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日本では、平成元年である1989年12月2日、東京証券取引所の大納会での日経平均株価が3万 8915円の最高値を打ちます。1990年は5万円、数年で10万円といった強気の見通しが市場を覆っていましたが、年明けから相場は崩れ、1990年1月だけで株価は1727円も下落します。株価の後を追うように不動産価格が暴落します。
不動産や建設、金融の業界で名を知られたいくつかの企業が破綻しました。北海道拓殖銀行や山一證券が消滅しました。しかし、米国のように業界に君臨するトップ企業が壊滅するという状態ではありませんでした。
財テクに距離を置いていた製造業の多くは、持ちこたえていました。「失われた10年」という言葉はこの時代を捉えたものですが、多くの企業は緩やかに成長していました。企業活動のマクロ的集計値であるGDPも1988年の394兆円から1998年には528兆円に増加していたのです。
1998年の中国のGDPは129兆円で日本の4分の1にも及ばない水準でした。韓国のサムスン(三星)電子は、韓国をベースとするローカル企業でした。1990年代はその後、大きく発展する新興企業が胎動を始めた時代でもありました。
山口県に本社を持つファーストリテイリングは1992年から9年の6年間で売り上げを200億円から800億円に4倍増し、東京への進出を狙っていました。京都の日本電産が小型モーター市場で活躍を始めています。売り上げは、東京のマブチモーターと並んで約1000億円の水準でした。
ソフトバンクは1994年に日本証券業協会に店頭登録し、200億円を調達します。1996年にはインターネット元年と称し、ヤフー(現Zホールディングス)を設立します。日本興業銀行の社員であった三木谷浩史氏は1997年に楽天を創業します。楽天だけでなくDeNAやサイバーエージェントも活動を始めます。
当時、米国人が語っていた言葉が思い起こされます。「日本は大変だというが米国の企業は日本の企業の10倍苦しんでいる」「日本の株価が下落しているといっても米国の1987年10月のブラックマンデー(暗黒の月曜日)では2245ドルのダウ平均が1日で1738ドルに下がった」。
そのときはあまり意識しなかったのですが、その後、時間が経過するなかで日本の多くの企業は1990年代にもっと苦しみ、米国の企業のように捨て身の改革に挑んでいれば、今の景色は違ったものになったと思うのです。
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