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アメリカ軍の日本攻撃の計画には、大きく分けて2つあったそうです。それはマリアナ諸島からの爆撃と沖縄上陸作戦です。その2つが同時に行われたのが沖縄上陸作戦支援の為のアイスバーク作戦で、松山への大空襲だったのです。
東京への大空襲は、マリアナ諸島のサイパン・グアムからの焼夷弾爆撃でした。3月10日の東京大空襲の翌日には、名古屋の大爆撃、13日には大阪、16日に神戸、19日2回目の名古屋の無差別爆撃が続きました。
沖縄上陸作戦の為には大都市無差別爆撃は一時中断されました。その間に日本側は3月19日に米グラマン150機を攻撃して42機を撃墜した。アメリカ軍は、予想しない反撃を受けて、驚いて作戦を変更してB29による高度からの爆撃に切り替えたのです。
日本本土からの航空攻撃の先手を打ち、西日本の航空基地を制圧しておく必要がありました。それがアイスバーク作戦です。殆ど無防備の松山に、7月26日、午後11時8分、多くの市民が寝ているところへ、焼夷弾を落とし、市街地が燃え出しました。
爆撃2時間、最後のB29機は27日午前1時に、250キロの大型焼夷弾60発を投下したので、松山市内は大火災となり、多くの市民で町中が大混乱になったのです。全市の73%は焦土となり、53%が罹災するという大惨劇となったのです。翌日のニューヨークタイムスでは、松山爆撃について詳細に報道しています。
「松山は、人口12万人。西四国で最も重要な都市及び港である。軍事に関連する織物工場と、第九歩兵旅団司令部がある。爆撃に参加したジェラルド・スミス中尉の談話『これまでに私が見たベストのものだった。全市が燃えていた。煙はゆうに上空6000メートルに達していた。』」この時の、日本の陸海軍は沖縄に派遣されていたのです。
海軍の航空隊はアメリカ機の爆撃時には、沖縄の特別攻撃隊として長崎の大村飛行場にいたのです。もう二度と日本は爆撃されるような政治を行ってはいけません。日本に仮に爆撃がおこるとしたら、単独でどこかの国が侵略してくる事はまず考えられません。
アメリカの先制攻撃、先制核攻撃戦略によって介入戦争がおこったとき、それが日本に及ぶと言うのがもっとも可能性の高いものです。この火種をなくすことは、日本の恒久平和とアジアの安定にとって大きな役割を果たすと思います。
最後には広島・長崎に原爆が投下され、直接、アメリカ軍と向かい合い戦い、背後には後退を許さない日本軍がいた沖縄の人々の感情は本土の人間にはわからない体験でしょう。東京青山学院高等部の入試で、ひめゆり学徒の証言を「退屈で飽きた。」と英語感想文が出題されて、問題になったことを聞くと残念でなりません。
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