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近衛文麿公爵が、荻窪の自宅「荻外荘」にいる時に出頭命令が出ました。元書記官長富田健治が訪ねると、近衛文麿公爵は、ひどく不快な表情だったと言います。「大局的に考えて、一体戦争犯罪人としての逮捕命令には、従うべきものかどうか」
「戦勝国が何でもでき、誰でも逮捕できるというなら、ヒューマニズムも法律もあったものではない。すでに指名される理由を認めずとすれば、これを拒否すべきものと思う。然るに今日のわが国の実情では、こっちにその権利は、何ひとつないという考え方が風をなしているし、その熱意もどこにもない」
牛場友彦は言いますが、牛場も含めて近衛文麿公爵と親しい知人、友人は、恐らく公爵の誇りと血が罪囚の辱めを許さないだろうが、かといって、果たして自決の道を選ぶかどうか。周囲の意見としては、この際、法廷に出て天皇を守るべきだ、という趣旨のものが多く、近衛文麿公爵も、それに対して積極的な反対の意思表示はしていませんでした。
しかし、近衛文麿公爵と親交が深い牛場たち少数の友人には、近衛文麿公爵は死の道を選ぶのではないか、という予感が強かったと言います。近衛文麿公爵は、優柔不断、臆病などと言われていますが、身近にいるものは、三千年の公卿の血が生みだしたような、冷たいシンの強さを、公爵が持っていることを知っていると言います。
無類の社交上手、聞き上手なので、近衛文麿公爵と会う者は、自分が信頼されていると思うのですが、「決して他人を信用しない人でした。優柔の気はあったが、不断ではなく、最後は自分でビシリと決めました」と牛場友彦は言います。
関白太政大臣の血筋という意識は、人一倍モダン好きでも消えることなく、天皇の前で足を組んで話せる臣下は、公爵だけでした。それだけに自分の身体については、病的と思われるほど注意深く、健康に気を配り、他人の手をふれさせることは極度にきらったのです。
そのような近衛文麿公爵が、犯罪人の名の下に法廷に立つことに耐えられるだろうか。近衛邸に、友人知己が集まった。近衛文麿公爵は酒が強い。応接間や居間を往来して、来客と杯をあげました。東大の柿沼、大槻博士が診断に来ました。医師の診断によって巣鴨入所を延期させよう、というアイデアがあったのです。
両博士は、診察の後、医師の良心にもとづいて延期を求めたい、と述べたが、入所の世話に当たる中村豊一公使は、たとえ医師の診断書があっても、米国側は近衛文麿公爵の出頭を要求している、と告げていました。「もう、やめましょう。もう要りません」と近衛文麿公爵は、静かに、そういったそうです。
その後は、何かに気を取られている風情で、応対の口数も少なくなり、風呂に入って、寝室に午後11時頃引き上げた。入浴中に、次男通隆は公爵の衣類を調べた。近衛文麿公爵は、第一次戦犯の指名を受けて自決した元文相橋田夫人に、橋田邦彦がどこで、どのようにして青酸カリをのみ、どこを歩いてどこで倒れたか、異常なほど熱心に質問していた。
牛場友彦は、その様子を思い出し、自決するとすれば青酸カリと予想して、次男通隆に探させたのだが、それらしいものは見つからなかった。次男通隆は、松本重治と一緒に隣室で寝ていたが、ボソボソという隣室の話し声は、午前2時過ぎまで続いた。
なにか書いて欲しい、と通隆が言うと、近衛文麿公爵は、用箋に鉛筆ですらすらと「僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を犯した。之に対し深く責任を感じているが、所謂戦争犯罪人として、米国の法廷において裁判を受けることは、耐え難いことである・・・」
近衛文麿公爵は、いずれ冷静さをとり戻した時代がくれば、「其時初めて、神の法廷に於て正義の判決が下されよう」と書き終えると、一緒に寝たい、という通隆の願いに、首をふった。近衛文麿公爵は、他人がいると寝つかれないので、夫人ともふすまをへだてた別室で寝る慣習を知っているので、通隆は引き上げたのです。
牛場友彦は、そのあと、隣室からカサカサという紙の音を耳にしたような気がしたが、間もなく眠ったそうです。「牛場さん、牛場さん」という夫人の声に眼をさました。「牛場さん、やったらしいわよ」隣室に走りこんでみると、近衛文麿公爵は死んでいた。
部屋の明かりがつけっぱなしなのに、夫人が気づき、発見した、という。12月16日午前6時ごろ東京都南多摩郡多摩村字蓮光寺の別邸で、木戸幸一侯爵が、巣鴨行きにそなえて起きだした頃でした。
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