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  食生活の改善10か条  仲條拓躬2025/05/09(金) 16:17 
  石原莞爾と武藤章  仲條拓躬2025/05/09(金) 16:12 
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  世界中のだれの眼にも奇跡  仲條拓躬2025/05/03(土) 09:20 






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食生活の改善10か条
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/05/09(金) 16:17
No. 7836
 
 
1.主食は「ご飯」を食べること。ご飯は日本人にとって最適の主食であり、食生活の土台です。ご飯を必要以上に控えると体に必要な栄養素が不足し、それを補給しようとして異常な食欲が湧いてしまいます。お腹も早くすくので、菓子類などに手を伸ばす結果にもなりがちなのです。だが、お米の高騰が止まらないので「ご飯」高級品になりました。

2.液体でカロリーをとらないこと。喉の渇きをいやすのは水で十分です。清涼飲料や炭酸飲料・缶コーヒーなどでは、余分なカロリーをとることになります。また、液体の砂糖は血糖値を急激に高めてしまい体に負担をかけます。飲み物は水が嫌なら、番茶やほうじ茶、ウーロン茶、麦茶などカロリーのない、色が茶色い体にやさしいものにしましょう。

3.カタカナ主食は避けること。パン・ラーメン・スパゲティ・コーンフレークなどの常食はやめましょう。カタカナの主食類は油脂類の多さが気になります。パン・ラーメンなど加工度の高いものほど、食品添加物などの心配も必要となります。日本のパンと外国のパンは糖分も添加物も異なるのです。ご飯をライスと呼ばないこと。

4.発酵食品を常食すること。ヨーグルトは動物性発酵食品なので日本人には合わない方が殆どです。日本人には植物性である味噌汁、漬物、納豆などの発酵食品を毎日食べるようにしましょう。添加物の入っていない質の良いものを選びましょう。発酵食品には有用な微生物が存在し、これを体内に取り入れることで、身体は活性化します。

5.未精製を常食すること。主食の穀類を充実させることは大切なポイントです。食物繊維も豊富になり、ビタミン・ミネラルのよい供給源となります。白米よりも胚芽米や玄米などの未精製ものが理想です。米に雑穀を混ぜるのも良いです。

6.副食は季節の野菜を中心にすること。おかずは季節の野菜を中心にしましょう。動物性食品よりも多くなるように心掛けましょう。

7.動物性食品は魚介類を中心にすること。

8.油脂類・砂糖のとりすぎに注意すること。砂糖や油脂などの精製度の高い食品のとり過ぎは、ビタミン・ミネラル・食物繊維などの微量栄養素不足の原因になります。肉類の脂、ベーコン・チーズ・バター・マーガリン・マヨネーズ・クリームなどの高脂肪食品は、できる限りとらないようにしましょう。

9.食品の質・安全性に注意すること。神経質にならない程度に、食の安全性にも注意しましょう。醤油・味噌・塩・砂糖・みりんなどの基本的な調味料はよく吟味して、添加物が入っていない質の良いものを選びましょう。

10.食事は楽しく・ゆっくり・よく噛んで食べること。

 





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石原莞爾と武藤章
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/05/09(金) 16:12
No. 7835
 
  綏遠事変は関東軍が本格的に関与したと言うよりは、田中隆吉の個人的な謀略であったといえますが、植田鎌吉関東軍司令官、板垣征四郎参謀長、武藤章参謀第二課長ら首脳部の了解のもとに行われていたのです。とくに武藤章は田中隆吉を支援していました。

武藤、田中は満州事変における石原莞爾の真似事をしたかったのです。その石原莞爾が当時参謀本部戦争指導課長として事変中の11月20日現地に飛来し、止め男の役を果たそうとして、武藤章に「石原さん、我々はあなたが満州でやられた事をしているのに過ぎませんよ」と皮肉られ、返す言葉がなかったというエピソードはよく知られていることです。

この時の石原莞爾の立場と真理は違っていました。石原莞爾が満州事変を画策し、中央の統制を無視して兵を動かしたことは事実です。石原莞爾自身内心では兵を動かした後ろめたさを感じていたかも知れません。

従って武藤章の一言は石原莞爾の胸に突き刺さったことでしょう。もし武藤章が満州合衆国は恒久平和の礎になるということを理解してくれるような器の人間ならば石原莞爾も指導力のある軍人として、いささかもたじろぐことなく、ただちに武藤を一喝して、満州事変時と現在の情勢の違いを説明したことでしょう。

今回の計画の不可なることを堂々と説得することは可能であったはずです。しかし、武藤章には理解出来なかったのです。参謀本部の有力スタッフとして石原莞爾は当時の日中の問題が交渉の立場にあったのだから、職権上も徹底的に武藤章を制止すべきであったかもしれません。

ついでにいえば、武藤章は翌年3月の異動で参謀本部に帰り、同日付で作戦部長となった石原莞爾のもとで作戦課長のポストにつくのですが、なぜ石原莞爾はこの人事を拒否しなかったのか。武藤章が有能という評価はあったにしても、自己の統制に服さなかった実績のあるものをなぜ唯々諾々と受け入れたのであろうか。

石原莞爾が武藤章を呼んだのだとすれば何を。石原莞爾のような天才肌の人は人事には無関心で人事に無頓着であったのかもしれません。それにやがて日本を奈落の道へと導くことになるのです。

 





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深夜の格闘劇
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/05/08(木) 20:36
No. 7834
 
 
酒を呑み足りなくて深夜帰宅、何かおつまみはないかと、冷蔵庫を開ける。ビニール袋詰めの白菜の漬物が見つかる。まだ封を切っていない新しいものです。まず包丁取り、袋の上のほうだけ上手に切る。2つ入りの袋から白菜をひとつ取り出す。袋の方は、中の汁がこぼれないように、流しの内側に立て掛けて置く。

ここまでの作業だけでも、何と言うこともないのだが、イライラが伴う。汁の入ったビニール袋というものは、何かあったら倒れてやろう、何かあったらこぼれてやろう、という気配に満ちているからである。それをこちらは、何とかして倒すまい、何とかしてこぼすまい、と気疲れするのである。

汁だけの入った袋を流しの内側に立てかける、という作業だけでも、かなりの技術を要する。立てかけようとすると、酔っ払いのようにズルズルとずり下がる。引き上げると、今度は横に倒れようとする。立とうという意思がまるでないのです。

一人前のおつまみとしては、この白菜のおしんこは量が多すぎる。そこで半分をまた板の上に乗せ、あとの半分を、流しの内側に立てかけておいた袋に戻す。この戻すのがまた、かなりのイライラを伴った難事業なのである。

左手で、ともすれば倒れようとするビニール袋の口をあけて立たせ、その口のところへ、右手でダラリと持った白菜の先端をあてがう。白菜の漬物の先端というものは、広がろうとする意思が強い。冬だと、深夜の水道の水は冷たい。手がかじかむ。

だが、ビニール袋は倒れようとし、白菜の先端は広がろうとする。深夜の台所で、どうしてこんなことをしなければならないことになったのか。そういう疑問が、ふと頭の中をよぎる。お酒のおつまみは、はたして白菜でなければならなかったのか。

その横にあった、瓶詰めの佃煮でもよかったのではないか。いやいや、白菜を、半分取っておこうと思ったのがそもそも間違いではないのか。いっぺんに、全部食べたってよかったのではないか。

全部洗って、全部切って、全部お皿に盛って、食べて、そうして残ったら、それにラップをかけて冷蔵庫にしまえばそれで済むことだったのではないか。そうだ。そうだったのだ。白菜の先端を、ビニール袋の切り口に挿入させようとしながら、後悔の念がしきりにわく。

それでもようやく気を取り直し、半分をビニール袋におさめる。手からも袋からも、水がしたたり落ちるから、小走りになって冷蔵庫のところへかけつける。白菜のために、こんなに苦労させられる。内心いまいましくてならぬ。

冷蔵庫のドアを開け、ヘナヘナと倒れそうになる白菜の袋をようやく瓶詰めの佃煮にもたせかける。もたせかけてドアを閉めようとしたとたん、袋が倒れて汁がどっと冷蔵庫の中に流れ出し、冷蔵庫からあふれて床のほうにまでひろがってくる。

その汁を見つめながら、俺の人生はこれでよかったのだろうか、と思い、思いながらあわてて雑巾を取りに行こうとし、汁にすべってころんで頭を打って酔いが回りそのまま意識が遠のいていく。翌朝、その現場を見た家族の目が点になる。

 





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盧溝橋事件の真相とは
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/05/08(木) 20:34
No. 7833
 
 
盧溝橋事件での日中戦争への拡大は、日本政府も蒋介石も望んでいませんでした。日本も不拡大方針を決め、和平交渉の道を模索し、蒋介石は共産党を倒して国内を安定させるのが原則方針だったので、対日戦争は避けたかったのです。

だが、虫の息の共産党にとって、「抗日」は唯一の活路でした。「抗日」と叫ばなければ、まず共産党が蒋介石率いる国民党の餌食になってしまうからです。共産党は蒋介石を抗日に追いつめ、日本側も近衛文麿の優柔不断があったのも蒋介石の誤算であったのです。

1937年7月7日の盧溝橋事件での軍事的衝突については、史実がはっきりしていません。満州事変が石原莞爾の計画によって引起こされたことは、歴史上の事実となっていて異論はありませんが、しかし盧溝橋の第一発の銃声がどちら側からさきに撃たれたのかについては、真相不明ということです。戦前は勿論中国軍からの不法射撃とされていました。

もっとも日本側でも張作霖爆殺事件や満州事変の真相を知っていた一部上層部の間では「どちらが先に手を出したかといえば、どうもこちらの方が怪しいと思う」(近衛文麿『平和への努力』)「柳条溝の手並みを知っているわれわれには(軍部が)『またやりあがった』」(石射猪太朗『外交官の一生』)などと認識されていたようです。

戦後東京裁判に提出された秦徳純「七・七事変記実」では、第一発の問題にはとくに触れず、事変の責任はもっぱら日本側にあることが強調されています。その判決では柳条湖事件の場合には日本軍により計画され、実行されたものと認定しているのに対し、盧溝橋事件については当夜の事件発生の経過を述べているのですが、その責任が日本側にあったとの明確な判定を下していないのです。

しかしその後の研究調査の結果や証人、中国側の主張あるいは政治的意図の濃い見解として最初の攻撃は日本軍から意図的になされたものではないと認められています。それは日中の軍事的衝突を誘発させようとした共産軍や馮玉祥軍の陰謀という見方があり、とくに前者については、さまざまな情報が飛び交っているのだが圧力などがかかり確証は取れないのです。

今後新たな有力資料や証言が出てこない限り、この問題の結論を出すことは困難でしょう。「今や歴史のひとコマとなってきた盧溝橋事件の全容が完全に明らかになるにはもう少し時が必要だろう」(秦郁彦『昭和史の謎を追う』下巻。同書にはこの問題が詳細に検討されています)。

たしかに現地の緊迫した情勢から、このような局地的トラブルは何らかの形で起こる可能性はあったのですが、起こったにしてもこれを大事に至らしめず、日中の悲劇を避ける道はあったのであるから、発端の問題は必ずしも重要ではないかも知れません。

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スマホ依存者へのアドバイス
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/05/08(木) 08:28
No. 7832
 
 
自分のスマホ利用時間を知りましょう。1日に何度スマホを手に取り、どのくらい時間をかけているのかを把握するために、アプリを使ってみるといいでしょう。そうすれば、スマホに奪われている時間が一目瞭然です。自分を知ることが、変化への第一歩になります。

目覚まし時計と腕時計を購入しましょう。スマホでなくてもいい機能は、スマホを使わないようにしましょう。毎日1〜2時間、スマホをオフにします。毎日2時間、オフにすることを周りの人にも伝えましょう。そうすれば、返事がないという怒りのメッセージが届いたり、人をイライラさせたりせずにすみます。

プッシュ通知もすべてオフにしましょう。スマホの表示をモノクロにしましょう。色のない画面のほうがドーパミンの放出量が少ないのです。それによって、どのくらいスクロールを続けたくなるかが大きく左右されます。

運転中はサイレントモードにしましょう。危険な瞬間に気が散るリスクが減ります。悪いタイミングでお知らせや通話が来ると、いちばん必要なときに集中が妨げられる可能性があります。それに応答しなかったとしても、です。

職場で集中力が必要な作業をするときはスマホを手元に置かず、隣の部屋に置いておきましょう。チャットやメールをチェックする時間を決めましょう。例えば1時間ごとに数分などです。人と会っているとき、友達と会っているときはスマホをマナーモードにして少し遠ざけておき、一緒にいる相手に集中しよう。そうすれば一緒に楽しく過ごせるはず。

あなたがスマホを取り出せば、周りにも伝染します。取り出さないようにすれば、それが連鎖反応になって、皆があなたを見習うはずです。子供と若者へのアドバイス。教室でスマホは禁止でないと学習能力が低下します。

スクリーンタイムを制限し、代わりに別のことをしましょう。1日のスクリーンタイムは何分までならいいのか、分単位で推奨するのは難しいですが、どうしても具体的な数字が欲しいなら、大人も子供も仕事や勉強以外でスマホ他のスクリーンに費やしていいのは最長で2時間です。

それでも睡眠、食事、職場や学校への移動時間を除けば、起きている時間の6分の1を費やしていることになります。8歳未満の子供なら1時間が限度です。私がいちばんいいと思うのは、別のことをする時間を設けることです。宿題をする、運動をする、友達に会うなど、それに集中する時間を決めましょう。

我々は相手を真似ることで学びます。子供は大人がしているようにします。大人に「しなさい」と言われたようにではなく。寝るときは、スマホやタブレット端末、電子書籍リーダーの電源を切りましょう。少なくともベッドに入る1時間前には。スマホを寝室に置かない。少しでも眠れないなら置かないほうがいい。朝起きるために目覚まし時計を買おう。

どうしてもスマホを寝室に置くなら、着信音を消しマナーモードに。寝る直前に仕事のメールを開かない。ストレスの対処法。ストレスの兆候を見逃さないようにしよう。これらの兆候はストレス以外のことが原因の可能性もあります。不明な場合は医療機関に連絡をしましょう。中でもいちばんいいのは心拍数を上げる運動です。

とはいえ、マラソン大会に出ろと言っているわけではありません。脳から見れば、ただ散歩するだけでも驚くほどの効果があります。とにかく大事なのは運動をすることです。それで心拍数が上がればなおよいのです。最大限にストレスレベルを下げ、集中力を高めたければ週に3回45分、できれば息が切れて汗もかくまで運動するといいでしょう。

 





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世界各国の選挙の動き
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/05/08(木) 08:26
No. 7831
 
 
1960年代に西側が共産主義の経済的成功に対して抱いた恐怖の源泉がどの程度、目立ちはしますが基本的に重要ではないロシアの技術的成果 (スプートニク)にあったのか、それとも単純な誤情報にあったのか、あるいはそうした情報の意図的な誤解にもとづくデマにあったのかは知るよしもないでしょう。

しかし、1956年のハンガリー革命の鎮圧と1968年のプラハの春の弾圧をきっかけとして、共産主義を名乗る国々で共産主義が信頼を失っていきました。1989年にベルリンの壁が壊され、その後、ソビエト連邦が最終的に崩壊するころ〔1991年12月〕には、共産主義の経済的失敗は明らかでした。

ドイツを二つの国に分けたことは、おそらく経済史上最大の制御された「対照実験」であり、その結果ははっきりしていました。東ドイツの社会主義経済の生産性と実質所得は、西ドイツの市場経済が達成したものと比べればわずかでしかなかったのです。

第二次世界大戦後、ヨーロッパの労働者階級の共産主義への支持は、着実に低下していました。イギリスでは、2回の炭鉱労働者のストライキで政府が敗北し、労働組合が一時的に力を取り戻した1974年には、社会主義イデオロギーも一時的に復活しました。

しかし、1976年にはイギリスの労働党政権がIMF(国際通貨基金)に屈辱的な融資を求めざるを得なくなり、新たに任命されたジェームズ・キャラハン首相は労働党大会で次のように語りました。「私たちは、減税と政府支出の増加によって雇用を増やし、不況から抜け出すことができると考えてきました。しかし、率直に言って、そのような選択肢はもはや存在しません」。

1981年に社会主義プログラムを掲げてフランソワ・ミッテランがフランス大統領に選出されたころには、財政と経済の現実は急速な方向転換を迫りました。少なくとも二世代の間に、西側の民主主義国における社会主義は終わりを迎え、ヨーロッパの左派の主流はそれをあっさりと放棄しました。

戦後の社会民主主義の初期の成功も侵食されていた。ヨーロッパの社会民主主義の灯台的存在であったスウェーデンの社会民主党は、1932年から途切れることなく政権を維持してきたが、1976年に敗北しました。社会主義者とマルクス主義者の派閥は、主要政党の内外に残ってはいましたが、それは過激派の残党という程度に落ちぶれていました。

ほかのイデオロギーの信奉者と同様に、それらの残党のメンバーも現実的な政策を提案することに関心はありませんでした。生き残った活動家たちはますます狂信的になり、抗議すること自体を優先し、その主要な敵は、自らの信念とは少ししか違わない信念を支持する人たちであることも多かったのです。

1970年代になると、デレク・ハットンやアーサー・スカーギルのような攻撃的なマルクス主義者が目立つようになる一方、トロツキストのグループであるミリタント派は労働党に浸透することに成功しました。しかし、そのような過激なイデオロギーは有権者の支持を得られなかったので、1983年の総選挙で労働党は惨敗することになったのです。

左派の伝統的なイデオロギーはすたれていきましたが、しばらくの間は伝統的な左派政党は生き延びることができました。イギリスとアメリカの両国において、トニー・ブレアとビル・クリントンという、賢明でカリスマ性のあるリーダーが登場してきたのは両党にとって幸運でした。

ブレアの「ニューレイバー」(新しい労働党) や 「第三の道」、クリントンの「三角測量戦術」という曖昧なブランドによって、影響力が低下しつつあった労働者階級の優先事項と、台頭しつつあった、グローバル救済主義と能力主義という個人主義を好む、教育を受けた若い世代の優先事項の現実的な融合に向けてそれぞれの党の立ち位置を修正していった。

ブレアは「犯罪に厳しくする」と約束し、クリントンは「三振でアウト法」〔前科二犯の者が三度目の有罪判決をうけると終身刑となるという法律〕を支持する一方、ブレアの財務大臣は福祉給付金を引き上げ、クリントンの妻は健康保険を改革しようとしました。能力主義は、生まれにかかわらず、最も優秀な人が出世できることを求めました。

そこで、新たにアカデミーやチャータースクールを通して、教育の機会を増やし、教育の質を改善しようとしました。ブレアはさらに就学前教育のための国家プログラムを追加しました。両方の有権者にアピールする政策と、彼らの個人的な魅力の組み合わせによって、党の多様化した支持者をひとつにまとめることができたのです。

オバマは同じ魔法を使いましたが、ブレアには同じような後継者はいませんでした。2019年のイギリス総選挙では、グラストンベリー音楽祭で「ああ、ジェレミー・コービン」と歌った感情的な若者と、労働党に浸透していた過激派によって、1983年の惨敗が繰り返され、保守党のボリス・ジョンソンに大勝利をもたらしたのです。

 





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朝鮮半島併合の事情とは
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/05/08(木) 08:24
No. 7830
 
 
日清戦争で実際に持ち上がった問題は朝鮮半島についてです。この朝鮮半島は、当時、鎖国状態でした。その鎖国状態だったところにヨーロッパ列強の植民地的侵略の手がどんどん伸びてきたのです。

ちなみに、日本の開戦後、まだ鎖国していたのは、アジアでは朝鮮半島だけでした。ここで大変問題なのは、中国が西洋諸国の植民地にされているように、鎖国状態のアジアの国々は、19世紀末のヨーロッパ列強のアジア進出のために、ほとんどが植民地化されているか、征服されています。

そうなると、朝鮮半島はまだ鎖国をしているということはいずれ植民地支配されてしまう。さらにロシアの南下政策で勢力がどんどん迫っているのです。その時そこに三国干渉がやってきたわけです。

ロシア、ドイツ、フランスが、日清戦争による日本の朝鮮半島から中国大陸へかけての進出、そして日本がそこに領土も利権も獲得することに異議を申し立てたのです。その中でも南下政策を進めるロシアが一番強硬でした。

これは歴史的にずっと続いてきた地理的な条件にもとづく方針で、ロシアは常に南下政策をとっています。それはロシアのロマノフ王朝以来の、ソ連邦になっても変わらなかった外交政策です。

この三国干渉というのは、日清戦争の成果を踏みにじるもので、日本としてはとても我慢が出来ませんでした。そして遂に10年後、日露戦争という形に表れるのです。日露戦争は幸い、日本の勝利で幕を閉じることができました。

そして再び遼東半島の利権は回復され西洋諸国の植民地政策もストップしました。そのほか、朝鮮半島についての利権も獲得して手出しさせなくしたのです。さらに南樺太についての利権も獲得したので、ソ連は日本に恨みを持つのです。

満州及びそれに繋がる蒙古という地帯は、日本人の方から言うならば、五族が住む未開の地で日清、日露の苦労の末に獲得した地帯で、しかも、アジアの解放、人種差別廃止、独立をするためだという理屈となって、特別な意味を持っていくわけです。

多くの日本人や韓国及び周辺諸国ではどのような反日教育を施されどのように理解しているのかわかりませんが、これが歴史の真実でしょう。

 





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北欧でのIQ上昇の頭打ちの原因
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/05/08(木) 08:21
No. 7829
 
 
ある書物では、記憶力や集中力といった知能がスマホのせいで低下していることを分析しているものがあります。現代のライフスタイルは座りっぱなしの時間が多く、睡眠時間も減っています。その影響についても指摘されていますが、これは我々の頭が悪くなっているという意味だろうか。昔よりは賢くなっているはずではないのか。

欧米では、IQ(知能指数)の平均スコアがここ100年で30も上昇しています。近代的なIQテストは20世紀初頭に開発され、当時の平均スコアは現在とまったく同じで100でした。我々が賢くなるにつれて、テストも難しくなりました。

現在IQテストを受けて100を取る人、つまり平均点を取る人は100年前のテストなら130で、人口の3%に相当する最も賢いグループに属していたことになります。一方、20世紀初頭に100点を取っていた人は、当時それが平均的な知能とされていたのですが現在のテストでは70しか取れず、精神遅滞の基準を満たすことになります。

だが、100年前に生きていた人たちが我々よりも頭が悪かったということではありません。今の我々と同じように、人生の実際的なことには対応できていました。我々のIQのスコアが上がった原因としては、こういったことが考えらます。現代人のほうが知能テストに出てくる抽象的、数学的な思考の訓練をずっと多く受けています。

なにより学校に通う期間が長くなりました。現在スウェーデン人の半数が高校を卒業していますが、100年前はほとんどの人が7年間の国民学校を出ただけでした。それに、現代の仕事はもっと複雑です。現在の仕事を例に取ってみればわかります。100年前、医師が使える薬はそう多くなかったでしょう。まだ抗生物質も発見されていない時代です。

それが今では何千種類もの製剤が手に入り、医学の知識も広範囲にわたり、すべてを把握することは誰にもできないくらいです。我々のIQは下がっているより長く教育を受け、より難しい仕事をこなし、複雑さを増し続ける世界に我々は住んでいます。それに合わせて、我々は知的能力を発達させ、IQテストで試されるような思考を訓練してきました。

世代ごとにIQが高まる現象は、ニュージーランドの大学教授ジェームズ・フリンにちなんだフリン効果として知られています。だが、フリン効果はデジタル化だけによるものではありません。IQは1920年代から10年単位でほぼ同程度上昇していますが、当時はまだテレビもインターネットもなかったのです。

ただ、ジェームズ・フリンは90年代の終わりから気懸かりな傾向に気づいていました。 北欧ではIQの上昇が頭打ちになり、今では平均スコアが毎年いくらか下がっているほどです。それほど劇的なものではない、年に0.2程度の低下ですが、北欧では1世代後には6〜7も下がることになるのです。そうなると、誤差範囲とはとても言えません。

フリンは、おそらく世界の他の地域でも同じことが起きるだろうと予測しています。フリンによれば、これは学校が昔より緩くなり、20〜30年前ほど読書が推奨されなくなったせいだといいます。それ以外に考えられるのは、身体を動かす時間が減ったことです。怒濤のように流れてくるすべての情報を処理することが難しくなった、とも考えられます。

 





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世界の政党情勢
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/05/08(木) 08:18
No. 7828
 
 
2020年までに、伝統的な政党に対する信頼が失われていたことは、西側社会ではほとんど普遍的な現象でした。そして、選挙の番狂わせは予測できたのですが、それらの番狂わせはさまざまな形をとりました。

2017年のフランス大統領選挙では、左右の既成政党の候補者が、極左と極右の候補者にはるかに遅れをとっていたため、アン・マルシェ 運動を組織してから、たった一年しか経っていない中道派のマクロンが、中道を駆け抜けることができました。しかし、その翌年、彼は「黄色いベスト運動」の反乱に直面することになります。

一方、ドイツでは同じ年に行なわれた選挙でCDU(キリスト教民主同盟)とSPD(社会民主党)を合わせた得票率が50パーセントに達しなかった。大連立政権の発足に手間取り、その後、両党の支持率が低下するにつれて、ますます政権は不安定になっていきました。

ドイツの二つの主要政党は、現職の党首が選挙で負けて辞任したため、すでに三人目の党首が誕生しています。アメリカでは、2016年に政治的背景も経験もないポピュリストのトランプが共和党の大統領候補として選出され、彼の気まぐれな発言のもとに、党の上層部と投票基盤の多くをまとめあげました。

イタリアでは、2018年に初のオール・ポピュリスト政権として不安定な政権が誕生しました。イデオロギーや哲学をほとんど持たない二つの抗議政党による連立政権で、当然のことながら翌年には崩壊し、同じように不安定な政権と交代しました。

EU離脱(ブレグジット)を問う2016年の国民投票の結果は、それまでのイギリスの政治システムを覆しました。そして、2019年12月の総選挙で労働党は50以上の議席を保守党に奪われ、そのほとんどが、ストークやドン・バレーのような伝統的に労働党が強かった労働者階級の地域でした。

しかし、これらの出来事は、もっと長期的なトレンドが顕在化したものでしょう。この一世紀の間、ヨーロッパの政治は、資本主義社会主義かというイデオロギーで定義され、投票行動は主に 社会階級によって決まっていました。

しかし、「資本主義者」や「社会主義者」という用語の意味も、そして左派と右派という対立の軸も、次第にはっきりしないものになっていきました。これらの用語は、政治的立場やグループを表す 「進歩派」、「活動家」、「ポピュリスト」のような新しい用語にとって代わられました。

グリーンピースからブレグジット党まで、またマーメイドからペギーダまで、単一争点の圧力団体が力を増す一方、伝統的な政党の党員数は急速に減少していきました。そして、社会階級を投票行動に結びつけていた歴史的なつながりは完全に切断されました。

アメリカの政治は、これまで大きな支持を得た社会主義の政党や運動がまったくなかったという点で異なっています。バーニー・サンダースとアレクサンドリア・オカシオ=コルテスが社会主義者と自称しているとしても、それは政治的な用語がどれほど変化したかを示すものに過ぎないでしょう。

その社会主義は、クレメント・アトリーやフランソワ・オランド〔第24代フランス大統領。任期2012〜2017年〕の社会主義ではなく、ましてやマルクスやレーニンの社会主義ではない。著者の一人が1968年に書いた「なぜヨーロッパの政治はアメリカよりもはるかにイデオロギー的なのか」というエッセイを思い出しています。

それは、このトピックがエッセイのテーマとして意味を持つ、ほとんど最後の瞬間でした。2020年にはこの逆が正しいように見えるかもしれませんが、アメリカの政治はイデオロギー的というよりも「部族的 (tribal)」というほうが正確でしょう。ジョー・バイデンはイデオロギーの人ではないし、ドナルド・トランプも同様です。

「左派」と「右派」という用語が政治の世界で使われるようになるのは、1789年にフランス国民議会で反国王派が議長の左側に座り、王党派が右側に座ってからのことです。この用語が政党を表すために使われ始めたのは、フランス第三共和政〔1870〜1940年〕の時期です。当時のグループは、中道右派、中道左派、極左などと呼ばれていた。

選挙権が拡大するにつれ、左翼政党への支持が高まり、1930年代になると左右の分裂によってヨーロッパは二極化し、最も破壊的な戦争につながったのです。1945年当時、社会主義はヨーロッパの労働者階級の間では高く評価される一方、アメリカでは社会主義を支持する者はごくわずかでした。

戦前のルーズベルトの大胆な政策がアメリカの資本主義を救ったのに対し、ヨーロッパの各国政府はナショナリズムと経済的保守主義という破滅的な組み合わせに撤退していたのです。そして、1945年以降、ヨーロッパの有権者は何か違うものを求めました。

共産主義のもとで、ロシアはドイツに対して軍事的に勝利し、東ヨーロッパのほとんどは1989年までソビエトの支配下にとどまりました。ロシアは1953年に水素爆弾の実験を行ない、1957年にはスプートニク〔世界初の人工衛星〕を宇宙に打ち上げました。その後20年間、共産主義の経済的・技術的成果の評価は誇張されたままだったのです。

 





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世界中のだれの眼にも奇跡
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/05/03(土) 09:20
No. 7827
 
 
石原莞爾平和思想研究会同志である戦争経験者が語る。昭和20年8月15日、焦土と化した日本列島を真夏の太陽が照りつけていました。抜けるような青空とジージー鳴く蝉の声。今日の日本の出発点となったこの日を、今でも忘れられないのです。

精魂こめて築き上げてきたもの、死ぬ覚悟で守り続けていたものが、一瞬にして消滅したあとの無力感。襲い掛かる疲労感や絶望感が複雑に重なり合い、何かをしようという気力もなく、日本人は空腹を抱えながら、幾日も過ごしたのです。

その状態でも、日本人は少しずつ前へ歩き始めました。瓦礫の山に、焼けトタンを繋ぎ合わせて小屋を建てました。そして焼け残った電車やバスが何事もなかったように動き出しました。8月15日は、複雑な何かの終わりであり、復興を目標とする出発点となりました。破壊の後に創り出すものは何か。

国家の復興・再生であり、それはとりも直さず、日本人の人間性の解放でもありました。戦後の出発は戦争のみならず戦前的価値や存在をまず否定することから、新たな第一歩が踏み出されたのです。戦前から戦後へ、8月15日を境に徹底的に破壊されたもの、形を変えて生き残ったものと、様々な変容が我々のまわりにはあるでしょう。

その象徴的なものは天皇像でした。戦前の「現人神」から、戦後の人間天皇という象徴天皇となり、それは連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占拠方針によるものでありましたが、同時に、深くは日本人の文化と倫理と国家観に根ざす問題でもあったのです。

史上初の敗戦という事態をもたらした戦争責任との関連で、様々な天皇制論議がなされました。日本人の大多数は「国民統合」のよき「象徴」として天皇が、国民とともに歩まれることを歓迎したのです。その人間天皇にかわって、「神」として君臨したのが、GHQの総司令官ダグラス・マッカーサー元帥であったのです。

東京の中心、宮城とお濠をへだてて向き合っている第一生命ビルの屋上に9月17日以来、星条旗が鮮やかに翻り続けました。この旗、マッカーサーの命ずるままに、民主主義となったのです。ワシントンからの指令の第一の目的は、日本の「非軍事化」で、電撃的に処理されました。

8月15日現在、日本本土に57個師団約257万名余の兵力を有し、陸海合わせて約1万6000機の航空機が残っていました。これらがおとなしく武器をすて、武装解除が完了したのは10月15日のことです。

一発の発砲もなく、ただ1人の負傷者もなくこれが完了したというのは、世界中のだれの眼にも奇跡としかうつりませんでした。あの神風特攻隊がある日本軍が、あれだけソ連を苦しめて一度も負けなかった日本軍が何の抵抗をみせないとは。スターリンでさえこう洩らしたといいます。

 






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