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  差別用語狩りとは  仲條拓躬2024/07/10(水) 15:52 
  ハル・ノートで宣戦布告  仲條拓躬2024/07/10(水) 15:51 
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  石原莞爾への待命  仲條拓躬2024/07/03(水) 18:07 






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差別用語狩りとは
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/10(水) 15:52
No. 7514
 
 
「女人禁制」は女性差別かという設問は、回答者に自由に答えさせているかのように見えながら、良識ある人には、予め決まった答えを選択させてしまいます。すなわち、「女性差別というほどのものではない」という現実的な答えです。

この様な選択をする分岐点は、どこにあるのか。鉄道の切り換えの転轍機に当たるものです。それは「差別」です。誘導尋問型アンケートの説明の時に、憲法改悪の是非を問うという設問を例に出しました。「改悪」だから、誰でも否と答えます。これに似ているのです。「差別=悪」だから、必然的に転轍機の方向は決まってしまうのです。

だが、差別が本当に悪なのか。そんなことは、いつ、誰が、どんな手続きで、何の正当性があって、どういう権限で、まるで絶対普遍の真理のように決めたのか。もしかしたら、それには単なる妄想かもしれない。実は、差別は素晴らしい事なのかもしれない。

差別用語狩りは行き過ぎている感じがします。ここ十数年、差別用語狩りが物凄いでしょう。私は同和問題推進委員に名前を連ねていますが、「えっ」と思う事が多々あるのですよ。ちなみに「片手落ち」が使えないので、「片落ち」と言うのです。では、「手落ち」があった場合はどうするのですかねぇ(笑)。

1992年の7月19日の朝日新聞は、竹下首相が遊説中に黒人を「黒」と表現したと非難されました。オゾン層の破壊で皮膚がんの発生が増えている、という話の中で、「発生するのは白人の方ですよ。黒や我々まだらには出ていない」と言ったのです。「まだら」は珍妙だし、「白人の方」も変です。

しかし、放送で「朝鮮人の方」なんて、よく言う。「朝鮮人の人」っていうのも聞いたことがある。その辺りは可笑しいけれど、黒や中間色の肌では皮膚がんが発生しにくいというのが、どこが差別なのですかねえ。黒人が黒じゃなかったら、何だろう。そのうち、「黒人」も言えなくなるのではないですかね。

私が子どもの頃は、足の悪い友達も「びっこ」こっちだぁぞーといって、鬼ごっこをやっていました。冒険するときも「びっこ」そっちは危ないぞと言っては自然と仲間が手助けしていました。そうやって私たちは何の意識もせずに遊んでいた。今でも大切な友達です。

それが差別だというならば、それでもよい。だが、現在は大人が変な意識を埋め込みすぎるので子供達は、障害者に近づかないようにしているのも事実です。遊んでいる姿を見ると足の悪い子どもはいつもポツンと一人でいる。仲間に入りたそうに見えるのです。

ともかく、この差別用語狩りも、何度も反省の声が出ているのですが、結論は、妥協的な良識論に落ち着くのです。行き過ぎはまずいと思うのですが、今、私が話した子どもの頃の話は、実際には、怒られるのです。

ここに「差別=悪」というイデオロギーが関係しています。差別用語狩りの行き過ぎは自制しよう、と言っても、「差別=悪」という前提がある以上、行き過ぎるに決まっています。一体、我々は何を根拠にして、差別は悪いと思い込んでいるのか、いや、思い込まされているのか、よく考えてみる必要があるのではないでしょうか。

おまえは差別されても平気なのか、なんて言うのは、一番根拠になりそうで、実は何の根拠にもなりません。誰だって差別されるのは嫌です。しかし、差別するのは好きでしょう。だったら、こう言えばいいではありませんか。私を差別するな、だが、私は差別するぞと。

 





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ハル・ノートで宣戦布告
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/10(水) 15:51
No. 7513
 
 
国力が比較にならない、日米開戦の昭和16年は満州事変以来、既に10年が経過していました。日本国は世界の白人を敵に回して、この上アメリカと戦争するなんて出来るわけがないと、好戦的な軍国少年はいざ知らず、大半の人間は思っていたそうです。

日清戦争、日露戦争、さらに満州事変だって1年余りで終わっています。戦争が長引き国力も尽きているのにこの上、アメリカと戦争する力がないことだけはよく知っていたはずです。もちろん軍人だって知っていたのです。

だが「ハル・ノート」のおかげで戦争を回避できない状態に追い込まれました。「日本軍は中国から全面撤退すべし、蒋介石政権以外は認めない」というハル・ノートは日本への最後通牒、宣戦布告です。政府はそれを国民に隠して発表しませんでした。

発表していれば、昔の日本人は今の洗脳されている歴史しかしらない日本人と違います。武士道精神がありましたからアジアの開放のために世論は開戦やむを得ないと承知したでしょう。さらに当時の日本はというより今の日本もそうですが、日本人は外交苦手な人間ばかりです。現在の奴隷状態なら米国の提示した「ハル・ノート」を受諾するでしょう。

そして催促されたら一個師団を朝鮮に撤退します。当時の朝鮮は日本国だということは世界が認めています。さらに催促されたらもう一個師団右から左に動かします。国際情勢は猫の目みたいに変わります。日本国に有利に動いた好機を捕えます。

終戦を迎えたときの国民が書いた文章を読むと「ほっとした」というものが本音のようです。玉音放送は録音が悪くて雑音だらけたったのですが、北方でも南方でも直ちに武装解除したのは、終戦を待ち望んでいたからです。戦前を語るのは難しい。

何しろ敵は幾万、アジアで西洋人の植民地になっていなかったのは日本国とタイ王国だけですから。細かいディテールを積み上げていかなければ納得してもらえません。時代考証というものがありますが、それは昔のほうが優しい。

江戸時代は元禄と文化文政と幕末の3つで片付けられる、「暴れん坊将軍」なんて将軍吉宗が刀を振り回している、絵そら事に決まっているから、時代考証も糸瓜もない。明治はもう時代劇です。大正はまだ憶えている人がいるから気をつけているのです。(笑)

 





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キューバ危機での各国の心理状況
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/10(水) 15:50
No. 7512
 
 
アメリカのケネディと言えば「キューバ危機」を回避した理性ある偉大な大統領です。ソ連のフルシチョフ、キューバのカストロ、いずれも個人的には核使用は望まなかったのですが、核戦争寸前まで行ったのは事実です。人間は必ず間違いを犯す、理性のない人間もいるので危機は阻止できないということです。

残念ながら理性のある人間を暗殺しようとする輩もこの世には存在するのも事実です。1962年の夏にキューバにソ連のミサイルが持ち込まれましたが、この時、キューバとソ連はアメリカがキューバを侵略、カストロ率いる政府をひっくり返すという確信をもって行動していたのですが、アメリカにはその意思はありませんでした。

アメリカはソ連が自国の核弾頭を自国以外に持ち出すことはないと信じていましたが、1962年の10月、ソ連の戦術核兵器が既に持ち出されてキューバに配置され、しかも核弾頭はアメリカの都市に照準が当てられているという秘密報告をモスクワのエイジェントから受けたのも事実です。

その時点まで、アメリカのCIAはキューバに核兵器が配置されたという情報をまったく掴んでいなかったのです。ソ連もまた、計算間違いをしていたことです。自国の核兵器がアメリカによって探索されるとは思ってもおらず、秘密裏に持ち込めると確信していたのです。

たとえ、露見したとしてもアメリカがあれほど厳しい反応をする(1962年11月)とは予想していなかったのでした。戦略爆撃機でキューバにあるミサイルをただちに破壊せよ、とケネディ大統領に決断を迫った人たちも大きな誤算をしていたのです。そうなった場合、ソ連はただちに軍事力をもって報復するという決定をしていたのです。

当時、CIAの推定ではキューバに1万人のソ連兵が配置されていると踏んでいましたが、モスクワの会議で明らかにされた数字はまったく予想を越えていたのです。当時キューバには4万3千人のソ連兵、それに十分に武装した27万人のキューバ兵が配置され、両軍とも死ぬまで戦う命令をすでに受けていたのです。

キューバの高官は当時で10万人の死傷者が出ることを覚悟していました。事実を時系列的に、列挙すると一歩間違えれば地球規模で大変なことが起こったかもしれません。事実の羅列という迫力の前に驚いたことでしょう。

 





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外務省機密費とは
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/08(月) 18:06
No. 7511
 
 
過去に外務省機密費が官邸に上納されていたという事実を、政府関係者が暴露したことがありました。上納金は、佐藤栄作が政権を握ったときから始まっていると言います。1960年代、日本と韓国が、国交樹立を迎えようとしていた頃、官邸が所持していた機密費がカラになってしまったので、佐藤栄作首相が椎名悦三郎外相に命じて、外務省から内閣官房に金の都合をつけたのが、上納金の始まりです。

それ以来、外務省報償費として予算化された機密費の中から、毎年20億、内閣官房に上納するのが慣例となりました。この話は元外務省のキャリアが本を出版しているので、その関係者なら皆さん知っています。歴代官房長官は皆当事者であり、知らないはずがないのです。官房長官経験である塩川正十郎財務相も「やっていた」と口を滑らせた後「忘れてしまった」と惚けました。さらに、旧大蔵省や会計検査院も知らないはずがないのです。

この件について決定的と言える証拠が、2001年3月の衆議院予算委員会で共産党の筆坂秀世議員は、「報償金について」と題する文書の筆跡と古川貞二郎官房副長官の直筆の筆跡を並べたボードを見せて、疑惑を追及したのです。この文書は専門家による筆跡鑑定でも、古川官房副長官の筆跡と確認されました。

この動かぬ物証を突きつけられたのに、事実を否定して、シラを切り通したのです。認めてしまえば、上納金という財政法違反行為があったことを認め、国民を長年に渡り欺いてきたことが公になってしまうからです。

官邸の機密費は、マスコミに対する工作費として使用されたことも明らかにされたので、マスコミも自民党及び外務省を真剣に追及できないのです。これは国をあげての犯罪を闇に葬っているようなものです。追及するものがいないのだから国民が情報公開法を活用して事実を明るみにしていくしかないでしょう。

恐らく自民党は、「機密に関わる」といい最後まで情報公開を拒むでしょう。しかしそれを許しては国民の血税は垂れ流しになることです。この問題は、国家の安全保障にかかわる機密ではなく、犯罪に関わる問題なのです。

公開を拒むなら、その自民党の態度も追求しなければならないでしょう。この問題を忘れ風化させることなく、自民党並びに外務官僚の証言がいかに嘘をついているか、1つずつの事例を執拗に指摘して断罪しなければならないでしょう。

福田康夫官房長官が、田中眞紀子氏の首をどうしても取らねばならなかったのは、田中眞紀子氏がこの問題の究明に固執するあまり、小泉純一郎政権の崩壊につながることを本気で恐れていたからです。国民よ、騙されずに立ち上がらなければならないと思うのです。

 





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お寿司屋さん
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/08(月) 18:05
No. 7510
 
 
寿司屋のつけ台に座って何でもいいから注文していいぞと言われたら「アワビ」をたらふく食べたいです。アワビは貝の中でも一番値段が高いかも。アワビは見た目一枚貝のようですが、巻貝なのです。そうそう寿司屋にあるのは「つけ台」で、カウンターではないのです。カウンターは勘定台です。

少し昔、外国人の多くは生魚を食べる習慣がないので、寿司屋に招待して食べさせたら、それ以来、病み付きになりました。特に、ワサビの旨さに痺れたらしい。生まれて初めて、日本産の香辛料を口にした時、涙を流して天を仰いだ。国籍を問わず、ワサビの刺激が人体に引き起こす影響、反応は全国共通であることがわかりました。(笑)

最近はダイエットブームでもありアメリカ人もお寿司を食べるようになりました。そんなわけでお寿司屋にアメリカ人の友達を案内した。お寿司が出るたびに、友達は、魚の名前を聞いてくる。これはマグロ(tuna)、これは鯛(sea bream)、これはカツオ(bonito)と説明したのだが、蝦蛄(しゃこ)が出てきた。これは思いつかないのでとっさに、ガレージ(車庫)です。と答えた爆(((●〜*>

寿司をつまんでいる人と言うから食べている人かと思ったらどうも話が変なのです。つけ台の向こうにいる職人のことらしい。つまむのは客の方で反対だと教えると、そうでした寿司をつかんでいる人。つかむのではない、寿司は握るので、握るのが職人でつまむのは客です。つまむと、つかむと、にぎるを、間違える日本人はいません。耳で聞いて覚えていたからです。そもそも言葉は耳で聞いて覚えるのです。

ギリシャ人は「文字は言葉の影法師だ」と言いました。ギリシャで思い出したけれど古典はみんな話す言葉です。ソクラテスは問答しただけです。それをプラトンが文字にしました。孔、孟、老、荘、比々としてみな然りです。孔子様が諸侯や弟子と問答したものを、あとで弟子が記録したのが「論語」そのほかです。

ちなみに寿司屋へ行くと、お寿司と一緒に紅ショウガあります。回転寿司でも、必ず紅ショウガの容器が置いてあります。寿司屋では、紅ショウガのことを、ガリと呼びます。ショウガがお寿司と一緒に出るようになったのは、随分昔からのことで、その頃は棒状のショウガだったようで、それをガリガリかじって食べていたことから、ガリと呼ばれるようになったと言われています。

ショウガは、殺菌作用があります。しかも、魚の生臭さをなくして、食欲を増進される働きがあります。お寿司のワサビも同じような働きをします。だが、最近の紅生姜には着色料・保存料が混入されていて逆に食べると体によくない。食べすぎるとガンになるかも(笑)

 





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繆斌工作の経緯
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/08(月) 18:03
No. 7509
 
 
昭和19年7月22日、東条内閣に代わって小磯内閣が成立しても、戦局の好転は得られませんでした。日本国の戦略基地であるマリヤナ諸島が敵手にわたった後は、敵機B2が、直接本土を空襲するようになって、時局は容易ならぬ段階に入ったのです。

石原将軍は、東亜連盟の線で何とか時局を収拾したいと考えていたのですが、小磯首相も、時局の収拾は戦局だけでは容易ならないことを洞察して、支那の要人繆斌によって重慶との和平工作を考えたのです。

この繆斌工作に尽力したのは、石原莞爾の思想・人物に傾倒していた朝日新聞社の田村真作、小磯首相、国務相緒方竹虎、東久邇宮殿下、石原莞爾で、蒋介石自身も和平を心から望んでいたのです。

これに反対したのは、外務大臣重光葵、陸軍大臣杉山大将、海軍大臣米内大将、 内大臣木戸幸一です。終戦直後、杉山陸軍大臣は自刃しましたが、そのとき杉山大将は「あのとき繆斌工作をやっておけばよかった。惜しいことをした」と後悔したといいます。

もし繆斌工作ができていれば、日本はあのような悲惨な無条件降伏や占領政策にはならなかったと思う。繆斌が石原将軍と知り合ったのは、田村真作を通じてです。繆斌は支那江蘇省無錫の出身で、上海の南洋大学を卒業し、若いときから革命運動に身を投じました。

中国において抗日運動の盛んなときにあって、「抗日危機の猛省」というパンフレットを公表して、日両国の反省を促すなど、アジア問題については深い関心を持っていたのです。日本の『古事記』から近代までの日本歴史の研究をやり、夫人とともに来日したこともあり、日本語も少しは話されたといいます。

日支事変の当初において、中日両民族の交戦の不利を主張しているので、石原将軍の東亜連盟思想とは相通ずるものがあります。古い東洋の道義と、新しい西洋の科学性を兼ね備えた優れた中国の政治家で田村真作は真摯にして熱烈な石原将軍の尊崇者です。

石原将軍を主題にした『愚なる戦争』『三十六時間戦争』などの著者もあり、繆斌とは昭和十四年以来の知己というから繆斌は田村真 作を通じて石原将軍の思想とか人物については熟知していました。繆斌は「石原将軍はステーツマンです。私は石原さんに会わなくとも石原さんの心はよくわかります。同志です」と語っています。

繆斌は田村真作氏に「お国の日本と中国とは難兄弟です。中国には難兄弟という言葉があります。兄弟というものは、お互いが困らない間は、兄弟の有難さがわからないのです。それで喧嘩ばかりしています。」

「お互いに困って来るとそのときに始めて兄弟の本当の愛情がわかって来るのです。日本と中国とはこの難兄弟と同じことです。日本も中国もお互いに本当に困って来ないと両国の愛情がわからないのです。」と語っています。

繆斌の日両国和平の意図するところは、 もし日本が米英の戦争に負ければ、その禍は直ちに中国におよぶので、日本が敗戦にならない前に、中国の面目を損じない程度において日両国が和平すべきであるというもので、これはアジア人としての卓見です。

今日のアジアの情勢を観れば、今さらのように感じられるものがあります。この構想には小磯総理も深い関心を持ち、緒方国務相ならびに山県初男によって繆斌の日本招聘工作を進めさせたのです。

そこで繆斌は昭和20年3月16日、上海から南京総軍の飛行機で羽田に着いたのです。これは非公式な招聘であったが、国賓待遇として宿舎は港区南麻布の迎賓館に定められました。石原将軍も直ちに鶴岡より上京して繆斌に遇い、和平工作の推進に参画したのです。

 





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郷里に帰った石原将軍
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/08(月) 18:02
No. 7508
 
 
昭和16年3月1日の待命後、しばらく京都にいましたが、秋九月に郷里鶴岡に帰りました。北に鳥海山の秀峰を仰ぎ、南に臥牛といわれる月山連峯を眺める荘内平野の中心地です。初め鶴岡市の南端番田というところの時雨荘に落ちついたが、後に高畑にある文豪高山樗牛の旧屋敷内の斎藤求氏邸に移りました。

石原将軍を迎えた郷里荘内の東亜連盟運動は、力強く進展していきました。郷里に限らず石原将軍は積極的に全国を遊説しています。 帰郷後間もない九月に新潟市において「満州事変の思い出」という講演をしているし、十二月には四国の高知市において「大東亜戦争と東亜連盟」の講演をしています。

翌年一月には、東亜連盟中央講習会において「世界最終戦争と大東亜戦争」など、多忙の日を送りました。これらの講演内容は刊行物となって公刊され、あるいは石原将軍自らの執筆もあって、東亜連盟思想は漸次世に紹介されるようになりました。

当時の重なる出版物をあげれば、『世界最終戦争論』(昭和十五年九月、後『世界最終戦論』と改題)、『国防政治論』(昭和十七年十月)、『昭和維新宣言』(昭和十七年十月)、『教育革新論』(昭和十七年十一月)、『在満同胞に訴う』(昭和十七年十二月)などがあります。

時局と石原将軍、昭和12年7月7日に起こった盧溝橋事変において、石原将軍は参謀本部第一部長の要職にあって、極力不拡大方針を主張しましたが、大勢は拡大方針に進展しました。このことは重要な問題でした。

もし日本が不拡大方針をとって、これ以上隠忍すれば、支那の排日運動はますます強化され、今後、同様の事態が再三起こる可能性は十分考えられるし、北支の日本軍を撤退した場合、日本の在支権益や居留民保護の問題など、その判断は実際問題として容易ならぬ難事でした。

忍従にも限界があって、今一撃することによって、むしろ事変の拡大を阻止できるという見解も当然、成り立つのでした。しかし石原莞爾は世界状勢の洞察と多年にわたる軍事科学の研究から判断して、不拡大方針を堅持したのです。

石原莞爾によれば、当時日本の陸軍が動員できる兵力は三十個師団ですが、これを全部対支作戦にのみ使用することはできない。それはソ連の南下にも備えなければならないので、対支作戦に使用される兵力は大体十五個師団です。

もし対全面戦争に展開した場合、この十五個師団ではむりで、あるいはナポレオンが対スペイン戦争で苦しめられた、二の舞を踏むのではないかということでした。この戦争は即戦即決では片づかないで、必ず持久戦争になるという。

残念なことに、支那を数カ月で片づけるという拡大論者の見解は誤りで、八月に上海事件が起こるのです。事態は拡大のやむをえないことに進展し、日支事変は石原将軍の予言したように泥沼の渕に入ったのです。

石原将軍が退役して七ヵ月、昭和16年10月、第三次近衛内閣が総辞職して東条内閣が成立すると、時局は世界大戦の方向に進んだのです。そして12月8日の米英に対する宣戦布告となったのです。

事ここに至ったについては、日本の支那事変解決を妨げる英米の脅威を除き、日本の国策遂行上やむをえない歴史的必然でありますが、石原将軍の考えでは日支事変未解決のまま米英と戦うのは無謀であるという見解でした。

しかし当時の政府要路の責任者ならびに軍首脳部においては、国際情勢ならびに米英の戦力に対する分析が石原将軍と異なっていたのです。昭和17年秋、甘粕正彦の仲介によって、石原将軍は東京で東条首相と会談しています。

このとき石原将軍は東条首相に、「戦争は君では勝てない。このままで行けば日本を亡ぼしてしまう。即刻総理大臣をやめなさい」と進言したのです。こんなことから東条首相の石原将軍に対する弾圧は、一層きびしくなったのでした。

 





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人権イデオロギーとは
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/03(水) 18:10
No. 7507
 
 
幼稚園児の質問ですが、「ライオンとトラと闘ったらどっちが強いの」などと聞いてきます。難問です。(笑)ライオンはアフリカの草原、トラはアジアの密林、生息地が全然違うから、闘うも何も、接触さえありはしないのだが、そこを理解させようと、一苦労です。

子供というものは、「どっちが強い」が好きです。ライオンとトラがやっと片付いたと思ったら、今度は「宅間守と宮崎勉ではどっちが強いの」。闘うも何も、接触さえありはしないということが理解できないのです。すると、親までが、「それなら、泉ピン子と田嶋陽子ではどっちが強いのですか」。闘うも何も、接触さえ・・・。

昔の話ですが、昭島市のスナック経営者佐藤重治氏が息子の名前に「悪魔」と命名しましたところ、新聞、雑誌、テレビ、大変な話題になりプロ・アマ問わぬ愚論のコメントや投書が出ていました。「悪魔」という名前だからといって差別する社会が悪いという「進歩派」と、子供は親の玩具じゃないという「保守派」。

どちらも自分たちこそ子供の人格を尊重する「真の人権派」だと思っているようです。実は、人権イデオロギーの本質的矛盾が露呈しているだけなのに、それに気づこうとさえしていません。自分の子供に「悪魔」と名付けたのは、佐藤重治氏が初めてじゃないような。水木しげるの「悪魔くん」マンガです。(笑)そうではなくて釈迦です。

妻のヤソダラー姫が懐妊したとき、お腹の子供を「ラーフラ」と名付け、身重の妻を捨てて家を出るのです。「ラーフラ」とは「蝕魔」すなわち日蝕や月蝕を起こす悪魔です。「ラーフラ」は漢字に音訳されて「羅睺羅(らごら)」、これが日蝕・月蝕の古語にもなっています。前に何かで読みました。そうすると、佐藤重治氏は釈迦なみの大思想家なのです。

釈迦は、子供は知恵の光明をさえぎるものだとして「蝕の悪魔」と名付けたのです。そして妻子を捨てたのです。佐藤重治氏は、子供が可愛くて、その愛にとらわれるあまり悪魔と手を結んだようなものかな。大衆社会・近代社会の病理が現れているというわけです。

時代が煮詰まってきた証拠で、あと一息で人権イデオロギーはこげつくのです。次は必ず子供に差別用語をつける親が出てくるでしょう。そうなった時、差別用語を禁圧してきた人権主義者があわてるところを想像すると面白くなります。(笑)

差別用語に関する「保守派」と「革新派」も、これについては主張が逆になります。「保守派」は子供の名前になった差別用語を禁圧しろと言うだろうし、「革新派」はその差別用語を自由に使わせろと言うだろう。人権イデオロギーのこげつきです。

 





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どれだけ本を読めますか
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/03(水) 18:09
No. 7506
 
 
読みたい本があれば読むのですが、難しい本だと眠くなります(笑)生涯に人は何冊本が読めるのか、計算してみたのですが、生まれた赤ちゃんから男女平均寿命をちょっと過ぎて死ぬまで、1日に必ず1冊本を読むとして、たった3万冊しか読めないのです。

生まれた赤ちゃんは本を読めないでしょう。80歳位になると、目がかすんだり、体がおかしくなったりもするから、実質、15歳から65歳まで読んだとして50年です。ハードカバーを1万冊読んだとしたら、物凄いことだと思うのです。

週刊誌入れても、1万冊読んだ人は、やはり読書家だと思うのです。学生に本を何冊読むかと質問すると、「5,6冊」なんて答える訳です。「それは、どんな本ですか?」と聞くと「少年ジャンプ」とか週刊誌が立派な読書なのです。定期刊行物は読書なのです。

そのうち、「読売新聞」と答える方が現れるかも知れません。雑誌「バラエティ」は、もちろん、立派な読書なのです。たとえば、定年退職して、家でビデオみているだけではなく、本屋まで「少年ジャンプ」を買いに行くのは偉いと思います。

電車の中で平気で漫画を読んでいるサラリーマンがいますが、なかなか言えないでしょう「少年ジャンプを下さい」ってのは?(笑)そういう時は、大体「うちの息子が」って言って買うのです。「白血病の妹が」って言って少女漫画を買う人もいるでしょう _(_△_)ノ彡☆ギャハハ!!バンバン

 





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石原莞爾への待命
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/07/03(水) 18:07
No. 7505
 
 
東条軍閥の石原将軍に対する断圧は執拗なものがありました。憲兵を動員し、あるいは右翼団体の無頼の徒輩を動員し、石原将軍をもって赤だ、共産党だ、東亜連盟は敗戦主義だ、米英の第五列だとか、また当代まれにみる私生活の清廉な石原将軍を、遊蕩に耽っているというような悪宣伝を行なったのです。

これを知った同盟通信社のある記者が奮慨して、陸軍次官阿南惟幾中将にその不当を訴えたところ、石原将軍をよく知っている阿南中将は、憲兵の悪質な態度を知って憤り、わざわざ京都まで石原将軍を訪ねて詫びたということです。

昭和16年3月1日待命。ついで3月4日、予備役に編入されたのです。東条一派はその数ヵ月前から、そのことを他に洩らしていたようです。京都府も京都市も石原将軍の送別会を行なわなかったというから、東条政府はいかに石原将軍を悪宣伝していたかが、うかがわれます。人材を活用することは政治の要諦です。

特に非常の際は非常の士を用うることこそ、政権の首位にあるものの最も大切なことであるが、東条政府はついに石原将軍を現役から去らしめたのです。しかし石原将軍自身は、昭和13年8月、すでに予備役編入を願い出ているので、このたびの待命には世間が憤るようなものではなかったのです。

この時、石原将軍は同憂の知人達に、次のような挨拶状を送っています。拝啓、今回待命被仰付近く現役を去るに当りまして、永年の御好誼に対し厚く御礼申しあげます。私は既に昭和6年末に身を引くべきだと考えました。

二・二六事件には更に責任重大を痛感、是非引退すべく決心したのでしたが、遂に願が達せられませんでした。今次事変勃発の時、作戦部長の重職にあった私は申しあげ様もない責任を感じて居ります。「事変はとうとう君の予言の如くなった」とて私の先見でもある如く申す人も少なくありません。そう言われて私は益々苦しむ外ありません。

当時部隊すら統制する徳と力に欠けていた我が身を省みて、真に身の置き所に苦しむ次第であります。今度宿望叶いまして第一線を退かして戴くことになりましたに就ては、衷心感謝の念に満たされて居り、心から御礼を申しあげる次第であります。今日我が陸軍は国家同様甚しい困難の渦中に立って居り、全軍心を一にして此危局を突破することが困難を救う根本であることを確信致します。

 






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