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ジュネーブで開かれている満州事変を議題とする国際連盟の会議は、波瀾そのものでした。我が国、日本・松岡全権は、あるいは理事会に、あるいは総会において極力アジアにおける日本の立場を説明しましたが、満蒙の特殊事情や日本の立場を理解しえませんでした。
松岡全権は全く孤軍奮闘でした。今日からみれば、日本の大陸進出は軍部が日本の支那における既得権を踏台として、その特権と支配権を拡大しようとする軍国主義の一環のようにいう人がいますが、満州の問題は、日本の興亡にかかわる重大問題であり、また東洋平和の問題でもあったのです。
松岡全権も日本がアジアの盟主として東洋平和を確立し、ひいては世界平和と人類の福祉に貢献しようという精神であり、石原莞爾も究極は世界平和の理想によるものです。ジュネーブでこうした会議を開いている間に、三月一日「満州国」が成立したのです。
元来石原将軍の満蒙対策は占領論でした。それが後に独立論に変わったのですが、その経緯について石原将軍は、その第一の理由は、中国人の政治能力に対する従来の懐疑が、中国人にも政治の能力があるという見方に変わって来たことです。当時、中国は蒋介石を中心とする国内の統一運動が国民党の組織をその基盤として非常な勢いで伸びて行きました。
生活の根本的な改善から始まって、国民の生活と国家の政治経済等の直接的な結びつきによる革新運動は、従来の軍閥のやり方と全然違って、新しい息吹を中国に与えるように思われたのです。
中国人自身による中国の革新政治は可能であるという従来の懐疑からの再出発の気持は、さらに満州事変の最中における満州人の有力者である人々の日本軍に対する積極的な協力と軍閥打倒の激しい気持、そしてその気持から出た献身的な努力、さらに政治的な才幹の発揮を眼のあたりに見て、一層違って来たのです。
在満三千万民衆の共同の敵である軍閥官僚を打倒することは、日本に与えられた使命でありました。この使命を正当に理解し、このために、日本軍と真に協力する在満漢民族その他を見、さらにその政治能力を見るにおいて、石原莞爾は満蒙占領論から独立建国論に転じたのです。
なぜならば、支那問題、満蒙問題は単に対支問題ではなく、実に軍閥官僚を操り、アジアを塗炭の苦に呻吟せしめているものは欧米の覇道主義であり、対支問題は対米英問題である以上、この敵を撃破する覚悟がなくてこの問題を解決することは、木に登って魚を求むるの類であると思っていたがために他ならないと語っています。
かくて石原莞爾は、満州に新生命を与え、満州人の衷心からの要望である新国家の建設によって、まず満州の地に日本人・中国人の提携の見本、民族協和による本当の王道楽土の建設の可能性を信じ、従来の占領論を放擲して、新国家の独立を主張するまでの転向となったのです。
これが満州占領論より満州建国論に変わった経緯です。昭和7年1月11日、すなわち柳条溝事件発生4カ月後に、東京朝日新聞社主催による満州建設についての日支名士座談会が、奉天ヤマト・ホテルを会場にして開かれたのです。
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