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エルサレムは、三大宗教の聖地であるにもかかわらずテロが頻発し、危険な町というイメージとなっています。エルサレムとは、ヘブライ語で「平和の都」の意味があり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教の聖地ですが、頻繁にトラブルが起こっているのは周知のとおりです。
過去、この都市は様々な国・人々により、何度も破壊に遭っているのです。後70年、エルサレムの神殿が城壁の一部を残してローマ軍に破壊され、イスラエルの人々は国を失ってしまいます。
132年には、ユダヤ人シメオン=バル・コホバの反乱により、エルサレムをユダヤの首都として取り戻すが、135年、ローマ軍の反撃で、エルサレムは徹底的に破壊されてしまいました。エルサレムの廃墟には盛り土がされ、ローマの殖民都市「アエリア・カピトリーナ」がその上につくられました。
現代でも、この都市をめぐって、ユダヤ教徒とイスラム教徒の抗争は続いています。最初にエルサレムを聖地としたのはユダヤ教でした。前1020年頃にイスラエル王国の2代目の王ダビデは、武術に長け、詩、音楽など芸術面でもすぐれた才能を発揮し人望を集めた人物でした。
ダビデの時代、まだエルサレムはカナン人のエブスという人々の集団が住む要塞都市で、そこはエブスと呼ばれていました。ダビデは王位につくと、エブスを攻略しました。軍事的な才能があったダビデは、攻略の過程で、エブスの地の利のよさを見抜きました。
またカナンの地の中央にあり、各地の勢力地図の上でもバランスのとれた地理的条件のよさも考え、ここを首都とし、ダビデはここに、モーセがシナイ山で神から戴いたという十戒の石版を納めたアークを安置したのです。
のちに、息子のソロモン王が、『聖書』の「創世記」に記された、アブラハムが息子イサクを犠牲にささげようとしたモリヤの丘に、この櫃を収めるための神殿を建造したことで、エルサレムが聖都となりました。それは、前960年頃のことでした。
その後、バビロン捕囚があり、ローマ軍による破壊があり、今ではソロモン王時代の遺跡は石垣を残すだけであり、有名な「嘆きの壁」としてユダヤ教徒の聖地になっているのです。キリスト教徒にとってエルサレムは、イエスが十字架にかけられ、復活した場所であり、信仰の起源があるので、これもまた重要な聖地です。
イスラム教徒にとってのエルサレムは、アラビア語でアル=クドス。イスラム教の初期、メッカが、礼拝の際に向かう方向とされる以前は、ユダヤ教徒にならってエルサレムの神殿が礼拝の方向とされ、預言者ムハンマドもエルサレムに向かって礼拝していたそうです。
さらにコーランでは、ムハンマドが亡くなる時、神が天使ガブリエルを遣わし、翼のある天馬でムハンマドはエルサレムに旅し、そこで昇天したとされているからとされています。以後、エルサレムは、1099年から約1世紀の間は十字軍によってキリスト教徒に独占されたが、イスラム教の聖地とされました。
十字軍から奪還してからは、イスラム教が支配していたものの、キリスト教徒、ユダヤ教徒にも開かれていたのです。中世に迫害を受けて追われたユダヤ人の中には、エルサレムに移住してきた者も少なくなくエルサレムはアラブの都市でありながら、三大宗教の共通の聖地として発展していったのです。
だが、19世紀、政治的な理由でカトリック教会、ユダヤ教徒がエルサレムでの優位を主張するようになり、イスラム教徒とトラブルを起こすようになりました。20世紀には、ユダヤ人のシオニズム運動である国家再建を求めて帰還するユダヤ人が増え、紛争が起こっています。
そして1947年、パレスチナ分割決議において、エルサレムがイスラエルとヨルダンに分割され、聖域がヨルダン側に入ったために、ユダヤ教が聖地を訪れることができなくなりました。翌年にイスラエルが国家として成立し、中東戦争でアラブに勝利すると、イスラエルがエルサレムを支配します。
その後も、エルサレムをめぐってパレスチナとイスラエルの間で流血事件が続いているため、冒頭に記したように、「平和の都」の名に似合わない、紛争の町のイメージが、現代ではできあがっているのです。
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