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満州国が存在していた場所は、ツングースと言う土地であり、清朝発祥の地でした。中国の地図では、万里の長城の東北に位置するので「関外」「関東」「東北」とも呼ばれていました。中国ではもともと西蔵、台湾と同じように「化外」の特別な地として自国の土地としての意識はありませんでした。その面積は日本内地の約3倍もありました。
明治維新をへて近代国家への仲間入りをした大日本帝国が、この「赤い夕陽」の満州の荒野をはじめて意識したのは、明治27年から始まった日清戦争の時でした。さらに10年後、シベリアより南下してきた帝政ロシアを敵として、その満州で日本は国連を賭しての戦争を戦いました。その時の「宣戦の詔勅」には、こう書かれています。
「露国は依然満州を占拠し、益々その地歩を蛩固にして、ついにこれを併合せんとす。もし満州にして露国の領有に帰せんか、韓国の保全は支持するに由なく、極東の平和またもとより望むべくもあらず。」日露戦争は、満州の荒野をアジアの平和のための「日本の生命線」として、その主導権争奪をめぐり戦われたものでした。
戦争は、戦争指導のよろしきを得て、ロシア軍を破り、日本の辛勝で終結しました。その結果として、日本は大きな権益を国際的に満州の大地に獲得することができたのです。日露戦争後の日本の国策は、この大きな権益の保持、強化、発展ということを主眼として進められました。
大正から昭和への政策決定の推移を眺めてみると日本人にとって満州とは何か、どんな意味を持っていたのか、ごく基本的なイメージが浮かんできます。さらに、明治末の辛亥革命によって清国が滅びたあと、中国では近代的な統一された国家を建設しよう、という国民革命運動がさかんになっていました。
日本はこの中国ナショナリズムとも正面から衝突せざるを得なくなったのです。そして国民革命運動が満州や蒙古にまで伸びてくるのを恐れた日本は、清朝滅亡後、素早く手を打って満州の権益諸権利を持つことに成功します。しかしこの「対華二十一か条」の要求が、一挙に全中国人の心のうちの反日排日感情をよび起してしまったのです。
その結果は、大正8年5月の、5・4運動に代表される中国の、激しい日本敵視という現実に直面し、また英米とも対立を深め、もはや中国人の協力をえながら満州を開発することの不可能を、日本は覚悟しないわけにはいかなくなったのです。
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