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1917年、当時の外務大臣であるアーサー・バルフォアが、イギリスでシオニズム運動の代表であり財閥を所有していたウォルター・ロスチャイルドに手紙を送り、パレスチナにおけるナショナルホームの設立に賛成します。
「手紙で約束しましたよ」という形式でしたが、これをイギリス政府が正式に認めたのです。これが後に「バルフォア宣言」と呼ばれている約束で、イスラエル建国をイギリスが支持した根拠になっています。
イギリスがなんでこんなことを勝手に認めたかというと、当時のイギリスは第一次世界大戦で現在のトルコにあったイスラム教の大帝国であるオスマン帝国に勝ちたかったからです。パレスチナの戦いを有利に進めたかったので、認めるほうが有利だったためです。
それにとにかくお金が必要だったので、超金持ちのロスチャイルドやユダヤ人諸氏からの支援も必要でした。ところが当時のイギリスは裏では、アラブ諸国の独立を約束する「フサイン・マクマホン協定」をフサインさんと結んでいます。
この協定も手紙の交換という形でした。フサインは当時のアラブ世界でもっとも崇敬を受けたハーシム家の当主です。協定の内容は、アラブ諸国の独立を支援するかわりに、イギリスと敵対していたオスマン帝国に反乱を起こしてくれという約束でした。
そのうえイギリスは1916年にこっそりと「サイクス・ピコ協定」という約束をしてしまい、アラブ諸国には秘密にしました。サイクスはイギリスの外交官で旅行家、ピコはフランスの外交官です。
これは「第一次大戦が終わってむかつくオスマン帝国が負けたら、アラブ人地域をイギリス、フランス、ロシアで仲良く分けましょう。パレスチナは国際管理にしてみんなで管理してやりましょう」という勝手な約束でした。
この約束には最初は当然ロシアも入っていたのですが、1917年にはロシアで革命が起こり、ロシアの立場としては「帝国主義の悪徳を公開して俺の印象を高めてやる!」という意図があったのです。
この約束から離脱し、「こんな酷い秘密の約束をしていました!」とバラしてしまいます。当然ながらアラブ諸国は猛烈に怒りました。ところが当時の「お約束」が現在の中東の国境や力関係にも大きな影響を及ぼしています。
しかもこの適当な「お約束」の影響はなんと「イスラム国」にもあります。「約束は西側帝国主義の象徴である! 今の国境は廃止して巨大なイスラム国をつくれ!」といっているのです。この3つの「お約束」はお互いに思いっきり矛盾していたので、関わりまくっていたイギリスはいまだに各方面から超批判されているのですが、まったく謝罪していません。
いざオスマン帝国が負けると、アラブ地域はイギリスとフランスが委任統治することになります。委任統治とは、戦争で勝った国はぶんどった地域を植民地にしたいけど、植民地にするといろいろ批判されるので「国際連盟から管理してと頼まれた」という形式にして実際はめちゃくちゃ支配しているというやり方なのです。
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