| TOP | ホーム | 携帯用 | 過去ログ/検索 |

☆★☆最新情報7☆★☆

 
新規投稿 ] 
  清には4つの顔がある  仲條拓躬2024/11/19(火) 16:20 
  戦わずして領土を広げる  仲條拓躬2024/11/19(火) 16:18 
  没収された書籍  仲條拓躬2024/11/14(木) 16:10 
  日本国憲法第9条の行方  仲條拓躬2024/11/14(木) 16:08 
  フランスと日本を比較する  仲條拓躬2024/11/14(木) 16:06 
  重力と加速運動とは  仲條拓躬2024/11/11(月) 18:53 
  相対論と宇宙論とは  仲條拓躬2024/11/11(月) 18:52 
  イギリスとフランスの百年戦争  仲條拓躬2024/11/11(月) 18:50 
  温暖化による人口増加  仲條拓躬2024/11/11(月) 18:49 
  2024福島の旅日記2日目  仲條拓躬2024/11/11(月) 18:48 






[ 一覧 ]
清には4つの顔がある
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/11/19(火) 16:20
No. 7649
 
 
16世紀末に中国東北部の満洲で、女真族のヌルハチがマンジュ国を建国していました。17世紀になると、ヌルハチの跡を継いだホンタイジは、チンギス・カアンの一族から妻を迎えます。そして北元から大元ウルスの玉璽を譲られてカアンとなり、国の名前を清 (大清グルン)に変えました。

その後、明が滅亡すると、中国は清の時代になるわけですが、最盛期の清は四重帝国でした。中国人にとっては「清の皇帝」である人物が、同時に「満洲族の大将」であり、チンギス・カアンの流れをくむ 「モンゴルのカアン」であり、やがて「チベット仏教の大旦那」 にもなり、4つの顔を持つようになったということです。

1637年、ホンタイジは朝鮮を完全に服属させます。ホンタイジは、明と戦争していたので、明の豊かな物資が入ってきません。その代わり、明と交易があった朝鮮を経由して物資を得ていました。朝鮮は生命線だったのです。

ホンタイジは明を倒そうと、何度も南下しますが、どうしても北京に入れないまま死にます。なぜかというと、万里の長城に山海関という、昔から難所とされる要塞があって、そこを呉三桂という明の大将軍が守っていたからです。

明は1644年、李自成によって滅ぼされます。李自成は、農民反乱のなかで頭角を現し、 北京を攻め落としました。そのとき、呉三桂はかわいいガールフレンドを北京に残していました。そのガールフレンドを、李自成が拉致したという噂が流れます。

すると、呉三桂は何を血迷ったか、山海関の門を開け、これまで敵だった清軍と一緒に北京に直行して、李自成を倒してしまいます。李自成と呉三桂のおかげで、清軍は楽々と北京を手に入れました。人間って、 愚かな動物です。呉三桂は清に恩を売ろうという狙いもあったのだと思いますが。こうして、清によって中国全土が再統一されました。

 





[ 一覧 ]
戦わずして領土を広げる
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/11/19(火) 16:18
No. 7648
 
 
ルイ11世は、シャルルの死に乗じてブルゴーニュを奪います。ついでにフランドルも狙いましたが、 頓挫します。そしてブルゴーニュ公家のシャルルの一人娘のマリアが、ハプスブルク家のマクシミリアン1世と婚約して、ハプスブルク家がフランドルを獲得します。

ここからハプスブルク家の幸運が始まり、有名な言葉が生まれます。「汝幸いなるオーストリアよ、結婚せよ」です。オーストリアの幸運なるハプスブルク家は、結婚で領土を広げていけばいい。戦争など、よそに任せておきなさい、というわけです。

イベリア半島ではカスティージャの王女イサベルとアラゴンの王子フェルナンドが結婚してスペイン王国が誕生しました。 2人は、イベリア半島からイスラム教徒を追放するレコンキスタの運動を一所懸命やりました。

そして1492年、アルハンブラ宮殿で有名なグラナダを陥落させ、レコンキスタを完成します。イサベルとフェルナンドは、「ローマ教会が正しい。異教はけしからん」と思ってレコンキスタをやっていました。

だから、レコンキスタでイスラム教徒を追い払ったら、次はユダヤ人だということで、ユダヤ人をスペインから追放してしまいます。ユダヤ人は、スペインの金融を一手に引き受けていました。 レコンキスタの戦費を賄ってくれたのもユダヤ人です。

そんなユダヤ人を追放したら、国力が弱くなるのは目に見えています。しかし、2人は経済より宗教の方が大事だと思っていて、判断を誤ります。ローマ教皇から「カトリック両王」という称号を与えられて2人は喜びましたが、のちにスペインがおかしくなる種は、このときにすでに撒かれていたのです。

レコンキスタが完成した1492年は、コロン(コロンブス)がバハマ諸島に到達した年でもあります。コロンが新大陸に到達したことで、大変なことが起きます。ペスト大流行でペスト禍で生き残ったヨーロッパ人はめちゃ強い免疫を持っています。

そんな人間ばかりのコロンの船隊がバハマ諸島に到着して、そこでくしゃみをしたらどうなるか。ヨーロッパの旧大陸からやってきた、めちゃ強い病原菌が新大陸に蔓延します。こうして、新大陸の人々は、旧大陸から船が到着しただけで、天然痘やはしかにかかってバタバタと死んでいきます。免疫を持たないわけですから。

あまりにもたくさんの人が死んでいくので、旧大陸の人々は領土を得られても、耕す人がいないということで困りました。そこでアフリカから黒人を連れてくることになりました。 すると、働き手を奪われたアフリカが衰退します。

コロンの新大陸到達は「コロン(コロンブス) 交換」とも呼ばれます。新大陸と旧大陸でいろいろなものが交換されたという意味です。農作物の交換では、旧大陸はジャガイモやトウモロコシ、タバコなどを得ました。

新大陸も小麦などを得たものの、どちらが得をしたかといえば、旧大陸の圧勝です。これが病原菌の交換となるともう、新大陸は旧大陸に0勝100敗くらいで負けたように思えます。でも、実際には1勝99敗ぐらいです。旧大陸に梅毒を輸出して、一矢報いた格好です。でも、被害の規模が違いすぎます。

 





[ 一覧 ]
没収された書籍
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/11/14(木) 16:10
No. 7647
 
 
読売新聞に掲載されていましたが、「アジアに叫ぶ」(土井晩翠)、「航空対談」(菊池寛)、「大東亜戦争私感」(武者小路実篤)、「米国人の観たる満州問題」(新渡戸稲造)。とても読んで見たい本です。学術的にも文学的にも素晴らしい本だということですが、GHQにより没収されたのです。

東京・赤坂で芸能プロダクションを経営する澤さんは2000年2月、神田の古書店で「没収指定図書総目録」(1982年・文部省社会教育巨編)を見つけて、戦後、連合国軍事総司令部(GHQ)が「軍国主義的」などとして日本政府に没収を命じた図書約7000書籍のリストがあるといいます。

この一覧表の中には我々の石原莞爾平和思想研究会の前身である「協和会」や「東亜聯盟」の書籍も掲載されているといいます。我々はマッカーサーによって発禁に追い込まれた本や東条英機に没収された本、石原莞爾が書き記した日記を長い間、私の父が隠し持っており後世に残すべきと判断して世に出した。

幸い、石原莞爾平和思想研究会の同志には作家や書店・出版社、流通業者などがいるので多くの資料が集まっています。私などは保管するだけで、理解も出来ず目を通せませんが、個人所有の本だけでも莫大な資料が保管されています。

今も古本屋や図書館に寄贈した本まであります。古い本は、朽ち始めてしまいます。価値のある史料として、恒久平和の礎を築くためにも多くの方と研究を重ねていきたいと思っています。

 





[ 一覧 ]
日本国憲法第9条の行方
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/11/14(木) 16:08
No. 7646
 
 
サンフランシスコ講和条約が、ポツダム宣言を終了させる形で1951年9月に調印されたのですが、同時に日米安保条約が調印されました。なぜ同時だったのかといえば講和条約が成立した時点でアメリカ軍が日本を占拠する大義名分はなくなったからです。

しかし、アメリカにとってアメリカ軍の日本駐留は、共産主義勢力との世界的戦略の観点から必要でした。つまりアメリカ軍はこの時に、日本占領軍から在日駐留軍に変貌したのです。駐日米国大使を務めていたマイク・マンスフィールドは、日本経済新聞の「私の履歴書」(1999年9月)の中で、次のような発言をしています。

「日本から朝鮮半島に回した米軍の穴を埋めるため、吉田茂首相に7万5000人の警察予備隊の創設を命令した」これが現在の自衛隊になるわけですが、マッカーサーは連合国軍総司令部(GHQ)が作成した「米国製」の日本国憲法第9条を伺うものともいえます。

戦争放棄を定めた日本国憲法第9条は、マッカーサーの直接の指示を受けてGHQの民生局のチャールズ・ケーディス次長を中心に作成した条項で、どこから見ても米国製です。日本に戦争を放棄させ、安全保障をアメリカ頼みにさせたのはアメリカです。アメリカ人はこの条項を批判すべきはおかしい。

今後どう判断すべきは、日本の国民が判断すべき問題なのです。マンスフィールド大使といえば、日本でも最も尊敬し慕われた大使です。その大使の口からこれほど明確に日本国憲法がアメリカ主導で作成されたこと、そしてその後アメリカが対日政策を大転換させ、当初の憲法から逸脱して違憲的存在である自衛隊を日本に作らせたことが語られたのは衝撃的なことです。

占領下にアメリカの手によって起草された日本国憲法は、その後、冷戦が表面化したため、起草者であるアメリカ自らの手で拡大解釈され、平和憲法の趣旨を大きく逸脱させられてしまったのです。

しかもその後の国際情勢の変化とアメリカの世界戦略の変化により、憲法第9条の拡大解釈は歯止めなく進み、もはや憲法第9条は蔑ろにされているのです。この状態を放置しておくことは、法治国家としての日本をモラルハザードに追い込むばかりか、アメリカの軍事戦略に沿った日米同盟体制を、黙って許すことになるのです。

憲法第9条の改正を口にすると、直ちに軍国主義化という批判が出てきますが、しかしこの状態では、平和憲法を守るためにこそ憲法改正が必要だという認識を持たねばならない時期にきています。

憲法第9条を擁護し続ける人たちは、皮肉にも憲法改正を頭から拒否し続けることによって、政権政党と官僚による違憲行為をなし崩し的に許しているのです。自民党と官僚がアメリカに言われるままに日本の軍事力を増強してきたことに、どんな効果的な対抗策も打ち出せなかったのは事実なのです。

 





[ 一覧 ]
フランスと日本を比較する
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/11/14(木) 16:06
No. 7645
 
 
フランスの国を見ると大きな半島に見えます。現在の国土は、3つの海に囲まれています。北に英仏海峡、西に大西洋、南に地中海です。海流が暖流なので人が住みやすいそうです。日本はオホーツク海と日本海の海流を浴びます。

2月の平均温度はパリと東京でほぼ同じですが、パリの緯度は樺太(サハリン)なみで、東京の緯度はモロッコなみです。だが、パリは北なので冬の学校は1時間目が夜明け前の暗さです。4月になり冬が終わると5月はすぐに初夏なので春は殆どありません。

夏の夜は、最低気温25度以上はないので、家庭用クーラーは必要ないし、車も夏は窓を開けて走っています。南フランスの海浜でも湿度が低いので、家庭用クーラーはいりません。浴室のある家庭が日本より少ないので、毎日シャワーで体を洗うフランス人は26%です。だが、近年は地球温暖化の影響なのか異常気象に悩まされています。

フランスの国土を語ることは日本との違いを列挙するに等しいと言います。森林は国土面積の4分の1の25%です。ちなみに日本は森林が70%です。平野と海抜250メートル以下の台地が3分の2の70%弱です。日本は逆に山地が80%です。

そして農地、牧場、牧草地として使える面積が57%もあります。日本の農地は14%です。全面積は54万7000平方キロメートルで、日本の37万8000平方キロメートルと比べれば、1.5倍だが、フランスの場合大きな島はコルシカだけなので、フランスの国土は1カ所にまとまっているのです。

それが、ヨーロッパではロシアの次に大きい面積で、その7割が平らで、人口は日本の半分なので、フランスの田舎を列車や車で走ると日本よりかなり大きく感じてしまいます。フランスと日本が1つだけ国土感覚で似ている点は、飛行機で国内のどこへでも2時間以内で行けるということです。フランスの国土を描くのは簡単です。

平べったい六角形を書けばよいのです。その向かって左上の角に2つ耳をつける。上の耳は少し小さくする。これがノルマンディー半島です。下の耳がブルターニュ半島です。下の半島の上部の北は英仏海峡岸で下部の南は大西洋岸になります。

その脇の下の線を下がって真ん中辺の海沿いがボルドーです。ここから内陸へ真横に見ると、中央山塊にぶつかってその向こうがリヨンで、そこから斜め上に行った方向はスイスのジュネーヴがあります。

その辺は縦南北にアルプス山脈です。その真北にジュラ山脈、そのまた北にヴォージユの森林があります。その東はドイツです。高山はほかには西南のスペイン国境をずっと区切っているピレネー山脈があるだけです。

 





[ 一覧 ]
重力と加速運動とは
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/11/11(月) 18:53
No. 7644
 
 
現在、自然界には4種類の力が知られています。重力、電気や磁気の力をまとめた電磁気力、原子核の中の陽子や中性子をつなぎ止めている「強い力」、そして中性子を陽子に変えると同時にニュートリノが放出されるなどの現象を引き起こす「弱い力」です。

実はこの4つの力のうち、重力だけが持つ特筆すべき性質があるのです。それは、重いものも軽いものも、重力によって生じる運動の加速度は同じであるというものです。塔の上から重い球と軽い球を同時に落とすと、どちらが先に地面にぶつかるか。

これが、ピサの斜塔で行われたという有名な逸話が残るガリレオ・ガリレイの実験です。空気抵抗などの効果を除いた理想的な実験なら、両者は同時に地面に到着するというのが正解です。物体の運動を決めるのは加速度であるから、この事実は重力によって発生する加速度が物体の重さによらないことを示しています。

このような性質を持つ力は、実は重力だけです。例えば電磁気力を考えると、同じ電圧で陽子と電子を加速すると、両者は同じ電荷(ただし符号は逆である)を持つので同じ大きさの力が加わるが、電子は陽子のおよそ2000分の1の重さのため、はるかに動きやすく、2000倍大きな加速度が生じます。

重力のこの奇妙な性質について、ニュートン力学による説明はやや回りくどいものです。物体にかかる重力は、その物体の質量(重さ)に比例して大きくなります。万有引力の法則です。一方、質量が大きいと、同じ力が加わってもその分だけ動きにくい、つまり加速度が小さくなります。

結局、この二つの効果が相殺して、物体の質量によらず同じ加速度が生じるというわけです。一応、これで説明にはなっていますが、なんだかすっとしない気分にならないだろうか?「すべての物体が同じ加速度で運動する」という、ごく単純で美しい事実を説明するのに、物体ごとに異なる力の大きさや質量を持ち込むのは美しいとは言えません。

科学者はそんなところに、より深い物事の本質が隠れていることがあるといいます。この場合もまさにその一例で、一般相対論はこの性質に注目することで、より深い重力の本質をとらえた理論が得られたものなのです。

この重力の性質のために、「加速運動する観測者の周囲の物体が逆向きに加速して見える現象」と、「重力が加わることで物体が加速される現象」は実は区別がつきません。どちらも、観測者の周囲のすべての物体が同じ加速度で運動することになります。

別の言い方をすれば、重力が働いていても、その重力による加速度で周囲の物質と一緒に落下する観測者から見れば、周囲の物体には加速度が働かない、つまり重力が消えることになります。落下するエレベーターに乗った人は、その中で無重力状態を観測することになるのです。

スペースシャトルの中で宇宙飛行士がふわふわと浮かび、無重力状態になっている映像をよく見かけます。では、「スペースシャトルの中はなぜ無重力なのか?」という質問に、どう答えるだろうか。多くの人は「スペースシャトルは地球から遠いところを飛行しているので、地球の重力が及ばないから」と答えます。しかしこれは完全な誤りです。

スペースシャトルの典型的な地表からの高度はたかだか数百キロメートルに過ぎない。名古屋の間の距離ぐらいで、地球の半径に比べれば小さなものです。つまりスペースシャトルは、宇宙から見ればほとんど地球にへばりつくように飛んでいるのです。

地球の重力の大きさは地球の中心からの距離で決まるから、地上にいる我々と、軌道上のスペースシャトルで重力の大きさは実はほとんど変わらないのです。ではなぜ、無重力となるのか? 正解は「みんな一緒に落ちているから」です。

スペースシャトルが「落ちている」というのは変に聞こえるかもしれないが、地球の重力に引かれて進路が変わっているという意味では、木から落ちるリンゴと変わらないのです。ただ、スペースシャトルは地球の表面に沿って高速で運動しています。スペースシャトルの落ち方が地球の表面の曲がり具合にぴったり合っていれば、スペースシャトルは永遠に地球の周りを回りながら、落ち続けるのです。

すべてのものが重力に身を任せて自由落下する場合、加速度は同じなので、相対的な加速度はすべて消滅して無重力状態になるのです。つまり、スペースシャトルの中の無重力状態とは、エレベーターが降り始める時に一瞬体が浮くように感じる、あの日常的な現象となんら変わりはないのです。

 





[ 一覧 ]
相対論と宇宙論とは
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/11/11(月) 18:52
No. 7643
 
 
相対性理論はご存知の通りアルベルト・アインシュタインによって構築され、物理学に革命をもたらした理論です。1905年に発表された特殊相対論は、光の速度がどの観測者にとっても不変という衝撃の観測事実を説明するために、運動している人と静止している人では時間や空間が異なると考えた理論です。

人類が長らく抱いていた、時間と空間についての概念を一変させたと言えます。一方、1915年に発表された一般相対論は、特殊相対論を重力が含まれるように拡張したものです。その拡張のカギとなったのは、重力は時空のゆがみ(曲がっていること)であるという独創的なアイデアでした。

特殊相対論は仮にアインシュタインがいなくても、誰かがいずれ同じような理論にたどり着いたように思われます。事実、運動している人にとって時間と空間がどのように変わるかという数学的な変換は、特殊相対論に先立ちヘンドリック・ローレンツによって導かれたもので、ローレンツ変換と呼ばれています。

しかし一般相対論の「重力は時空のゆがみ」という発想は、おそらく自然科学の歴史の中でも最も独創的でユニークな発想の一つとも言うべきものです。一般相対論が物理学者の常識となっている現代の学者が想像しようとしても、正直、どうしてこんなことを思いついたのか、およそ見当がつかないレベルのものでしょう。

多くの凡庸な科学者にとっては、こういうところに天才と凡人の間の越えられない壁を感じたりするものだといいます。いずれにせよ、この一般相対論によって時間や空間は永遠不変ではなくダイナミックに変化するものとなり、しかもそれが物理学の法則によって記述できるようになったのです。

宇宙というのは結局のところ時間と空間であるのだから、科学史上初めて、宇宙そのものが自然科学の対象になりうる状況が出現したわけです。この一般相対論をその基礎に置いて、ビッグバン宇宙論は誕生しました。

ということで、宇宙の果てを考える上で相対論を避けて通るわけにはいかないのです。相対論に関する書籍は数多く出版されているので、宇宙論を理解するための最低限の説明にとどめようと思います。特殊相対論の出発点は、「光はなにに対して一定の速度で伝搬するのだろうか?」という問いかけでした。

物体の運動速度を測定することを考えよう。我々の日常感覚では、観測者が静止しているか、あるいは運動しているかで測定される物体の速度は異なります。地面に立っている人にとっての電車の速度と、それに並行して走る自動車に乗った人にとっての相対的な電車の速度は異なるという、誰でも経験することなのです。

 





[ 一覧 ]
イギリスとフランスの百年戦争
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/11/11(月) 18:50
No. 7642
 
 
イギリスとフランスの百年戦争は、1396年に一時休戦になっていました。それまでの前半戦では、シャルル5世という賢い王様がフランスを仕切って、イングランドを追い返しました。しかし、そのシャルル5世の子どものシャルル6世が精神に異常をきたし、これを機にフランスの王室が内輪揉めを始めます。

それを、イングランドのヘンリー5世はチャンスと思い、戦争を再開しました。百年戦争の後半戦です。 ヘンリー5世は、1415年のアジャンクールの戦いでフランス軍を撃破。 フランスのブルゴーニュ公と同盟を結んで、パリを占領してしまいます。

このときに、シャルル6世は、トロワ条約という屈辱的な講和条約を結んでしまいます。 パリを明け渡して、娘のカトリーヌをヘンリー5世に嫁がせ、自分の次の王位はヘンリー5世が継ぐという内容です。シャルル6世の息子のシャルル7世は、廃嫡されます。

この条約を結んだ後、ヘンリー5世とカトリーヌの間に、男の子が生まれます。のちのヘンリー6世です。ヘンリー5世はめちゃめちゃ喜びます。自分はイングランド王で、フランス王位の継承権も持っている。そのうえ、跡継ぎも生まれた。

これで英仏統一帝国ができると喜んだのも束の間、疫病で死んでしまいました。その直後、シャルル6世も没します。これによって、わずか1歳のヘンリー6世が、イングランドとフランスの王様になったわけです。当然、政治はできないので、ヘンリー5世の弟が摂政になってフランスを仕切ります。

このときフランスでは、廃嫡されたシャルル7世がブールジュを拠点に抵抗していました。これを潰そうと、イングランド側は、オルレアンに大軍を送ります。そこに現れたのが、 ジャンヌ・ダルクです。

ジャンヌ・ダルクはイングランド軍を撃退し、シャルル7世をランスで戴冠させます。しかし、その後、火あぶりにされてしまいます。百年戦争は一進一退を続けました。それからジャンヌ・ダルクは長く、忘れられます。ジャンヌ・ダルクを「再発見」したのはナポレオンです。フランス革命の後、ヨーロッパの国々は大騒ぎになりました。

「とんでもないことだ。 ルイ16世を殺した」「こんな国は潰さんと自分たちも大変なことになる」と。どこの国にも王様がいます。だから、ヨーロッパ中の国々がフランスを潰しにやってきました。そのときにナポレオンが、新聞に書かせまくるわけです。

「フランスはえらい危機です。四方八方、全部が敵です。でも、昔にもそんなことがあった。パリを取られてフランスが滅びそうになったとき、田舎からジャンヌ・ダルクという乙女が現れてフランスを救ったのです」と言ったわけです。ナポレオンもコルシカという田舎から出てきた無名の若者です。

だから、オルレアンという田舎から出てきたジャンヌ・ダルクを再発見して、自分と重ねあわせることで、フランスのナショナリズムを煽ったわけです。ナポレオンによってジャンヌ・ダルクは救国の英雄になり、やがてローマ教会の聖人にもなります。ただし、聖人になったのは1920年。20世紀になってからです。

 





[ 一覧 ]
温暖化による人口増加
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/11/11(月) 18:49
No. 7641
 
 
11〜12世紀の200年は、気候が温暖化し、ユーラシア全域で人口が増加した時代です。東方では、唐宋革命によって生産力が増大し、「澶淵システム」によって経済が発展し、社会が安定します。イスラム世界は、インドやアフリカまで広がりました。

東ローマ帝国は、東からトルコ系のイスラム教徒、西からノルマン人(バイキング) の圧迫を受けて、軍事力優先から外交優先の戦略に切り替え、東ローマ帝国の最盛期は終焉に向かいます。中国は長い歴史のなかで、 唐から宋に移る時代は大きな変革期でした。

唐宋革命と呼ばれる、さまざまな構造改革をへて、11世紀初頭に、今日の中国の社会や文化の原型ができます。まず、政治改革です。唐の武則天が活用した科挙が、宋の時代、全国に広がります。科挙というのは、 要するに国家公務員試験ですが、この時代、試験の最後に殿試といって、皇帝が合格者を面接して、順位を付けるようになりました。

するとどうなるか。皇帝から直々に「国の将来、お前に任すで」「この試験、お前が1番やったで」と声をかけられたら、うれしいです。だから、もともと試験で選ばれた有能な人が、忠勤に励むようになります。2番、3番もそうです。

こうして、中国全土から集まった有能な官僚が皇帝と強く結びつき、皇帝独裁を支えるようになりました。それまでの中国では、皇后や皇太后のお父さんやお兄さんなど、外戚と呼ばれる人たちがよく、政治に口を出していました。

けれど、この時期から外戚も貴族も姿を消します。同じ時代の日本で、外戚の藤原道長が我が世の春を謳歌していたのと比べたら、ずっと先進的な社会です。この時代の中国は群を抜いて世界の最先端を走っていました。

なぜかといえば、木版印刷が発達していたからです。科挙のような、全国規模の国家公務員試験ができたのは、参考書があったからです。全国どこでも役所には参考書がたかく積まれていて、やる気があれば、誰でも勉強して試験を受けられました。

中国は、早くも11世紀に実力一本勝負の社会になっていたのです。ほかの地域で公務員試験ができるようになるまでには、あと800年、待たないといけません。農業革命をもたらした温暖化と火力革命次に農業革命です。

これは気候が温暖化したところに、チャンパ米という早生のお米が入ってきて、米と麦の二毛作ができるようになったからです。単純にいえば、生産性が2倍になったわけです。 2倍の食料があれば、2倍の人口を養うことができます。

それまでの中国の人口は、漢の時代も唐の時代も最大5000万~6000万人でしたが、この時代に1億人近くまで膨れ上がります。農業革命を助けたのが、製鉄業の発展で、その源には、燃料として石炭とコークスを使う火力革命がありました。

高温で料理ができるようになって、中国料理が完成します。中国料理では、高温の油で食材を揚げます。お茶が普及して、おいしい料理と一緒に、みんながお茶を飲むようになります。すると陶磁器産業が発達します。陶磁器といえば、景徳鎮が有名ですが、景徳は宋の時代の年号なのです。

 





[ 一覧 ]
2024福島の旅日記2日目
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/11/11(月) 18:48
No. 7640
 
 
5時半から6階の丘の湯に入れるので、5時に行ってみたら入れた。一番乗りかと思ったら暗闇の中に人影があった。この露天風呂は体が震える寒さで飛び込みそうになった。真っ暗なので幻想的で自然と融和していて、ともて癒されました。

朝食は苦手なバイキングです。バイキングは何食べても美味しくない経験をしているのですが、ここのバイキングは違う。ひとつひとつが美味しいのです。和食の種類が充実していて嬉しいです。朝から食べられないようなものが、食べられて満足です。美しい庭を眺めながら、夕食・朝食、両方とも満足でした。

宿はとにかくデカければ、敷地も広いです。露天風呂は、本館からかなり遠いところにあって、5分くらい歩きます。それはデメリットだとは思うけど、その通路自体はモダンに造られていて、飽きずに歩けます。昭和チックなゴージャスさです。

例えば派手なシャンデリア、キャバレー風のソファとか、もちろん老舗旅館なので全てが新しくはないのですが、とても品のいい雰囲気にまとめられていて、増築した場所に関してはとても素敵で敷地が広いです。庭の奥に神社があるのです。

鳥居が見えるところが入口で、その後ろの山が神社の敷地です。参道には鳥居がずらり。参道全体に配されていて、100基以上はあると思います。約10分で山頂のお堂に到着。意外と歩きます。おみくじもあります。

八幡屋は高級な旅館ではないでが、それでも温泉がよくて、食事も美味しい、綺麗な館内、広大なよく手入れされた敷地、そして温かい従業員の皆様がいます。気の利いた配慮とか、ちょっとした雑談とか、こちらを楽しませようとしてくれるのが伝わってきます。

従業員教育が行き届いているのが分かりました。観光バスに乗り込み車が走り出すといたるところに従業員がいてお見送りをしてくれているのです。最後の最後には女将が寒い中、手を振っているではないか。

この光景は加賀屋の従業員が電車のホームまで見送りに来ていたのに似ていました。でもそれぞれが素晴らしくて、なんだか心が満たされる、そんなお宿でした。旅行業界の方にも、そういうのが評価されて日本一に選ばれたのだと思います。

宿を後にして「弘道館」に向かいました。昨年、岡山県に行って47都道府県すべて旅行しました。その時に、岡山の後楽園に行った。金沢兼六園にはすでに行ったことがありますので、これで日本三大名園を全制覇したことになります。

水戸を代表するもう一つの観光地であり史跡である弘道館にやってきました。「弘道館」は国の重要文化財に指定されています。水戸藩第九代藩主徳川斉昭公が優れた人材を育成するため、建立されました。建てられたのはなんと1841年です。

江戸時代の天保に遡り、文武両道の理念のもと儒教、剣術、槍術、数学、天文学、医学、薬学等の多彩な学問を通して多くの水戸藩士が育っていきました。中に入ってみる紋どころが目にとび込んできました。畳縁に葵の紋、襖の取っ手に葵の紋など。

ちなみに屋根にも葵の紋がありました。少し、歩いてみると学校ですから便所はあるにせよ、今でいうお風呂まであったのです。「湯殿」の方を見てみると、どういう感じで湯あみをしていたのか気になる部屋でした。機会がありましたらご覧になってくださいませ。

現在、水戸市では世界遺産の登録を目指す取り組みをされていますが、「弘道館」は日本を代表する学問・教育の歴史遺産ですので、ぜひ世界遺産に登録してもらいたいです。資料展示室には、徳川斉昭公の歴史に関する資料が展示されていました。

三ノ丸をぐるりと一周、二の丸、本丸は学校になっていて広い敷地のわりに遺構は少ないですが、それでも大手門や薬医門など、間の空堀から感じられる格式は別格のものがあります。弘道館だけを回っていたらもったいないです。とても気持ちよく歩けました。

歩いてお腹が空いたので、山翠というあんこう鍋を食べに向かいます。山翠は、あんこう料理と奥久慈シャモなどの郷土料理をいただける老舗です。元祖あんこう鍋のお店として、「どぶ汁」を食べられる数少ない名店です。入り口の壁には有名人のサインだらけです。

個人や私が会長を務める委員会や協会なら喉を潤してから地酒を堪能するのですが、最初から名指しで「高い酒を頼むのはやめてください」と言われたのでテンションがガタ落ちです。鍋に向けて地酒呑まないのは残念です。

秘伝の焼き味噌で味付けして、あんこう鍋は、食べましたが、奥久慈しゃもを用いた料理や釜飯などが絶品だと聞いていましたが、ありませんでした。お店は3階建てで「元祖あんこう鍋」という大きな看板も外から見え上質感がありましたが、食事場所は1階でした。

このお店は昭和20年代に海・山・河をイメージさせる「山翠」として誕生し、当初の看板料理は地場産の食材を使った釜飯で、そこから郷土の味の探求に励み、昭和30年代にかつて漁師の浜辺で定番だったあんこうどぶ汁を「元祖あんこう鍋」として復活させ、今日のあんこう鍋歴史が始まったようです。

以後も奥久慈軍鶏や野菜なども独自に研究しているとは素晴らしいです。玄関にはさすが「あんこう」の金属製のオブジェや石碑もありました。石碑にはしめ縄もあり、あんこうをきちんと弔っています。奥久慈の軍鶏料理を食べてみたいです。

カラー写真付きでメニューがありましたが、パラパラめくってみるとかなりページがあり、コースや単品メニューが充実していました。席に着くと、すでに大皿に、あんこうや野菜が広げられていて驚きました。あんこうのいろんな部位があり、お店の方が丁寧に胃袋、エラ、卵巣、皮、肝等を指差して説明してくれます。

あんこう料理だけでなく、納豆天ぷらとマグロ納豆もありました。あんこうフルコースだと雑炊が楽しめるようです。地酒も1杯しか飲めずに不発に終わったので都内に帰って呑みなおしたいところだけど茨城県ひたちなか市にある那珂湊おさかな市場へ行きました。

店先で生牡蠣が食べられるのでどの店も生牡蠣行列とにかく、人だらけです。自家用車なら保冷バッグを持っていなくても発泡スチロールの箱が売っています。店先にサービスの氷もあるので、保冷剤なども持参しなくても大丈夫です。

気になるのは那珂湊流たこ焼です。普通の切ったたこ焼きではなく、イイダコが1匹丸ごと入っているのです。ちなみに他にも屋台はあり、フランクフルト、ベビーカステラ、フルーツ飴、海鮮の串焼きもありました。どの屋台も並んでいます。トイレも少なく並んでいます。汚いです。高速道路が混むので早く帰りたいです。

柏インターから渋滞が始まっているので帰りのトイレ休憩は常磐自動車道Pasar(パサール)守谷SAでした。ここのお土産屋さんは好きなのでいつもはおつまみを買って、柏インターで降りて自宅で一杯やるのですが、都内迄連れていかれたので帰りは遅くなりました。家に帰ったら夕飯は鍋でした。自宅の鍋の方がとてもおいしかったです(^_-)-☆

 






     + Powered By 21style +