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小磯総理は、繆斌の提案を最高戦争指導会議にかけて決定しようとして、首相官邸において、第49回の会議を開きましたが、席上第一に杉山陸相が発言して、繆斌は重慶政府の回し者で、かかる重大な問題を交渉するに足る人物でないと真向から反対しました。
引き続き重光外相も、今回の繆斌日本招致に外相として関与しなかったとか、かかる重大な戦局のもとにおいてこのようなことは輔弼の責任をおえないという反対があり、米内海 相亦態度不鮮明で、小磯総理の面目はまるつぶれで、この会議は失敗に終わったのです。
繆斌工作の失敗に帰した経緯について、当時直接関与した緒方国務相は、次のように語っています。『小磯総理はその位置上、すぐ繆斌と会見することを控えたいというので、僕が代わって、二日にわたり種々繆斌の意向を叩いてみたが、彼は蒋介石よりの電文写し、その他の証拠品を所持しており、彼の有する案についても重慶の意向が明瞭にされていた。
勿論、日本としても対中国政策の百八十度の転換であるから、繆斌の提案をそのままのむことは内外の事情で困難であるが、いわゆる重慶工作を開く基礎には十分であると考えた。 そこで僕は一切を小磯総理に応答し、場合によっては僕自身重慶に行ってもよいといった。
小磯総理は非常に乗り気になり、最高戦争指導会議を開くから、一つ原案を用意し、且つ君も会議に出てくれとのことだったので、繆斌の提案たる、南京政府の解消・停戦撤兵・引継機関としての留守府開設案とともに、専使を派遣し、蔣主席の真意を確むべきであるという意見を付して原案を用意した。
しかるところ、重光外相は南京大使館清水書記官の情報にもとづいて真向から反対し、杉山陸相、梅津参謀総長、及川軍令部長、米内海相も皆反対または賛否を留保し、会議はきわめて白けた空気のなかに散会した。要するに最初から事態を真面目に検討する意志がないのである。
僕はあまりに不可解なるをみて、最初から熱心にこの工作を支持された東久邇宮殿下に以上の経過を申しあげ、一方、米内海相にも助力を求めた。殿下は杉山陸相、梅津参謀総長を個々に招じ熱心に事態の収拾を勧誘されたが、陸相、総長ともに一向にえ切らなかった。
米内海相には僕自身行って、今や戦争のみをもってしては局面の打開はほとんど不可能である。万一敗戦の場合、かえりみて打つべき手が残されていないのでは、お上に対し申し訳ない次第でないかと、切に海相の共鳴を求めたところ、海相は「君の誠意は認められるが、事ここに至っては内閣は最悪の場合に陥いるほかなかろう」とのことであった。
ここにおいて小磯総理は聖断を仰ぐべく参内したが聴かれず、越えて、陛下より改め重光外相、杉山陸相、米内海相に対し御下問があり、三相ひとしく反対意見を奉答したため、ここに小磯内閣の瓦解となったのである』
東京裁判において小磯元首相は繆斌について、次のように供述しています。『繆斌は熱心な日華和平論者で、江政権に立法院長として加わっていたが、のちに重慶政府との連絡があるとの理由で、考試院次長に左遷された。無線機ですでに重慶側と連絡していた事実などで、相当信用しうると考えた。彼の提示した当時の重慶側講和条件は、 一、日本の完全撤兵 二、重慶政府の南京留守府を設置 三、重慶政府の南京遷都 四、日本と米英との講和 以上であった。私は繆斌を利用して重慶と直接連絡を設定せんと、陸・海・外三相の同意を求めたうえ彼を招致したが、陛下から三相が反対意見であるから繆斌は中国に帰せといわれた』このような事情で、小磯総理の面目は丸つぶれで、繆斌は上海に帰されることになり、迎賓館より追い出され麹町の五条珠実の宅に移ったが、ここの宿舎で石原将軍は繆斌と枕をならべて夜おそくまで、日両国ならびにアジアの将来などについて語り続けた。
このとき繆斌は「日本の政治家は豚頭です」と憤りを語られたそうである。石原将軍もまた空しく郷里に去り、繆斌工作は失敗に終わり、それより数カ月後の8月15日に無条件降伏となり、杉山大将をして自刃の直前「あのとき繆斌工作をやっておけばよかった。惜しいことをした」と後悔させたことになる。
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