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東京裁判にかけられる方は東条大将ら第一次戦犯指名から、約2ヶ月が経過し、その後も、逮捕は続いていましたが、「大物」の指名は、ぴたりと中絶したままでした。したがって、大将級の陸海軍人は指名を予感していたのであろうが、その中で最も見にせまる黒雲を意識していたのは、公爵近衛文麿でした。
近衛文麿は、首相を三期務めましたが、その期間は支那事変から太平洋戦争直前にまで及びます。太平洋戦争の火ぶたきった責任は問われないでしょうが、連合国がいうそのための共同謀議、計画、準備などの責任者を求めるとすれば、その筆頭者は近衛公爵です。
そこで、終戦後の近衛公爵の動きは、過去の政治行動の責任を痛感しつつ、その償いに似た奉公の道を探す決意と、戦争犯罪人たることを避けたいとの希望がありました。東條大将が逮捕された後、マッカーサー元帥を何度も訪ね、近衛公爵はマッカーサー元帥の激励を得て憲法改正案の作成にたずさわることになります。
最初から憲法改正に従事する意向をもって出かけたのではなく、最大の関心は、マッカーサー元帥の自分個人にどのような措置が予想できるか、それを知りたい点にあったと言われています。近衛公爵にたいしては、国内からも風当たりが強かったのです。
朝日新聞は、近衛公爵とは名指さなかったが、社説「戦争責任論」で、「支那事変の迷路に日支両国をひきずりこんだ結果、東亜分裂の悲劇を演出した最大責任者は何人であるか・・・三国同盟の出現に拍車した責任者は誰であるか・・・東条軍事内閣の成立を不可避ならしめた重大責任は那辺に求むべきか・・・」と。
明らかに近衛公爵と分かる形で痛烈に批判していたのです。近衛公爵は親米家と自認し、米国に知り合いも多いです。まさか米国が自分を、とは思うが、米国の対日政策には他の連合国の意向も作用するとみなければならないでしょう。
そこで、マッカーサー元帥との会談で憲法改正の任務を示唆されると、近衛公爵のそのときの様子は、「それこそはっきりわかるほどうれしそうだったですからね」と、友人牛場友彦も回想しています。
近衛公爵は、その後、米人記者を招いて会見しながら、内大臣府御用掛として、京大教授佐々木惣一博士らと憲法改正案作りにはげんでいましたが、マッカーサー総司令部は、突然、近衛公爵に憲法改正を委任した覚えはない旨の声明を発表したのです。
続いて、近衛公爵は芝浦岸壁に碇泊していた砲艦上で、米戦略爆撃調査団の質問をうけました。約3時間、支那事変、日米交渉、仏印進駐、終戦処理などにつき、近衛公爵の立場と責任を追及する質問が続いたのです。
まるで検察官の訊問さながらで、近衛公爵にとっては、生まれてはじめて体験する非礼な処置でした。「実にみじめな、耐えられない空気の3時間だった。文字通り近衛は打ちのめされた感じであった。今更のように敗戦という冷厳な事実と、戦争責任という苛酷な烙印の前に、改めて米国の対日政策の峻烈さを思い知らされたのだった」と。
牛場友彦は記述しています。近衛公爵は、みじめな思いを抱きながら、なお、戦犯にはなるまいとの望みを持ち続けました。芝浦事件の10日後、久しぶりに「大物」戦犯11人の指名が発表されましたが、その中に近衛公爵の名前はなかったのです。
11人は荒木貞夫、南次郎、真崎甚三郎、松井石根、本庄繁、小磯国昭の各陸軍大将と、元政友会総裁久原房之助、元黒龍会幹事葛生能久、元外相松岡洋右、元駐伊大使白鳥敏夫、元言論報国会理事長鹿子木員信です。近衛公爵にたいする指名がおくれたのは、中国側からの強い引渡し要求があったためだったのです。
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