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  海外旅行が出来なくなった  仲條拓躬2024/08/01(木) 17:42 
  鉄器を手に入れたヒッタイト  仲條拓躬2024/08/01(木) 17:10 
  石原莞爾の修学時代  仲條拓躬2024/08/01(木) 17:07 
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  昔の喫茶店と電話  仲條拓躬2024/07/26(金) 18:54 
  世界で一番美しい文字  仲條拓躬2024/07/26(金) 18:52 
  四大文明の起源  仲條拓躬2024/07/26(金) 18:30 
  石原将軍の語ったすべて  仲條拓躬2024/07/26(金) 18:27 






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海外旅行が出来なくなった
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/08/01(木) 17:42
No. 7544
 
 
我々が生きている間に、世界中の人が自由に海外旅行へ行けなくなる日が来るとは思ってもいませんでした。東京オリンピック・パラリンピックの開催が予定されていた2020年夏、世界中のアスリートや外国人観光客が東京に集結することに疑問を差しはさむ余地はなかったのです。

だが、新型コロナウイルス感染症が世界中に蔓延し、毎年、海外に出かけるのが楽しみだったのですが、海外旅行に出かけることが事実上不可能になってしまいました。緊急事態宣言の発出にともない、国内旅行でさえも出かけるのが難しくなり、パスポートの期限は切れてしまい、観光業界、航空・鉄道業界は過去に類を見ないほど厳しい状況に陥った。

振り返ると日本人の多くが新型コロナウイルスによる影響を直接的に感じ始めたのは2020年1月下旬のことでした。1月22日のテレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」で中国人観光客が春節(旧正月)で訪れる日本の人気スポットについて解説していました。

このコーナーの最後に中国の武漢で新型コロナウイルス感染症の感染者が増えているというニュースを短い時間で紹介していました。その頃はまだ軽く触れられる程度の扱いでしたので、観光バスで横浜に出かけて中華街で宴会を行い、劇団四季を鑑賞して、夜は目黒の雅叙園でも懇親会を開催しました。

だが、その数日後には中国国内での感染が爆発的に拡大し、春節の後半には中国政府が中国人の海外への団体旅行を禁止するとともに春節の期間を延ばすことを発表しました。一月下旬の段階では、日本国内のドラッグストアにはマスクの在庫が十分ありましたが、日本を旅行中の中国人が大量に買っていく光景が見られました。

その後の熾烈なマスク争奪戦を予想していた人はわずかだったでしょう。2月に入ってから国際線の減便が始まり、3月からは国内線の減便も始まりました。2001年のニューヨーク同時多発テロ、2011年の東日本大震災などで一時的に利用者が大幅に減少したことはありました。

しかし、全世界で一年以上にわたる長い期間、人が自由に移動できなくなったことは、戦後に民間航空路が発達してから初めてのことではないでしょうか。羽田空港や成田空港のターミナルに乗客の姿が見あたらない、まるで時間が止まったかのような光景が見られた。

この数年、当たり前のように空港、そして都会、そして地方都市で大きなスーツケースを引く外国人観光客もほとんど見られなくなり、秋の京都の紅葉シーズンも日本人しかいませんでした。ホテルも観光地も閑古鳥が鳴いていました。

これまでも災害や疫病、政治リスクや経済リスクなどで飛行機の利用者が大幅減少したことはありましたが、全世界の人の動きが止まってしまったことはありませんでした。海外旅行が好きだった私にとって、これだけ国境という存在が大きいと感じたことはありませんでした。

台湾や上海、香港などへは週末の一泊でも国内旅行感覚でLCCを使って気軽に出かけることができ、日帰り海外旅行も不可能ではなかったのですが、日本国民のほとんどが一年以上海外へ渡航できない状況が続き、国内旅行も自粛する人が増え、航空会社はもちろん、旅行会社、宿泊施設 、観光施設、飲食業も含めて甚大な影響が出たのです。

 





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鉄器を手に入れたヒッタイト
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/08/01(木) 17:10
No. 7543
 
 
歴史のなかにインド・ヨーロッパ語族が登場します。それまでメソポタミアで文明を営んできたのはセム語族、エジプトではハム語族でしたが、この頃、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト人がヒッタイトという国をつくります。

インド・ヨーロッパ語族は、もともと中央ユーラシアのあたりにいたようです。そこから西方に移動してメソポタミアに入ろうとしても、ウル・ナンム王やハンムラビ王など強い人々がいました。そういうところを避けてさらに西にいき、現在のトルコのアナトリア半島あたりで落ち着いたのです。幸運なことにアナトリアには鉄がありました。

ヒッタイトは鉄器生産の技術を獲得して、強くなります。少し遅れて別のインド・ヨーロッパ語族がメソポタミアを避けてギリシャに入り、ミケーネ文明をつくります。この人々がクレタ文明を滅ぼしたのではないかといわれています。

ヒッタイトやミケーネ文明が起こったのは紀元前1600年ぐらいのことです。インド・ヨーロッパ語族は喧嘩好きで、軍事色の強い国家を形成しました。その頃、エジプトにはヒクソスを倒した3つ目の王国、新王国が誕生します。

ツタンカーメンの黄金のマスクが出土した「王家の谷」の墳墓やルクソール神殿など、エジプト文明におけるピラミッド以外の大建造物は、だいたい新王国の時代にできました。新王国がラッキーだったのは、ライバルであるメソポタミアが、紀元前1500年ぐらいから、ヒッタイトの侵入などを受け、分裂状態に陥ったことです。

つまり、新王国の栄華は偶然であり、国の盛衰においても、運はとても大事だとわかります。 インドまで1000年、中国までさらに1000年、この間、中国で黄河文明が起こり、漢字という世界で一番美しい文字が出現しました。

メソポタミア、エジプト、インダス、黄河の四大文明のなかで、黄河文明が最も遅い理由は、メソポタミアから遠いからです。エジプトは、メソポタミアから近いのですぐに影響を受けました。インダスまでは、海伝いに1000年ぐらいかけて影響が及びました。

中国は、メソポタミアからさらに遠く、陸伝いに西アジアから伝わるのに、インドより1000年以上、余計にかかった。そう考えるとわかりやすいでしょう。黄河文明がメソポタミアの影響を受けている証拠は、チャリオットや宦官という風習の存在です。

宦官というのは、強い雄にたくさん子どもをつくらせたいから、弱い雄を去勢するということです。どう考えても黄河流域の農耕の文化に馴染みません。西アジアの遊牧民の風習からきているのです。

 





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石原莞爾の修学時代
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/08/01(木) 17:07
No. 7542
 
 
明治35年9月、仙台地方幼年学校に入学しましたが、石原莞爾は前々より軍人志望でした。仙台歩兵第四連隊長のとき、昭和10年4月23日、郷里鶴岡において石原莞爾の講演会が開かれました。このときの帰郷は、満州事変の論功行賞で殊勲甲勲三等功三級という輝かしい光栄をえた直後で、聴衆三千という地方まれに見る盛況でした。

石原大佐はその講演の冒頭に、「私は今から約50年前この鶴岡に生まれました。幼少のときから軍人たらんと志望しましたが、貧乏士族の悲しさ、学資がなく困っていたところ、鍛治町の富樫治右エ門翁の厚意にあずかるをえ、月々の学資補助を受けて幼年学校に学びましたが、今だに何の報恩もしないで心苦しく思っている次第であります」

と挨拶していることでも、軍人志望のことがうかがわれます。幼年学校時代の石原莞爾の生活は平凡なものではなかったのです。同級生の南部吉氏は、当時のことを次のように述懐しています。

『明治三十五年と言えば、今からざっと半世紀前の秋九月、私は東京から仙台の陸軍地方幼年学校へ入学した。背の小さい温顔でなかなか茶目振りを発揮する、石原莞爾という同期生がいた。確か中学二年から来た最年少の十四歳であった。これが私が石原兄を知った始めである。

仙台の幼年学校は大体東北人が多かったので、東京弁の私は随分友達から気嫌いにされたり、上級生から威嚇されたりして家郷を想う夜も多かったが、石原兄は毎日毎夜を実に愉快そうに跳び廻って、たちまち同期生の人気者になっていた。座席も寝室も違っていた関係もあって、私が石原兄と仲よくなったのは入校後二、三ヶ月してからであった。

その頃、私等は休日によく遠足に行った。石原兄も遠足党の重要メンバーだった関係が、たぶんに二人を接近させた。話合ってみると親切で快活なよい人であるので、青年期の私はたちまち無二の良友と信じて何でも打ち明けることになった。

仙台の冬は寒くて雪が深い。遠足のできない日曜日には二人で外出し、また炬燵で終日語り暮らしたことも思い出される。石原兄は郷里の育英資金を得て毎月の納金(当時軍人の子弟か遺児でなければ官費にならず毎月六円五十銭を納めていた)を辨じていたので、二人はそんな点でも同じ境遇であった。

親から貰う小銭は同級生の中では、二人は、一番少なかったようだ。従って日曜日も気のきいた食物などにはなかなか手が出ないで、よく南京豆を食ったことを思い出す。この頃では落花生といえば相当高価な食物だが、当時は十銭も買えば五合や一升はあった。

冬の日曜日のこと、やたらに南京豆を食って炬燵に入っていたら、二人とも鼻血を出して驚いたことなんかも思い出す。翌年の夏になって、われわれは二年生に進んだ。「石原はできるぞ」との評判があったが、態度が開放的で奇行百出なので、同期生はそんなに重要視もしていなかったが、成績が発表されるとがぜん石原莞爾が首席であった。

数学とドイツ語はほとんど満点に近い優等振りである。今までの人気者は、このときから同輩の畏敬する存在となった。それにほかの優等生とはまったく違ったタイプ、すなわち、ただ机に齧りついて寸秒を憎んだり、教官や上官の一顰一笑を気にしたりする点がまったくなく、ときには断固として教官の説を否定し、上官に意見を述べてゆずらなかった。

茶目振りや奇行は少なくなかったが、同期生の病気などに対しては心から親切に慰め、学業の劣った友達は皆石原兄の机辺に集まって教えを受けた。こんなときでも、石原一流の滑稽を交えながら次から次へと懇篤に説明し、少しも高慢なところがなかった。

私などは時間が不足で明日の宿題に血眼になっているときでも、石原兄はすでに全部の問題を解き終わって友達の質問に応じていた。この辺が断然、第二位の者とは違う余裕綽々振りなので、一層の信頼感を同期生に与 えたのを思い出す。石原兄は運動が好きであった。剣道、柔道、器械体操などは進んでやっていた。

庭球、野球もあったが、これはあまりやらなかった。しかし、石原兄の術科(軍隊では学科に対して教練とか体操とかは術科と呼んでいた)や運動はあくまでも身体の鍛練であって、他の友達のようにこれに捉われて有段者に進もうとか、選手になろうとかする様子はなかった。従って万能の特徴をもっていた。

年に一回は全校の生徒が四班に別れて運動競技の優勝旗争奪戦があったり、剣道、柔道の試合があったりする。石原兄は常に中位者で出場するのが例であった。しかしそのやり方は石原式で、他と全く異なるものがあった。たしか優勝旗争いの剣道試合のときであったと記憶する。「石原莞爾は何番目に出るか」ということが、他班の重大関心事であった。

技術は必ずしも上位ではないが、石原兄の剣先は実に鋭いというよりは乱暴であって、到底われわれには受けきれなかったからである。「俺は実戦的にやる」と石原兄は宣言している。すなわち一旦立合いが始まると大喝一声猛烈な勢いで攻撃してくるのだ。それは少々くらい段級の上の者でも、全く反撃の機会を与えない。

そして面、胴、小手、ときには向うを払うことさえあり、接近すると足で蹴り、体で突き飛ばすという猛烈振りである。日頃の稽古のときでも、先生や助教にはこの式の練習振りであったから、先生は眉をひそめ段級は中位にしか置かれなかった。そこで試合で勝抜の場合には、石原兄に対抗する最初の二、三人は必ずやられてしまう。

少しくらい上手であっても、問題じゃないのである。従って他班では石原兄の出る順番を察知して、どうせ勝たせるなら技術の下位な人を出して上位者を温存しようという策戦を考えるに至った。石原式攻撃は下位者であっても容赦はない。まさに一兎に対しても、獅子の一撃を加えるのであった。ただしそんなにやって体力が長く続くはずがない。

二、三人には連勝するが、しばらくすると疲労が出て、きわめて簡単に「ああ参った」とあっさり引込んでしまう。この辺も石原式の淡振りである。「やっと石原が引込んだ」と、他班の者は胸をなで下すのであった。

後年、士官学校に行って戸山学校からきた傲慢な下士官助教にこの手を用い、彼をして真から怒らせ道場で組打ちとなり、石原兄が急所を握ったとか何とかで大問題となり、術科の点数を減らされ、卒業のとき横山勇、町尻量基に伍して、二位か三位で御賜の銀時計を頂載する成績を覆えされたという話であった』

 





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伊豆半島の旅行記3日目
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/08/01(木) 17:05
No. 7541
 
 
朝から温泉に入って、朝食を食べた後、網代の宿を後にしました。熱海ビーチライン、真鶴道路とETCが使用不可なので現金を払って一路、横浜の赤レンガを目指しました。横浜赤レンガ倉庫の2号館は10時前でも開いているので3階にオープンしたカフェ&ギフトショップ「ディズニー・ハーベスト・マーケット」へ行きました。

ディズニーの世界観を通じたエンターテインメントを日常の食事に掛け合わせ、塩分・糖分・油分・カロリーなどに配慮した調理法で「おいしく、楽しい」食体験を提案しているといいます。店内の中央には大きなミッキーマウスのスタチューをシンボルとして飾り、スタチューのまわりにテーブル席を配置してありました。

ディズニーの世界観に包まれながら食事やスイーツを楽しめるお店なのでお昼はここで食べたかったです。横浜赤レンガ倉庫店は港町・横浜ならではの取り組みとしてフィッシャーマンをモチーフにした、ドナルドダックの店内デザインやメニューも展開しているという。ディズニー好きにはたまらない、その場にいるだけでも楽しくなります。

11時になったので、赤レンガに来た目的のフフナーゲル「Huffnagel」に一番客となりました。その後、行列ができ始めました。横浜銘菓のレーズンサンドで有名な横浜発のパティスリーブランド。横浜赤レンガ倉庫にできた初の常設店で、お店がオシャレでした。

店員さんも美人で上品で丁寧でした。オーツクッキーを用いた香ばしいバタークリームサンドが人気だといいます。要冷蔵だけど保冷バッグに入れてもらえます。種類は、あんバター 450円・チーズ 450円・ほうじ茶 430円・レモン 430円・チョコレート 450円・セサミポテト 480円・アールグレイ 450円・黒糖きなこ 480円・ジャンドゥーヤ 480円。

この中の7つ購入した。一口サイズです。噛んでもこぼれないけどバタークリームが少しでしっとりクッキー。手に付きにくくて食べやすいです。少し塩が効いていますが、物足りない味でした。これだけお金出せばたくさんクッキーを購入できます(笑)

お昼はイベント会場で食べようという事になりました。横浜赤レンガ倉庫の海を望む開放的なロケーションを活かし、異国情緒を味わえる毎年開催されている夏季限定イベントとして、今年はメキシコやキューバ、ジャマイカなどカリブを中心とした中南米エリア「ラテンアメリカ」をテーマにしています。

会場には、中南米のカラフルな街並みをイメージしたエリア、熱帯植物を多用した植栽や鮮やかな小物でメキシコの大人気リゾートを再現したエリアを設けています。来場してすぐにお水をもらえる引換券をいただいたので熱中症対策で素晴らしいと思っていたら、浄水器の販売だったので残念でした。

中南米のローカルフードは、ブラジルの定番料理であるシュラスコやカリブの海賊由来のモヒートをはじめ、食用サボテンを丸々使用したメキシコ料理のサボテンステーキなど、ラテンアメリカならではのグルメやドリンクも鮮やかにそろっていました。

結局、メキシコで大人気であるタコスを購入した。食事するスペースも複数設けてあり、ラテンアメリカ諸国の習慣でもある、暑い気候の中で昼食をとろうと思っていましたが、危険な暑さだったのでタコスを持ったまま、赤レンガに逃げ込みました。タコスを食べてみましたがはっきり言って高くてまずいです。

リゾート気分は味わえず、また、異国情緒あふれる空間でもなく、テレビで放送されているのは何だろうと思うだけでした。メキシコの定番料理「タコス」はもちろんのこと、写真をとるにもしょぼくて近所のフードコートの方がとても良いという。フフナーゲル「Huffnagel」のお菓子が溶けてしまうと困るので帰ることにしました。

ガソリンが空なので地元迄かえって給油して、海沿いを走ったので洗車して、この暑い中、車を拭きました。つまみを購入して帰ろうとしたらゲリラ豪雨です。洗車より強い勢い塩水を落としています。洗車しなくてもよかったのでは。伊豆半島ではお魚ばかりだったので家ではステーキをつまみに呑みました。なんか家のご飯が一番おいしいかも(笑)

 





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伊豆半島の旅行記2日目
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/08/01(木) 17:04
No. 7540
 
 
温泉に入って、朝食を食べた後は、リニューアルしたという小室山に向かいました。伊東の街並みを過ぎてしばらく南下するとドーム型の特徴のある丘が正面に見えてきます。小室山は1万6000年前の噴火で生じたスコリア丘です。

小室山の麓にある公園は花の名所で、春には桜のほか10万本のツツジが咲き、秋には椿が見ごろになるようです。公園入口に無料の駐車場がありますがお花のシーズンは有料のようです標高321mの山頂まではリフトでも徒歩でも登ることができます。

ワンちゃん連れのかたを見かけましたがリフトに同乗できます。山頂は地形を活かした形でぐるり遊歩道になっていました。木製遊歩道であるリッジウォークMISORA、全長は166.3mなので 一周はあっという間です。

ここは静岡県の景観賞で最優秀賞に選ばれた場所だそうです。青空だったので綺麗でした。緩やかな遊歩道を進んでいきました。富士山も見えます。黄緑色のまるい山が見えてきますが、大室山です。大室山は小室山と同じく、伊東市にある標高580mの火山です。大室山の山頂に登る手段はリフトのみです。

遊歩道から下をのぞくと怖そうなデッキがありました。遊歩道の真下にカフェがあり、そのお店の専用のデッキです。カフェの向かいの小室神社を見ました。ご祭神は、愛宕大権現・金刀比羅大神・火産霊大神、災害から人々を守る神様です。

山頂カフェ「Café・321」は小室山の標高が321mだからでしょう。1番に並んでみるとすぐに行列ができました。オリジナルメニューがありましたので注文して一等席に座りました。カフェ利用者は外の展望デッキも利用OKなので外に出ました。

まずは1番最初にデッキに立ち撮影を開始しました。なんでも1番は気持ちが良いです。リフトは往復切符を購入したため帰りもリフトでしたが、歩いて下りれば、ジュラシックコースがあり、恐竜広場でトリケラトプスとプテラノドンに出会えるようです。

続いて、一碧湖に向かいました。一碧湖と接している沼にある駐車場に停めました。人も少なくとっても静かです。神社のある場所にある鳥居がはっきりと見えました。一碧湖の遊歩道はガードレールがないので撮影に気を取られて足元に気を付けないとね。

一碧湖は周囲を木々で囲まれているために風が吹いていません。湖面が穏やかで鏡のように映り込んでいました。湖畔にクイズが書いてあります。クイズはひとつしか見ていませんが1週すればいろいろとあると思われます。駐車場に車上荒らしに注意と書いてあったので1週を歩くのは、やめて東海館に向かうことにしました。

東海館には駐車場がないので有料駐車場に車を止めました。伊東温泉の真ん中を貫きながら流れる松川に沿って、歴史ある重厚な旅館建築が並んでいます。昭和3年に開業した「東海館」は、戦前までに何度か増築が繰り返され、戦後まもなく望楼も建てられたそうです。

昭和初期の立派な木造3階建ては、伊東の旅館建築の中でも群を抜いた存在感です。1997年に旅館としての営業を終えた後、2001年に伊東市へ寄贈されて観光施設となり、入館料を支払うことで館内を見学できるようになりました。

玄関に入り、料金を支払います。中庭を横目に見ながら、廊下を歩き、客室を一見すると普通の客室に思えますが、檜の他、紫檀や黒檀など、値の張る木材を多用しています。一部の客室は伊東にまつわる歴史の資料館になっています。

三浦按針のお部屋や東郷平八郎など。3階にあるこの大座敷は圧巻です。なんと120畳もあるといいます。広さだけでなく、欄間の細工、そして一枚の板に彫られた舞台両袖の彫刻にも心を奪われます。三味線の音と芸者さんの歌声が聞こえてきそうです。

伊東市では建物の寄贈を受けてから、約3億円、3年の歳月をかけて耐震補強工事を行っています。建物の外観に影響を与えずに当時を保ったままのこの建物に耐震工事が行われているとは、高い技術力にただただ驚くばかりです。

望楼にも上って市内を見下ろしてから、マリンタウンに向かいました。朝食べ過ぎてお腹が空いていないので鹿児島の肉まんを食べました。伊豆に来たのだから、たこ棒を食べたかったです。熱海駅で食べたときはめちゃくちゃ美味しく感じました。

他にもいろんなお土産さんが入っていて寄ってみるだけでも結構楽しいです。そのあと、この暑さで汗をかきすぎたので向かいの「しまむら」でパンツとシャツを補充しました。そこから気になっていた網代駅近くの老舗の間瀬の和菓子店に向かいました。

網代の土地で1872年に創業して150年以上、老舗和菓子店「菓子舗間瀬」の本店は網代の中心街に位置しています。建物は遠目からでも分かるほど素敵な造りで、入り口はガラス張りになっており美しくディスプレイされた中の様子が見え、引き寄せられるように店内に入ってしまう、そんな雰囲気です。

駐車場がないので訪問させていただいた時も多くの地元の方がお店前にバイクなどを止めているので車を横付けにできなくて困りました。お土産はいろいろあって迷います。日本橋三越催事で間瀬の和菓子が売っていたとのことでそのお菓子は購入しました。

そのほかに、伊豆みかんのお菓子が売れ筋かな。喫茶店もとても気になりました。お買い物した後は宿に戻り、冷えたビールを一気に飲んで、目から涙をこぼして、温泉に入ってから、またビールを飲んで食事の時は酎ハイを水代わりに地酒を呑んでカラオケルームでまた呑んで昭和の歌に浸って魔界の扉を開いたところで1日が終わりました。

 





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伊豆半島の旅行記1日目
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/08/01(木) 17:02
No. 7539
 
 
5時過ぎに修善寺に向けて出発したところ、首都高速三宅坂トンネルの中で車の横転事故があり、まったく動かなくなった。時間がかかると判断して首都高速を下りて、事故現場を回避して、東京インターから高速に入った。東名高速は順調に進んでいたので海老名インターまで行って、世界一売れたメロンパンを食べました。

その後、海老名インターから出られなくなった。30分経っても全く動かなかった。どうやら海老名インターを出たところで多重事故が発生したとのことだった。SNSで情報を収集しながら長い時間をかけて事故現場まで来るとヒューテックノーリンのトラックが追突したようで乗用車がペッチャンコだった。

やっとのことで、お昼近くに修善寺に着いた。早速、修善寺の老舗の独鈷そばでお昼を食べることにした。店内は一番客で落ち着いた雰囲気、心地よい空間が広がっています。温かいのと冷たいのと二種類とシンプルなメニューです。

蕎麦は観光地にしては安くはないが高くもない。味はそれなりに美味しいのですが、想像を超えない味です。自分ですり下ろすワサビが付いていて、すりたてのワサビで蕎麦を味わうことができました。蕎麦猪口が二つあり、一つは蕎麦つゆで、もう一つはとろろ蕎麦でした。

蕎麦を食べた後は、修善寺にある温泉街の遊歩道、竹林の小径に向かいました。桂川を中心とした修善寺温泉街の中にある、竹に囲まれた観光名所です。「伊豆の小京都」とも呼ばれるその景観は、どこか懐かしさもあり、ノスタルジックな気分を味わえます。

竹林の小径には専用駐車場がありませんので、少し離れた場所にある有料駐車場に車をとめます。私は時間を気にしたくないので1日500円という駐車場にしました。修善寺温泉街を散策しながら竹林の小径を目指します。

修善寺温泉街は桂川という川を中心に構成された、昔ながらの造りの旅館や赤い欄干が特徴的な風情ある温泉街です。近くには修禅寺というお寺や日枝神社、お土産屋さんや甘味処なども立ち並び、年間を通して国内外の旅行客で賑わう一大観光名所となっています。

川の上にある小屋のようなものがあります。これは独鈷の湯というもので、伊豆最古の温泉といわれています。なんと1200年もの間、お湯が湧き続けているようで、伊豆の七不思議のひとつに数えられています。

以前、私が来たときは足湯などとして利用できたようですが、現在は見学のみとなっていました。すぐ目の前にそう書いてありました。足湯は別の場所で利用できるようになっていましたが、中国人の観光客でいっぱいでした。

わざわざ、中国から日本に来てくださったのでいい思い出にしてほしいと思います。独鈷の湯を後にし、更に桂川沿いを西へ進みます。桂川沿いの遊歩道は石畳になっており、赤い橋と相まって古い日本の街並みを連想させるような造りになっています。

桂川沿いを更に西へ進むと桂橋という赤い橋に辿り着きます。ここが竹林の小径の入口となる橋で、テレビでよく撮影されているところで写真を撮影するスポットとなっています。私は動画を撮影して、YouTubeにアップしてみました。

もともとこの場所には多くの竹が生い茂っており、その竹を活用して散策路を整備し誕生したのがこの竹林の小径だそうです。竹林の小径の途中には円形のベンチが設置されており、360度竹に囲まれた空間で風の音や竹の香りを感じることができます。

とても落ち着いた気持ちで散歩を楽しむことができます。秋に訪れたときは、紅葉を楽しむことができました。楓橋を渡って更に西へ進むとギャラリー修善寺回廊という施設が見えてきます。修善寺の四季の様子を写真で紹介しており、誰でも無料で入ることができます。日差しが入り反射するので絵がとても見にくいのが残念です。

そして滝下橋のすぐ隣にある赤蛙公園まで歩き、竹林の小径散策は終了となります。特に朝などの人があまりいない時間帯に行くと、竹林の中の静かな空間を独り占めできるのでおすすめなのですが、渋滞でやられました。

また、夜は竹林の小径がライトアップされ、更に幻想的な風景を楽しむことができます。修善寺温泉街には竹林の小径の他にも、お土産屋さんや甘味処、カフェや公園などがあります。また、修善寺の観光名所のひとつである修禅寺や源範頼の墓などの歴史的な建造物を見ることができるのも、修善寺温泉街の魅力です。

竹林といえどもこの殺人的暑さなので、喫茶店に入りクリームソーダを頼みました。入った喫茶店はなんと鬼滅の刃のグッズ販売を行っているお店で、芸能人の写真や色紙などが飾られていました。その後は、網代の宿に向かってチェックインしました。

その後は、いつも気になっていた近くの神社を散策してから、温泉に入り、夜は、ビールと酎ハイと地酒を呑んで疲れをいやした後はカラオケルームで1時間半、昭和の世界に浸りました。

 





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昔の喫茶店と電話
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/26(金) 18:54
No. 7538
 
 
私の母が生まれた昭和16年は統制が厳しいのですが、喫茶店の時代だったと言います。ミルクホールの時代の次に純喫茶といいコーヒー紅茶とケーキを出し、ウェートレスに正装させて和服なら振袖を着せていたそうです。アルコール類を出さないのが純喫茶です。今でも銀座の「門」「プリンス」などにその名残があります。

父が生まれた昭和4年から約10年、次第にあきられてきたところへ戦況次第に荒んできました。知恵者が女性を客の隣に座らせました。それまでは座ることは禁じられていたのです。これを「新興喫茶」と言ったそうです。

次いで「特殊喫茶」を考え出し、酒を出したのです。女性が隣に座ると空気は一変します。酒類を出すとカフェまたバーに似て、しかも値段はバーが10円なら5円です。たちまち、大繁盛したと言います。此の辺はいつの時代も同じです。同じといっても昔の人が「メイド喫茶」に入って「お帰りなさいご主人様」なんてものを見たら驚くでしょうね(笑)

酒は二級酒を配給に回すと一級や特殊酒は余ります。酒造元にコネがあれば酒場は開業できるのです。特殊喫茶は空襲に見舞われるまであったそうです。法は破るためにあるのですね(笑)今の喫茶店には「パフェ」とか「サンデー」とか、昔の人が見たら驚くだろうなぁ〜「フルーツパフェ」や「ストロベリーサンデー」など色々。

ちなみに「パフェ」とは「パーフェクト」から来ているそうです。新鮮なフルーツやアイスクリーム・生クリーム・シロップなどをミックスしての口当たりがよい「完全な食べ物」だから「パーフェクト」だというのです。

「サンデー」とはその名の通り、「日曜日」です。アメリカの若者たちが日曜日に自分のお皿にアイスクリームに乗せて食べたそうです。それが「サンデー」のはじまりだということです。「パフェ」は、背が高いグラスに入って出てきます。「サンデー」は、背が低い広いお皿のようなグラスに入っていることが多いです。

当時は喫茶店でも電話を使っていないのです。5・15事件や2・26事件当時の新聞記者の回想録を読むと、みんな電報で叩き起こされています。電話はないのです。電話の普及は昭和30年代です。昭和30年代の末になると電話のない家が少なくなりました。子供の学校の名簿を見るとないのは珍しいのです。

ちなみに大切な用件は、右耳で聞いたほうが忘れないのです。理屈から言えば、左耳で聞いた言葉は、いったん右脳に入り、そこから言語をつかさどる左脳に伝達されます。一方、右耳で聞いた言葉は、そのまま左脳に入り、左脳で処理されるので、右耳で聞いたほうが、迂回路が短い分、ストレートに相手の言葉が伝わってくるのです。しかし、電話は気に食わぬ奴を寄せ付けないでおく悪魔の発明品です。だが、今はスマホという便利なものがあるか(笑)

 





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世界で一番美しい文字
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/26(金) 18:52
No. 7537
 
 
歴史のなかにインド・ヨーロッパ語族が登場します。それまでメソポタミアで文明を営んできたのはセム語族、エジプトではハム語族でしたが、この頃、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト人がヒッタイトという国をつくります。

インド・ヨーロッパ語族は、もともと中央ユーラシアのあたりにいたようです。そこから西方に移動してメソポタミアに入ろうとしても、ウル・ナンム王やハンムラビ王など強い人々がいました。

そういうところを避けてさらに西にいき、現在のトルコのアナトリア半島あたりで落ち着いたのです。幸運なことにアナトリアには鉄がありました。ヒッタイトは鉄器生産の技術を獲得して、強くなります。

少し遅れて別のインド・ヨーロッパ語族がメソポタミアを避けてギリシャに入り、ミケーネ文明をつくります。この人々がクレタ文明を滅ぼしたのではないかといわれています。 ヒッタイトやミケーネ文明が起こったのは紀元前1600年ぐらいのことです。

インド・ヨーロッパ語族は喧嘩好きで、軍事色の強い国家を形成しました。エジプト新王国の幸運そのころエジプトにはヒクソスを倒した3つ目の王国、新王国が誕生します。ツタンカーメンの黄金のマスクが出土した「王家の谷」の墳墓やルクソール神殿など、エジプト文明におけるピラミッド以外の大建造物は、だいたい新王国の時代にできました。

新王国がラッキーだったのは、ライバルであるメソポタミアが、紀元前1500年ぐらいから、ヒッタイトの侵入などを受け、分裂状態に陥ったことです。つまり、新王国の栄華は偶然であり、国の盛衰においても、運はとても大事だとわかります。

インドまで1000年、中国までさらに1000年 この間、中国で黄河文明が起こり、漢字という世界で一番美しい文字が出現しました。メソポタミア、エジプト、インダス、黄河の四大文明のなかで、黄河文明が最も遅い理由は、メソポタミアから遠いからです。

エジプトは、メソポタミアから近いのですぐに影響を受けました。インダスまでは、海伝いに1000年ぐらいかけて影響が及びました。 中国は、メソポタミアからさらに遠く、 陸伝いに西アジアから伝わるのに、インドより1000年以上、余計にかかった。

そう考えるとわかりやすいでしょう。 黄河文明がメソポタミアの影響を受けている証拠は、 チャリオットや宦官という風習の存在です。宦官というのは、強い雄にたくさん子どもをつくらせたいから、弱い雄を去勢するということです。どう考えても黄河流域の農耕の文化に馴染みません。西アジアの遊牧民の風習からきているのです。

 





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四大文明の起源
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/26(金) 18:30
No. 7536
 
 
四大文明の起源はメソポタミアにあります。エジプトにピラミッドができたころ、インダス川流域でも文明が起こりました。中国では、だいぶ遅れて紀元前2000年頃、文明が始まり、現在の二里頭という町の周辺に都市国家が生まれます。

出現した青か銅器などからこれが伝説の中国最古の王朝「夏」ではないかといわれていますが、文字がないので確認できません。メソポタミア、エジプト、インダス、黄河の四大文明はかつて、ばらばらに起こったと考えられてきました。

しかし、今では、メソポタミアの刺激を受けて、ほかの地域で文明が起こったと考えられています。例えば、メソポタミアのシュメールとインダスは、海路を通じて交易したことがわかっています。

帝国とは「いろいろな言葉を話す人を治める国」メソポタミアでは、アッカド王サルゴンが初めて統一国家をつくりました。これが、世界初の帝国です。帝国の定義はいろいろありますが、シンプルに、いろいろな言語を話す人を治める1つの国でしょう。

これが何を意味するかというと、帝国を治めるには共通語が必要になるということです。 アッカド語は、世界初の共通語(リンガ・フランカ)になりました。帝国をつくったということは、「今いる人間」を支配したということです。

すると、「動物も支配しよう、植物も集めて支配しよう」となって、動物園や植物園をつくります。「昔の人間も子分にしよう」と考えて、博物館や図書館をつくります。サルゴンから始まった、この世界帝国の思想を受け継ぐのが、ルーヴル美術館であり大英博物館です。

その後、ナラム・シンという大王が現れますが、ナラム・シンは生きている時に「自分は神である」と宣言した最初の王様です。王様を神とする考え方もアッカド帝国に始まっています。すべてを集めつくすと最後はそうなるのです。

山に囲まれたメソポタミアでは統一国家が続かない。メソポタミアでは、サルゴンが最初に大帝国をつくった後、ウル・ナンムという王様が統一国家をつくります。その後、3番目の統一国家をつくったのが、ハンムラビ法典で有名なハンムラビ王です。メソポタミアでは、統一国家が長く続きませんでした。

メソポタミアには、チグリス川とユーフラテス川を挟んで肥沃な土地が広がり、山に囲まれています。山にはいろいろな人が住んでいて、山上から見下ろしては、「何かぜいたくしているやつらがいるから、ちょっと奪ってこよう」と押し寄せてくるのです。ハンムラビの統一国家は、20年ぐらいしか続きませんでした。

 





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石原将軍の語ったすべて
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/26(金) 18:27
No. 7535
 
 
石原将軍は自ら戦犯となって、満州事変における日本の立場を鮮明にしたいと願っていましたが、連合軍は石原将軍を戦犯に指名しませんでした。しかしこの酒田法廷において堂々自分の所見を開陳できたので、石原将軍は満足であったでしょう。酒田法廷閉廷後、インタビューした外国新聞記者は、口を揃えて石原将軍の識見の卓抜なことを称揚しています。

AP特派員 (極東裁判担当)の酒田法廷印象記の中に、「長い記者生活中、小さい法廷ならいざ知らず、国際軍事裁判の如き大きな法廷がわざわざ三百マイルも出張して審理するなど全く異例の経験だ。普通は地方の裁判所に委託するのだが、国際裁判が如何に石原莞爾に興味と関心をもっていたかがうかがわれる」 とあります。

またUP記者の報道記事には、「石原莞爾中将は、戦争中、東条の不倶戴天の敵として知られており、東亜連盟の精神的指導者として知られている。東亜連盟は極端なる国家主義二十六団体とともに一月四日、マッカーサー司令部によって解散された。

石原は赤軍戦術の日本の最高の権威者として数えられているが、東条が政権を握ると同時に、満州の最高軍事地位より追い払われ、続いて支那および太平洋戦争のやり方について、東条を忌憚なく批判したため予備役にされた。日本はどうしてこのような優れた石原将軍の意見を採用しなかったのか」と書いています。

その他、石原将軍の語った断片などを報じています。「トルーマン大統領およびルーズベルト前大統領は、世界最大の戦争犯罪人である」「もし米国が、将来米・ソ戦争において、日本を足だまりに利用するならば、日本人はかかるポツダム宣言大違反に対し、血をもって抗議するだろう」

「もし私が総司令官だったならば、今度の戦争に敗れはしなかったと彼は断言した」「彼は1930年(昭和5年) 陸軍大学の講義で、すでに原子爆弾による最終戦争を予見したことを引用して、国際連合の将来について悲観的観測を述べています。彼は最終戦はおそらく米・ソの間に二十年以内に起こり、人類に大惨害を与えるだろうと予言した。」

「スターリンはいま戦えば負けるから戦いたくないだろう。これに反し米国にとっては、ソ連と戦うには今から三年以内が絶好の機会だろう。しかし米国人も今すぐには戦わないだろう」「私は声を大にして、戦争を避けよと忠告する。このような戦争は西洋文明の基礎を粉砕し、世界をアジアの未開発な地域に残すだけだ」

「東亜連盟の新使命は、日本再建を援助するこのような理想を普及するにある。彼は共産党の一言を否定し、東亜連盟こそ本質的に民主主義であると主張した。したがってマッカーサー司令部の解散命令に抗議したが、まだその回答は得られないでいる」

終戦後、石原将軍はあるいは講演に、あるいは文書活動によって「新日本の進路」「祖国の復興」につとめたのでいが、昭和24年7月、連合軍司令官マッカーサー宛に次の書簡を出しています。

拝呈 未だ拝眉の栄に浴し不申候処、新日本建設のため、閣下はじめ諸賢の御努力には日頃感銘罷り在り候。小生も及ばず乍ら人類の一員として真の世界平和実現のため大いに活動仕り候積りに御座候処、却って各方面に御迷惑かけたるものの如く、深く反省致居候。然る処、貴国並ソ連が世界を両分して対立せる一環として我が国の現状を見るに、共産党の攻勢は頗る活発にして今や根本的対策樹立の要緊切なりと愚考仕り候。重病にて命旦夕に迫りたる身にも、これを黙過するに忍びず、ここに所信の一端を披瀝して高覧に供し候。 言わんと欲する処は、日本が速やかに再建の実をあげ真に世界平和の実現に寄与するには、共産党を断然圧倒し得る如きイデオロギー中心の新政党を結成して、これより統制主義国家として立つ事が不可欠の要件として従来の方針をこのまま持続する時は、到底日本一国の安定すら覚束なしというに有り、些かにても御参考と相成らば幸甚に御座候。 閣下に対する心よりの友情幸いに御受納被下度候。敬白

 






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