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  認知症はどういう病気  仲條拓躬2024/10/22(火) 08:19 
  引き返せた地点はいくつもあった  仲條拓躬2024/10/19(土) 05:43 
  近衛文麿が天下の戦局を握る  仲條拓躬2024/10/19(土) 05:32 
  日本の子どもは礼儀正しい  仲條拓躬2024/10/17(木) 16:23 
  イノベーションによって解決  仲條拓躬2024/10/17(木) 16:22 
  行き詰まる近代のパラダイム  仲條拓躬2024/10/17(木) 16:20 
  タマゴかけご飯の日  仲條拓躬2024/10/11(金) 20:38 
  美しい出羽三山と永平寺  仲條拓躬2024/10/11(金) 20:36 
  軍部が暴走したのが残念だ  仲條拓躬2024/10/11(金) 20:34 
  2024北陸の旅日記2日目−2  仲條拓躬2024/10/09(水) 15:49 






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認知症はどういう病気
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/22(火) 08:19
No. 7620
 
 
認知症の患者数が増え続けています。厚生労働省の統計によると、1985年には59万人ほどだった日本国内の認知症患者数は, 2015年には500万人を超し、2025年には700万人にも達するといわれています。この問題は日本だけにとどまりません。

全世界における認知症の患者数は、2016年の時点で4700万人、2050年には1億人をはるかに超えると予測されています。これにともなう医療費の増大は避けることができず、その社会的および経済的な負担が、強く懸念されています。

たいていの認知症は、早期から適切な治療を行うことで、進行を遅らせることができます。 しかし、専門医の診断を受けるのを躊躇しているうちに発見が遅れたり、氾濫する情報におどらされ、効果のみられない対処法を行っているケースもあるようです。

認知症は脳の病気です。脳はとても複雑にできていますから、専門家の判断がなければ、正しい対応はできません。まずは認知症が、どういう病気なのかを知り、きちんと理解することが大切だといいます。

認知症とは、脳が広い範囲で障害され、全般的に知的能力が低下する病気の総称です。その原因により、「アルツハイマー型認知症」や「血管性認知症」などに分けられます。正常な脳の老化の場合、それほど著しく機能がそこなわれることはありません。

しかし、学習や記憶に携わるニューロン(神経細胞)の変性や、脳血管の損傷などによる病気で脳に異変が生じた場合、人によっては様々な知的能力が、日常生活に支障をきたすほど低下します。この状態を「認知症」といいます。

まず多くの場合、記銘力 (物事を覚えている能力)が障害され、思考や判断力が停滞し、理解力が低下します。さらに時間や場所などを正しく認識できなくなります。障害は、感情面や意欲面にもあらわれます。

例えば、すぐ不機嫌になったり、怒りやすくなったり、その逆に、いつも上機嫌で屈託がなく、多幸的で心地よい気分の状態が続くことがあります。さらに、何をするにも億劫がる, 趣味など好きな事に興味を示さなくなるといった自発性の低下も、比較的初期からみられます。

認知症の症状には、脳のニューロンが壊れることで引きおこされる「中核症状」と, 中核症状に関連しておきる「行動・心理症状 (周辺症状)」があります。中核症状は、もの忘れからはじまります(記憶障害)。 そして、考えがまとまらなくなり(判断力低下)、買い物でお釣りの計算に手間取ったりします(計算力障害)。

その後、料理や着替えといった段取りが必要な行為ができなくなる、電話やテレビなど、知っているはずのものを認識できなくなる(失認, 失行)といった症状があらわれ、さらには時や場所、人の名前がわからなくなるという具合に悪化していきます (見当識障害)。

一方で行動・心理症状は、徘徊(あてもなく、うろうろと歩き回ること)や不眠、攻撃行動 (暴力、暴言), 抑うつ、不安,興奮、被害妄想、焦燥感などがあげられます。行動・心理症状がおきると, 患者と介護者との意思疎通がむずかしくなり,それがまた,患者の攻撃行動や抑うつ状態を招く、といった悪循環につながります。

中核症状の根本的な治療法はいまだありませんが、行動・心理症状に対して適切な介護対応や薬物療法を行うことで、認知症を軽減することが可能です。まずは認知症が、どういう病気なのかを知り、きちんと理解することが大切だというのです。

 





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引き返せた地点はいくつもあった
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/19(土) 05:43
No. 7619
 
 
日中戦争は、日本の侵略や陰謀ばかりが取り上げられますが、日本も被害者だというのも事実です。日本は中国の百年内戦という渦に呑み込まれ、反日侮日の挑発に乗せられたのが、戦争の原因です。当時、中国に住んでいた方は日本が被害者だと考えています。

日中戦争は英米ソなどの列強が中国の内戦に介入し、最終的に南京、重慶、延安の各政府にそれぞれ荷担したことが原因で、日本は中国に危害を加えたというより、近代的な統一と発展に対し、大きな貢献をしていたのです。

盧溝橋事件での日中戦争への拡大は、日本政府も蒋介石も望んでいなかったのです。日本も不拡大方針を決め、和平交渉の道を模索し、蒋介石は共産党を倒して国内を安定させるのが原則方針だったので、対日戦争は避けたかったのです。

中国軍は約5百万人、蒋介石の直系軍は2百万人で、数では日本軍の7倍ですが、それでも対決できる力量ではなかったのです。日本軍で訓練を受けた軍人蒋介石は誰よりもそれを知っていて、実際、戦争突入後、蒋介石の国民党軍の弱さは嫌というほど証明されています。

だが、延安で辛うじて生き延びていた共産党にとって、「抗日」は唯一の活路でした。「抗日」と叫ばなければ、まず共産党が蒋介石率いる国民党の餌食になってしまうからです。蒋介石に滅ぼされる恐れを抱いて、共産党は蒋介石を抗日に追いつめたのです。

ここから先は近衛文麿の優柔不断があり、蒋介石も予想しない日中戦争にずるずると拡大の一途を辿るわけですが、まだ、引き返せたという地点がいくつかありました。それは本当に大事なifです。まずは1937(昭和12)年7月7日七夕の盧溝橋事件の時です。

そこでの戦闘は一旦収まっていたのだから、ここではっきりした命令を出せなかったことは、近衛文麿の責任です。その後は翌8月に起きた上海事変です。陸軍は出兵に消極的でした。だが上海には海軍もいるし、日本の工場もたくさんあるから、と海軍のイニシアティブで戦闘が始まってしまいます。ここでは米内光政海相の責任が大きいです。

さらに上海事変の前に、近衛文麿が南京に行き蒋介石と会うというプランを石原莞爾が立てているのです。これは近衛文麿内閣の書記官長だった風見章も書いています。陸軍参謀本部側は飛行機の手配をして、蒋介石にも話を通すのですが、最終的に近衛文麿は逃げてしまうのです。最後は、12月の南京占領時です。

この前後、参謀本部は中国側に調停案を出し、これに沿ってドイツ大使トラウトマンが日中和平工作をはかります。賠償金は要求しない、華北は非武装地帯にすればいい、満州国は黙認でかまわない、日本が中国に持っている権益を放棄するといった内容です。

蒋介石は1度これに乗りますが、交渉の途中で、南京が陥落したという報を受け、広田弘毅外相と首相の近衛文麿は、突如、条件をつり上げてしまうのです。結局、交渉は不調に終わりました。以上、日中戦争を終結されることが可能だったと思うのです。

実際、異論がある方もいろとは思いますが、この後になると日中問題を解決して日米の対決を避けるのは、かなり難しくなるのです。この大切なポイントを日本はすべて見逃してしまいました。今風に言えば、日本国は中国大陸という巨大な不良債権を抱えていました。攻めるのは簡単ですが、撤退する時には一番勇気がいるのです。

 





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近衛文麿が天下の戦局を握る
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/19(土) 05:32
No. 7618
 
 
東亜連盟とは、日中戦争の長期化と日本の国力消耗を石原莞爾先生が、「国防の共同、経済の一本化、政治の独立」を条件に、日本と中国および満州国が手を結ぼうという趣旨のもと日中両民族が提携して戦争を速やかな終結を図ろうという思想です。

近衛文麿の東亜新秩序声明を背景に、昭和14年10月に東方会系の農民運動家や満州国協和会系の人々を集めて設立されたのが東亜連盟です。日本国内に支部ができただけでなく、汪兆銘の南京政府も自らの立場の基礎理論として、東亜連盟論を積極的に採用していました。

マッカーサーに危険思想であると圧力をかけられましたが、現在の名称は私が会長を務めている石原莞爾平和思想研究会です。盧溝橋付近で睨み合いを続け、中国からの攻撃は執拗に継続され、本格的戦争に入る。

石原莞爾は、兄弟喧嘩はやめようではないか、と近衛文麿総理大臣と、蒋介石中国国民党政府首席とが、平和交渉に当るより外はないと決断、近衛首相に電話をかけ、「閣下、飛行機で、南京へ私と飛んで、直接、蒋首席とお会い下されば、話はすぐにわかります。間の雑音を取り除くため一切秘密に、日本は、何ら領土的野心をもっていない。」

「中国と戦う考えは毛頭ない。陸軍も海軍も、直ちに中国から引き上げさせる。日本の希望は、中国との経済提携、満州国の独立承認、ソ連に対して、十分な国防態勢がととのい、日本も安全だが、中国も安全であるということを強調してください」といったのだが、近衛首相の優柔不断は、政治的大英断が実現しなかったことを、石原莞爾は残念がっていた。

陸海軍の協調を計る為に、東条を押えることが出来なかったと手記に残されているのですが、軍はもとより、国を挙げて、事変から戦争へと戦勝の強気に酔っている時に、石原莞爾の提案した無条件にも等しい対華講和を決断くだすにも、それが許されない日本の政治情勢であり、悲しき日本の運命であったと言えます。

現に、石原莞爾自身がこのために、左遷されているのです。近衛文麿自身も「新日本の姿を示せ」という題で、満州国承認を国際連盟は受け入れようとしました。当時のアメリカも、承認する人が多かったということを近衛は書いています。

中国本土に手を出したら、満州国建国が日本にとってたいへんな禍根となるだろうということはわかっていたのだからズルズルと奈落の底へという事態が象徴しています。重臣、元老層と国家革新運動が常に水と油で接点をまったく持ちえなかったと中で、その唯一の接点と言えたのが近衛文麿でした。

近衛家は五摂家筆頭の名家で、宮中とも直結しています。重臣層も革新派もともに近衛文麿には強い期待を抱いていました。ところがその近衛の優柔不断から、一旦決めた不拡大方針を実現することなく、シナ事変からずるずると日米戦争まで引きずって流れを作ってしまうのです。

近衛文麿はこの時のターニングポイントで、日本国と中国の運命を変えた天下の戦局を握るキャスティングボード的な存在だったのです。この瞬間では、日本軍、国民党などの大物を手玉にとっていたのです。歴史には、しばしばこのような運命的なシチュエーションが訪れて、実力以上にさせる瞬間があるのです。

あらゆる時の流れの中で、運命はいかにも奇妙な気まぐれから、行き当たりばったり、いかにも平凡な人間に身をまかせる事が往々にしてあります。そしてこれは世界歴史のもっとも驚くべき瞬間でありますが、重大な運命を左右する糸が、一瞬だけまったくつまらないものの手に握られてしまったのです。

第一次近衛内閣の組閣は、昭和12年で当時を知る方は近衛文麿の登場で非常にフレッシュな印象を受けたと言います。1993年に自民党政権が崩壊し、石原莞爾平和思想研究会の後押しで日本新党の細川さんが連立内閣の総理になったときも、一瞬、世間がわっと盛り上がりました。何の因果か近衛文麿は細川さんのお祖父さんにあたるのです。

 





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日本の子どもは礼儀正しい
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/17(木) 16:23
No. 7617
 
 
イギリスの先生が日本人の生徒を見て驚いていたのが、「カナヘビ」というトカゲを飼育し、虫かごに入れて「かわいいね」といいながら撫でたりして大事にしていたことです。イギリスの学校では小動物や爬虫類を飼うことはありません。

虫や爬虫類を発見すると、踏み潰して殺したり、いたぶって遊んだりする子どもが多くいます。小さなものを大事にする感性のある子どもは少なく、自然にもあまり興味を抱いていません。それでも、日本人の生徒が住んでいるところは自然がかなり豊かで、日本の郊外に比べても田舎なのです。

学校も理科には力を入れているのですが、子どもたちには自然を大切にする感性が欠けています。イギリスの子どもらは裕福な家の子でも、ゴミを床や道に投げ捨て、並ぶべきところできちんと並ばず、人を押しのけ、私語だらけで大騒ぎします。

気をまったく遣わず、意地悪をし、トイレや劇場を汚しまくり、食べ物を床に投げて足で踏み潰し、カーペットになすりつけたりします。こうして大人の使用人に掃除させます。また学校では備品を投げつけたり壊したりするのを堂々とやります。

さらに授業参観ですらイギリスの子どもらは親の前で学用品や学校の教材を投げつけまくって遊び騒ぎ、ケーキを手づかみで食べ、ほかの子どもからも奪っていました。この調子が「標準」どころか、これは進学校で裕福な階層なのです。

貧しい地区とか貧困な階層はもっとひどいのです。学校のプールでの放尿、トイレから糞を持ってきて手洗い場にぶちまけ塗りたくった子どもたちもいました。それは知的障害がある子どもではなく、親が教員で豊かな家の子どもです。

大人の「使用人」が片づけるのを知っているからわざとやるのです。だから日本の公立校に通うごく普通の小学生がイギリスの小学校に転校した場合、おそらくほぼ100%の確率でその子どもは礼儀や行動評価で全学年のトップどころか、国のトップレベルになってしまうのです。

この日本の子どもたちはレベルが高いわけではなく、イギリスの先生の実家である田園地帯の子たちで、この街はそれほど裕福ではありません。日本の子どもらは全体的に礼儀や共感性がしっかりしており、小さな子でも非認知能力が恐ろしく発達しているといいます。

非認知能力とは「社会情緒」に関する能力のことで、感情の動きをつかさどる働きをします。それは「社会性」「協調性」「忍耐力」「意欲」「自己肯定感」「予測力」「共感性」などで構成されます。イギリスの先生からそのように感じておられることは喜ばしい事だと私は思います。

 





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イノベーションによって解決
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/17(木) 16:22
No. 7616
 
 
物理学の圧倒的な勝利を目にした経済学は、物理学化を進めていきました。高度な数学を駆使して、精緻な理論をつくりあげていったのです。そうやってできあがった経済のモデルの大半は、事実上、一種類の製品をつくる単一のセクターであり、そこに資本、労働力、人間の知識、投資、貯蓄などの入力因子を考慮して微分方程式をつくり出しました。

それでうまくいけば何の問題もないのですが、実はあまりうまくいかないのです。よく指摘される問題点のひとつは、経済の主体である人間を、常に合理的な判断をする要素であると仮定している点です。将棋の名人に対して第一手を指す。すると、すべての変化を読み切った名人が投了するという。よくある笑い話です。

将棋の変化は有限です。わりと簡単に証明することもできますが、少々手間がかかるので、ここは有限だということを信じてほしい。変化が有限であれば、すべての変化を読み切り、結果から逆にさかのぼることによって、現局面から最善を尽くした場合の結果がどうなるのかは明らかになります。

しかし変化が有限だといっても、その場合の数は超天文学的な数になります。人間がそのすべてを読み切ることなどできるはずもないのです。数年前、AIが人間の名人を破り、話題となりました。現在、AIの実力ははっきりと人間を上回っています。

しかし、AIにしてもすべてを読み切っているわけではないでしょう。最強のAIでも、すべての変化を読み切ることのできる将棋の天才にはかなわないのです。現在の経済学は、人間をこの将棋の天才のような存在であると仮定しているのです。

もうひとつの問題点は、イノベーションを無視している点です。人類はイノベーションを通じて危機を克服し、生き残ってきました。石器の発明、火の活用、土器の製作が、人類の発展に大きな影響を及ぼしてきたことに疑問の余地はないでしょう。

そして農耕の発明は、人口の爆発的な増加をもたらしました。その後も大小さまざまなイノベーションによって人類は進化し、現代に至っています。人口は幾何級数的に増加しますが、食糧生産は算術級数的にしか増加しないので、人類はやがて深刻な飢餓に直面するという「マルサスの罠」を克服したのもイノベーションでした。

その一等功臣は何といっても、フリッツ・ハーバー(1868〜1934、1918年にノーベル化学賞受賞)とカール・ボッシュ(1874〜1940、1931年にノーベル化学賞受賞)によるハーバー・ボッシュ法の発見でしょう。

これによって人類は、それまで根粒菌にだけ可能であった、空気中の窒素を植物が利用できるかたちに固定することができるようになったのです。ハーバー・ボッシュ法によって生産された窒素肥料は食糧の大増産を実現し、世界的大飢饉が起こるのを防いだのです。

しかしそれでも、食糧の問題は解決しなかったのです。1960年代には、新聞や雑誌などで、食糧不足のために人類は早晩、危機に陥るというようなことが真剣に論じられていました。この危機を救ったのもまたイノベーションでした。

今度の功臣は、遺伝子組み換え作物だといいます。収量も多く、病虫害に強い遺伝子組み換え作物によって、現在、食糧問題はほとんど解決したといいます。さらに最近は、土地を必要とせず、水を極限まで節約しうるスマート農法なども実用化しており、砂漠の地に新鮮な野菜を提供してもいると伝えられています。

遺伝子組み換え作物は未知の領域だと感じます。虫も食べないものを人間が食べていてどのようなことが起きるのであろうか。ここ100年の間に謎なことばかりが行われています。現在、問題となっているのは地球温暖化です。しかしこの問題も、新たなイノベーションによって解決するのではないか、と考えているのです。

 





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行き詰まる近代のパラダイム
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/17(木) 16:20
No. 7615
 
 
カオス、フラクタル、セル・オートマトンの縁などの現象はそれ自体、非常に興味深く、現在も研究が進められています。しかし、複雑系の科学が目指している目標がここにあるわけではありません。敵の本陣は誰が何と言おうと、人類最大の謎である生命であり、そして、その生命がつくり出した人間の社会、歴史、経済なのです。

敵の本陣に斬り込む前に、近代のパラダイムが生命に対して果敢な突撃を敢行し、あえなく敗れていったさまを振り返ってみると、1944年、ナチス・ドイツの迫害を逃れてアイルランドのダブリンに隠棲していたエルヴィン・シュレーディンガー(1887〜1961、1933年にノーベル物理学賞受賞)が「生命とは何か」という小冊子を出版します。

シュレーディンガーは遺伝子に注目しました。親から受け継がれる小さな遺伝子の中に生物が必要とするすべての情報が含まれています。そのような情報を内包する安定的な物質は分子に違いない、とシュレーディンガーは予言しました。

また、情報を保存するためにはその分子を構成する原子は非周期的に並んでいる必要がある、と付言しました。つまり、遺伝子は非周期的な巨大分子だ、というのです。遺伝子の中には生物が必要とするすべての情報が含まれています。つまり遺伝子こそが生命の本質であり、遺伝子を解明すれば生命の謎はあきらかになる、と考えたのです。

シュレーディンガー方程式の完成によって、すでにシュレーディンガーは物理学界の大御所となっていました。そのシュレーディンガーが書いたこの小冊子は多くの若い研究者を動かしました。とりわけ、かなりの数の物理学徒が生物学の門を叩くことになったのです。

人間の体内にある巨大分子は脂質、炭水化物、タンパク質、核酸の4種類に分類されます。このうち、脂質と炭水化物は、非周期的、という条件に反します。タンパク質は20種類のアミノ酸が一列に並んだ巨大分子です。タンパク質は合成されると同時に分子内部の力のために極端にねじれていき、独特の形になります。この形が重要なのだといいます。

レゴブロックのように、ぴったりと合う他のタンパク質とくっついたり離れたりしながら、タンパク質は肉体の構成要素である巨大な構造物になったり、物質を輸送したり、信号を伝達したり、有害な細菌などに対抗する抗体となるなどの働きを担うのです。

とくに生物にとって重要なのは、その独特な形によって他の物質を誘導し、その化学反応の速度を調整する触媒としての働きです。アミノ酸は理論上いくらでもつないでいくことができるので、無限の種類のタンパク質が存在することになります。

しかし現在の科学では、どのアミノ酸がどのような順序でつながったかがわかっても、そのタンパク質の形を予想することはできません。タンパク質内部の微妙な分子内の力の関係は、スーパーコンピュータでも計算しつくすことはできないのです。つまり、アミノ酸の配列がわかっても、そのタンパク質がどのように働くのかはわからないのです。

もうひとつの巨大分子である核酸は、DNAとRNAの総称です。DNAは、シトシン (C)、チミン(T)、アデニン(A)、グアニン (G)という4種のヌクレオチドが並んだ巨大分子で、RNAはチミン (T)の代わりをウラシル(U)がつとめる以外はほとんどDNAと同じ構造をしています。

アミノ酸という要素が一列に並んだタンパク質と同じように、核酸はヌクレオチドという要素が並んだ巨大分子なのですが、核酸にはタンパク質のような決まった形というものはないのです。分子レベルでは、その形が機能を決定します。 決まった形のない核酸は、いったい何のために体の中に存在するのか、わかっていなかったのです。

 





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タマゴかけご飯の日
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/11(金) 20:38
No. 7614
 
 
温かいご飯に卵をかけて食べることの魅力を歴史や栄養などの様々な視点から語り合う全国シンポジウムが開催されたことがありました。各県の卵を使った吟味会、卵をかけて食べるご飯の定義を決定するほか「タマゴかけご飯の日」を制定しました。

10月30日は「タマゴかけご飯の日」です。 米食・鶏卵の普及を目指す日本たまごかけごはんシンポジウム実行委員会により制定されました。 日付は、2005年の10月30日に島根県雲南市で「第1回日本たまごかけごはんシンポジウム」が開催されたことにちなんでいます。

このタマゴかけご飯の経緯は第三セクターが、ふるさと村で開発した卵かけご飯の専用醤油「おたまはん」が大ヒットしたからだそうで、2005年5月から約30万本を売り、東京で愛好グループが結成されるなど全国から反響があったためだそうです。

タマゴかけご飯の思い出や料理法を募集したところ、戦後の食べ物がひとつの卵を家族6人で分け合ったという思い出や、生卵に角切りトマトとウスターソースを混ぜ、ご飯にかけるというレシピなど、計800作品が寄せられました。

週3回はタマゴかけご飯を食べるという実行委員事務局の堀江祐輔氏は手軽な料理ですが、作り方から食べ方まで人それぞれで、奥が深いと話しています。戦後のタマゴを家族で分け合ったというお話しは母から聞かされていました。ちなみに私は半熟のタマゴや燻製が好きです。

現在の養鶏場では、鶏の糞に含まれているサルモネラ菌の繁殖を防ぐために、出荷する前に消毒液で洗い流しますので、表面がザラ付いています。鮮度の良いものは、外見から判断するは難しいので、割ってみたほうが確実です。お店でいきなり割ったら怒られるでしょうが(笑)

新鮮な卵は、卵黄が盛り上がり、卵白が二重になっていて、濃厚なほうの卵白が盛り上がり、しっかり卵黄を取り囲んでいるかをみることです。生卵でご飯を食べる時には一旦、水洗いしたほうがいいです。

というのは、卵の表面に、1億個に1つくらいの割合で、サルモネラ菌が付着されていると言われています。黄身悪い卵 ♪パっとして ぐぇ〜っ(≧Д≦;)として♪(田原俊彦)5つの卵をご覧(5卵)ヽ(^o^)丿(笑)

タマゴは8種類のアミノ酸を全て含み、ビタミン、ミネラル類も豊富で、ビタミンB2が肉類の3倍近くもあるので、完全食品と呼んでも過言ではありません。コレステロールが多いので成人病になると一時は敬遠されていましたが、コレステロールが不足すると骨がもろくなり、性生活に障害がもたらされる事がわかっています。

人体では肝臓と小腸がコレステロールを製造し、肝臓のほうは排泄も受け持ちます。必要無くなったコレステロールは肝臓で胆汁酸に変えられ、小腸からの排泄物に混じりこんで体外に捨てられます。肝臓のコントロールがうまく作動しているうちは、コレステロールの摂り過ぎはあまり心配しなくて良いのです。

 





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美しい出羽三山と永平寺
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/11(金) 20:36
No. 7613
 
 
来週から山形県へ出かけますが、山形県の出羽三山と言えば、月山を中心に北側の麓近くが羽黒山で、南西の中腹が湯殿山で、全体としては月山ということになります。この出羽三山の信仰は、東北一帯と越後、佐渡、信濃に特に色濃く広がっていて、新潟の一市民が羽黒山に1千万円のお布施をしているのには驚きました。

こうした地方には古くからは羽黒講や三山講といった講が組織されて、山伏たちは講員である檀家を巡りながら牛や三面大黒の絵姿の御礼、湯殿山の「おあか」と称する湯の花を配布して初穂を集めていたのです。

村方でも山伏が廻ってくるのを待ち受けて、家相を見せたり、嫁や婿の相性を占わせたりしたものだといいます。山伏たちは檀家に三山巡拝を勧め、三山巡りの者を自宅に宿泊させて、荷物を担いで登山の案内もしていたのです。

三山巡拝は二千メートル近い月山の頂上まで行くのだから、参拝者は春から秋、それも夏に訪れることが多く、湯殿山の縁年にあたる丑年に急増しました。三山をまわるには七ヶ所の入口があるが、芭蕉と曾良が羽黒山の麓の手向町に着いたのは、最大の門前町です。

ここの住人のほとんどは宿坊を営んでいる山伏で、手向町には三百軒以上の宿坊が建ち並び、後世になると「商家や職人の家も入りまじって五百軒」と書かれるようになっています。参詣者が来ると宿坊から人が飛び出してきて、どこの国の者かと尋ねて担当の宿坊を教え、また山伏がいないとわかれば、自分の宿坊に泊まれと熱心に勧めるそうです。

かなり強引に宿引きされたと書いている旅人もいます。松尾芭蕉もおそらくこうした宿坊の者たちに取り囲まれて、どこの国の者かと聞かれたことでしょう。『おくのほそ道』の中で松尾芭蕉が一人で歩いたのは、出羽と越後の国境鼠ヶ関と北中間、それに、永平寺と福井間の二ヶ所だけなのです。

先週は永平寺に行ってきました。福井県永平寺町の天竜寺参道にあります。季節や弟子との別れのつらさをうたったと言われている「物書て 扇引きさく 余波哉」と刻まれています。味わい深い一句です。天龍寺の境内には、松尾芭蕉が訪れた際に「物書きて扇引き裂く余波哉(なごりかな)」という句を残しました。その句は句碑として存在しています。

 





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軍部が暴走したのが残念だ
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/11(金) 20:34
No. 7612
 
 
石原莞爾将軍が目指した王道楽土、民族協和を描いた満州国ですが、日本人が新たに国を建国するという未曾有の体験でもあった訳です。そこには軍事的と経済的あるいは革新官僚による新しい国家組織のビジョンが含まれていたと思うのです。これは明治維新以来、国家思想として行った最大の国家プロジェクトではないでしょうか。

台湾の領有と開発事業なども大プロジェクトでしたが、台湾の場合は植民地経営です。満州国の場合は、最初から意識的に計画的に国を建国したという点が特異な体験だと思うのです。石原莞爾の理想通りに、日・満・中・朝・蒙の五民族が五族協和で建国できていればアメリカ合衆国のアジア版のようなものになっていた可能性がある訳です。

王道楽土、五族協和といった理念の問題は差し置いても、戦後日本の繁栄の基礎に満州国体験があるというのは否定できない事実です。満州で宮崎正義や、戦後に新幹線を手がける十河信二、それに岸信介や椎名悦三郎といった官僚たちが、ある種の大規模な計画経済を行って、重工業を中心としたインフラを整備したことは、戦後の日本経済の復興にとって掛け替えのない経験となっているのです。加えて社会経験としての満州生活も大きい。

今でも大連の街に行くと、戦後の日本のマイホームの原型が伺えます。子供達がそれぞれ部屋を持ち、家庭が居間で顔を合わせて、客を応接間で迎える。満州体験を持つ清岡卓行氏の本を読むと、消費物資もあって、映画も満映があり、遊園地もある。戦後社会を先取りしたような経験をしているのです。だから内地に帰ると辛くてしようがない。

内地は当然のことながら戦前のままですから、満州というものが、無駄になってしまいましたが、大規模な都市計画や、産業を構築したという満州計画が、岸、椎名といった固有名詞も含めた意味で、戦後日本の繁栄の基礎を構築したのだと思うのです。私の同志も大連へよく行きますが、日本人にとってとても美しい豊かな町だといいます。

当時の大連の女学校の生徒が内地へ修学旅行に来て、日本人がみすぼらしく見えたといいます。日本の汽車は小さいと笑う、満鉄の「特急あじあ号」に比べたら、確かにそう見えたかもしれません。新京(現在の長春)が首都と定められた後も、満州に関わりの深い人たちの間では大連が中心でした。

日本の鉄道で列車番号は、東京を中心に下りが奇数、上りが偶数となっています。「あじあ号」も大連発が11列車なのです。つまり大連を起点にして発着しているのです。岸信介が満州体験について面白いことを言っています。彼は満州で自分のやりたいことを色々行って日本に帰ってくる。

商工省に戻って会議をやったら、日本の官庁の会議は全然話が進まない。会議のための会議をやっている。日本の官僚機構は腐っているじゃないかと言うのです。満州では、言い出した者が責任を取る、そして必ず実行した、と。(笑)

アメリカ合衆国と満州国を比較すると、アメリカ合衆国はインディアンを虐殺しました。だが、アメリカは成功して、満州国はたった13年で結局、地上からなくなってしまいました。満州国がアメリカにならなかったのは、最終的には日本が戦争に負けたということに尽きてしまいます。

イギリスは勝ち続け、アメリカはそのイギリスとの戦争に勝って独立しました。18世紀のオーストリア継承戦争や7年戦争で、イギリスがフランスに負けていたら、アメリカ合衆国は全く存在しなかったでしょう。つまり、当然のことながら、戦争の勝敗が歴史を決める、という冷厳な歴史の法則から目をそむけてはいけないということでしょう。

昭和9年9月号の「文言春秋」に、近衛文麿が「新日本の姿を示せ」という題で、アメリカ訪問記を寄せています。すでに日本は国際連盟を脱退、日米関係が日増しに険悪さを募らせていた時期に書かれたものです。

この中で近衛は、何としても満州国の現状をアメリカ人に受け入れてもらえるよう、我々は死力を尽くさなければならないと力説しています。彼の観察によれば、アメリカは満州だけの問題なら何らかの妥協をする余地がある。しかし、日本が中国全土を取るつもりでいるのではないかという大きな危惧ももっている、と言います。

満州事変の調査のために派遣されたリットン調査団の報告書にも同趣旨のトーンがはっきりでていますが、もし日中が和解し、満州国の現状を変えれば満州国の存在を受け入れてもらえる可能性はあるというのです。現に国際連盟はそれを受け入れようとしました。当時のアメリカではまだ、そのラインの人が多かったということを近衛は書いている。

しかし中国本土に手を出したら、満州国建国がかえって日本にとってたいへんな禍根となるだろうということはわかっていたのです。近衛の見通しは、間違っていなかったと思います。だから3年後、総理になってから石原莞爾の言う事を聞かなかった近衛の責任は一層大きいといえます。北支へ出た時点で石原莞爾の思想は破綻させられたわけです。

アメリカに負けたのではなく、日本軍部は自ら墓穴を掘ったのです。石原莞爾は、独立して満州建国を目指す。だが、暴走する軍部は、最終的には万里の長城より先に手を出したのです。懸命に不拡大のために奔走した石原莞爾が関東軍の参謀副長を辞して日本に帰国するとき、満州国軍に向けて行った演説が残っています。

それによれば、石原莞爾の考えは非常に明確で、蒋介石には土下座して謝ってもかまわないから、とにかく満州国だけは認めてほしい、という。そうすれば、中国本土にある日本の権益はすべて手放しても構わないし、もし、英米がそれを狙うなら、国民党軍と一緒になって追い払ってもよいとまで言っています。それなのになぜ、軍部は暴走したのか残念でならない。

 





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2024北陸の旅日記2日目−2
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/09(水) 15:49
No. 7611
 
  続きまして、バスで移動して紫式部公園に行きました。源氏物語の作者として名高い紫式部を偲んでつくられた紫式部公園です。園内には金箔で仕上げられた十二単姿の紫式部像や、全国でも珍しいといわれる寝殿造りの庭園が造られ、故谷崎潤一郎の麗筆で刻句された紫式部の歌碑なども立っています。

ここに書く「日野の杉むら埋む雪 小塩の松に けふやまがへる」この和歌は、紫式部が長徳2年(996)、越前守に任ぜられた父(藤原為時)とともに越前国武生(越前市)に訪れ、1年半ほど滞在していた頃、紫式部が初雪の降った日野山をみて詠んだものです。

都近くにある小塩山(約640m)の松に散り乱れる雪に思いを馳せながら、都を懐かしんでいるという。紫式部が武生に来たのは感受性の強い娘盛りの数え19歳の頃といわれ、滞在期間中の経験はのちの源氏物語の執筆にも影響を与えたと考えられています。

同公園からは越前富士とも呼ばれている美しい日野山(約800m)が東部に見えますが、このような背景があって、紫式部像は日野山を眺めているように造られています。また、この庭園には総檜で造られた釣殿もあります。

釣殿は当時、納涼や月見の宴、詩歌管弦の場所として使われ、「紫式部日記絵巻」に描かれているように風雅な舟遊びのための乗降場所でもあったといわれています。入口はいると寝殿造庭園と釣殿の説明が書いてありました。庭園の広さは3千坪です。

ここに父・為時とともにまひろが暮らしたのです。当時越前は大国だったので国守りの館であるこの邸宅は平安貴族の住宅様式となる寝殿造りであった、と考えられます。「寝殿造り」とは、寝殿(正殿)を中心とした数楝の建物、池や築山がる庭園で構成されています。寝殿は建物がなく、盛り上がった場所が記されていただけでした。釣殿はありました。

釣殿は、納涼や月見の宴、詩歌を楽しむ場所であり、平安絵巻に描かれる舟遊びの乗降の場所です。池に面しています。上がって座る事もできました。池には赤い橋がかかっていて、いい雰囲気です。小川のせせらぎ、そしてその奥に現れる黄金に輝く紫式部像、かたわらには、吉永小百合氏の記念樹があるのです。

駐車場にある「紫ゆかりの館」にも行きました。絵とか人形とかが飾られていました。スクリーンには、「光の君へ」再び道長とまひろが出会い、その後どのように源氏物語を書き始めるようになるのかが映し出されていました。姫君診断というのもありました。タッチパネルで質問に答えて、自分がどんなタイプの姫君かわかるのです。

その後は、日本海さかな街「日本海側最大級の海鮮市場」に向かいました。店舗数や規模は大きいのですが あまり郷土色を感じさせる食事処が少ないように感じました。お食事は「かに喰亭ますよね」というところの堀こたつでお造里定食を予約しておきました。

アルコールはパネルタッチで頼んでくださいといいながら入った注文を店員は観ていなかったらしく、なかなか飲み物が来ないので乾杯が出来ずに呑まない女性はしびれを切らして速攻で食べてお土産屋に行ってしまいました。蟹はついてきませんでした。

食事して買い物した後は新幹線を乗るため、米原に向かいました。改札口は2階にあります。トイレは外にありとても分かりにくいので皆様苦労していました。早く着いたため、団体切符を変更して帰りは皆様、ばらばらになってしまいました。

東京駅で反省会を行う予定です。東京駅の構内には、美味しいグルメが充実しています。東京駅構内には、和食から多国籍料理まで多彩なジャンルのグルメがありますが、夕方だったため、どこのお店も満員で解散となってしまいました。とても残念でした。

 






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