| |
なぜ関東軍が溥儀の登用に踏み切ったのかと言うと、第一に、溥儀が満州族の名門であり、旧皇帝としての声望は東北地方で元首として通用すると判断した事でしょう。第二に、中国東北地方が、満州族の故地であることから頭首となっても国際的非難を回避できる可能性が高い事です。
第三に、溥儀が国民党政府に対し激しい反感を抱いており、蒋介石とも張学良とも結ぶ心配がないと判断された事です。第四に、熙洽、張海鵬らの支持はあるものの溥儀自身には政治的実力がなく、関東軍に頼らざるをえない事です。
第五に、連省自治といった形態をとる国家で、いずれかの省の実力者が政権を握れば対立を生むことになり、分裂を避けるためにも溥儀のように固有の基盤をもたない人物をシンボルとして元首の座に据えた方が無難であるとみなされた事などを関東軍は挙げています。
しかし、そのことは溥儀だけが新元首として唯一の候補者であったということを意味するものではなく、恭親王溥偉を中心として「明光帝国」を建設する運動も行われていたし、山東省にいた孔子の子孫を頭首にする案も関東軍では検討されていました。
このほか、張宗昌、唐紹儀、呉佩孚などのほか粛親王第七子金碧東を擁立して親日政権を樹立する動きも活発になされていた。そうした動きは溥儀を登用することが時計の針を20年も逆戻しにする時代錯誤とみて避忌する気分が強かった事の現われでもあったのです。
もちろん、関東軍としても溥儀を絶対に元首にしなければならないと考えていたわけではないのです。関東軍が溥儀をいかに見ていたかは、天津から溥儀を脱出させるに当って、万一中国軍に発見されて逃げ切れなかった場合、ガソリンに火をつけて船もろとも生き証人を沈めてしまう予定でドラム罐が積み込まれていました。
という一事をもってしても知ることが出来ます。しかし、独立国家として新国家を建設する以上、誰かを元首にしなければならないことも事実であり、相対的にせよ溥儀が関東軍にとって利用価値が高かったことは否めないのです。
加えて、溥儀を引き出すことによって、もたらされるはずのもうひとつの効果にも関東軍の食指は動いていたのです。それは満州国の版図として関東軍が内蒙古を取り込むことを企図としていたことにかかわっています。
つまり、蒙古の諸王侯は清朝とのつながりも深く、また漢民族への反発という点からみても満州族の溥儀を用いれば蒙古族の支持を調達することは容易になると見込まれていたのです。
そして、関東軍の見込みどおり、満蒙両族は同じ君主を戴くという同君思想によってホロンバイルの貴福、凌陞、哲里木盟の斎黙特色木丕勒らが呼応、またかつての満蒙独立運動の推進者バブチャップ将軍の遺児甘珠爾扎布らも蒙古青年党を率いて内蒙独立運動を展開しつつ新国家建設へと動いていったのです。
|
|