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未開の地の満州買収計画がどのような経緯でまとめられたのかは解明されていませんが、孫文が来日して、3回にわたって内閣を組織した桂太郎と会っています。その際、桂は孫文に対し、人口増加の勢いからも日本は満州に発展するほかない、と説いていました。
孫文はかねがね革命成就のためには満州を日本に譲ってもよいとの考えだったと言います。また、この桂・孫文会議のころ、桂は森恪に会い森に「キミは支那を料理せよ」と言っています。この桂の意向を受けた森が、東京で中国側の情報も集めて、側近の山田に交渉を指示したのです。
森の電報を受けた山田は、革命支援で志を同じくしていた宮崎滔天とともに南京城内で孫文と会います。孫文は同志の胡漢民を伴い、別室の黄興とも相談して「よろしい。すぐそのことを進めてくれ」と返事をしました。
そして、このあと孫文やその代理の黄興が来日して桂と話合って解決する段取りまで決定したのです。しかし、桂は「大正政変」で内閣を投げ出したあと病床の身となり、結局、この満州買収計画は立ち消えとなったのです。
この満州を日本の領土とする孫文の言動はのちに中国内でも批判の対象となったのですが、孫としては革命達成のためにはなによりも資金と武器がほしく、革命が成れば満州問題は別の方法で解決出来るだろうと考えていたのかも知れません。
日本側では、桂内閣のあとの山本権兵衛内閣では、満州に何で日本が金を出さなくてはならないのだと言う反対の意見が支配してしまいました。当時、政界に大きな影響力を持っていた山県有朋は、満州はもともと日本の勢力下にあるのだから買う必要はない、との意見であり、共和制が天皇制の日本に影響を及ぼすことをおそれ、中国革命支援にも反対だったのです。
このようにして満州買収計画は日の目を見なかったが、1931年(昭和6年)、汪兆銘らが樹立した広東の国民政府で外交を担当していた陳友仁が来日して、当時、若槻民政党内閣の外相だった幣原喜重郎に密かに会って、満州の日本への譲渡を打診しました。
これに対して幣原はこう答えています。「満州を住民ぐるみ買いとることはご免だ。満州住民をことごとく渤海湾に投入して皆殺しにする権利を承認するという条件のない限り、満州とともにその住民をうのみにすることは爆弾を抱えて眠るようなものであるから、タダでも貰い受けません」(幣原『外交50年』)
幣原は、荒れ狂う馬賊がいて治安が乱れている満州ではいくらタダで満州をあげると言われても割に合わないことを知っていたのです。ここで満州支配の話は立ち消えとなったのですが、森と満州との繋がりはこの頃から形作られ、やがて満州事変などを経て強固なものとなってゆくのです。
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