の心臓部のインドを脅かそうとしていました。
ロシアと大英帝国の覇権争いは、グレートゲームと呼ばれるほど熾烈なものでした。そこで大英帝国は、日清戦争に勝った日本に目をつけて、同盟を結んだのです。ロシアに対抗する、いわば傭兵として日本を使おうとしたのです。
日露戦争開戦の真実は、日本がロシアの弱みにつけこんだというものです。日英同盟で安心した日本は1904年、 日露戦争を仕掛けます。日露戦争については、「南下するロシアに対し、日本が耐えに耐えた末に乾坤一擲の勝負を挑んだ」と思っている人が多いです。
司馬遼太郎氏が『坂の上の雲』で描いた構図です。しかし、近年の研究によると、史実は逆のようです。ロシア国内は当時、反体制運動などで騒然としていました。19世紀末に結成されたロシア社会民主労働党は1903年、多数派のボリシェヴィキと少数派のメンシェヴィキに分かれ、レーニンが多数派の指導者になりました。
そんな状況につけこみ、日英同盟もあるし、今なら満洲の権益を奪えるかもしれないと思って、日本がちょっかいを出したということのようです。戦争が始まった後も、ロシアでは、「血の日曜日事件」が起きて、皇帝のニコライ2世が国会開設の約束をさせられ、「戦艦ポチョムキンの乱」も起きるというように、荒れに荒れていました。
満洲に構っていられませんでした。司馬氏があの素晴らしい小説を書いたのは冷戦時代で、ロシアに関するデータが十分にそろっていませんでした。アジアで植民地でなかったのは日本と同盟国のタイ王国だけです。
この時を生きていた日本人が抱いた切迫感はよくわかるのでないでしょうか。日本国が白人支配をくい止めなければアジアの民が奴隷にされてしまうという論理から独立保全を助け、満州合衆国を建設しようと石原莞爾は立ち上がることにつながっていくのです。
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