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1707年12月16日の昼前に富士山の南東斜面で大噴火が発生しました。朝まで続いた激しい噴火は徐々に低調になり、16日後の翌年1月1日に一連の噴火活動をほぼ終えました。貞観噴火は粘性の低い溶岩がゆっくりと噴出し、広い範囲が溶岩に覆われる噴火でしたが、宝永噴火は煙とともに砕屑物を上空高く舞い上げる爆発的な噴火でした。
噴煙は高度20kmまで舞い上がったとされています。このような大量の軽石・火山灰を放出する爆発的噴火は、富士火山の噴火史の中でも特異的な噴火でした。このときの噴火口は宝永火口(宝永山) と呼ばれ、その周囲に遊歩道が整備されています。
宝永火口から噴出した火山礫や火山灰は、偏西風に乗って江戸や房総半島にまで降り注ぎました。現在の御殿場市では約3mもの火山灰が降り積もり、江戸でも降灰がありました。昼の噴火だったにもかかわらず、降灰により周りが薄暗くなり、行灯が必要になったという記録が残っています。
富士山周辺で厚く降り積もった火山灰が農業に大打撃を与えました。神奈川県西部を流れる酒匂川では、流れ込んだ火山灰により洪水や土石流が相次ぎ、流域に甚大な被害をもたらしました。
宝永噴火は噴火形態という意味でも特異でしたが、大地震との関わりでも注目されている噴火です。宝永噴火の4年前の1703年には元禄関東地震が発生し、関東地方南部に甚大な被害をもたらしました。
また宝永噴火の4日前には南海トラフでの過去最大級の地震として知られる宝永地震が発生しました。この例では大地震のあとに富士山の噴火が起こりましたが、864年の貞観噴火ではその5年後に東北地方の太平洋沿岸で貞観地震が発生しました。
このように日本列島の大地震と富士山の噴火が時期を同じくして起こった例があることから、2011年東北地方太平洋沖地震の発生後にも「富士山が噴火するのでは」という憶測が広がりました。現在の知見では東北地方太平洋沖地震が富士山の噴火の引き金になるかどうかはわかりません。
しかしながら、富士山は過去何度も大噴火を起こしてきた火山であり、宝永噴火から300年以上、目立った火山活動は観測されていません。地下では次の噴火への準備が着々と進んでいると考えるのが自然でしょう。いずれ富士山が噴火することは間違いありません。火山噴火の備えは必要だと思われます。
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