| TOP | ホーム | 携帯用 | 過去ログ/検索 |

☆★☆最新情報7☆★☆

 
新規投稿 ] 
  フランスの植民地について  仲條拓躬2024/12/16(月) 16:31 
  フランス文明とは  仲條拓躬2024/12/16(月) 16:30 
  地球上の人口が増えすぎると  仲條拓躬2024/12/16(月) 16:28 
  救えなかった命が救える  仲條拓躬2024/12/16(月) 16:27 
  喪失感から抜け出そう  仲條拓躬2024/12/12(木) 21:35 
  満州国を語る人々  仲條拓躬2024/12/12(木) 21:34 
  物事を素直に受け止めよう  仲條拓躬2024/12/12(木) 21:33 
  日本の軍隊の見本は  仲條拓躬2024/12/11(水) 16:22 
  クリスマスイブとクリスマス  仲條拓躬2024/12/11(水) 16:20 
  日本とフランスの全国統一  仲條拓躬2024/12/10(火) 16:03 






[ 一覧 ]
フランスの植民地について
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/12/16(月) 16:31
No. 7684
 
 
フランスの植民地と言えば、ルイ15世の18世紀からナポレオン戦争の19世紀初頭までの英国との百年戦争で、フランスはインド・カナダでの植民地を失いました。ナポレオンは欧州大陸での覇権確立を優先して、北米の広大なルイジアナにあるルイ王の植民地をアメリカ合衆国に売却してしまいました。

英国艦隊に制海権を奪われている状況では、やむを得ない処置だったのかも知れません。第二次世界大戦にドイツに占領されていたフランスは、ド・ゴールの代表する亡命政権が認められて、国連安全保障理事会常任理事国になっています。

「普仏戦争」までの間に政体は移り変わりました。欧州列強の植民地獲得競争にフランスが再び参加するのは、アルジェ征服からで、シャルル10世の末期です。3万6000の大軍を派遣して、征服は成功しますが政体は滅びたわけです。

ルイ=フィリップ政権は初めアルジェリア沿岸部だけの経営にとどまっていたのですが、政権末期には内陸まで侵攻します。その後、セネガル征服が完成しアジアではサイゴン周辺のコーチシナ、カンボジアを支配します。これは日本では明治になる前です。

ところがナポレオン3世の第二帝国の崩壊後、第三共和国も植民地獲得を続けます。スーダンとモロッコ、コンゴがアフリカで、アジアでは1885(明治18)年に清帝国と「仏清戦争」で勝ち、中国に手を引かせ、ベトナムとラオス全部を支配し場所により植民地だったり保護領だったりします。

征服完成は1893(明治26)年、日清戦争の前年です。17世紀から基地にしていたマダガスカルで反乱があり、それを鎮圧して1896(明治29)年保護領から併合とします。明治の日本人が抱いた切迫感はよくわかるのでないでしょうか。

「こちらが日本国から出ていかないとアジアが取られる」という論理から独立保全を助け石原莞爾将軍指導の満州合衆国だけを建設しておけばよかったのですが、軍の暴走があった事は残念でなりません。

現在、残っているフランスの植民地と言えばカリブ海、南太平洋、インド洋の島に過ぎません。だが植民地を失ったという喪失感があるのでしょうか。植民地を持っていたということが国民生活に痕跡を残しているか。

パリで日本人が変にくだけたフランス語で話すと、ベトナム人かカンボジア人と思われるそうです。英国人がインド所有の結果、1日に食事は4回と、4時に紅茶を飲む習慣ができたと言います。

 





[ 一覧 ]
フランス文明とは
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/12/16(月) 16:30
No. 7683
 
 
現代の日本語は明治に出来た人工語で、西洋文化の用語にくまなく訳語を作りました。「文化」も「文明」も、漢語ではありますが概念としては訳語です。普通に「文化」をキュルチュール、「文明」をシヴィリザシオンの訳語といいます。

ヨーロッパでも日本でも様々な立場の論者がそれぞれにこの2つの単語を使い分けています。フランス語のキュルチュールは英語にも入っています。同じ綴りを訛ってカルチャーです。第1の意味は「耕作」「栽培」。「トマトのカルチャー」は「トマトの栽培」です。

次に「教養」「文化」の意味があります。フランス語ではこの意味では「個人の関与」のニュアンスが入ります。自分が積む教養、作家が向上させる文化、という具合です。その点、シヴィリザシオンはもっと幅が広いです。

制度、社会習慣、伝統、文化遺産まで含みます。これは18世紀の半ばの新語で、「シヴィル」「市民の」「丁寧な」の派生語「シヴィルにする」という動詞「シヴィリゼ」の名詞形として現れました。今の言葉で言えば「文明化」というニュアンスです。

19世紀に入る頃から、ゲルマン人の「文化」が盛んになります(まだドイツという統一国家はない)。ゲーテらの文芸、カントらの哲学です。そこへ細菌学や医学などゲルマン人の発明発見が相次ぎ、新興のプロシア王国はナポレオンにやっつけられました。

その後、近代化に努力して軍事力を発揮、オーストリー帝国軍を野戦で破り、ついに19世紀後半にフランス帝国との全面戦争に勝利して、ゲルマン人諸国を統一、ドイツ帝国を結成したのです。

それが1871(明治4)年で、日本の新政府は手本をフランスからドイツに切り替えるのです。そのドイツが「文化」「文明」のことに絡むと、議論が錯雑化するのです。日本ではカントのあとはマルクスが官学の権威となっていたから、さらに難しくなるのです。文化は生きてそこにあり個人の参加と努力によって持続すると思います。

フランスにおいてはまさに「いいフランス語」が最重要の文化です。文明は無意識の過去から社会に存続する要素であり、その社会の文化と一緒に生きていく風土でもあります。多くの難しい話し方があり、くだけた話し方があり、それが「いいフランス語」と関係を保って存在している姿が、フランスの文明なのです。

 





[ 一覧 ]
地球上の人口が増えすぎると
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/12/16(月) 16:28
No. 7682
 
 
100年ほど前から1970年代までは、地球上の人口が増えすぎてしまうのではないかと心配されていました。人口爆発のせいで地球の資源が足りなくなると警戒されていました。ところが気にすべきだったのは人間の数ではなく、人間の消費水準だったのです。

いま欧米では、多くの国で人口が減り、移民を受け入れなければ長期的に人口を維持できない状況になっています。中国も、かつての「一人っ子政策」の影響で人口置換水準を下回っています。あのインドでさえ、人口の伸びが横ばいになろうとしています。

人口減少局面に入った国も出てきています。日本や、ルーマニアなどの欧州の数ヵ国のことです。人口が減れば消費も減るわけではありません。長期的に見れば、すべてを決めるのは、人口の伸びです。一見、人口が増えないのはいいことに思えるかもしれません。

ところが、人口が増えなければ資源への負荷が軽くなるわけではないのです。むしろ社会が豊かになると、一家の人数が減るのに、一家の消費量自体は増えるといったことが起きます。人数の「減少」が消費の「増加」をもたらすのです。

つまり、課題は人口の抑制ではなく、人口が減ったときの消費の抑制だということです。課題は消費なのです。仮に地球の人口がたったの20億人だったとしても、全員が平均的なアメリカ人の水準で消費をすることになれば、とてつもなく恐ろしい事態になります。

消費の差がどれだけ大きいのか、そこに気づけていない人が多いのです。日本という国は、あらゆる観点から見て繁栄しており、裕福であることに異論の余地はありません。世界有数の長寿国でもあります。

ところが、数年前のデータで日本人一人当たりの消費は年間150ギガジュール(ギガは10億、ジュールはエネルギー量の国際単位)を下回っていました。250を超えるアメリカ人とは対照的です。

いまの中国は約55です。インドは25、サハラ以南のアフリカは10です。サハラ以南のアフリカで暮らす10億人がアメリカ人と同じ水準の消費を始めたら、地球の資源は完全に枯渇します。中国人がアメリカ人並みに消費したら地球はどうなる?

中国などかつての途上国が先進国に追いつくとき、経済成長や消費増加のペースが先進国の場合より加速することが多いです。いまやグローバル化の推進力の中心は、欧米ではなく、中国になっており、「一帯一路」構想によってシルクロードという交易路を復活させて、ユーラシアやアフリカに繁栄をもたらそうとしています。

中国がアメリカと同水準の消費生活を実現できたとき、地球は生き残れるのでしょうか。おそらくそうなったら地球は生き残れませんが、中国はアメリカと同じ水準になるのをめざしています。たった2世代前まで中国は35ギガジュールだったのです。

しかし、いまは100に近づき、できるだけ早く欧州水準の130や140に到達しようとしています。気になるのは、ほかの国も中国のような成長をするのか、というところです。おそらく、そうなる可能性はあまり高くないでしょう。

インドやサハラ以南のアフリカの成長速度は、中国に比べると、ずいぶんゆっくりです。 コロナ禍がきっかけでデジタル経済への決定的な転換があったという話をよく聞くようになりました。

デジタル化が進んだおかげで、一部の途上国の開発が一足とびに進み、豊かになれたりするのでしょうか。たしかにデジタル経済への転換はありましたが、その影響の大きさが過大視されている気がします。

基本的な話になりますが、文明の基盤は鉄やセメント、プラスチック、銅、肥料に使うアンモニアなどであり、そういったもののデジタル化は起きていないのです。いまも鉄が欲しかったら、鉄鉱石を掘って精錬しなければなりません。精錬には、大量の石炭を掘って、大量のエネルギーを投入して石炭をコークスに変える必要もあります。

そうした工程の管理はデジタル化できますが、現場で原材料を扱う部分はデジタル化ができません。作業自体はいまも昔も同じなのです。デジタル化によって経済の非物質化が進んでいると考える人もいるようですが、それには笑ってしまいます。

 





[ 一覧 ]
救えなかった命が救える
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/12/16(月) 16:27
No. 7681
 
 
実際に、早期発見・治療によって発症を防げることを証明した神経変性疾患があります。主に小児で発症する脊髄性筋萎縮症 (SMA)です。これも運動ニューロンの機能が低下して、重症例では生後2年以内に命を落としてしまう病気です。

SMAの発症原因はほとんどの場合、SMN1という遺伝子が失われる欠失であることが1995年に発見されました。SMN1からは運動ニューロンに必要なSMNというタンパク質がつくられます。

実は、SMN1とわずかに情報(塩基配列)が異なるSMN2という遺伝子もあるのですが、そこからは少量のSMNしか合成されません。DNAに書かれた遺伝子の塩基配列はRNAに転写され、そこからmRNA(メッセンジャーRNA)がつくられ、その情報に基づきタンパク質が合成されます。

しかし、SMN2では一部の塩基配列がSMN1と異なるため、転写されたRNAのうち、完全な情報を持つmRNAとなるのは10〜20%のみで、少量のSMNしか合成されないのです。SMN1遺伝子が欠失してSMNタンパク質が十分な量つくられないため、運動ニューロンの機能が低下してしまうことがSMAという病気の原因です。

SMAの治療には、欠失したSMN1の情報が書かれた長い塩基配列をまるごと導入するよりも、SMN2のはたらきを強めて十分な量のSMNタンパク質が合成されるようにするほうが技術的に容易です。

米国の研究グループは、人工DNAによって、SMN2から完全なmRNAができるようにはたらく核酸医薬ヌシネルセンを開発しました。SMAモデルマウスにヌシネルセンを投与すると、10日間しか生きられなかったマウスが、1年以上生き延びたのです。

そして2017年、SMAを発症した新生児に投与すると運動機能が大きく改善することが確かめられました。さらに2019年、SMN1が欠失した新生児に発症前にヌシネルセンを投与することで、健常な子どもとほとんど同じように成長できるケースが確認されました。早期診断・治療によって、今まで救えなかった命が救えるようになったのです。

 





[ 一覧 ]
喪失感から抜け出そう
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/12/12(木) 21:35
No. 7680
 
 
大切な何かを失った時、あるいは何かが終わりを向かえる時、心の中にポッカリと穴があいてしまったように感じてRPGで言えば、HP(ヒットポイント)が失われるような空虚な状態に陥ってしまった事はないでしょうか。

家族や友人、自分の能力、他人からの評価、思想、健康、家、大切な持ち物、仕事、地域社会など自分の存在をどこかで支えてくれています。その何かがなくなったり、終わったりする事は、自分のHPを失うような事であり、それは自分自身を支えてくれていた柱が障害を受けるようです。

時に感じる怒りや悲しみ、孤独感、無力感、絶望感あるいは虚無感は、何かをなくしたからだけではなく、HPに表されている物理的なものだけではなく精神力などを失った苦しみから生まれてくるのだと思うのです。

心の中に存在する喪失感と向かい合う事を、自分は恐れているので何としても避けようとします。多くの場合は、回避方法は次のうちのどちらかではないでしょうか。ひとつは、何らかの刺激によって喪失感を消し去ろうとする心、もうひとつは、自分の意識を麻痺させる事により、苦しみから逃れようとする事です。これは特別な事ではありません。

もし自分を素直に見つめてみれば、このような傾向性は日常の中に溢れている事に気付く事でしょう。孤独に対する恐れ、時間を持て余しているような感じ、あるいは隙間なく組まれたスケジュールの背後にさえ、喪失感から逃げ出したいとの衝動がある事を感じられるのではないでしょうか。

自分の心中にある喪失感を誤魔化したり、そこから逃げ出す時、自分は現在起きてしまった事を否定しているのです。あまりのショックの大きさにそれを認める事が出来ないのです。もし我々が意識的に自分の中の喪失感を見つめる事が出来るのであれば、既に今までのようには自分のエネルギーを奪われる事はないでしょう。

逃げ出したり、誤魔化したりする事は、自分の中の喪失感をそのまま放置して暗闇に陥ってしまうかもしれません。表層ではうまくいったように感じるかもしれません。しかし、いつかまた、同じところに戻ってくるのです。自分のエネルギーは、その間奪われ続けてしまうのです。日々の拷問から、抜け出る事は出来ないのです。

それを避けようとする事が、実は苦しみを最も生きながらえさせてしまうのです。自分の中にある喪失感を見つめるために、既に起こってしまった事をいつかは起こるのだと認めて受け入れるのです。自分のエネルギーを奪い続けるのは、起こった出来事はもちろんのことですが、その出来事の周辺に自分の頭がネガティブに思考する物語なのです。

一体自分は何を否定しているのか?もしこの内なる否定を見つめることが出来るのであれば、それを自分の心中に感じる事が出来るのであれば、それは自分のエネルギーが回復し始めているのだと思います。

もし、自分の中の喪失感を十分に見つめていく事が出来るのであれば、その中に安らぎと平安をきっと見いだされると思います。それは、時間の流れは最も大切なものを失われたものを癒してくれるでしょう。

 





[ 一覧 ]
満州国を語る人々
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/12/12(木) 21:34
No. 7679
 
 
満州国に関する限り、満州は決して単なる傀儡国家、植民地国家ではなく、欧米の帝国主義支配を排してアジアに理想国家を建設する運動の場でありました。満州国建設は一種のユートピア実現の試みです。

1945年以降、存在し続けてきたこともまた紛れもない事実なのです。林房雄氏は「この短命国家の背後には、200年にわたる西洋諸国のアジア侵略史があり、それに対するアジア最初の効果的抵抗として明治維新があり、この抵抗線の延長上に満州国が出現した。」

「……これを西洋政治学のプペット・ステート(傀儡国家)の概念でかたづけることはアジアの歴史そのものが許さぬ。満州国はまだ世界史の進展に生きつづけている」(満州国史編纂刊行会編『満州国史・総論』)として、満州国の評価は100年後に定まるであろうと書いています。

また、満州港総務庁次長を務め、戦後総理大臣となった岸信介氏は、満州国建設においては、「民族協和、王道楽土の理想が輝き、科学的にも良心的にも、果敢な実践が行われた。それは正しくユニークな近代的国つくりであった。」

「直接これに参加した人々が大きな希望のもとに、至純な情熱を傾注しただけでなく、日満両国民は強くこれを支持し、インドの聖雄ガンヂーも遥かに声援を送った。当時、満州国は東亜のホープであった」(満州回顧集刊行会編『あゝ満州』)と回想しています。

さらに満州国の終焉に総務庁次長として立ち会った古海忠之氏は、「満州国の建国育成は、歴史上前例のない1つのトライアルであった。……侵略、植民地化万能の歴史的時代にあって、満州の地に民族協和する理想国家を作ろうとしたことは、日本民族の誇りであり、当時の日本青年が名利を超越して理想に邁進努力したことは日本青年の誇りでもある」

(「満州国の夢は消えない」『挫折した理想国』)と確信し、民族協和の理想すなわち満州国建設の理想は歴史の発展とともにますます輝きを増し、永く生きつづけて行くと信じて疑わなかったのです。

この他、満州国建設を推進した関東軍参謀片倉衷氏は、満州国を王道楽土と民族協和の高き理想を掲げたヒューマニズムの発露として、「何れも東亜の安定への礎石として、実りある開花でもあった」(『回想の満州国』)と断言しています。

総務長官を務めた星野直樹氏は、満州国建設を「ひとり主導的地位に立った日本人のみならず、ひろく東亜諸民族が力をあわせて開発・発展せしめ、その恵福をひろく等しく各民族の間に分かち、ここに新たなる楽天地を作り上げよう」(『見果てぬ夢―満州国外史―』)としたものと讃えてやまなかったのです。

 





[ 一覧 ]
物事を素直に受け止めよう
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/12/12(木) 21:33
No. 7678
 
 
物事を素直に受け止められない考え方としては、良い事は当たり前、悪いことは信じられないと考えてしまうことだと思います。良い事は素直に喜ぶ、悪い出来事はまず受け入れてみると考えられることが幸せに近づく第一歩だと思うのです。

物事の受け止め方によって感じ方は変わると思います。まずは幸せに一歩近づく考え方を心掛ける事で、自分の心にも安堵の気持ちが広がっていくのではないしょうか。良い事は素直に喜ぶことです。良い事があっても、当たり前だと思ってしまう方は何も感じず得る事もないでしょう。

幸せに暮らしているというのは自分の心の持ちようなのです。良い事は素直に喜んだ方がいいのです。感じるという事は、良かった・嬉しい・楽しい・幸せだなどと心の中で思えれば幸せな感じがするでしょう。これは、身体にもとても良いことなのです。

社会で生活する中で、良い事なんて全然ないと思う人は、余計な嫌な事を考えずに心を落ち着かせて余裕を持つように心掛けたらよいのではないでしょうか。このような考え方を心掛け続ければ、幸せを感じる能力が向上し、幸せに近づく一歩と感じやすくなれるのではないでしょうか。

悪い事があった時にでも、どうして自分がこんな目に遭うのか信じられない、許せないと思う気持ちが強いと、それだけで余計に嫌な心の状態になってしまいます。さらに、悪い方へ悪い方へ考え、あいつのお陰でと腹を立てたり、自分が悪いのだ性格や能力などがないからと自分を責めて嘆いたりすると、もっと悪い感情が心の中に蔓延してしまいます。

悪い感情が心の中で強くなると、冷静な判断も出来なくなり、後悔するような気持ちが強くなってしまいます。また、その悪い状態が、生活全体に悪影響を与えてしまうかもしれません。悪い嫌な事があった時には、余計な事は考えずに、まずは現実を受け入れる考え方を心掛けると良いと思うのです。

こんな時もあるし、こんな方もいるのだなと考えられれば少しは悪い感情が遠のき少しは心が落ちつく事が出来るでしょう。大切なのは心の持ちようなのです。きちんと自分の足元を確認した上で、顔を上げて目標を見ながら、幸せに一歩一歩前進して行く姿勢が大事だと思います。

現実は現実です。基礎的な考え方だと思いますが、お役に立つことがあれば幸いです。基礎的だから物事を素直に受け止められるし覚えやすい、慣れれば容易に出来るのではないでしょうか。

 





[ 一覧 ]
日本の軍隊の見本は
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/12/11(水) 16:22
No. 7677
 
 
明治時代の日本にとっての第二帝国時代のフランスはヨーロッパ大陸では最大の陸軍国であったので当然で、日本国としては見本としました。ところが、西暦1870年の明治3年にプロシア王国を中心とするドイツ諸国連合軍にフランスは敗れてしまいました。

「普仏戦争」です。フランスはゲルマン民族の集団に敗れたのです。843年にフランク王国が3分割されて以来、実に初めての出来事でした。何百年もの間にフランスの軍隊が何度もドイツ諸国に攻めこまれていたのですが、初めてフランスに勝ったドイツはプロシア国王を皇帝にドイツ帝国を結成するのです(1871年1月18日)。

以後、日本政府は見本を新ドイツ帝国に切り換えます。陸軍は、医学・哲学・音楽・工学の留学生は国費でドイツ式になって行くのです。海軍の見本は7つの海を支配する海賊イギリスですが(笑)

日本人の心理の中でドイツは拡大して行き、フランスは収縮して行くように見えるのです。ところが、「陸軍兵制はフランス式とする」と法律で決められたのが1870年の明治3年の普仏戦争中でナポレオン3世が捕虜になった1ヶ月後です。

プロシアの兵制も18世紀までに、フランス王国の制度に学んでいます。そのプロシアの軍人が18世紀半ば、ロシア帝国に軍隊の組織を教えたのです。今日に至るロシアの兵語の6割以上がフランス語そのままかフランス語の語尾をロシア語化したものなのです。

ドイツ語がないという事はドイツの兵語もフランス語が基礎だという事です。陸軍大尉キャピテーヌは英語のキャプテンを英語の元はフランス語だから当たり前みたいですが、中尉リュートナン(代官の意味)が英語リューテナント(軍隊用語)になったのを見れば導入は近世です。

ドイツ軍の中尉がロイトナントなのもフランス語をそのまま、出たら目に読んだだけでヨーロッパの近世兵制の元はフランス王国なのです。しかし、明治以降の日本人が手本とした西洋は、近代としての西洋でした。

西洋における古代、中世、近世と比べての近代とは、マルクス式の発展段階説などの教説から国民国家、世俗性、民主主義、個人尊重となります。時代と社会状況によって、一部の面が過剰に要求されたり、実現したりします。

国民国家が超国家主義になると個人尊重と衝突します。超国家主義が破綻した場合、個人尊重が突出します。世俗性は教会の重圧から自由になることから始まり、場合によっては宗教否定をします。民主主義も君主拒否に行く例もあるのです。

 





[ 一覧 ]
クリスマスイブとクリスマス
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/12/11(水) 16:20
No. 7676
 
 
クリスマスイブとは、クリスマスの前日で12月24日の事です。クリスマスの当日よりもイブの方が大切行事となっているようです。クリスマスは、日曜日同様の安息日として扱われていた宗教的理由に由来しています。
    ★※※※※☆    
  ♪※|\∩/|※※     
★※  |/∪\|  ★※ 
※              ※◎ 
◎※             ♪※ 
♪※   Merry X’mas  ※★  
※★           ※
 ※☆         ※☆  
  ※※◎※※★※※   
    ★※※※♪   

子供たちは、サンタクロースからのプレゼントを楽しみしているようですが、私が子供の頃、サンタクロースは本当に存在すると大人に嘘をつかれていてショックを受けたことがありました。今でも脳裏に蘇える嫌な出来事なので話したくもないです。

まぁ〜暗い話は心の扉を閉めて、サンタクロースは、4世紀、トルコに実在した聖人セント・ニコラウスという司教で貧しい人々に施していたといわれます。オランダではセント・ニコラウスを、ジンタ・クロースと呼び、14世紀頃から祝う行事がありました。

18世紀にアメリカに移住したオランダ人が、英語読みでサンタクロースと呼び、伝説の始まりとなったそうです。現在のサンタクロースのイメージは、神学校教師が子供達のために書いたクレメント・クラーク・ムーアの詩にあります。

イブの夜トナカイが引くソリに乗ったおじいさんが、背中に袋いっぱいのおもちゃを煙突から暖炉を抜けて飛び出したと描かれています。フィンランド国営放送はラップランド東部の丘をサンタクロースの正式な住居と宣言しましたが、北極説もあります。

続いてクリスマスの飲み物と言えば、スパークリングワインです。1年の半分以上のスパークリングワインは12月で消費されてしまいます。その王者といえば、やはりシャンパンでしょう。グラスの底から湧き出る気泡はシャンパン特有のもので、やはりグラスは背の高いもので楽しみたいです。

さらにクリスマスの飾り付けといえば樅ノ木のクリスマスツリーが代表的ですが、最近は、ゴールドクレストという木が親しまれています。寒さに強い品種のため、屋外が一番望ましいのですが、室内で育てる場合は直射日光の当たる窓際に置くといいそうです。
              ☆
             彡 ミ
            彡∂∴ミ
          o彡∬ ∵∴ミo
            彡☆ ミ
         ☆彡Å   ∴ミ
         彡゜・。  Å   ミ
       o彡¶ ∩  ゜・。  ☆ ミo
       ∩  彡 Ж 仝゜・。ミ  ∂
         彡   ∴∵∴  。・ミ
       彡♀  ☆  ∴・∵    ミ
     o彡  彡 † 。・゜  ∵∴∵§ミo
     Å  彡。・゜*   ∴  ミ
       彡゜・。ミ … 彡 ☆∴∵ミ
     彡†  ♪゜・。        △ ミo
   o彡 ∩ @    ゜・。☆ Å   ∵ミo
       彡  ∂ Ж  ゜・。∬ ミ   Å
      彡 ∵∴      ☆  ゜・。ミo
   o彡゜・。☆     ◎  。・゜   ミ
  彡     ゜・。 ★  。・゜ミ  ♀   ミ
o彡∴∴ ☆彡彡゜・。・゜    ミ ミ ミ 仝  ミo
Å          ‖‖川川‖         Å
           ‖川‖川‖
           ‖‖‖川‖
        ┏┳┳┳┳┳┳┳┓
        ┣╋╋╋╋╋╋╋┫
        ┣╋╋╋╋╋╋╋┫
        ┗┻┻┻┻┻┻┻┛

クリスマスは「キリストの礼拝」という意味で、12月25日にイエス・キリストの誕生を祝います。日本人は何を勘違いしているのかわかりませんが日本のクリスマスは、敬虔なクリスチャンの方々には、申し訳ない話ですが恋人の行事になっているようですが、子供たちの耳に聞こえる、ジングルベルは、家族の絆を実感するそんな時間です。

一年のうちのほんの少しの時間でも、感謝しなければならないでしょう。世界の人々の中には、飢えや恐怖の時間、戦争に巻き込まれ死んでしまった子供たち、引き裂かれた家族らにはクリスマスの温もりはないのです。
o   ○     。     。○   o
     o      ※    o
 。 o    。     o  。    。
  。   。     〇       ○ 。

  。 ※   。  初雪。 〇  。  o
    〇    。   o  。  o   。
 。    o     o   。    o
     o   。  o     o   ○
   ○             。
 。     o 。     。※    。
 o  。      ○   。  o

・ . 。 . ・ ・ . 。 . ・ ・ 。 . ・ ・ . 。 . ・ ・ . ☆ ・ . 。 . ・ ・ .
・ . 。 . ・ ・ . 。 . ・ ・ . 。 . ・ ・ . 。 . ・ ・ /\ ・ . 。 . ・ ・.
・ . 。 . ・__Пo〇 . 。・. 。. .Д 。・ . ・ / \ ・ . 。 . ・ ・
・ 。・ /\ Ц\ . ・ 。 . ・ . (^^)・ 。. ・ -┬┬- ・. 。.・ ・
・ . .・| П |  田 | . 。. ・ 。・ .(  ) .・ 。・ ■■ ・. 。.・ ・.
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今年のクリスマスは不ケーキです。

 





[ 一覧 ]
日本とフランスの全国統一
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/12/10(火) 16:03
No. 7675
 
 
ノストラダムスはヴァロア・アングーレーム王朝の2代目、アンリ2世の事故死を予言して一躍有名になりました。「1999年7の月」の予言は恐怖よりも「蘇るなりアンゴルモワ大王」に主眼があります。これはアングーレームの形容詞アングーモワの古形です。

最後の王アンリ三世は子供がなく、カトリック派のリーダー、ギーズ公爵に政権を奪われそうになり、危機が去った後の手打ち式を装って、ブロワ城で暗殺しました。だが、その仕返しに、ギーズ派の刺客に襲われ、その傷で死にました。

その直前に改革派南部諸侯のリーダー、ナヴァール王アンリ・ブルボンを王位継承者と認めたのです。これはフランソワ一世の姉の孫です。新王アンリ4世は全国的に受け入れられるのに時間がかかり、改革派を離れ、カトリックに回心します。

パリの市民に歓迎されて入場、ノートルダム大聖堂で祝福のミサを受けました(1594)。「パリは1回のミサに値する」はこの王の言葉として知られています。改革派はミサという形式の礼拝を拒みました。アンリ4世の故郷はガスコーニュです。

土地の方言は今も殆どスペイン語に似ています。今でもガスコーニュ人は強烈なニンニク臭がすると言います。「新しい王とその側近は王宮を彼らの故郷の香りで満たした」と当時の文献にもあるのです。

ブルボン王家の始祖アンリ4世は国内が平定した1598年、ブルターニュの人口の古都ナントにおもむき、勅令をもって、特定の場所においてでは、改革派が好むやり方で礼拝することを認めました。その特定の場所とは、国王軍の勢力の強い所だったといいます。

政治的に確りした王でした。国内の宗教的平和を生み、財政の改善、産業の発達を実現させ王権を強化したのです。この16世紀、スペインとポルトガルは南米やアジアに植民地帝国を作り、銀などを欧州に持ち込んで大盛況の時でした。

総括しますと、百年戦争の結果、イングランド国王の領地は大陸から一掃され、宗教戦争の間に多くの大貴族が闘争に倒れました。フランス国王はゲルマン人の風習「貴族の代表」を越えた存在になっていきます。フランスという国の成長は争いの台風の目の王家でした。国王は国土統一の中で、貴族たちに対して超絶的存在になっていくのです。

ルイ13世を経てルイ14世で頂点に達するとナントに勅令も発する力を持つのです。そして日本ではナントに勅令を発した2年後の1600年に、関が原の戦いで徳川家康が勝利を収め、全国統一の機運が生じるのです。日本とフランスは似ています。その事の1つの要因が全国統一のプロセスなのです。

 






     + Powered By 21style +