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日露戦争の開戦時、日本には幸運なことに伊藤博文という明治の元勲が生き残っていました。伊藤は戦争が始まるや金子堅太郎をワシントンに送り込みます。岩倉使節団に随行した金子はアメリカ暮らしが長く、ハーバード大学の学生時代に無二の親友を得ていました。
その親友がセオドア・ルーズベルトです。金子の親友が大統領になっていることを、伊藤は知っていました。ロシアは弱っているから最初は勝てるかもしれないけれど、日露では国力が違いすぎることを、伊藤はわかっていました。
最後はアメリカに仲介を頼む以外に戦争を終わらせる方法はないと考えていました。だから金子をアメリカに派遣したのです、終わらせ方を計算したうえで戦争を始めたのです。伊藤の読みは当たり、セオドア・ルーズベルトの仲介で日露戦争は終わります。
日露戦争の間、日本政府は「勝った、勝った」と世論を煽りましたが、実際は苦戦続きでした。もともと無理をして仕掛けたので、多くの兵が亡くなりました。ロシアにはあと何年も戦争を続ける体力が残っていましたが、日本は陸軍も海軍も兵站が延び切っています。
そこでルーズベルトの仲介で、停戦交渉を始めます。小村寿太郎という有能な外務大臣が粘り強く交渉して、講和条約は日本に有利な内容になり、ロシアは南樺太を日本に割譲しました。ただし、賠償金はとれませんでした。国民は怒りました。
日清戦争で多額の賠償金がとれたので、同じくらいとれると思っていたのです。「日比谷焼き討ち事件」が起きて、新聞も政府を批判する記事を書きます。逆恨みで「こんな仲介をしたアメリカはけしからん」という論調も出てきます。
セオドア・ルーズベルトはどう思うでしょう。「何という国や。友情からえこひいきしてやったのに恨むなんて。こんな国は信頼できない」と思います。日米関係がおかしくなっていきます。日露戦争後、日本は朝鮮進出を加速します。
伊藤博文は、「朝鮮民族は誇り高い。韓国の外交と内政をコントロールできれば十分で、韓国を併合したらだめだ。それをやってしまうと禍根を残す」と考えていました。ところが、その初代総理大臣の伊藤博文がなぜか韓国に暗殺されて、日本は歯止めが利かなくなり、1910年に韓国を併合します。
この年には、冤罪をでっち上げて社会主義者を処刑した大逆事件も起きて、日本は暗黒時代に入っていきます。明治時代の日本は進取の気概にあふれていました。だから中国から革命を志す人がどんどん留学にやってきました。
孫文もそうですし、周恩来も日本で勉強しています。孫文と深い友情を結んで、資金提供をした梅屋庄吉という実業家もいました。渡したお金は、今の貨幣価値にして兆円単位になるともいわれています。
孫文たちは清を打倒するため、何度も蜂起しますが、失敗が続きます。ついに成功したのが1911年、辛亥革命です。孫文は南京で臨時大総統になり、中華民国が成立します。しかし、北京にはまだ、満洲族出身の清朝最後の皇帝、宣統帝 (溥儀) がいます。
孫文は、軍閥の宰相、袁世凱と取引します。「宣統帝の退位と引き換えに臨時大総統の座を譲る」と。しかし、袁世凱はとんでもない人で、自分が皇帝になろうとします。その結果、 中国では、南京に成立した孫文の政府と北京の軍閥政府という対立の構図ができあがります。石原莞爾は立ち上がり満蒙問題の解決には石原莞爾の描いた満州事変を行ったのです。
満州国は決して植民地国家ではなく、欧米の帝国主義支配を排してアジアに理想国家を建設する運動の場でありました。満州国建設は一種のユートピア実現の試みで建国育成は、歴史上前例のないトライアルです。侵略、植民地化万能の歴史的時代にあって、満州の地に民族協和する理想国家を作ろうとしたことは、日本民族の誇りだと思うのです。
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