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私は、タイムトラベルの物語が好きです。描かれているタイムマシンの物理学にはついついケチをつけたくなるし、ストーリーの中で出現するさまざまなパラドックスにはいくらでも疑問があります。
そうやって、「間違っている」と片付けるのは簡単ですが、過去と未来を開放して、それを知り、それに介入できるようにする技を、どうやってかはともかく、見出せるかもしれないと考えるのはなかなか魅力的です。
そんな技が実在すれば、この「いま」という、未知の運命に向かって容赦なく突進する暴走列車から降りることができることでしょう。線形的な時間は、あまりに制約で、浪費的にすら感じます。
どうして時間というもののすべて、これらのさまざまな可能性のすべてが、時計の針が2〜3度先に進んだだけで、永遠に失われなければならないのだろう? 時間という厳格な制約にもはや慣れっこになってしまったとしても、それを嬉々として受け入れなければならないわけではないでしょう。幸い、ここで宇宙論が役に立つのだと思います。
もちろん、実際的な意味においてではない。物理学のなかでも難解な部類に入る一分野について話をしていることには変わりなく、昨日電車に置き忘れた傘を宇宙論が取り戻してくれるわけではない。「役に立つ」というのは、自分の暮らしは少しも変わらないのですが、存在に関する他のすべてのことは永遠に変わってしまう、という意味においてでしょう。
宇宙論研究者にとって過去とは、「失われてしまって決して手が届かない領域」などではないといいます。それは実際の場所であり、宇宙の観察可能な領域で、私たちが出勤日のほとんどを過ごすところです。
私たちは静かにデスクの前に座ったままで、数百万年、あるいは数十億年も昔に起こった天文学的事象の展開を見守ることができます。そしてこのからくりは、宇宙論だけのものではなく、私たちが暮らしている宇宙の構造に本来備わっている性質なのです。
それはつまるところ、光が進むには時間がかかるという事実からきています。光速は途方もなく速いです。およそ秒速30万キロメートルが、決して瞬間移動ではないのです。日常的な言葉で説明すると、こうなります。
懐中電灯をつけると、そこから出てくる光は、1ナノ秒ごとに約30センチメートル進むのですが、その光が、あなたが照らしている相手から反射して、あなたの下に戻る際にも、まったく同じように時間がかかるのです。
実際、あなたが何かを見ているとき、あなたが見る像は、対象物から反射して目に届いた光に過ぎないのですが、その光は目に届くころにはすでに少し古くなっているのです。カフェで、あなたとは反対側の隅に座っているあの人は、あなたの視点から見ると、数ナノ秒の過去にいるのです。
その人の表情が物憂げでファッションセンスが流行遅れなのも、それで少しは納得できるかもしれません。あなたが見るすべてのものは、あなたからすれば、過去にあるのです。あなたが月を見上げるとき、1秒と少し前の月の姿を見ています。
それが太陽なら、8分以上前の姿です。そして、夜空に見える恒星は、数年から数千年前の遠い過去の姿です。光速が有限であるために生じるこのような遅れについては、もうすでにお気づきかもしれないが、それが意味するところは重要です。それは、天文学者は、空をじっくり見ることで、宇宙の進化が起こるのを観察できるという意味なのです。
誕生直後の初期から、現在にいたるまで。天文学で「光年」(約9兆5000億キロメートル)という単位が使われるのは、それが非常に大きくて便利だからというのみならず、観察している対象物からの光が、どのくらいの時間をかけて宇宙を伝わってきたかを教えてくれるからです。
10光年離れた恒星は、私たちの視点からは10年昔の姿です。100億光年離れた銀河は、100億年昔の姿です。宇宙は約138億歳にすぎないので、その100億光年離れた銀河は、宇宙がまだ若かったころの状態を教えてくれる可能性があります。
その意味で、宇宙を遠くまで見ることは、私たちの過去を覗き見ることに等しいのです。ここで、理屈からして、私たちは自分自身の過去を見ることは絶対にできないというのがそれです。
光速が有限であるがゆえに遅れが生じるという事は、対象物が遠いほど、それは時間的にも遠い過去にあるということであり、この関係は厳密です。つまり、私達は「自分自身の過去」を見ることが出来ないのみならず、「遠く離れた銀河の現在」をみることも出来ないのです。何かが遠ければ遠いほど、宇宙の時間軸の上でも、それは遠い過去にあるのです。
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