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満州事変は軍事事件として扱われ軍事的に日本が支配力を持ちました。石原莞爾としては、五族協和、王道楽土を実現したいと思っていましたが、そうはいかなくなってきたのです。まず満州国という国をつくろうと廃帝となった溥儀が招かれて、満州国皇帝となりました。
だが満州国という国家形態は、殆どが日本の官僚たちが牛耳る体制にでき上がっていったのです。石原莞爾に言わせれば、これは五族協和ではないわけで、むしろ五族協和を裏切るものでした。またミニチュア日本国家のような満州国をつくってしまうなどとはとんでもないと、石原莞爾のイメージとは全く違ってしまい軍部にたてつくわけです。
五族協和の満州国を造ろうと努力しているところ、中央の命令により石原莞爾は日本へ帰ることになるのです。満州事変を起こしたのは石原莞爾でした。しかし、全面的に日本人が支配する満州国を成立させることには反対でした。
だが、満州国の建国と同時に、日本の官僚たちがどんどん満州に入ってきました。また、南満州鉄道が支配力を強め、膨大な利権をめぐって、日本から経済人や野心家が集まってきたのです。日本で食い詰めた浪人も、あるいは旧共産主義で、日本にいられないような人も満州に入りました。その意味では満州は妙な楽土になるわけです。
流れ者、野心家、金もうけ屋など、様々な人たちのたまり場になっていきました。そして日本人はそれを食い散らしていくのです。その中には、石原莞爾のようなアジア解放の夢を持った大陸浪人と称される人々も多々いました。
しかし、それは日本の国家利権の人々に支配されて行きました。現地の民衆からも反感を持たれ、中国の人たちからも反感を持たれ、ソ連もますます警戒をかためるような、国際的孤立と危機を招くような満州国がだんだん出来上がっていくのです。
これが石原莞爾の理想からかけ離れて行き、裏目に出て行くという形となるのです。その満州国に令名を馳せるのが後の総理大臣、東条英機です。東条英機は満州国憲兵司令官でした。東条英機が考える満州国というものと、石原莞爾の崇高な夢として考えていた満州国というものとは全く違うものでした。
石原莞爾は、五族協和、王道楽土をつくるために、東亜連盟(現在、石原莞爾平和思想研究会)という組織をつくろうと考えています。これは民間団体です。軍人がつくる組織ではなく、五つの民族が一緒になった連合体をつくろうというものでした。
石原莞爾は終戦後でも、この東亜連盟に側近の私の父や同志などと力を注いで何とか維持しようと努力しています。ところが、この東亜連盟は、陸軍主導の日本政府にとっては邪魔でした。一番、東条英機が目の敵にしていたのです。
「石原が言っていることは大変甘い。満州などという大陸を支配するのに、民族の共同体なんて甘すぎる。武力でやらなければ秩序なんてとても保てるものではない。石原は日蓮にかぶれた夢想家だ」というのが東条の見方でした。
そして、憲兵隊司令官であった東条英機は、満州国において、東亜連盟の首脳部を次々と検挙するのです。東条英機は官僚的覇権主義者で、その秩序を乱すものは検挙しなければ、秩序は保てないと発想します。
それに対して石原莞爾は、人間の持っている共同体というものに根ざさなかったら軍隊も何も浮き上がってしまうというのが基本にあるのです。石原莞爾と東条英機とは発想も志も全然違うものだったのです。
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