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☆★☆最新情報7☆★☆

 
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  東芝と味の素の研修会  仲條拓躬2024/06/26(水) 16:44 
  石原莞爾の満州国の考え  仲條拓躬2024/06/24(月) 17:38 
  石原莞爾の不拡大方針のすべて  仲條拓躬2024/06/24(月) 17:37 
  無意識な行動  仲條拓躬2024/06/20(木) 09:52 
  ペンションの意味  仲條拓躬2024/06/18(火) 18:45 
  226事件の兵に告ぐ  仲條拓躬2024/06/17(月) 19:18 
  命の循環とは  仲條拓躬2024/06/14(金) 09:18 
  水の汚染  仲條拓躬2024/06/12(水) 17:58 
  ショー・ザ・フラッグの検証  仲條拓躬2024/06/12(水) 17:57 
  皇后雅子さまの父  仲條拓躬2024/06/11(火) 15:47 






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東芝と味の素の研修会
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/06/26(水) 16:44
No. 7492
 
 
2024年6月25日、貸し切りバスに乗車して、東芝未来科学館に向かいました。東芝未来館は、1961年11月に東芝小向地区に「東芝科学館」として開設、2014年1月に移転し「東芝未来科学館」への名称変更を経ながら、今年で62年です。

科学技術の凄さ・面白さを楽しく伝え、東芝の最先端技術が生み出す豊かな社会をPRしています。今般、東芝の事業ポートフォリオがBtoCからBtoBへ移行していることに伴い東芝未来館の役割を見直すこととし、東芝未来館は2024年6月29日(土)をもって、一般のお客様向けの公開を終了することとなりました。

まず、最初にリニアモーターカーや病院にあるMRIなどいろいろなところで使われている先端技術、超電導の不思議な現象の実演を見学しました。液体窒素を使った実験です。クイズ形式で実演が行われとても勉強になりました。

他には東芝がつくった日本初、世界初の家電、テレビや冷蔵庫など。身近にある「水」から電気をつくること。毎日使う電気には3つのつくり方があります。「半導体で発電」では、太陽電池の角度や光の色、明るさが変わると発電量がどれだけ変わるか、簡単な実験がありました。

ビル内のセンサーが空調や照明、エレベーターをどのようにコントロールしているのかをイメージした体験コーナーもあります。人がいない部屋は空調や照明を消して、電気の無駄を減らします。また、バーコードを一つ一つ「ピッ」と読み取らなくても、まとめて計算ができる会計システムを体験できます。

「消えるプリント」の体験もできます。塗り絵をしてから紙を専用の機械にいれると、プリントが透明になります。光にはいろんな色をつくる3つの元の色「三原色」があります。赤と緑と青をまぜていくとどのような色ができるでしょうか?光の色が変わると、ボールの色の見え方も変わります。

ドアノブに触った時などに「パチッ」とする静電気は3000ボルトくらいといわれています。私が体験したのは50万ボルトの静電気です。髪の毛がフワッと逆立つ様子を写真
に撮られて共有ラインにアップされてしまいました。

東芝の創業者の一人、田中久重はからくり人形をつくっていました。まだ電気がなかった江戸時代の人形がどのように動くのかを実演で紹介していました。光、空気、磁石など身の回りにある科学の不思議やロケットはなぜ飛ぶのかなど、実験を交えて紹介しています。

最後に東芝未来館を見学出来てとても良かったです。見学後は歩いて「過門香」ホテルメトロポリタン川崎店に移動して昼食をとりました。懇親会後は貸し切りバスで味の素川崎工場に向かいました。

敷地が広いので運転士やさんも迷っていましたが、見学用施設のうまみ館にたどり着きました。工場見学は、ほんだしコースです。見学前にアジパンダの前で集合写真を撮り、ロビーには味の素のオブジェも模型で製造工程を見た後、バスに乗って工場を見学に。

アジパンダのバスで川崎工場へ移動。鈴木町駅は味の素川崎工場の駅だと聞いて驚きました。線路を渡って移動して、ほんだしの製造工場へ向かいました。少量多品種生産のものについては包装などの業務をまとめていますが、基本的にはブランドごとに独立した工場の集合体のようなイメーです。

「ほんだし」の基本的な材料はかつお節。味の素は原材料(さとうきびなど)が採れる海外で加工までされ日本に運ばれ、日本では主に瓶詰・発送作業をしているとのことでした。その他にも、かつおエキスやうま味調味料(多分、味の素かそれに準じるもの)、食塩で味は調整しますが、あくまでもメインは、顆粒になるまで細かくした、かつお節になります。

自然や健康を大切にするということが理念になっているのは疑問が生じますが、企業の死活問題と直結しているから、という一面もあるのだろうと思います。工場の見学が終わった後は、集合場所だった建物に戻り、かつお節削り体験と、製品の試飲をさせていただく事になりました。いろいろと勉強になりました。

 





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石原莞爾の満州国の考え
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/06/24(月) 17:38
No. 7491
 
 
石原莞爾将軍は幼年学校生徒時代、正義観が強くまた弱い者に対する同情心が強く、そうした精神からでしょうが、満州人に対して深い愛情と理解を持っていました。石原莞爾将軍は、満州移民は既墾地に入れないで未墾地に入れるという考え方です。

それはいろいろ苦労して開拓した満人の土地を満州拓殖会社の名によってきわめて低い値で買いあげて、これを日本移民に与える非をいうのです。石原莞爾将軍はこれについて、満人の陰欝は非常に深くなった。日本人に口をきかなくなった。この実情は憂慮にたえないものがあるのです。

この満人の閉口を、片倉関東軍第四課長は、自分は満州へきて閉口せしめたといっているが、それは逆です。この満人の陰欝は、日系官吏の横暴と満拓の土地買収問題などに基因しているのです。満拓の土地買収問題については、多くの悪いことが行なわれていました。

例えば于止山という当時の満州国の国務大臣が、数年前一畝二十円で買った土地を、満拓が七円で強制買上げをしました。これはその付近の土地を七円というむりな値段で買上げたので、もし于止山の土地もその値段で買うことができなければ、住民の不平を禁ずることができない。

そこで県の役人が国家のために是非売ってくれといって于止山に頼んだのです。こういう事実はしばしば起こっています。これは日本移民を未墾地に入れるという根本方針を無視して既墾地に入れようとするからで、これには民族協和など思いもよらないことです。

また日本国民のためにもよくない。移民は決して満人の耕地を奪うことを喜んでいないのです。こんなことをしようとは思わなかった、と私のところへ泣いて訴える者もある有様であると石原莞爾将軍は語っています。

関東軍参謀長東条英樹中将の施策と石原莞爾副長の考え方には、かなりの溝がありました。石原莞爾将軍によれば、満州を独立国として真の民族協和による王道楽土の理想国家の建設を目ざしているが東条参謀長は、日本政権獲得と自己軍閥の勢力拡張というような意図を多分に含んでいるのです。

石原莞爾将軍は、関東軍は満州国育成の内面指導権を持っているので、これが軍閥の根拠地となり、軍閥とこれに結託する日系官僚群の専制政治化する惧があったので、今は満州国育成の内面指導は不必要であるとして、その撤廃を主張しているのです。

石原莞爾将軍は、またこんなことも語っています。「軍人が御勅論に違反して政治に関与するものを、自分は軍閥という。これはあくまで、不逞の行為である。軍人にして政治に関係できるものは、陸軍大臣および次官までである。しかもこれは文官として政治に参与するだけである。」

「軍人が政治に関係すれば外からは軍人の信義を疑われ、内部においては軍の不統一を来たすおそれが多分にある。それでいろいろの法律にも、軍人の政治干与を禁止している。軍人の立場からいうと、軍人は政治をやれない組織になっている。」

「軍人には辞表を出す自由がない。軍人は政治家のように失敗すれば、その責任をとって辞表を出して勝手にやめることができない。しかしどうしても今の制度で、政治に入れなければならぬ一つの場合がある。それは占領地行政である。これが国内の政治にまで影響して来る。今日ではこれが重大問題である。」

「私は軍が政治の推進力だという言葉を聞くたびにビクッとする。警察官が政治や経済を知らないように、軍人には政治のことはよくわからないはずである。もし将校まで政治に興味を持つようになったら国家のために非常な重大問題である。私はこういう意味で海軍の立場はとても羨ましく思うのである。」

「軍人が政治をやるなら、軍職をやめて丸腰になってやれと私はいう。現在、日本の政治を動揺せしめ、成長してきた満州の発展を阻害し、これを混乱せしめているのは、この軍人の政治千与にある。関東軍の内面指導は撤廃すべき時機に来ている」

そして東条参謀長に「関東軍司令官の内面指導権撤廃に関する意見書」を出した。しかしこの意見書は、東条参謀長の賛意はえられなかった。昭和13年6月、東条中将は陸軍次官として中央の要職につくことになったので、日本の国策としては満州経国に石原莞爾将軍の意見をいれることは、いよいよ困難な状勢となったのです。

それに健康も優れなかったので、石原莞爾少将は植田軍司令官を通じて、予備役願を出しました。この報は石原莞爾将軍を知るものにとっては青天の霹靂でした。多田、板垣などは現役に止って中央の要職に復帰するよう極力要請しましたが、石原莞爾将軍は健康も優れず激職につくことが困難であるということで拒否したのです。

予備役願を受取った植田軍司令官は、辞表は陸軍大臣に取次ぐが、病気なら休暇をとって帰国するようにと命じたので、 石原莞爾将軍は昭和13年8月14日、帰国の途についたのでした。

 





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石原莞爾の不拡大方針のすべて
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/06/24(月) 17:37
No. 7490
 
 
当時における日本国の陸軍首脳部の陣容は、次のようなものでした。
陸軍大臣 杉山元大将(満州事変当時は陸軍次官)
陸軍次官 梅津美治郎中将
参謀総長 閑院宮載仁元師
参謀次長 多田駿中将
参謀本部第一部長 石原莞爾少将

不幸にして、この蘆溝橋事件の処理方法についての意見は二つに別れました。すなわち石原莞爾少将の主張する不拡大方針と、杉山陸相ならびに統制派軍閥の主張するあくまで支那を徹底的に叩く、拡大主義です。

拡大主義者と見られるものは、杉山陸相はじめ参謀本部支那班の大多数、すなわち朝鮮総督南次郎大将、朝鮮軍司令官小磯国昭大将、内務大臣末次正信海軍大将、関東軍参謀長東条英機中将、参謀本部編制課長武藤章大佐、陸軍省軍事課長田中新一大佐、陸軍省兵務課岩畔豪雄中佐などでした。

不拡大方針を主張したのは石原莞爾少将で、これに賛成しているのは、航空本部長東久邇宮大将、参謀次長多田駿中将、秩父宮中佐、今田新太郎少佐、堀場一雄少佐、高橋柳太少佐などでした。石原莞爾少将が参謀本部作戦部長として不拡大方針を主張した理由は次の通りです。第一は、日本人は中国を老衰国としてその力を過小視している。

満州事変以来、蒋介石政府が「抗日」のスローガンを掲げて、真剣に新しい建設を行なっている。中国をもって弱いという観念にて判断するのは危険である。数ヵ月をもって政権が崩壊すると見、これを短期決戦戦争と見るは大いなる誤断である。もし戦争状態に入れば長期持久戦となるは必定である。

日本の武力が中国の武力に対して圧倒的威力を持っていることは当然である。しかし中国は土地すこぶる広大で、それに加えて交通状態は、ことに中支以南における陸上交通状態はきわめて不良で、近代装備をもってする軍隊の行動には適せず、したがって日本軍の武力の行動半径は大なる制限を受ける。

また中国には古来高度の文化があって、その物質的生活はきわめて原始的で、各地方はそれぞれ高度の自給自足が可能である。こうしたことは持久戦争になり易い条件である。中国がまだ民族国家として自覚不十分な時代には、日本の一喝によって直ちに屈服した。

済南事件頃までは大体その傾向にあった。しかしその後中国は急速に進歩しつつあるのを、日本は日清戦争以後の能力を軽視し、その惰性で中国の新建設運動を正当に判断しようとしない。

第二は、日ソの兵力の主客顚倒である。中国人の抗日戦意は、日ソ兵備の主客顚倒が最大原因とも考えることができる。それで日満産業五カ年計画を遂行し、国防力の充実をはかって、中国とは和平の状態において来たるべき戦争に備えるべきである。

第三は、日本が満州事変当時に、世界を挙げて来攻するとも恐るに足らずと豪語したが、これは結局日本に迫りうる武力としては、ソ連の陸上武力と米国の海上武力の二者に過ぎない。しかも両国はともに極東に使用しうる武力が、甚大な制限をうけることを見透したからである。

満州事変当時、実力不十分のため対日干渉を決行しえなかった米国は、その後海軍の大拡張を行ない、日本もまた自由主義者の反対を押し切ってついに軍縮条約を破棄し、独自の立場で兵備の充実を企図していたが、対米比率はおそらく満州事変当時に比して悪化したばかりでなく、米国は日本国土近くに飛行機の根拠地の推進に努力した。

それゆえに、もし中国と戦争状態に入り、持久戦争によりわが戦力が消耗し、ついにアメリカ兵備の増強を来たすときは、米国の対日態度は必ず硬化する。ソ連もまたしかりであろう。中国がもし徹底的に抗戦すれば、半年、一年後には戦線は中国全土に拡大し数年にして、日本戦力は消耗する。そのときに米ソの干渉が予期される。そこで日本は世界戦争をまき起して、必ず日本の生命取りになるであろう。

第四は、中国との交戦は民族協和と満州国の破壊である。このような理由で石原莞爾少将は極力不拡大を強調したが、大勢は拡大に走った。石原莞爾将軍が八月の初旬、近衛総理大臣に対して、総理大臣が直接南京に行き蒋介石と直接国交調整をするように進言したが、近衛公は動かなかったのです。石原莞爾将軍は「二千年の皇恩を辱けのうして日本を亡ぼす者は近衛である」と憤ったといいます。

 





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無意識な行動
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/06/20(木) 09:52
No. 7489
 
 
人間の行動の多くは、無意識で動いています。例えば、本棚から本を取ろうと思えば、足が勝手に歩き出す。何でもない動作ですが、実際その行動を一つ一つ意識していたら大変なのです。日常慣れた動作でも意識した途端にわからなくなる経験した事があるでしょう。

普通は、何か行おうと思ったら、殆ど無意識に体が動いてくれるのです。自動車の運転も、覚えたばかりは一つ一つの動作を確認しますが、慣れてくると自然に体が動いて、ボーとしていても体が勝手に動きます。これは、行動だけではなく思考についても同じなのです。

英文を読む場合、一つ一つ単語の意味を確認しながら読んでいたのでは、読めないでしょう。だが、単語の意味を直感的に把握できるようになれば、すらすら読めるのです。そして、性格についても同じなのです。

非観的な性格であれば、あらゆる物事に対して無意識のうちに悪い方向へ悪い方向へ考えてしまうのです。意識的な過程を経ずに自動的に処理できることが増えてくると、注意を払う必要が少なくなってきます。

そこで、あとは全体を眺めながら、指令を出すだけで、ことはスムーズに運ばれます。もちろんベストなのは無意識のうちに行動する事も出来て、意識的にも出来るという状態でしょう。

意識が働いた途端に、やり方が解らなくなるという事はよくある事であるが、それでは困ります。空手では、まず、最初の練習時に、徹底的に体に覚えさせ、無意識のうちにその行動がとれるようになります。次に、無意識に出来るようになったものを今度は、意識的に出来るようにするのです。このように出来るようになるとベストでしょう。

これとは逆に、よくない行動や、心の働きを無意識的に行っているケースがあります。この場合、無意識に行われている為、なかなか本人は気づかないのです。まずこの無意識的な行動がどのようなものになっているのかを確り知る必要があるのです。

 





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ペンションの意味
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/06/18(火) 18:45
No. 7488
 
 
先日は、帝国ホテルで海江田万里衆議院議員副議長と石原莞爾や年金委員会の思い出話が出来ました。光陰矢のごとしと申しますが、文字通り矢のようにあっという間に過ぎ去った数十年でした。いまさらながら、その間を無為に過ごして来た事を反省し、何か恥ずかしさを感じさせます。

せめてこれからは、諸先輩方々の助言を頂き仕事らしい仕事を残してご期待にこたえていきたいと思っております。我々が住む日本国は本格的な高齢社会の到来を迎え、社会保険制度は長期的安定のため改革が行なわれていますが、人口の高齢化及び少子化の中で、国民が信頼できる制度の充実を図るうえで、改善する課題が多く残されています。

また、介護保険制度のさらなる拡充に、力を入れることが望まれている一方、年金保険制度においては、老後の安定した保障、適正な給付水準を維持して、未来の少子高齢社会において後の世代が負担可能な保険水準を保ち、保険料負担の適正化と年金水準の方向を検討し、年金財政の安定化を図っていかなければならないという問題が山積となっています。

この上は絶えず改善される問題を解り易く周知して社会保険行政と企業・個人のパイプ役に心を注ぎたいと思っています。さて、本題に入りますとペンションの意味は「年金」です。もともとはフランス語なのですが、スペルは英語と同じで、意味もほとんど変わらない。この他にも恩給、養老年金、奨励金、臨時手当などの意味があります。

アメリカの恩給局は「the pension office」というようです。フランスやベルギーなどを中心としたヨーロッパで、生活に余裕のできた年金生活者たちが、空き部屋を利用して下宿を始めたのが発祥で、これが世界に広まっていくうちに、食事付きの宿泊施設をペンションと呼ぶようになった訳です。

日本に初めてペンションが登場したのは1970年で、洋風の民宿という位置づけでした。草津に第1号ができてからは、高原やスキー場などのリゾート地を中心に広がりました。日本のペンションは、年金生活者が自宅に宿泊客を泊めるという発想ではなく、リゾート客を対象にした民宿を経営するという発想です。

ペンションのもともとの意味は、日本では欠落しているのです。ちなみに、ペンションをフランス語で発音すると、「パンション」に近いものになります。

 





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226事件の兵に告ぐ
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/06/17(月) 19:18
No. 7487
 
 
夜が明けて29日朝、野中大尉は陸相官邸で自殺しました。 叛乱軍は、続々と投降してきました。かくて皇軍相撃つ惨劇を見ることなく、叛乱は鎮圧され、戦慄の三日間は終って秩序は再び、東京に君臨しました。何が叛乱軍の降伏を招来したか。

もちろん奉勅命令が下ったことでしょうが、石原莞爾が、何ら迷うことなく、ためらうことなく、実力をもって解決しようとした決意と実行力に負うところが多いと思います。言葉を換えて言えば、石原莞爾の勇気が東京を救ったのです。

兵力の出動は大権に属していたので、いちいち上奏御裁可を得て近衛、第一の両師団の外、宇都宮の第十四、仙台の第二師団も出動を命ぜられ四つ街道の重砲、歩兵学校の戦車、それに飛行隊まで出動することになったのです。まさに千名そこそこの叛乱軍に対し、四個師団の兵力を動員し、鶏を裂くに牛刀以上のものを集結したのです。

この牛刀以上の圧力が、叛乱軍幹部の戦意を抱棄させたのでしょう。この圧力は敵本主義で、目的は政府威圧にあったという向きもありますが、これはあまりにも過ぎた見方ではないでしょうか。いつも全力決戦の立場をとる石原莞爾は、叛乱の無血鎮圧が主目的であったと見るべきでしよう。

石原莞爾は叛乱軍が降伏した後、 辞表を出して引きこもりました。大佐以上は全部やむべしというのです。司令部の中では、事件勃発以来四日間、戒厳の発令から奉勅命令の降下、徹底的な兵力集中、牛刀以上のものを振りあげての撃滅企図、そうして流血の惨を見ないでの鎮圧、ほとんどすべてが石原莞爾の方から出たものです。

石原莞爾に今引きこもられては大変だというわけで、慰留と引っ張り出しに長少佐が出かけて行きました。出かける時、根本氏は「石原さんが、かつての連隊長だった仙台の歩兵部隊が上京して来るのだが、もし石原さんが引っ込んでしまわれたら、今度の解決に疑を持ちやしないか」といって見たらということでした。

林、真崎、荒木、阿部の四大将がやめられることを話したのですが、出かけて行った長さんは、しばらくたつと「だめだめ」といって帰って来たといいます。「あなたの教えた仙台の部隊が、どっちが正しいのかと疑問を持つかも知れませんよと言ったら、私の教えた兵隊には一兵といえども大義名分を誤るものはおりません」とひらきなおられたといいます。

四大将辞任の話をしたら、言下に「当然のことだ」と一蹴された。なかなか翻意しそうにないぞということでした。これが松村氏の語る二・二六事件における石原莞爾の活躍です。事件解決後ただちに辞表を出すところに、石原将軍の清純至誠の精神を見ることができるでしょう。

二・二六事件は、昭和史上の重大事件で、このときの戒厳司令官香椎浩平中将の「兵に告ぐ」の戒告は有名です。
兵に告ぐ
二十九日午前八時五十五分 戒厳司令部発表兵に告ぐ。勅命が発せられたのである。既に天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前達は上官の命令を正しいものと信じて絶対服従をして誠心誠意活動して来たのであらうが、既に天皇陛下の御命令によって、お前達は皆復帰せよと仰せられたのである。此上お前達が飽く迄も抵抗したならば、夫は勅命に反抗することとなり、逆賊とならなければならない。正しいことをして居ると信じていたのに、それが間違って居ったと知ったならば、徒らに今迄の行懸りや義理上から、何時までも反抗的態度を取って、天皇陛下に叛き奉り逆賊として汚名を永久に受けるようなことがあってはならない。今からでも決して遅くはないから直に抵抗をやめて、軍旗の下に復帰する様にせよ。そうしたら今までの罪も許されるのである。お前達の父兄は勿論のこと、国民全体もそれを心から祈って居るのである。速かに現在の位置を棄てて帰って来い。

 





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命の循環とは
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/06/14(金) 09:18
No. 7486
 
 
第二次世界大戦後日本人は貧困から抜け出すために、一生懸命に働き、より豊かに、より便利になりました。市場経済も、高度成長を続け、科学の進歩も凄まじかった。当然、自然破壊も進み、水俣病は工場廃水に含まれた有機水銀が、環境汚染を起こし、魚貝類に蓄積され、それを摂取した人に起こった中毒です。

毒物が蓄積された生物を、他の生物が摂取すれば、更に濃縮蓄積されます。従来、胎盤は毒物を通さないと考えられていましたが、メチル水銀は、胎盤を通して、母親から胎児に重大な障害を与えることが明らかになったのです。

胎児性水俣病以降、カネミ油症事件、サリドマイド事件やダイオキシン、環境ホルモンの問題等様々な環境を破壊し命の循環を止めようとする事件が起こりました。自然界に存在しない化学物質を、人類の遺伝子は、どうやって処理していいかわからないのです。

化学物質を、大量に使用するようになったのは、ここ百年です。人類の歴史のほんの一瞬でしかないのです。この一瞬で命の循環を断ち切ろうとしているのです。また、戦争が最大の環境汚染でもあります。

戦争における化学物質による環境汚染は、ベトナム戦争でした。アメリカが、10年に渡ってばら撒いた枯葉剤は、流産、死産が急激に増え、ベトちゃん、ドクちゃんのように先天異常などが増加しました。

危険なダイオキシンは、農薬、合成物質、漂白剤、ビニールやプラスチック等、自然界に無い物を投棄し焼却した事によって生成されたものであり、人類が便利さを求めて生産し、消費してきたものなのです。

朽ちて塵となり土に帰る。そして新しい命は、土から生成する。そんな命の循環を無視し、人類は、利便性と経済性を求めるあまり、大量の化学物質を開発製造し、使用してきました。科学の進歩は、人類を宇宙へと飛び立たせ、ゲノムの解明で、命のメカニズムまで明らかにしました。

このように、便利さと同居する自然破壊を生み出した近代の文明社会は、人間存在の暗黒が潜んでいます。現代科学は人間の限界に、挑戦を仕掛けているのです。遺伝子操作で人間を作ろうとしたり、無機物質から細菌を誕生させたり、ついに人類は、神の領域に手を出そうとしています。

果たしてそれは、未来に人類を幸福にするか、それとも疫災をもたらすのか。大自然の大きな流れは、人間の能力を遥かに超えたものであり、何十億年かけて作り上げて来た地球を破壊しているのです。

 





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水の汚染
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/06/12(水) 17:58
No. 7485
 
 
水は、生命の維持に欠かせない大切なものです。その水に起因する事故がよくテレビや新聞等なので報じられています。原子力発電所から発生している汚染水やレジオネラ菌、O−157などです。人体の65%が水分で体重の3分の1以上の血液を失うと死に至るといわれます。

尿、汗として水分が排泄されるので、飲料水として吸収が1日、2リットルは必要です。水を口にできないと数日で息絶えてしまいますが、十分な水があれば1ヶ月は生きられると言われ、このように私達の生活になくてはならないものなのです。

水の多くは水道水によって安全な水が供給され伝染病予防、薬物中毒予防の公衆衛生上の効果を持っています。その水道水でも安全だと思って飲んでいたら汚染され下痢の症状を訴える方増えています。レジオネラ菌による24時間風呂、温泉からの事故の発生が報告され安全な水の供給されるための監視は怠れません。

安全な水を求めてミネラルウォーター、浄水機の普及が広がりました。水源は河川・湖・沼が最も多いため、水に関わる事故も後を絶ちません。レジオネラ菌は、温泉からの感染から、風呂、病院からの報道もありました。規模の違いはありますがどちらも、循環式でろ過層の衛生管理状況が十分でなかったことがいえます。

レジオネラ菌は土中、淡水に生息している菌ですが、エサとなるアメーバが増殖を促したことになります。検査が義務付けられていない小規模の集合住宅マンションや会社での掃除・水質検査が適切に行われていないとレジオネラ菌の増殖を招くことになります。

水滴、空気中に飛沫しているものを吸い込むことによって白血球を破壊して重症になる。体力のない乳幼児、高齢者は特に注意が必要です。安全だと思われていたミネラルウォーターでも不純物が混入していたとの報道がありました。

以前に比べて自然からの恵みを受けた水とは違って生活排水が多くなってきている以上消毒の頻度も多いと思われます。当然カルキ臭も多くなりあまり美味しい水とはいえなくなってきております。浄水機も残留塩素が減少しているので長期保存はできないでしょう。美味しい水のために、生活上の水の使い方を考えてみる必要があるのです。

 





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ショー・ザ・フラッグの検証
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/06/12(水) 17:57
No. 7484
 
 
2001年の流行語大賞に選ばれた「ショー・ザ・フラッグ」とは、米国の飼い犬外交で国民を欺いたものでした。日本の自衛隊の戦艦を戦争域内に派遣するという日本の安全保障政策は、憲法違反の恐れがありました。だが日米同盟を最優先に考える外務省は、法律議論を避けて政治的判断を優先したのです。

この政治的判断を後押ししたのが、アメリカ国務省アーミテージ国務副長官と柳井俊二駐米大使の非公式会談だと毎日新聞夕刊で掲載されました。日米関係筋によると、副長官は「ショー・ザ・フラッグ(日本の旗を見せて欲しい)」と柳井大使に伝え、日本政府に米軍支援の検討を打診したのです。

その会談の中でアーミテージが「顔のみえる支援」として米軍への燃料輸送などのために自衛隊の派遣を打診していたことを存在しない言葉、「ショー・ザ・フラッグ」がつけ加えられていたのです。外務官僚は安部氏への説明の際、米政権の空気を伝えるキーワードとして「ショー・ザ・フラッグ」という言葉を使ったのです。

安部氏は、「ショー・ザ・フラッグ」をアーミテージの言葉と理解してしまい、マスコミの間にも「ショー・ザ・フラッグ」はアーミテージ自身の言葉として広がっていったのです。この言葉のパンチ力は強烈だったのです。

この件に関する元外務省の書物を総合すると、経緯は古川貞二郎官房副長官の下で内閣に、米軍支援の具体的方策を策定するプロジェクトチームが作られ、1991年の湾岸戦争の際130億ドルもの戦費、巨額の血税を拠出したにもかわらず、国際的な評価をまったく得られなかった苦い経験があります。

911無差別テロという憎悪と恐怖は、多くの日本人も犠牲になった事実は、自衛隊の海外派遣に対するハードルを一気に引き下げてしまいました。「ショー・ザ・フラッグ」は、人的貢献への米国側の期待を示す象徴的な言葉と受け止められ、歯切れの良い言葉の勢いが弾みとなって、日本も何かしなければいけないと世論に問いかけたのです。

一言で国民に訴えるという意味では、「構造改革なくして景気回復なし」と単純化した言葉で世論を喚起し、政権への支持を集めてきた小泉首相にとっても、非常に好都合な言葉であったことは間違いありません。

一方、米政権の対日政策責任者であるアーミテージ自身が、戦艦や航空機の輸送業務などの具体的ケースを挙げて、駐米日本大使に直接、自衛隊の派遣を求めていたのはまぎれもない事実です。自衛隊の派遣を見送り直接支援を行えなかった日本政府は二の舞だけは避けたいという意識が、トラウマのようになっていたのです。

実はこの130億ドルの膨大な財政支援は、米国にとってイラク攻撃を可能にする大きな「貢献」だったのです。この真実は米国自身が議会証言で認めているのです。ところが日本の外務官僚は、その事実を国民に紹介しようとせず、「今度こそ、目に見える支援を迅速に決定しなければならない」と強調するばかりなのです。

このような中で、外務省の谷内正太郎総合外交政策局長は、「ショー・ザ・フラッグ」発言を最大限に利用して、一気にイージス艦派遣の流れを作り上げたのです。「明確なプレゼンスを示す用意があると話を切り出したのは、日本のほうだ。アーミテージ副長官は断じてそのような言葉は使っていないと話しています。

しかし、異論はない。日本政府がそう望んでいるのであれば、そのままにしておくことが最良なのだ。本件は日本の問題だ・・・・」と米国は、日本の外務官僚の捏造を認めた上、それを黙認していたのです。

当事者にされた柳井駐米大使は帰国後、報道関係者に「この言葉を自分は絶対使っていない。公電で報告したこともない」と明言しました。しかしそのとき、すでにテロ対策特別措置法は成立、イージス艦派遣は決まってしまったのです。

 





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皇后雅子さまの父
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/06/11(火) 15:47
No. 7483
 
 
外務省の研修生は、ロジスティックス、すなわち閣僚たちの滞在期間中の世話役を行うそうです。ちなみにロジスティックスとは、軍事用語で、輸送、宿営、糧食などの後方支援を意味する言葉です。

物流会社では「ロジ」と略称されています。「ロジ」と呼ばれるものはサミットなどの要人往来の際の重要な裏方の仕事となっています。研修生は「ロジ」の仕事のため、ホテルの一室に設けられた事務局に当番として詰めていると、寝静まった午前零時過ぎ、福田赳夫外務大臣の秘書官である小和田恒から電話がかかってきた。皇后雅子さまの実父です。

用件は「缶切りを至急もってこい」です。缶きりぐらいホテルのルームサービスに頼めばいいのですが、部下に仕事を言いつけるのが官僚の習性だそうです。ホテルのボーイに缶切りをもらい、外務大臣の部屋に飛んで行き、ドアをノックしても返事がなく、再びノックすると、ドアが少し開き、その隙間から眼鏡越しに小和田さんの目が覗いたそうです。

「遅くなりました。缶切りを持参しました」というと、小和田さんはドアの隙間から顔を半分だけ覗かせ研修生をしばらく眺めてから蚊の鳴くような声で「その缶切り試したかい」と言ったそうです。

研修生は「試してはいませんが、切れると思います」と答えると小和田さんは一言も発せずに研修生の顔を見つめた後、ドアを閉めてしまったそうです。事務局の部屋へ戻って、この話を先輩たちに話したら、詰めが甘い者は外務省では出世しないという事を教えられたそうです。

何事も考え抜いて用意周到に事を運ばない者は、無能の烙印を押されるということのようです。「ありがとう」の一言さえ若い職員にかけることのできない、成績至上主義の人間のみが事務次官という最高ポストに上り詰めます。皇后雅子さまのお父さんもそんな中で出世したのです。

 






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