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明治35年9月、仙台地方幼年学校に入学しましたが、石原莞爾は前々より軍人志望でした。仙台歩兵第四連隊長のとき、昭和10年4月23日、郷里鶴岡において石原莞爾の講演会が開かれました。このときの帰郷は、満州事変の論功行賞で殊勲甲勲三等功三級という輝かしい光栄をえた直後で、聴衆三千という地方まれに見る盛況でした。
石原大佐はその講演の冒頭に、「私は今から約50年前この鶴岡に生まれました。幼少のときから軍人たらんと志望しましたが、貧乏士族の悲しさ、学資がなく困っていたところ、鍛治町の富樫治右エ門翁の厚意にあずかるをえ、月々の学資補助を受けて幼年学校に学びましたが、今だに何の報恩もしないで心苦しく思っている次第であります」
と挨拶していることでも、軍人志望のことがうかがわれます。幼年学校時代の石原莞爾の生活は平凡なものではなかったのです。同級生の南部吉氏は、当時のことを次のように述懐しています。
『明治三十五年と言えば、今からざっと半世紀前の秋九月、私は東京から仙台の陸軍地方幼年学校へ入学した。背の小さい温顔でなかなか茶目振りを発揮する、石原莞爾という同期生がいた。確か中学二年から来た最年少の十四歳であった。これが私が石原兄を知った始めである。
仙台の幼年学校は大体東北人が多かったので、東京弁の私は随分友達から気嫌いにされたり、上級生から威嚇されたりして家郷を想う夜も多かったが、石原兄は毎日毎夜を実に愉快そうに跳び廻って、たちまち同期生の人気者になっていた。座席も寝室も違っていた関係もあって、私が石原兄と仲よくなったのは入校後二、三ヶ月してからであった。
その頃、私等は休日によく遠足に行った。石原兄も遠足党の重要メンバーだった関係が、たぶんに二人を接近させた。話合ってみると親切で快活なよい人であるので、青年期の私はたちまち無二の良友と信じて何でも打ち明けることになった。
仙台の冬は寒くて雪が深い。遠足のできない日曜日には二人で外出し、また炬燵で終日語り暮らしたことも思い出される。石原兄は郷里の育英資金を得て毎月の納金(当時軍人の子弟か遺児でなければ官費にならず毎月六円五十銭を納めていた)を辨じていたので、二人はそんな点でも同じ境遇であった。
親から貰う小銭は同級生の中では、二人は、一番少なかったようだ。従って日曜日も気のきいた食物などにはなかなか手が出ないで、よく南京豆を食ったことを思い出す。この頃では落花生といえば相当高価な食物だが、当時は十銭も買えば五合や一升はあった。
冬の日曜日のこと、やたらに南京豆を食って炬燵に入っていたら、二人とも鼻血を出して驚いたことなんかも思い出す。翌年の夏になって、われわれは二年生に進んだ。「石原はできるぞ」との評判があったが、態度が開放的で奇行百出なので、同期生はそんなに重要視もしていなかったが、成績が発表されるとがぜん石原莞爾が首席であった。
数学とドイツ語はほとんど満点に近い優等振りである。今までの人気者は、このときから同輩の畏敬する存在となった。それにほかの優等生とはまったく違ったタイプ、すなわち、ただ机に齧りついて寸秒を憎んだり、教官や上官の一顰一笑を気にしたりする点がまったくなく、ときには断固として教官の説を否定し、上官に意見を述べてゆずらなかった。
茶目振りや奇行は少なくなかったが、同期生の病気などに対しては心から親切に慰め、学業の劣った友達は皆石原兄の机辺に集まって教えを受けた。こんなときでも、石原一流の滑稽を交えながら次から次へと懇篤に説明し、少しも高慢なところがなかった。
私などは時間が不足で明日の宿題に血眼になっているときでも、石原兄はすでに全部の問題を解き終わって友達の質問に応じていた。この辺が断然、第二位の者とは違う余裕綽々振りなので、一層の信頼感を同期生に与 えたのを思い出す。石原兄は運動が好きであった。剣道、柔道、器械体操などは進んでやっていた。
庭球、野球もあったが、これはあまりやらなかった。しかし、石原兄の術科(軍隊では学科に対して教練とか体操とかは術科と呼んでいた)や運動はあくまでも身体の鍛練であって、他の友達のようにこれに捉われて有段者に進もうとか、選手になろうとかする様子はなかった。従って万能の特徴をもっていた。
年に一回は全校の生徒が四班に別れて運動競技の優勝旗争奪戦があったり、剣道、柔道の試合があったりする。石原兄は常に中位者で出場するのが例であった。しかしそのやり方は石原式で、他と全く異なるものがあった。たしか優勝旗争いの剣道試合のときであったと記憶する。「石原莞爾は何番目に出るか」ということが、他班の重大関心事であった。
技術は必ずしも上位ではないが、石原兄の剣先は実に鋭いというよりは乱暴であって、到底われわれには受けきれなかったからである。「俺は実戦的にやる」と石原兄は宣言している。すなわち一旦立合いが始まると大喝一声猛烈な勢いで攻撃してくるのだ。それは少々くらい段級の上の者でも、全く反撃の機会を与えない。
そして面、胴、小手、ときには向うを払うことさえあり、接近すると足で蹴り、体で突き飛ばすという猛烈振りである。日頃の稽古のときでも、先生や助教にはこの式の練習振りであったから、先生は眉をひそめ段級は中位にしか置かれなかった。そこで試合で勝抜の場合には、石原兄に対抗する最初の二、三人は必ずやられてしまう。
少しくらい上手であっても、問題じゃないのである。従って他班では石原兄の出る順番を察知して、どうせ勝たせるなら技術の下位な人を出して上位者を温存しようという策戦を考えるに至った。石原式攻撃は下位者であっても容赦はない。まさに一兎に対しても、獅子の一撃を加えるのであった。ただしそんなにやって体力が長く続くはずがない。
二、三人には連勝するが、しばらくすると疲労が出て、きわめて簡単に「ああ参った」とあっさり引込んでしまう。この辺も石原式の淡振りである。「やっと石原が引込んだ」と、他班の者は胸をなで下すのであった。
後年、士官学校に行って戸山学校からきた傲慢な下士官助教にこの手を用い、彼をして真から怒らせ道場で組打ちとなり、石原兄が急所を握ったとか何とかで大問題となり、術科の点数を減らされ、卒業のとき横山勇、町尻量基に伍して、二位か三位で御賜の銀時計を頂載する成績を覆えされたという話であった』
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