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  憲法の議論  仲條拓躬2024/07/22(月) 18:22 
  ナウマンの嵐の翌朝の奇観  仲條拓躬2024/07/22(月) 18:20 
  世紀の謎、何を語るか石原元将軍  仲條拓躬2024/07/22(月) 18:17 
  日本の戦艦や飛行機  仲條拓躬2024/07/16(火) 20:25 
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  差別用語狩りとは  仲條拓躬2024/07/10(水) 15:52 
  ハル・ノートで宣戦布告  仲條拓躬2024/07/10(水) 15:51 






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憲法の議論
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/22(月) 18:22
No. 7522
 
 
憲法論議にも、権力・イデオロギー問題がからまないものもあるでしょう。例えば、用語が難しいから平易に直すとか。憲法78条に出てくる「罷免」を必ず「のうめん」と読む奴がいるから、いっそのこと「クビ」と変えろとか(笑)。

ところが、実際によく見る憲法の論議というのはそういうものでありません。国防問題をどうするか、人権問題についてはどうするのか、といった国家の性格、国家のあり方にかかわるものばかりです。憲法というのは本来そういう法律だからです。

だとすると、私に日本国を動かすだけの力がなければ、議論はまず無意味でしょう。お台場台に1000坪の家を持ちたいと思うのは勝手だけど、居酒屋でウーロンハイ片手にお替りしている酔っ払いに、その金があるのか、そんな暇があるなら、空いている時間にアルバイトに精を出して茨城の建売の頭金でも作ったらどうでしょう(笑)と言いたくなるのが当然でしょう。

私が自衛隊の最高幹部でしかもカリスマ的な人望があり、私の命令ひとつで部隊が生死をともにしてくれる、というのなら、それはそれでいいのです。クーデタを起こして、憲法は好きなように変えてしまえばよい。フランスでナポレオンが行ったように皇帝に即位すればいいのです。

また、自分の同志が、東北に絶大な影響力を持っていて、そのあたりにいくつも国家を建設しつつある、というのもいいでしょう。東北全体を制圧した段階で独立宣言を発し、独立戦争となります。憲法をどうするか、大切な議論です。

しかし、幸か不幸か、私は自衛隊の最高幹部でもなく、日本のどこかに国家を建設するほどの影響力を持っていません。要するに、居酒屋の割引チケットを使うただの酔っ払いなのです。いや、私だけではない。

一体、お台場に1000坪の家を建てられるほどの、すなわち、日本国の権力変動にかかわるほどの力を持った人、あるいは勢力が、はたして日本にいるのか。いないか、いないのと同じでしょう。「憲法草案」だの「憲法私案」だの、笑っちゃうのも仕方がありません。(笑)

 





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ナウマンの嵐の翌朝の奇観
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/22(月) 18:20
No. 7521
 
 
ナウマンが来日した1875(明治8)年のことです。この年の11月4日、ナウマンは早くも、最初の地質調査旅行に出かけていました。それは従者と通訳を従えただけの単独行でした。馬車で東京を出たナウマンは、高崎から碓氷峠を越えて中山道を下り、追分 (現在の軽井沢の宿場で数日滞在して、浅間山へ登っています。

その後、現在のJR小海線に沿って千曲川沿いに進み、鉄道最高点のある野辺山に至ると南下して、獅子岩を越えて平沢という小さな集落に泊まります。宿としたのは、古い民家でした。その夜は、嵐に見舞われました。

木の板だけの壁はガタガタと揺れて、いまにも壊れそうでした。ろくに眠れないまま一夜を過ごしたナウマンは、夜が明けるとともに宿を出ました。風は止み、青空がのぞいていました。そして峠から南西を見下ろしたとき、ナウマンは言葉を失いました。

彼の目に飛び込んできたのは、はるか眼下に釜無川の流れる平坦な台地の向こうに、2000m以上もの高さのある南アルプスの鳳凰や駒ヶ岳が、ちょうど壁のように突っ立っている姿でした。そして、その南西の奥には富士山がさらに高く威容を見せつけていました。

「こんな光景がこの世にあるのだろうか。こんな大きな構造は見たこともない」ナウマンは言い知れぬ感動をおぼえたといいます。と同時に、なぜいきなりあんなに高い山が聳え立っているのか、なぜこのように大きな構造ができるのだろうか、という疑問も抱いたに違いありません。

そして彼は、いま自分が立っているのは地面にできた巨大な溝のような場所ではないかと考えたのです。ある地質学者は、2014年に、ナウマンと同じように獅子岩の上に立って四方を眺めてみました。

また、平沢へ降りる道の端にも立って、西の方向を眺めてみました。そこに見えたのはやはり、平坦な台地からいきなり2000mもの落差のある山々が壁のように立っている姿でした。しかし、ナウマンの頃に比べて木々が生い茂った斜面からは、彼が感動したような 風景を望むことはできなかったといいます。

しかし現代では、空撮写真でその地形を俯瞰することができます。平沢の細長い溝のような平坦な地面から、両側に高い山々が聳え立っていることがまざまざと見てとれます。赤石山脈、関東山地、そして丹沢山地などの山々です。そして、その合間を縫うように、大きな凹地があるのも見てとれます。

南北に伸びた松本盆地と、そこから南西に伸びた天竜川の河谷である飯田盆地、そして南東に拡がる甲府盆地です。ナウマンが見たのは、まるでインド平原からはるかヒマラヤ山脈を見上げるような光景だったことでしょう。記念すべき、1875(明治8)年11月13日の早朝のことでした。

 





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世紀の謎、何を語るか石原元将軍
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/22(月) 18:17
No. 7520
 
 
極東軍事裁判酒田法廷 昭和21年11月、石原将軍は居を鶴岡より飽海郡吹浦海岸の西山の地に移しました。ここは桐谷真氏の地所で、羽越線吹浦駅を降りて徒歩30分くらい、海岸の砂浜の松林の中のきわめて簡素な住宅でいかにも哲人の住むに適した清閑の地です。

ここでは同志ならびに私の父(仲條立一)含む若い弟子に囲まれ、信仰と農耕の生活に入り、昭和維新と祖国の復興の為に献身の日日を送ったのです。 西郷南洲が参議の要職を去って鹿児島に帰り郊外に農場を経営し、また城山山麓に私学校を創設して人材を育成した心境に通ずるものがあろうか。

西山に移って間もない昭和22年5月に、極東軍事裁判の石原莞爾に対する出張審問が行なわれることになりました。最初、西山の石原将軍の宅で行なう予定でありましたが、家があまりに狭いことと、実際、石原莞爾の弟の六郎さんが住んでいたのでよくおじゃましましたが、本当に狭いお家でした。

石原将軍が案外元気で尿気が早いくらいで起きていることもできるので、下準備に来たハーガドン中尉と佐々川弁護人が、急に酒田商工会議所に移すことにしたのです。裁判官一行は、判事、検事、弁護人、報道関係など合わせて80名余、8輌連結の特別列車でまことに仰々しいものでした。

極東裁判が石原莞爾の証言をいかに重要視したかは、当事の新聞記事によってもその一端を知ることができます。昭和22年5月1日 『山形新聞』は「世紀の謎、何を語るか石原元将軍」と題して次のように報じています。

東京裁判はじまってから実に一年、はじめて舞台は東京を離れて郷土山形に移った。いまやここ山形の一角庄内は世界の注視するところとなったのである。4月4日の法廷で板垣被告担当のマタイフ弁護人は、事変の大立物石原莞爾元中将の口供書を提出しようとした。

しかし検事団側は将軍の証言を事変の真相をつくものと重視、口供書が石原莞爾氏の口から出たものであることを確かめ、かつは反対尋問を行なうため、特に臨床尋問することを要求、判事団協議の結果、ニュージランド代表判事ノースクロフト卿を委員長として検事、日本弁護人からなる嘱託尋問委員会を構成、現地に特派することになったのである。

果たして石原莞爾、病床に何を問われ何を答えるか。国民総ての注目をあびて世紀の謎、石原莞爾氏を解剖すべき委員約60名を乗せた8輌連結の特別列車は、前日の風もやんで珍しく静かな酒田駅に音もなくすべり込んだ。

時に三十日午前7時3分。 一行のノースクロフト卿をはじめニガン、フライシャー両検事、米側首席マタイス(板垣被告担当)、ウォーレン (土肥原担当) レブイン(鈴木担当)、ウィリアムス(星野担当)、日本側首席 岡本敏男(南担当)、阪埜 潤吉(板垣担当)、金内良輔(板垣担当)等各弁護人。その他言語判定官ムーア少佐、法廷書記、通訳官。

日米速記内外記者団一行は、先発の軍事裁判所主務ハーガドン中尉、板垣被告担当佐々川弁護人、それに本間酒田市長、加藤酒田署長等に出迎えられ、いかめしい軍事裁判法廷から抜け出て来た人とも見えぬ、和やかな態度で列車を降り立った。

はれあがった港の朝に「ナイス・モーニング」を連発しながら、背広姿のノースクロフト判事はまず酒田市長と握手、一行全部車内で食事をすまし、やがて尋問の場所に定められた酒田市商工会議所の検分をかね、判事、検事、弁語人それぞれの組に分かれて朝の港街に散歩に出かけた。

散歩好きといわれるノースクロフト卿は真先に飛び出し、この日投票所へと急ぐ人々の群に挨拶しながら大股で歩いて行った。やがて午前十時全員酒田駅に集結、バスで酒田港を訪れ、第二梅丸に便乗一時間に亘り晴れた日本海を楽しみながら加茂着、湯ノ浜で疲れをいやして後再び海路酒田帰着、明日の尋問に備える眠りに入った。

今日一日は吹浦から特に出向いた石原莞爾氏を酒田商工会議所内の臨時法廷に迎え、石原証人のロ供書朗読、検事側の反対尋問、弁護団側の再尋問などが次々に行なわれ満州事変の鍵、石原莞爾氏を完膚なきまでに解剖し尽すことになっている。

なお委員会は臨時尋問を終わってから一日間だけ休養をとり直ちに帰京、口供書と出張尋問の経過を総て法廷で朗読、石原莞爾氏が明かにした事変の全貌を全世界に発表する筈である。

 





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日本の戦艦や飛行機
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/16(火) 20:25
No. 7519
 
 
電気冷蔵庫、電気掃除機、クーラー、戦後全盛の三種の神器はすべて戦艦大和に備え付けられてあり戦前からあったというのだから驚きです。我々は戦前と戦後の間には言語に絶する断絶があると教わっていますが、そんなことはありません。

電化製品でなかったのはテレビだけです。だが、高価な品物だったので国民はその存在さえ知らなかったのです。2024年6月25日、貸し切りバスに乗車して、東芝未来科学館を見学しました。東芝未来館は2024年6月29日(土)をもって、公開を終了することとなりました。

東芝未来館によれば、電気冷蔵庫第1号品は昭和5年東芝が720円で売り出したと書いていました。今のお金でどのくらいかと言うと、東京の郊外中古40坪の家なら一軒買えます。だから電気冷蔵庫を買ったのは一流ホテルか大金持ちくらいでしょう。

一般は氷冷蔵庫の時代で、それも中流だったそうです。昭和8年高島屋日本橋店が、冷暖房完備で他のデパートを驚かせたそうです。戦艦武蔵、戦艦大和の何千人の乗組員の食料は冷凍室がなければ備蓄で来ません。当時の戦艦は近代技術の粋です。

戦闘機零戦を作った技術は世界一でした。日本の戦艦や飛行機が世界一なら負けるはずがないと思うわけです。最新の技術は陸海軍が全て握っていて極秘にしていました。だからイギリスの戦艦レパルス、プリンスオブウェルズを撃沈しました。だが、いくら零戦が世界一でも10機のうち1機は打ち落とされます。

打ち落とされたら直ぐに解体されて真似されるのです。それ以上のものを量産されて追い抜かれるのです。戦後の日本の復興が目ざましかったのは、陸海軍が極秘にしていた一流の技術を民間に教えたからです。一例をあげればホンダのオートバイがたちまち一流になったのはこのお陰なのです。

 





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戦時中や戦後の食べ物
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/16(火) 20:23
No. 7518
 
 
石原莞爾平和思想研究会では自給自足を実践する試みとしてビオトープ水田を行い多くの子供たちにお米の作り方を体験してもらいました。その企画の一つとして、戦時中の食べ物を実際に作って食べるということも行ってみました。

調味料がないので随分苦労しました。食後は、戦争を体験した同志の方のお話を聞く事が出来ました。ちなみに戦前の食べ物と言えば牛鍋とライスカレー、蕎麦に寿司などの日本人の代表的な食べ物があり、ご馳走というものは、鰻や天ぷらだったそうです。

牛鍋とは今で言うと、すき焼きのことで、すき焼きと言い出したのは昭和になってからで、山の手から呼び名が変わり、それ以前は牛鍋と言っていたそうです。山の手の住人は、この牛鍋という言葉が大衆的で下品だと嫌いました。

「ぎゅう」と言うと、何か「ぎゅう」として苦しそうで(笑)。そもそも、江戸時代は獣の肉を食べませんでした。血が汚れると言う、仏教の教えからです。だが、鶏肉は食べたのです。鶏は2本足だと理由から。ウサギも1羽、2羽と数えて食っていました(笑)。

牛は食べなくとも、猪や鹿や馬も食べました。猪はボタン、鹿はモミジ、馬はサクラと風流な名をつけて食べていました。これらを食べさせる店が江戸では両国の「ももんじや」で現在もあるそうです。

そこでは獣の肉を食べさせることが許されていて、表向きは薬だと言う事です。「ももんじや」のほかに浅草では戦前まで「山口屋」が猪を食わせたそうです。戦争中は、日本橋に「ぼたん」という二流の料理屋で猪を食わせたそうです。

鍋は、暖まる、精がつく、それに薬と言って食べていたみたいですが、実は旨いから食べていたそうです。戦争中は皆さんよく食べました。臭みがあるから味噌煮で、牛鍋も最初は味噌だったようです。

 





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プーチンの影響力とは
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/16(火) 20:22
No. 7517
 
 
19世紀以降、「欧米の先進国 VS発展途上国」という図式ができました。20世紀は、欧米先進国を、その他の地域の発展途上国が追いかけていった時代でした。そして21世紀の今、問われているのは「発展途上国が、いつ先進国に追いつき、追い越すのか」です。

産業革命が生んだ工業は、膨大な仕組みを必要としました。複雑な機械を膨大に必要とし、膨大な設備投資を必要としました。その代表格が、内燃機関を核とする自動車産業です。かたや、20世紀から21世紀にかけて勃興したIT企業は、基本的に若くて優秀な頭脳があれば、さほど設備投資をしなくても、誰でも立ち上げられるような事業をしています。

電気自動車は、内燃機関のような複雑な仕組みを必要としません。GAFAと呼ばれる巨大IT企業はこれまでアメリカに集中していましたが、今はいつ何どき、どこの国から GAFAに匹敵する存在が現れるかわかりません。

中国からかもしれませんし、インドかもしれず、日本かもしれません。そう考えると、わくわくします。世界史の大きな流れをつかむと、歴史の「次」が、楽しみに思えてきます。話は変わって、ロシアのプーチンです。プーチンの戦争で今、世界は大騒ぎです。

ウラジーミル・プーチンは今、71歳です (2024年現在)。あと5年くらいは頑張れるかもしれませんが、せいぜい、あと5年、10年です。死んでしまったら、何もできません。プーチンの思考のスケールは5年、10年くらいのスパンです。

死後に影響を残すようなグランドデザインはありません。プーチンが何を考えているのかは、誰にもわかりませんが、せいぜいロシアに今ある弱みを自覚し、それをどうにかしたいといったところでしょう。

人類5000年の歴史のなかでも、死後にも残るグランドデザインを描き、「大帝国」と呼ぶにふさわしい帝国をつくった人物は、数えるほどしかいません。西洋ならば、カエサル、フェデリーコ2世、ナポレオン、せいぜいこの3人です。

ですから、あと20年、30年もすれば、「プーチン、あ、いたな」ということになるでしょう。数十年後に、歴史を振り返れば、「そういえば、プーチンという人物がいたな」 というくらいのことです。

人類5000年の歴史のなかに、今のプーチンくらいの人物は、たくさんいます。その時期、その地域では、大変な権勢を振るったかもしれないけれど、死んでしまえば、さしたる影響は残していないのです。そういう人物と、死後にも残るグランドデザインを描けるリーダーの違いというのは、世界史を一気読みすれば、おのずとわかると思います。

 





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日中和平に反対した輩
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/16(火) 20:21
No. 7516
 
 
東京に着いた繆斌は、第一に緒方国務相に会いました。このとき繆斌が緒方国務相に語ったことは、「私は上海で過日、山県さん(注・山県初男、小磯首相と陸軍士官学校の同期生)に会ったとき小磯総理は真剣に中日全面和平について考えていると聞かされた。ご承知の通り戦局は日に日に進展しているので、至急小磯総理に会い、かねて懸案の中日全面和平問題解決を促進したいと思った。

渡日の方法について山県さんと相談した。山県さんがこの私の要望を日本に帰って小磯総理に伝えたものと思うが、南京総軍は、ついに私に飛行機の座席は許可したが、私が同行を予定していた無電の技師には座席が許されず、やむなく私一人上京せねばならなかった。

無電の技師を連れて来たかったのは、日本政府との話し合いいかんでは、東京から直接、重慶と無電交信し、東京・重慶の直接折衝に移したかったからである。もとより南京総軍は私を信用していないし、私はより以上に南京総軍を信用していないので、私の要求は冷淡に総軍から一蹴された。渡日については、蔣委員長の諒解をえている。

中日全面和平の実現については、日本政府との折衝の期限について、蔣委員長から内命を受けている。中日全面和平はもとより日米和平の前提として考えている。これによって中日両国が戦争の徹底的荒廃から救われ、東亜の保全を維持しうるのみならず、世界克復に資することができる。小磯総理と話を進めたい」ということであった。

その翌日、繆斌は麻布の東久邇宮邸を訪ね稔彦王殿下に会っています。これは東久邇宮殿下がかねてから蒋介石との和平工作を望んでいることを知っていたからです。さらに東久邇宮殿下は当時最も天皇に近い方であるので、自分の考えを天皇に伝えていただきたいという希望もありました。

このとき、東久邇宮殿下は、繆斌に「重慶では日本の天皇を認めるか」「何の理由で日本と和平するのか」「なぜ自分(宮殿下)に面会を望むのか」などについて質問されましたが、繆斌の発言は大体次のようなものでした。

「中国は日本の敗戦、滅亡を望んでいない。日本の健在は中国のために必要である。東洋から日本の勢力を抹殺されることになれば、ソ連が中国に進出してくる。日本は中国の防波堤である。日本の戦局は容易ならぬものがある。

米国の次期作戦は必ず琉球への上陸である。日本を孤立させ、艦砲射撃と空襲で日本本土を徹底的に叩いた後で、最後に日本本土に上陸作戦を敢行するであろう。米国は中国大陸には作戦しない。ソ連は米国の対日攻撃が決定的局面を展開した場合、必ず満州に進入して来る。日本は敗戦の前に米国と和平してもらいたい」

このような内容で、次のような中日全面和平実行案を提示したのです。繆斌はこの案は蒋介石委員長の内意も受けているものであると言いました。それによると

一、南京政府を解消して日本の誠意を示すこと。
二、南京政府の解消と同時に、重慶側の承認するような引継機関としての留守府を開設すること。
三、日本政府は、この引継機関としての留守府が成立すると、この政権を通じて重慶政府と停戦・撤兵について交渉を開始すること。

などでした。東久邇宮殿下はこの提案に共鳴して、ぜひ日中和平を実現したいと大いに乗り気になられ、小磯総理とともに尽力されたのであったのですが、残念なことに杉山陸相、米内海相、重光外相、木戸内大臣等の反対で、この繆斌工作は失敗に終わったのです。

 





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高速道路の無償化とは
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/16(火) 20:19
No. 7515
 
 
高速道路とは巨大な詐欺のようなものだと思います。国土交通省が高速道路無償化の期限を現在の2065年から50年延長し、2115年にするための法改正案を国会に提出するというニュースが、2023年1月にありました。

本来「道」は誰のものでもなく、アメリカのハイウェイのようにすべての人々が無料で自由に往来できるもののはずですが、日本では高速道路など多額の建設費用がかかる道を作る場合、それを利用することによって、目的地に早く到着するなどで得をする人に『受益者負担』として、その費用が償却されるまでという条件付きで通行料金を負担してもらう。

しかし、1964年の首都高速、1968年の名神高速道路開通から半世紀以上が経過しましたが、無償化された道路はほとんどありません。それどころか値上げを繰り返し、首都高は当初の50円から現在は最高で1950円にもなっています。

もちろん当時より道そのものが延伸していますので一概に比べることはできませんが、それでも「早く無料にならないかな」と待っている人たちの期待を裏切り続けていることは間違いありません。

無償化しない理由を「道路を維持するのに金がかかる」「新しい道路を作る費用が必要」としていますが、それは最初からわかっていたことです。それでいて「建設費用が償却できたら無料にする」としたのですから、吐いた言葉の責任をいったいどう考えているのでしょうか。

数少ない無料になった道路のひとつに、大阪と奈良の境にある生駒山を通る「阪奈道路」があります。この道はそれまで片道100円だか150円だかを徴収していましたが、1981年に無償化されました。

その時、私は「無料にするところがあるのだ」と驚いたことを覚えています。でも、驚きはそれっきりでその後は聞きません。いまや誰も高速道路が無償になるなんて思っていないでしょう。 2065年だとしても私を含め今生きている人の多くはいないだろうし、さらに2115年ならこれから生まれる人も大部分が死んでいます。

それでも、なお「延期」でお茶を濁す神経には呆れます。どうせできないのだから、いつまでも期待させるようなことを言わずに正直に言うべきだと思います。それは非常に残念で、そして情けないことですが。

 





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差別用語狩りとは
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/10(水) 15:52
No. 7514
 
 
「女人禁制」は女性差別かという設問は、回答者に自由に答えさせているかのように見えながら、良識ある人には、予め決まった答えを選択させてしまいます。すなわち、「女性差別というほどのものではない」という現実的な答えです。

この様な選択をする分岐点は、どこにあるのか。鉄道の切り換えの転轍機に当たるものです。それは「差別」です。誘導尋問型アンケートの説明の時に、憲法改悪の是非を問うという設問を例に出しました。「改悪」だから、誰でも否と答えます。これに似ているのです。「差別=悪」だから、必然的に転轍機の方向は決まってしまうのです。

だが、差別が本当に悪なのか。そんなことは、いつ、誰が、どんな手続きで、何の正当性があって、どういう権限で、まるで絶対普遍の真理のように決めたのか。もしかしたら、それには単なる妄想かもしれない。実は、差別は素晴らしい事なのかもしれない。

差別用語狩りは行き過ぎている感じがします。ここ十数年、差別用語狩りが物凄いでしょう。私は同和問題推進委員に名前を連ねていますが、「えっ」と思う事が多々あるのですよ。ちなみに「片手落ち」が使えないので、「片落ち」と言うのです。では、「手落ち」があった場合はどうするのですかねぇ(笑)。

1992年の7月19日の朝日新聞は、竹下首相が遊説中に黒人を「黒」と表現したと非難されました。オゾン層の破壊で皮膚がんの発生が増えている、という話の中で、「発生するのは白人の方ですよ。黒や我々まだらには出ていない」と言ったのです。「まだら」は珍妙だし、「白人の方」も変です。

しかし、放送で「朝鮮人の方」なんて、よく言う。「朝鮮人の人」っていうのも聞いたことがある。その辺りは可笑しいけれど、黒や中間色の肌では皮膚がんが発生しにくいというのが、どこが差別なのですかねえ。黒人が黒じゃなかったら、何だろう。そのうち、「黒人」も言えなくなるのではないですかね。

私が子どもの頃は、足の悪い友達も「びっこ」こっちだぁぞーといって、鬼ごっこをやっていました。冒険するときも「びっこ」そっちは危ないぞと言っては自然と仲間が手助けしていました。そうやって私たちは何の意識もせずに遊んでいた。今でも大切な友達です。

それが差別だというならば、それでもよい。だが、現在は大人が変な意識を埋め込みすぎるので子供達は、障害者に近づかないようにしているのも事実です。遊んでいる姿を見ると足の悪い子どもはいつもポツンと一人でいる。仲間に入りたそうに見えるのです。

ともかく、この差別用語狩りも、何度も反省の声が出ているのですが、結論は、妥協的な良識論に落ち着くのです。行き過ぎはまずいと思うのですが、今、私が話した子どもの頃の話は、実際には、怒られるのです。

ここに「差別=悪」というイデオロギーが関係しています。差別用語狩りの行き過ぎは自制しよう、と言っても、「差別=悪」という前提がある以上、行き過ぎるに決まっています。一体、我々は何を根拠にして、差別は悪いと思い込んでいるのか、いや、思い込まされているのか、よく考えてみる必要があるのではないでしょうか。

おまえは差別されても平気なのか、なんて言うのは、一番根拠になりそうで、実は何の根拠にもなりません。誰だって差別されるのは嫌です。しかし、差別するのは好きでしょう。だったら、こう言えばいいではありませんか。私を差別するな、だが、私は差別するぞと。

 





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ハル・ノートで宣戦布告
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/10(水) 15:51
No. 7513
 
 
国力が比較にならない、日米開戦の昭和16年は満州事変以来、既に10年が経過していました。日本国は世界の白人を敵に回して、この上アメリカと戦争するなんて出来るわけがないと、好戦的な軍国少年はいざ知らず、大半の人間は思っていたそうです。

日清戦争、日露戦争、さらに満州事変だって1年余りで終わっています。戦争が長引き国力も尽きているのにこの上、アメリカと戦争する力がないことだけはよく知っていたはずです。もちろん軍人だって知っていたのです。

だが「ハル・ノート」のおかげで戦争を回避できない状態に追い込まれました。「日本軍は中国から全面撤退すべし、蒋介石政権以外は認めない」というハル・ノートは日本への最後通牒、宣戦布告です。政府はそれを国民に隠して発表しませんでした。

発表していれば、昔の日本人は今の洗脳されている歴史しかしらない日本人と違います。武士道精神がありましたからアジアの開放のために世論は開戦やむを得ないと承知したでしょう。さらに当時の日本はというより今の日本もそうですが、日本人は外交苦手な人間ばかりです。現在の奴隷状態なら米国の提示した「ハル・ノート」を受諾するでしょう。

そして催促されたら一個師団を朝鮮に撤退します。当時の朝鮮は日本国だということは世界が認めています。さらに催促されたらもう一個師団右から左に動かします。国際情勢は猫の目みたいに変わります。日本国に有利に動いた好機を捕えます。

終戦を迎えたときの国民が書いた文章を読むと「ほっとした」というものが本音のようです。玉音放送は録音が悪くて雑音だらけたったのですが、北方でも南方でも直ちに武装解除したのは、終戦を待ち望んでいたからです。戦前を語るのは難しい。

何しろ敵は幾万、アジアで西洋人の植民地になっていなかったのは日本国とタイ王国だけですから。細かいディテールを積み上げていかなければ納得してもらえません。時代考証というものがありますが、それは昔のほうが優しい。

江戸時代は元禄と文化文政と幕末の3つで片付けられる、「暴れん坊将軍」なんて将軍吉宗が刀を振り回している、絵そら事に決まっているから、時代考証も糸瓜もない。明治はもう時代劇です。大正はまだ憶えている人がいるから気をつけているのです。(笑)

 






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