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過去、中国が日本と戦争するのには外国の援助が必要でした。だが最も頼りになるはずのアメリカは、中国に肩入れしていましたが、具体的な行動を起こす余裕がなかったので、ルーズベルト大統領の1937年10月5日、侵略国を隔離する演説を行って、日本を非難したにとどまりました。
また日本軍の揚子江上のアメリカ艦・パネー号撃沈事件には厳重な抗議を行ったのですが、結局日本の謝罪と賠償を受け入れ、それ以上の行動には起しませんでした。この事件に際し王正延駐米大使がアメリカの各方面に画策し、日中戦争に介入させようと懸命に努めたのは蒋介石の戦略として当然であったのです。
当面日本と戦争するのに必要なのはソ連でした。中国国民党政府はもちろん反共産党であり、両国の関係は円滑でなく、中国共産党との関係からもソ連に近づきたくはないのですが、1935年10月18日、蒋介石はソ連との協力の下に対日抗戦を行うことを予想して、ボゴモロフ駐華ソ連大使に中ソ関係の改善の意思を伝えています。
中国としては対日戦争に際し海上を通ずる軍需物質の入手が困難となったとき、少なくとも現在のウルグアイ自治区を経由してソ連からの援助ルートを確保する必要があったのです。蒋介石は中ソ秘密軍事同盟締結まで考慮しましたが、ソ連は対日戦争までは考えない方針であったので成立には至らなかったのです。
ソ連は中国の抗戦能力に疑問を持っていたのです。蒋介石が日中戦争を早めに決意したのは、このような共通の了解が暗黙に中ソ両国間に出来上がっていたこともあるでしょう。上海が戦場化して間もない頃、中ソ不可侵条約が調印され、続いて総額一億元らを上る中借款が与えられ、数百機のソ連製軍用機が供給されました。
蒋介石がソ連に参戦を要請したことは、スターリンにより当面それは不可能である旨の回答が寄せられたことから明らかです。ソ連としては中国と日本との代理戦争を行わせ日本軍が消耗してしまえばアジアに南下するというメリットがあったのです。
その後一時はソ連がドイツに荷担して、1940年ヨーロッパ戦線で英仏が敗退し、枢軸側が世界を制覇する勢いであった頃が、蒋介石にとって最も苦しい時であったと思われています。しかしこの時期に、蒋介石は日本からの和平提案に乗らず、抗日に徹した。
この苦しいときに日本と和平を行っていたら世界情勢の分析では、中国共産党は存在しなかったかもしれません。蒋介石の戦略によれば、日本に最終的に勝つためには援助国アメリカの対日参戦が必要でした。
アメリカは1941年より、日中間の仲介に乗り出して日米交渉が始まり、これが行き詰って、ついに日米開戦となりますが、それまで蒋介石は日本との和平を絶対に拒否するものではありませんでした。
ドイツの調停にも耳を傾けたし、日本との国交が絶えた後にも、我々の同志達とも水面下での接触が行われました。ただ日本の要求が中国ナショナリズムを無視して、余りにも権益追求的で、中国の独立と主権を浸すようなものであるので、日本との妥協ができなかったのは事実です。両国にとってしても残念なことです。
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