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  石原莞爾の修学時代  仲條拓躬2024/08/01(木) 17:07 
  伊豆半島の旅行記3日目  仲條拓躬2024/08/01(木) 17:05 
  伊豆半島の旅行記2日目  仲條拓躬2024/08/01(木) 17:04 
  伊豆半島の旅行記1日目  仲條拓躬2024/08/01(木) 17:02 
  昔の喫茶店と電話  仲條拓躬2024/07/26(金) 18:54 
  世界で一番美しい文字  仲條拓躬2024/07/26(金) 18:52 
  四大文明の起源  仲條拓躬2024/07/26(金) 18:30 
  石原将軍の語ったすべて  仲條拓躬2024/07/26(金) 18:27 
  小話2024年7月分下  仲條拓躬2024/07/25(木) 15:56 
  小話2024年7月分上  仲條拓躬2024/07/25(木) 15:55 






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石原莞爾の修学時代
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/08/01(木) 17:07
No. 7542
 
 
明治35年9月、仙台地方幼年学校に入学しましたが、石原莞爾は前々より軍人志望でした。仙台歩兵第四連隊長のとき、昭和10年4月23日、郷里鶴岡において石原莞爾の講演会が開かれました。このときの帰郷は、満州事変の論功行賞で殊勲甲勲三等功三級という輝かしい光栄をえた直後で、聴衆三千という地方まれに見る盛況でした。

石原大佐はその講演の冒頭に、「私は今から約50年前この鶴岡に生まれました。幼少のときから軍人たらんと志望しましたが、貧乏士族の悲しさ、学資がなく困っていたところ、鍛治町の富樫治右エ門翁の厚意にあずかるをえ、月々の学資補助を受けて幼年学校に学びましたが、今だに何の報恩もしないで心苦しく思っている次第であります」

と挨拶していることでも、軍人志望のことがうかがわれます。幼年学校時代の石原莞爾の生活は平凡なものではなかったのです。同級生の南部吉氏は、当時のことを次のように述懐しています。

『明治三十五年と言えば、今からざっと半世紀前の秋九月、私は東京から仙台の陸軍地方幼年学校へ入学した。背の小さい温顔でなかなか茶目振りを発揮する、石原莞爾という同期生がいた。確か中学二年から来た最年少の十四歳であった。これが私が石原兄を知った始めである。

仙台の幼年学校は大体東北人が多かったので、東京弁の私は随分友達から気嫌いにされたり、上級生から威嚇されたりして家郷を想う夜も多かったが、石原兄は毎日毎夜を実に愉快そうに跳び廻って、たちまち同期生の人気者になっていた。座席も寝室も違っていた関係もあって、私が石原兄と仲よくなったのは入校後二、三ヶ月してからであった。

その頃、私等は休日によく遠足に行った。石原兄も遠足党の重要メンバーだった関係が、たぶんに二人を接近させた。話合ってみると親切で快活なよい人であるので、青年期の私はたちまち無二の良友と信じて何でも打ち明けることになった。

仙台の冬は寒くて雪が深い。遠足のできない日曜日には二人で外出し、また炬燵で終日語り暮らしたことも思い出される。石原兄は郷里の育英資金を得て毎月の納金(当時軍人の子弟か遺児でなければ官費にならず毎月六円五十銭を納めていた)を辨じていたので、二人はそんな点でも同じ境遇であった。

親から貰う小銭は同級生の中では、二人は、一番少なかったようだ。従って日曜日も気のきいた食物などにはなかなか手が出ないで、よく南京豆を食ったことを思い出す。この頃では落花生といえば相当高価な食物だが、当時は十銭も買えば五合や一升はあった。

冬の日曜日のこと、やたらに南京豆を食って炬燵に入っていたら、二人とも鼻血を出して驚いたことなんかも思い出す。翌年の夏になって、われわれは二年生に進んだ。「石原はできるぞ」との評判があったが、態度が開放的で奇行百出なので、同期生はそんなに重要視もしていなかったが、成績が発表されるとがぜん石原莞爾が首席であった。

数学とドイツ語はほとんど満点に近い優等振りである。今までの人気者は、このときから同輩の畏敬する存在となった。それにほかの優等生とはまったく違ったタイプ、すなわち、ただ机に齧りついて寸秒を憎んだり、教官や上官の一顰一笑を気にしたりする点がまったくなく、ときには断固として教官の説を否定し、上官に意見を述べてゆずらなかった。

茶目振りや奇行は少なくなかったが、同期生の病気などに対しては心から親切に慰め、学業の劣った友達は皆石原兄の机辺に集まって教えを受けた。こんなときでも、石原一流の滑稽を交えながら次から次へと懇篤に説明し、少しも高慢なところがなかった。

私などは時間が不足で明日の宿題に血眼になっているときでも、石原兄はすでに全部の問題を解き終わって友達の質問に応じていた。この辺が断然、第二位の者とは違う余裕綽々振りなので、一層の信頼感を同期生に与 えたのを思い出す。石原兄は運動が好きであった。剣道、柔道、器械体操などは進んでやっていた。

庭球、野球もあったが、これはあまりやらなかった。しかし、石原兄の術科(軍隊では学科に対して教練とか体操とかは術科と呼んでいた)や運動はあくまでも身体の鍛練であって、他の友達のようにこれに捉われて有段者に進もうとか、選手になろうとかする様子はなかった。従って万能の特徴をもっていた。

年に一回は全校の生徒が四班に別れて運動競技の優勝旗争奪戦があったり、剣道、柔道の試合があったりする。石原兄は常に中位者で出場するのが例であった。しかしそのやり方は石原式で、他と全く異なるものがあった。たしか優勝旗争いの剣道試合のときであったと記憶する。「石原莞爾は何番目に出るか」ということが、他班の重大関心事であった。

技術は必ずしも上位ではないが、石原兄の剣先は実に鋭いというよりは乱暴であって、到底われわれには受けきれなかったからである。「俺は実戦的にやる」と石原兄は宣言している。すなわち一旦立合いが始まると大喝一声猛烈な勢いで攻撃してくるのだ。それは少々くらい段級の上の者でも、全く反撃の機会を与えない。

そして面、胴、小手、ときには向うを払うことさえあり、接近すると足で蹴り、体で突き飛ばすという猛烈振りである。日頃の稽古のときでも、先生や助教にはこの式の練習振りであったから、先生は眉をひそめ段級は中位にしか置かれなかった。そこで試合で勝抜の場合には、石原兄に対抗する最初の二、三人は必ずやられてしまう。

少しくらい上手であっても、問題じゃないのである。従って他班では石原兄の出る順番を察知して、どうせ勝たせるなら技術の下位な人を出して上位者を温存しようという策戦を考えるに至った。石原式攻撃は下位者であっても容赦はない。まさに一兎に対しても、獅子の一撃を加えるのであった。ただしそんなにやって体力が長く続くはずがない。

二、三人には連勝するが、しばらくすると疲労が出て、きわめて簡単に「ああ参った」とあっさり引込んでしまう。この辺も石原式の淡振りである。「やっと石原が引込んだ」と、他班の者は胸をなで下すのであった。

後年、士官学校に行って戸山学校からきた傲慢な下士官助教にこの手を用い、彼をして真から怒らせ道場で組打ちとなり、石原兄が急所を握ったとか何とかで大問題となり、術科の点数を減らされ、卒業のとき横山勇、町尻量基に伍して、二位か三位で御賜の銀時計を頂載する成績を覆えされたという話であった』

 





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伊豆半島の旅行記3日目
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/08/01(木) 17:05
No. 7541
 
 
朝から温泉に入って、朝食を食べた後、網代の宿を後にしました。熱海ビーチライン、真鶴道路とETCが使用不可なので現金を払って一路、横浜の赤レンガを目指しました。横浜赤レンガ倉庫の2号館は10時前でも開いているので3階にオープンしたカフェ&ギフトショップ「ディズニー・ハーベスト・マーケット」へ行きました。

ディズニーの世界観を通じたエンターテインメントを日常の食事に掛け合わせ、塩分・糖分・油分・カロリーなどに配慮した調理法で「おいしく、楽しい」食体験を提案しているといいます。店内の中央には大きなミッキーマウスのスタチューをシンボルとして飾り、スタチューのまわりにテーブル席を配置してありました。

ディズニーの世界観に包まれながら食事やスイーツを楽しめるお店なのでお昼はここで食べたかったです。横浜赤レンガ倉庫店は港町・横浜ならではの取り組みとしてフィッシャーマンをモチーフにした、ドナルドダックの店内デザインやメニューも展開しているという。ディズニー好きにはたまらない、その場にいるだけでも楽しくなります。

11時になったので、赤レンガに来た目的のフフナーゲル「Huffnagel」に一番客となりました。その後、行列ができ始めました。横浜銘菓のレーズンサンドで有名な横浜発のパティスリーブランド。横浜赤レンガ倉庫にできた初の常設店で、お店がオシャレでした。

店員さんも美人で上品で丁寧でした。オーツクッキーを用いた香ばしいバタークリームサンドが人気だといいます。要冷蔵だけど保冷バッグに入れてもらえます。種類は、あんバター 450円・チーズ 450円・ほうじ茶 430円・レモン 430円・チョコレート 450円・セサミポテト 480円・アールグレイ 450円・黒糖きなこ 480円・ジャンドゥーヤ 480円。

この中の7つ購入した。一口サイズです。噛んでもこぼれないけどバタークリームが少しでしっとりクッキー。手に付きにくくて食べやすいです。少し塩が効いていますが、物足りない味でした。これだけお金出せばたくさんクッキーを購入できます(笑)

お昼はイベント会場で食べようという事になりました。横浜赤レンガ倉庫の海を望む開放的なロケーションを活かし、異国情緒を味わえる毎年開催されている夏季限定イベントとして、今年はメキシコやキューバ、ジャマイカなどカリブを中心とした中南米エリア「ラテンアメリカ」をテーマにしています。

会場には、中南米のカラフルな街並みをイメージしたエリア、熱帯植物を多用した植栽や鮮やかな小物でメキシコの大人気リゾートを再現したエリアを設けています。来場してすぐにお水をもらえる引換券をいただいたので熱中症対策で素晴らしいと思っていたら、浄水器の販売だったので残念でした。

中南米のローカルフードは、ブラジルの定番料理であるシュラスコやカリブの海賊由来のモヒートをはじめ、食用サボテンを丸々使用したメキシコ料理のサボテンステーキなど、ラテンアメリカならではのグルメやドリンクも鮮やかにそろっていました。

結局、メキシコで大人気であるタコスを購入した。食事するスペースも複数設けてあり、ラテンアメリカ諸国の習慣でもある、暑い気候の中で昼食をとろうと思っていましたが、危険な暑さだったのでタコスを持ったまま、赤レンガに逃げ込みました。タコスを食べてみましたがはっきり言って高くてまずいです。

リゾート気分は味わえず、また、異国情緒あふれる空間でもなく、テレビで放送されているのは何だろうと思うだけでした。メキシコの定番料理「タコス」はもちろんのこと、写真をとるにもしょぼくて近所のフードコートの方がとても良いという。フフナーゲル「Huffnagel」のお菓子が溶けてしまうと困るので帰ることにしました。

ガソリンが空なので地元迄かえって給油して、海沿いを走ったので洗車して、この暑い中、車を拭きました。つまみを購入して帰ろうとしたらゲリラ豪雨です。洗車より強い勢い塩水を落としています。洗車しなくてもよかったのでは。伊豆半島ではお魚ばかりだったので家ではステーキをつまみに呑みました。なんか家のご飯が一番おいしいかも(笑)

 





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伊豆半島の旅行記2日目
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/08/01(木) 17:04
No. 7540
 
 
温泉に入って、朝食を食べた後は、リニューアルしたという小室山に向かいました。伊東の街並みを過ぎてしばらく南下するとドーム型の特徴のある丘が正面に見えてきます。小室山は1万6000年前の噴火で生じたスコリア丘です。

小室山の麓にある公園は花の名所で、春には桜のほか10万本のツツジが咲き、秋には椿が見ごろになるようです。公園入口に無料の駐車場がありますがお花のシーズンは有料のようです標高321mの山頂まではリフトでも徒歩でも登ることができます。

ワンちゃん連れのかたを見かけましたがリフトに同乗できます。山頂は地形を活かした形でぐるり遊歩道になっていました。木製遊歩道であるリッジウォークMISORA、全長は166.3mなので 一周はあっという間です。

ここは静岡県の景観賞で最優秀賞に選ばれた場所だそうです。青空だったので綺麗でした。緩やかな遊歩道を進んでいきました。富士山も見えます。黄緑色のまるい山が見えてきますが、大室山です。大室山は小室山と同じく、伊東市にある標高580mの火山です。大室山の山頂に登る手段はリフトのみです。

遊歩道から下をのぞくと怖そうなデッキがありました。遊歩道の真下にカフェがあり、そのお店の専用のデッキです。カフェの向かいの小室神社を見ました。ご祭神は、愛宕大権現・金刀比羅大神・火産霊大神、災害から人々を守る神様です。

山頂カフェ「Café・321」は小室山の標高が321mだからでしょう。1番に並んでみるとすぐに行列ができました。オリジナルメニューがありましたので注文して一等席に座りました。カフェ利用者は外の展望デッキも利用OKなので外に出ました。

まずは1番最初にデッキに立ち撮影を開始しました。なんでも1番は気持ちが良いです。リフトは往復切符を購入したため帰りもリフトでしたが、歩いて下りれば、ジュラシックコースがあり、恐竜広場でトリケラトプスとプテラノドンに出会えるようです。

続いて、一碧湖に向かいました。一碧湖と接している沼にある駐車場に停めました。人も少なくとっても静かです。神社のある場所にある鳥居がはっきりと見えました。一碧湖の遊歩道はガードレールがないので撮影に気を取られて足元に気を付けないとね。

一碧湖は周囲を木々で囲まれているために風が吹いていません。湖面が穏やかで鏡のように映り込んでいました。湖畔にクイズが書いてあります。クイズはひとつしか見ていませんが1週すればいろいろとあると思われます。駐車場に車上荒らしに注意と書いてあったので1週を歩くのは、やめて東海館に向かうことにしました。

東海館には駐車場がないので有料駐車場に車を止めました。伊東温泉の真ん中を貫きながら流れる松川に沿って、歴史ある重厚な旅館建築が並んでいます。昭和3年に開業した「東海館」は、戦前までに何度か増築が繰り返され、戦後まもなく望楼も建てられたそうです。

昭和初期の立派な木造3階建ては、伊東の旅館建築の中でも群を抜いた存在感です。1997年に旅館としての営業を終えた後、2001年に伊東市へ寄贈されて観光施設となり、入館料を支払うことで館内を見学できるようになりました。

玄関に入り、料金を支払います。中庭を横目に見ながら、廊下を歩き、客室を一見すると普通の客室に思えますが、檜の他、紫檀や黒檀など、値の張る木材を多用しています。一部の客室は伊東にまつわる歴史の資料館になっています。

三浦按針のお部屋や東郷平八郎など。3階にあるこの大座敷は圧巻です。なんと120畳もあるといいます。広さだけでなく、欄間の細工、そして一枚の板に彫られた舞台両袖の彫刻にも心を奪われます。三味線の音と芸者さんの歌声が聞こえてきそうです。

伊東市では建物の寄贈を受けてから、約3億円、3年の歳月をかけて耐震補強工事を行っています。建物の外観に影響を与えずに当時を保ったままのこの建物に耐震工事が行われているとは、高い技術力にただただ驚くばかりです。

望楼にも上って市内を見下ろしてから、マリンタウンに向かいました。朝食べ過ぎてお腹が空いていないので鹿児島の肉まんを食べました。伊豆に来たのだから、たこ棒を食べたかったです。熱海駅で食べたときはめちゃくちゃ美味しく感じました。

他にもいろんなお土産さんが入っていて寄ってみるだけでも結構楽しいです。そのあと、この暑さで汗をかきすぎたので向かいの「しまむら」でパンツとシャツを補充しました。そこから気になっていた網代駅近くの老舗の間瀬の和菓子店に向かいました。

網代の土地で1872年に創業して150年以上、老舗和菓子店「菓子舗間瀬」の本店は網代の中心街に位置しています。建物は遠目からでも分かるほど素敵な造りで、入り口はガラス張りになっており美しくディスプレイされた中の様子が見え、引き寄せられるように店内に入ってしまう、そんな雰囲気です。

駐車場がないので訪問させていただいた時も多くの地元の方がお店前にバイクなどを止めているので車を横付けにできなくて困りました。お土産はいろいろあって迷います。日本橋三越催事で間瀬の和菓子が売っていたとのことでそのお菓子は購入しました。

そのほかに、伊豆みかんのお菓子が売れ筋かな。喫茶店もとても気になりました。お買い物した後は宿に戻り、冷えたビールを一気に飲んで、目から涙をこぼして、温泉に入ってから、またビールを飲んで食事の時は酎ハイを水代わりに地酒を呑んでカラオケルームでまた呑んで昭和の歌に浸って魔界の扉を開いたところで1日が終わりました。

 





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伊豆半島の旅行記1日目
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/08/01(木) 17:02
No. 7539
 
 
5時過ぎに修善寺に向けて出発したところ、首都高速三宅坂トンネルの中で車の横転事故があり、まったく動かなくなった。時間がかかると判断して首都高速を下りて、事故現場を回避して、東京インターから高速に入った。東名高速は順調に進んでいたので海老名インターまで行って、世界一売れたメロンパンを食べました。

その後、海老名インターから出られなくなった。30分経っても全く動かなかった。どうやら海老名インターを出たところで多重事故が発生したとのことだった。SNSで情報を収集しながら長い時間をかけて事故現場まで来るとヒューテックノーリンのトラックが追突したようで乗用車がペッチャンコだった。

やっとのことで、お昼近くに修善寺に着いた。早速、修善寺の老舗の独鈷そばでお昼を食べることにした。店内は一番客で落ち着いた雰囲気、心地よい空間が広がっています。温かいのと冷たいのと二種類とシンプルなメニューです。

蕎麦は観光地にしては安くはないが高くもない。味はそれなりに美味しいのですが、想像を超えない味です。自分ですり下ろすワサビが付いていて、すりたてのワサビで蕎麦を味わうことができました。蕎麦猪口が二つあり、一つは蕎麦つゆで、もう一つはとろろ蕎麦でした。

蕎麦を食べた後は、修善寺にある温泉街の遊歩道、竹林の小径に向かいました。桂川を中心とした修善寺温泉街の中にある、竹に囲まれた観光名所です。「伊豆の小京都」とも呼ばれるその景観は、どこか懐かしさもあり、ノスタルジックな気分を味わえます。

竹林の小径には専用駐車場がありませんので、少し離れた場所にある有料駐車場に車をとめます。私は時間を気にしたくないので1日500円という駐車場にしました。修善寺温泉街を散策しながら竹林の小径を目指します。

修善寺温泉街は桂川という川を中心に構成された、昔ながらの造りの旅館や赤い欄干が特徴的な風情ある温泉街です。近くには修禅寺というお寺や日枝神社、お土産屋さんや甘味処なども立ち並び、年間を通して国内外の旅行客で賑わう一大観光名所となっています。

川の上にある小屋のようなものがあります。これは独鈷の湯というもので、伊豆最古の温泉といわれています。なんと1200年もの間、お湯が湧き続けているようで、伊豆の七不思議のひとつに数えられています。

以前、私が来たときは足湯などとして利用できたようですが、現在は見学のみとなっていました。すぐ目の前にそう書いてありました。足湯は別の場所で利用できるようになっていましたが、中国人の観光客でいっぱいでした。

わざわざ、中国から日本に来てくださったのでいい思い出にしてほしいと思います。独鈷の湯を後にし、更に桂川沿いを西へ進みます。桂川沿いの遊歩道は石畳になっており、赤い橋と相まって古い日本の街並みを連想させるような造りになっています。

桂川沿いを更に西へ進むと桂橋という赤い橋に辿り着きます。ここが竹林の小径の入口となる橋で、テレビでよく撮影されているところで写真を撮影するスポットとなっています。私は動画を撮影して、YouTubeにアップしてみました。

もともとこの場所には多くの竹が生い茂っており、その竹を活用して散策路を整備し誕生したのがこの竹林の小径だそうです。竹林の小径の途中には円形のベンチが設置されており、360度竹に囲まれた空間で風の音や竹の香りを感じることができます。

とても落ち着いた気持ちで散歩を楽しむことができます。秋に訪れたときは、紅葉を楽しむことができました。楓橋を渡って更に西へ進むとギャラリー修善寺回廊という施設が見えてきます。修善寺の四季の様子を写真で紹介しており、誰でも無料で入ることができます。日差しが入り反射するので絵がとても見にくいのが残念です。

そして滝下橋のすぐ隣にある赤蛙公園まで歩き、竹林の小径散策は終了となります。特に朝などの人があまりいない時間帯に行くと、竹林の中の静かな空間を独り占めできるのでおすすめなのですが、渋滞でやられました。

また、夜は竹林の小径がライトアップされ、更に幻想的な風景を楽しむことができます。修善寺温泉街には竹林の小径の他にも、お土産屋さんや甘味処、カフェや公園などがあります。また、修善寺の観光名所のひとつである修禅寺や源範頼の墓などの歴史的な建造物を見ることができるのも、修善寺温泉街の魅力です。

竹林といえどもこの殺人的暑さなので、喫茶店に入りクリームソーダを頼みました。入った喫茶店はなんと鬼滅の刃のグッズ販売を行っているお店で、芸能人の写真や色紙などが飾られていました。その後は、網代の宿に向かってチェックインしました。

その後は、いつも気になっていた近くの神社を散策してから、温泉に入り、夜は、ビールと酎ハイと地酒を呑んで疲れをいやした後はカラオケルームで1時間半、昭和の世界に浸りました。

 





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昔の喫茶店と電話
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/26(金) 18:54
No. 7538
 
 
私の母が生まれた昭和16年は統制が厳しいのですが、喫茶店の時代だったと言います。ミルクホールの時代の次に純喫茶といいコーヒー紅茶とケーキを出し、ウェートレスに正装させて和服なら振袖を着せていたそうです。アルコール類を出さないのが純喫茶です。今でも銀座の「門」「プリンス」などにその名残があります。

父が生まれた昭和4年から約10年、次第にあきられてきたところへ戦況次第に荒んできました。知恵者が女性を客の隣に座らせました。それまでは座ることは禁じられていたのです。これを「新興喫茶」と言ったそうです。

次いで「特殊喫茶」を考え出し、酒を出したのです。女性が隣に座ると空気は一変します。酒類を出すとカフェまたバーに似て、しかも値段はバーが10円なら5円です。たちまち、大繁盛したと言います。此の辺はいつの時代も同じです。同じといっても昔の人が「メイド喫茶」に入って「お帰りなさいご主人様」なんてものを見たら驚くでしょうね(笑)

酒は二級酒を配給に回すと一級や特殊酒は余ります。酒造元にコネがあれば酒場は開業できるのです。特殊喫茶は空襲に見舞われるまであったそうです。法は破るためにあるのですね(笑)今の喫茶店には「パフェ」とか「サンデー」とか、昔の人が見たら驚くだろうなぁ〜「フルーツパフェ」や「ストロベリーサンデー」など色々。

ちなみに「パフェ」とは「パーフェクト」から来ているそうです。新鮮なフルーツやアイスクリーム・生クリーム・シロップなどをミックスしての口当たりがよい「完全な食べ物」だから「パーフェクト」だというのです。

「サンデー」とはその名の通り、「日曜日」です。アメリカの若者たちが日曜日に自分のお皿にアイスクリームに乗せて食べたそうです。それが「サンデー」のはじまりだということです。「パフェ」は、背が高いグラスに入って出てきます。「サンデー」は、背が低い広いお皿のようなグラスに入っていることが多いです。

当時は喫茶店でも電話を使っていないのです。5・15事件や2・26事件当時の新聞記者の回想録を読むと、みんな電報で叩き起こされています。電話はないのです。電話の普及は昭和30年代です。昭和30年代の末になると電話のない家が少なくなりました。子供の学校の名簿を見るとないのは珍しいのです。

ちなみに大切な用件は、右耳で聞いたほうが忘れないのです。理屈から言えば、左耳で聞いた言葉は、いったん右脳に入り、そこから言語をつかさどる左脳に伝達されます。一方、右耳で聞いた言葉は、そのまま左脳に入り、左脳で処理されるので、右耳で聞いたほうが、迂回路が短い分、ストレートに相手の言葉が伝わってくるのです。しかし、電話は気に食わぬ奴を寄せ付けないでおく悪魔の発明品です。だが、今はスマホという便利なものがあるか(笑)

 





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世界で一番美しい文字
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/26(金) 18:52
No. 7537
 
 
歴史のなかにインド・ヨーロッパ語族が登場します。それまでメソポタミアで文明を営んできたのはセム語族、エジプトではハム語族でしたが、この頃、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト人がヒッタイトという国をつくります。

インド・ヨーロッパ語族は、もともと中央ユーラシアのあたりにいたようです。そこから西方に移動してメソポタミアに入ろうとしても、ウル・ナンム王やハンムラビ王など強い人々がいました。

そういうところを避けてさらに西にいき、現在のトルコのアナトリア半島あたりで落ち着いたのです。幸運なことにアナトリアには鉄がありました。ヒッタイトは鉄器生産の技術を獲得して、強くなります。

少し遅れて別のインド・ヨーロッパ語族がメソポタミアを避けてギリシャに入り、ミケーネ文明をつくります。この人々がクレタ文明を滅ぼしたのではないかといわれています。 ヒッタイトやミケーネ文明が起こったのは紀元前1600年ぐらいのことです。

インド・ヨーロッパ語族は喧嘩好きで、軍事色の強い国家を形成しました。エジプト新王国の幸運そのころエジプトにはヒクソスを倒した3つ目の王国、新王国が誕生します。ツタンカーメンの黄金のマスクが出土した「王家の谷」の墳墓やルクソール神殿など、エジプト文明におけるピラミッド以外の大建造物は、だいたい新王国の時代にできました。

新王国がラッキーだったのは、ライバルであるメソポタミアが、紀元前1500年ぐらいから、ヒッタイトの侵入などを受け、分裂状態に陥ったことです。つまり、新王国の栄華は偶然であり、国の盛衰においても、運はとても大事だとわかります。

インドまで1000年、中国までさらに1000年 この間、中国で黄河文明が起こり、漢字という世界で一番美しい文字が出現しました。メソポタミア、エジプト、インダス、黄河の四大文明のなかで、黄河文明が最も遅い理由は、メソポタミアから遠いからです。

エジプトは、メソポタミアから近いのですぐに影響を受けました。インダスまでは、海伝いに1000年ぐらいかけて影響が及びました。 中国は、メソポタミアからさらに遠く、 陸伝いに西アジアから伝わるのに、インドより1000年以上、余計にかかった。

そう考えるとわかりやすいでしょう。 黄河文明がメソポタミアの影響を受けている証拠は、 チャリオットや宦官という風習の存在です。宦官というのは、強い雄にたくさん子どもをつくらせたいから、弱い雄を去勢するということです。どう考えても黄河流域の農耕の文化に馴染みません。西アジアの遊牧民の風習からきているのです。

 





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四大文明の起源
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/26(金) 18:30
No. 7536
 
 
四大文明の起源はメソポタミアにあります。エジプトにピラミッドができたころ、インダス川流域でも文明が起こりました。中国では、だいぶ遅れて紀元前2000年頃、文明が始まり、現在の二里頭という町の周辺に都市国家が生まれます。

出現した青か銅器などからこれが伝説の中国最古の王朝「夏」ではないかといわれていますが、文字がないので確認できません。メソポタミア、エジプト、インダス、黄河の四大文明はかつて、ばらばらに起こったと考えられてきました。

しかし、今では、メソポタミアの刺激を受けて、ほかの地域で文明が起こったと考えられています。例えば、メソポタミアのシュメールとインダスは、海路を通じて交易したことがわかっています。

帝国とは「いろいろな言葉を話す人を治める国」メソポタミアでは、アッカド王サルゴンが初めて統一国家をつくりました。これが、世界初の帝国です。帝国の定義はいろいろありますが、シンプルに、いろいろな言語を話す人を治める1つの国でしょう。

これが何を意味するかというと、帝国を治めるには共通語が必要になるということです。 アッカド語は、世界初の共通語(リンガ・フランカ)になりました。帝国をつくったということは、「今いる人間」を支配したということです。

すると、「動物も支配しよう、植物も集めて支配しよう」となって、動物園や植物園をつくります。「昔の人間も子分にしよう」と考えて、博物館や図書館をつくります。サルゴンから始まった、この世界帝国の思想を受け継ぐのが、ルーヴル美術館であり大英博物館です。

その後、ナラム・シンという大王が現れますが、ナラム・シンは生きている時に「自分は神である」と宣言した最初の王様です。王様を神とする考え方もアッカド帝国に始まっています。すべてを集めつくすと最後はそうなるのです。

山に囲まれたメソポタミアでは統一国家が続かない。メソポタミアでは、サルゴンが最初に大帝国をつくった後、ウル・ナンムという王様が統一国家をつくります。その後、3番目の統一国家をつくったのが、ハンムラビ法典で有名なハンムラビ王です。メソポタミアでは、統一国家が長く続きませんでした。

メソポタミアには、チグリス川とユーフラテス川を挟んで肥沃な土地が広がり、山に囲まれています。山にはいろいろな人が住んでいて、山上から見下ろしては、「何かぜいたくしているやつらがいるから、ちょっと奪ってこよう」と押し寄せてくるのです。ハンムラビの統一国家は、20年ぐらいしか続きませんでした。

 





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石原将軍の語ったすべて
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/26(金) 18:27
No. 7535
 
 
石原将軍は自ら戦犯となって、満州事変における日本の立場を鮮明にしたいと願っていましたが、連合軍は石原将軍を戦犯に指名しませんでした。しかしこの酒田法廷において堂々自分の所見を開陳できたので、石原将軍は満足であったでしょう。酒田法廷閉廷後、インタビューした外国新聞記者は、口を揃えて石原将軍の識見の卓抜なことを称揚しています。

AP特派員 (極東裁判担当)の酒田法廷印象記の中に、「長い記者生活中、小さい法廷ならいざ知らず、国際軍事裁判の如き大きな法廷がわざわざ三百マイルも出張して審理するなど全く異例の経験だ。普通は地方の裁判所に委託するのだが、国際裁判が如何に石原莞爾に興味と関心をもっていたかがうかがわれる」 とあります。

またUP記者の報道記事には、「石原莞爾中将は、戦争中、東条の不倶戴天の敵として知られており、東亜連盟の精神的指導者として知られている。東亜連盟は極端なる国家主義二十六団体とともに一月四日、マッカーサー司令部によって解散された。

石原は赤軍戦術の日本の最高の権威者として数えられているが、東条が政権を握ると同時に、満州の最高軍事地位より追い払われ、続いて支那および太平洋戦争のやり方について、東条を忌憚なく批判したため予備役にされた。日本はどうしてこのような優れた石原将軍の意見を採用しなかったのか」と書いています。

その他、石原将軍の語った断片などを報じています。「トルーマン大統領およびルーズベルト前大統領は、世界最大の戦争犯罪人である」「もし米国が、将来米・ソ戦争において、日本を足だまりに利用するならば、日本人はかかるポツダム宣言大違反に対し、血をもって抗議するだろう」

「もし私が総司令官だったならば、今度の戦争に敗れはしなかったと彼は断言した」「彼は1930年(昭和5年) 陸軍大学の講義で、すでに原子爆弾による最終戦争を予見したことを引用して、国際連合の将来について悲観的観測を述べています。彼は最終戦はおそらく米・ソの間に二十年以内に起こり、人類に大惨害を与えるだろうと予言した。」

「スターリンはいま戦えば負けるから戦いたくないだろう。これに反し米国にとっては、ソ連と戦うには今から三年以内が絶好の機会だろう。しかし米国人も今すぐには戦わないだろう」「私は声を大にして、戦争を避けよと忠告する。このような戦争は西洋文明の基礎を粉砕し、世界をアジアの未開発な地域に残すだけだ」

「東亜連盟の新使命は、日本再建を援助するこのような理想を普及するにある。彼は共産党の一言を否定し、東亜連盟こそ本質的に民主主義であると主張した。したがってマッカーサー司令部の解散命令に抗議したが、まだその回答は得られないでいる」

終戦後、石原将軍はあるいは講演に、あるいは文書活動によって「新日本の進路」「祖国の復興」につとめたのでいが、昭和24年7月、連合軍司令官マッカーサー宛に次の書簡を出しています。

拝呈 未だ拝眉の栄に浴し不申候処、新日本建設のため、閣下はじめ諸賢の御努力には日頃感銘罷り在り候。小生も及ばず乍ら人類の一員として真の世界平和実現のため大いに活動仕り候積りに御座候処、却って各方面に御迷惑かけたるものの如く、深く反省致居候。然る処、貴国並ソ連が世界を両分して対立せる一環として我が国の現状を見るに、共産党の攻勢は頗る活発にして今や根本的対策樹立の要緊切なりと愚考仕り候。重病にて命旦夕に迫りたる身にも、これを黙過するに忍びず、ここに所信の一端を披瀝して高覧に供し候。 言わんと欲する処は、日本が速やかに再建の実をあげ真に世界平和の実現に寄与するには、共産党を断然圧倒し得る如きイデオロギー中心の新政党を結成して、これより統制主義国家として立つ事が不可欠の要件として従来の方針をこのまま持続する時は、到底日本一国の安定すら覚束なしというに有り、些かにても御参考と相成らば幸甚に御座候。 閣下に対する心よりの友情幸いに御受納被下度候。敬白

 





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小話2024年7月分下
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/25(木) 15:56
No. 7534
 
 
石原莞爾平和思想研究会では自給自足を実践する試みとしてビオトープ水田を行い多くの子供たちにお米の作り方を体験してもらいました。その企画の一つとして、戦時中の食べ物を実際に作って食べるということも行ってみました。調味料がないので随分苦労しました。食後は、戦争を体験した同志の方のお話を聞く事が出来ました。

電気冷蔵庫、電気掃除機、クーラー、戦後全盛の三種の神器はすべて戦艦大和に備え付けられてあり戦前からあったというのだから驚きです。

極東軍事裁判酒田法廷 昭和21年11月、石原将軍は居を鶴岡より飽海郡吹浦海岸の西山の地に移しました。ここは桐谷真氏の地所で、羽越線吹浦駅を降りて徒歩30分くらい、海岸の砂浜の松林の中のきわめて簡素な住宅でいかにも哲人の住むに適した清閑の地です。ここでは同志ならびに私の父(仲條立一)含む若い弟子に囲まれ、信仰と農耕の生活に入り、昭和維新と祖国の復興の為に献身の日日を送ったのです。

繆斌は麻布の東久邇宮邸を訪ね稔彦王殿下に会っています。これは東久邇宮殿下がかねてから蒋介石との和平工作を望んでいることを知っていたからです。さらに東久邇宮殿下は当時最も天皇に近い方であるので、自分の考えを天皇に伝えていただきたいという希望もありました。

人類5000年の歴史のなかに、今のプーチンくらいの人物は、たくさんいます。その時期、その地域では、大変な権勢を振るったかもしれないけれど、死んでしまえば、さしたる影響は残していないのです。そういう人物と、死後にも残るグランドデザインを描けるリーダーの違いというのは、世界史を一気読みすれば、おのずとわかると思います。

ナウマンが来日した1875(明治8)年のことです。この年の11月4日、ナウマンは早くも、最初の地質調査旅行に出かけていました。それは従者と通訳を従えただけの単独行でした。馬車で東京を出たナウマンは、高崎から碓氷峠を越えて中山道を下り、追分 (現在の軽井沢の宿場で数日滞在して、浅間山へ登っています。

私が自衛隊の最高幹部でしかもカリスマ的な人望があり、私の命令ひとつで部隊が生死をともにしてくれる、というのなら、それはそれでいいのです。クーデタを起こして、憲法は好きなように変えてしまえばよい。フランスでナポレオンが行ったように皇帝に即位すればいいのです。

自分の悪い癖が出そうになったのに気づいた時には、悪魔の誘惑に乗らない、代わりによいことを始めようと考えることが出来たらよいと思います。悪い癖が出てしまっても、自分を責めたり落ち込んだりせずに、気づいた時にストップできればいいのです。気づいてストップできた経験が積み重なれば、自分はやめられると自信が付いていくでしょう。

レストラン、西洋料理屋、洋食屋などとランクがあったそうです。銀座マキシム、上野精養軒はレストラン、洋食屋は銀座煉瓦亭、人形町芳味亭にその面影を残しています。食べられる料理は、カツにコロッケのフライが洋食屋で大衆的、西洋料理屋は真ん中で、大正時代には「お登和亭」を名乗る洋食屋が東京中にあったそうです。よく父は好んでレストランの上野精養軒に連れて行ってくれました。

ISO(国際標準化機構)は地球環境に最も配慮した企業を育成するための国際指標となるものがありますが、各部門の責任国を見ると、その思惑が鮮明に浮かび上がってきます。標準化を巡る検討委員会は6つの小委員会から構成されていますが、その構成と責任国は次のようになっているのです。第一小委員会(以下SCと呼称)環境マネージメント・イギリス。SC2環境監査・オランダ。SC3環境ラベル・オーストラリア。SC4環境パフォーマンス・アメリカ。SC5ライフサイクル・アセスメント・フランス。SC6用語・定義・ノルウェー。

1951年のことで、クジラを食べる日本人にとって食文化まで否定された条約であり、戦後の日本の歩みを象徴する条約だったのです。だが、終戦後の日本国には脱退したいなどと軽々しく口に出来なかったのです。この分野でも日本は戦後を迎えたことになります。

フォッサマグナについて国内外のさまざまな研究者たちが議論を始めています。フォッサマグナへの関心が活性化してきているように感じます。 新しい手法によって日本列島の研究が進み、もう一度、日本列島の成り立ちを考え直そうという時期に来ているからだと思います。しかし、フォッサマグナについては依然として、その成り立ちも、そもそもどこからどこまでがフォッサマグナなのかさえも、はっきりとわかっていないのが現状です。今後、南海トラフや東京直下型地震が発生したら、日本列島はどのようになってしまうのであろうか。

大切な過去のお話ですが、マレーシアのマハティール首相が長年思い描いてきた米・欧に対抗する「アジア勢力圏の構築」という偉大な構想がありました。米国は、メキシコ、カナダとの間で北米自由貿易体制を構築しようとし、欧州もまた欧州統合に向けて動きを加速させていた時でした。このままではアジア諸国は、この二大勢力の餌食にされてしまう。アジアとしても日本という先進国の主導の下に、中国、韓国を含めた協力体を構築すべきでないか。欧米の意のままに従うという受身の立場に甘んじることなく、帝国主義的な欧米の圧力に抗しうるプレーヤーになるべきである―という思想がありました。アジアが生んだ偉大な合理的民族主義者、マハティール首相です。

現在の憲法の核となるイデオロギーは、民主主義と人権思想です。この2つは同じもので、制度に注目すれば民主主義、内容に注目すれば人権思想で、どちらも200年前のフランス革命から有しています。民主主義・人権思想の他に平和主義を挙げる人もいましょうが、これは多分に政策的に便宜的なものです。

街中で後ろから近づく救急車に道を譲らず、ちんたら走る車を見ると「お前らには想像力がないのか」と腹立たしさを覚えます。

名札の廃止といえば、販売店や飲食店でも同様の理由から廃止が進んでいるそうです。接客業でありながらマスクで顔の半分を隠したうえで匿名にしなくてはならないとは、世知辛い世の中になったものです。

小磯総理は、繆斌の提案を最高戦争指導会議にかけて決定しようとして、首相官邸において、第49回の会議を開きましたが、席上第一に杉山陸相が発言して、繆斌は重慶政府の回し者で、かかる重大な問題を交渉するに足る人物でないと真向から反対しました。引き続き重光外相も、今回の繆斌日本招致に外相として関与しなかったとか、かかる重大な戦局のもとにおいてこのようなことは輔弼の責任をおえないという反対があり、米内海 相亦態度不鮮明で、小磯総理の面目はまるつぶれで、この会議は失敗に終わったのです。

 





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小話2024年7月分上
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/25(木) 15:55
No. 7533
 
 
高速道路を無料化した場合の経済効果について国土交通省が2年前に試算を行っていたことが明らかになっています。一般道の渋滞が解消されることなどから、直接の経済効果を2.7兆円と見込んでいます。朝日新聞が入手した資料によると、「3割引」「5割引」「10割引(無料)」の3パターンについて経済効果や渋滞予想区間を詳細に調べています。経済効果は(1)走行時間の短縮(2)燃費などの走行経費の減少(3)交通事故の減少、の三つの効果を、国土交通省の基準に基づき金額に換算しました。高速道自体の経済効果は、渋滞増加などで年間マイナス2.1兆円となりますが、車が流れやすくなる一般道が4.8兆円のプラスとなり、差し引きで「2.7兆円の経済効果が生じる」としています。利用者の料金負担の軽減分などを加味した場合では、経済効果は7.8兆円に達し、6000〜7000 億円の税収増となる、としていています。

魚沼の里は、霊峰・八海山の麓、南魚沼市長森の一角にあるのどかな里山の中にあります。地酒八海山を製造する第二浩和蔵を中心に、カフェや売店、キッチン雑貨店等を併設した「八海山雪室」、「そば屋長森」、菓子処「さとや」、「つつみや八蔵」などのお店が、点在しています。八海山は、新潟県内でも割とポピュラーなお酒で、のど越しの良いすっきりとしたおいしいお酒です。

水上温泉「坐山」は、谷川岳の麓に位置する群馬県でも指折りの知名度で、利根川沿いに大型旅館が立ち並びます。室町時代に発見されたと言われ、かつては湯原温泉と呼ばれていたそうです。

谷川岳ロープウェイは、日本では3カ所にしかない、フニテル式(複式単線自動循環式ゴンドラ)というもので、揺れがほとんどない安定した運転でした約15分もかかります。ロープウェイを降りた後は、リフトに乗って天神峠を目指します。

満足度の高い道の駅、全国ナンバーワンに選ばれた道の駅「川場田園プラザ」は、広さが、東京ドームの1.5倍になります。ショップや飲食店と物販合わせて直営だけで12店とテナントも4店入っています。

石原将軍はかねて、参謀長というようなものは不要であるという持論であったといいます。参謀長の頭脳を借りなければ戦争ができないのは、馬鹿な司令官だけだというのです。そしてなに事も師団長の計画と命令でやりました。仙台の連隊長時代も、石原連隊長自身の考えで卓越した異色の運営をしました。ここでは着任と同時に全管下団体長に、一 爾後文書検閲はこれを行なわず。二 将校はソ連の将校の如くに訓練すべしという命令を出したという。

東条軍閥の石原将軍に対する断圧は執拗なものがありました。憲兵を動員し、あるいは右翼団体の無頼の徒輩を動員し、石原将軍をもって赤だ、共産党だ、東亜連盟は敗戦主義だ、米英の第五列だとか、また当代まれにみる私生活の清廉な石原将軍を、遊蕩に耽っているというような悪宣伝を行なったのです。

生涯に人は何冊本が読めるのか、計算してみたのですが、生まれた赤ちゃんから男女平均寿命をちょっと過ぎて死ぬまで、1日に必ず1冊本を読むとして、たった3万冊しか読めないのです。生まれた赤ちゃんは本を読めないでしょう。80歳位になると、目がかすんだり、体がおかしくなったりもするから、実質、15歳から65歳まで読んだとして50年です。ハードカバーを1万冊読んだとしたら、物凄いことだと思うのです。

幼稚園児の質問ですが、「ライオンとトラと闘ったらどっちが強いの」などと聞いてきます。難問です。(笑)ライオンはアフリカの草原、トラはアジアの密林、生息地が全然違うから、闘うも何も、接触さえありはしないのだが、そこを理解させようと、一苦労です。

石原将軍は東条首相に、「戦争は君では勝てない。このままで行けば日本を亡ぼしてしまう。即刻総理大臣をやめなさい」と進言したのです。こんなことから東条首相の石原将軍に対する弾圧は、一層きびしくなったのでした。

繆斌は田村真作氏に「お国の日本と中国とは難兄弟です。中国には難兄弟という言葉があります。兄弟というものは、お互いが困らない間は、兄弟の有難さがわからないのです。それで喧嘩ばかりしています。お互いに困って来るとそのときに始めて兄弟の本当の愛情がわかって来るのです。日本と中国とはこの難兄弟と同じことです。日本も中国もお互いに本当に困って来ないと両国の愛情がわからないのです。」と語っています。

お寿司屋にアメリカ人の友達を案内した。お寿司が出るたびに、友達は、魚の名前を聞いてくる。これはマグロ(tuna)、これは鯛(sea bream)、これはカツオ(bonito)と説明したのだが、蝦蛄(しゃこ)が出てきた。これは思いつかないのでとっさに、ガレージ(車庫)です。と答えた爆(((●〜*>

外務省報償費として予算化された機密費の中から、毎年20億、内閣官房に上納するのが慣例となりました。この話は元外務省のキャリアが本を出版しているので、その関係者なら皆さん知っています。歴代官房長官は皆当事者であり、知らないはずがないのです。官房長官経験である塩川正十郎財務相も「やっていた」と口を滑らせた後「忘れてしまった」と惚けました。さらに、旧大蔵省や会計検査院も知らないはずがないのです。

アメリカのケネディと言えば「キューバ危機」を回避した理性ある偉大な大統領です。ソ連のフルシチョフ、キューバのカストロ、いずれも個人的には核使用は望まなかったのですが、核戦争寸前まで行ったのは事実です。人間は必ず間違いを犯す、理性のない人間もいるので危機は阻止できないということです。残念ながら理性のある人間を暗殺しようとする輩もこの世には存在するのも事実です。

「ハル・ノート」のおかげで戦争を回避できない状態に追い込まれました。「日本軍は中国から全面撤退すべし、蒋介石政権以外は認めない」というハル・ノートは日本への最後通牒、宣戦布告です。政府はそれを国民に隠して発表しませんでした。発表していれば、昔の日本人は今の洗脳されている歴史しかしらない日本人と違います。武士道精神がありましたからアジアの開放のために世論は開戦やむを得ないと承知したでしょう。

1992年の7月19日の朝日新聞は、竹下首相が遊説中に黒人を「黒」と表現したと非難されました。オゾン層の破壊で皮膚がんの発生が増えている、という話の中で、「発生するのは白人の方ですよ。黒や我々まだらには出ていない」と言ったのです。「まだら」は珍妙だし、「白人の方」も変です。

本来「道」は誰のものでもなく、アメリカのハイウェイのようにすべての人々が無料で自由に往来できるもののはずですが、日本では高速道路など多額の建設費用がかかる道を作る場合、それを利用することによって、目的地に早く到着するなどで得をする人に『受益者負担』として、その費用が償却されるまでという条件付きで通行料金を負担してもらう。

 






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