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1940年5月からナチス・ドイツの「電撃戦」でフランスは国土の北半分を制圧されて、駐スペイン大使だったペタン元帥を呼び戻して首相とし、ドイツに降伏しました。北半分はドイツ軍の軍政による占領地帯で、南半分は自由地帯になったのです。
鉱泉で有名なヴィシーに逃れていた政府が、ペタン元帥を国家首席として、「フランス国家」を作りました。フィリップ・ペタンは第一次世界大戦の国民的英雄です。高潔な人格者で、政治思想としては保守的であったのですが、全体主義者でもナチス賛美者でもないのです。
「フランス国家」の標語、「祖国・家庭・労働」はシャルル・モーラスが主宰した王政派伝統主義の新聞『アクション・フランセーズ』(フランスの行動)の標語をそのまま採用しましたが、ドイツ嫌いのモーラスは政権の要職にはつきませんでした。
ドイツの同盟国「大日本帝国」はドイツが作った「フランス国家」を承認するのは当たり前ですが、中立国のアメリカ合衆国も承認したのです。つまりそれが正統のフランスであるというのは、国際法上も順当であったということです。
もちろん交戦国のイギリスは「フランス国家」を承認しないし、脱出して来たド・ゴール将軍をうけいれました。フランス国民向けラジオ放送で「自由フランス」の演説「フランスは1つの戦闘で負けたが、戦争に負けたわけではない」が名高いです。
シャルル・ド・ゴールが任官して最初の赴任先の連隊長がペタンでした。第一次世界大戦後、ド・ゴールは戦車と装甲車中心の機動戦を提起する著書を出したが、フランス軍中枢は無関心で、ドイツ国防軍がそれに注目しました。
階級は実は大佐が戦時に将官待遇になる「準将」で星1つです(戦後、大統領になっても軍服を着ていたが、星1つ)。星5つのペタン元帥から見ればこのロンドンへ脱出した時点のド・ゴール将軍は、全軍への降伏命令の違反者となります。
国民全員力を合わせて敵の支配に耐える、それがペタンの立場でした。原則として敗戦前の仕事が続けられるなら続ける、それが国民の圧倒的多数の生活態度でした。4年3ヶ月の占領期間、2年目に独ソ開戦となったころから、戦況はドイツ側に不利となり、「フランス国家」の自主性は奪われ、ついには「占領地帯」と区別がなくなるのです。
フランス共産党は独ソ不可侵条約の手前、占領者ドイツに初めは動きを起こしていません。「レジスタンス」が問題になるのは、1941年の独ソ開戦後です。ド・ゴール派レジスタンスと1943年に合体します。
そして、1944年9月、連合軍がパリに迫ると、ド・ゴールはパリ進撃をわずか一個師団だけのルクレール将軍の「自由フランス」軍に任せることを連合国軍最高司令官アイゼンハウアーに要求します。
つまり、米軍でも撃ってしまえ、パリ一番乗りはフランス軍だと言う事です。解放後、まだドイツ軍の空襲や砲撃の危険があったにもかかわらず、ド・ゴール将軍は凱旋門からシャンゼリゼ大通りを群集に囲まれて行進します。
この瞬間、「自由フランス」こそ正統なフランスだ、という神話が確立するのです。大芝居ですが、それを非難するつもりはありませんが、その大芝居で国連の米英ソ仏中の安保理事会常任理事国になれたのです。
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