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竹中半兵衛で有名な竹中家は、西美濃、現大野町のあたりにいた土豪の一家で、土岐・斎藤二代に仕えています。弘治二年に斎藤父子が戦ったとき、重治の父重元は齋藤道三の軍に加わったが、戦後追討されることもなく故郷に帰ったらしく、永禄のはじめには、菩提山城(垂井町)の岩手弾正を討ってその城を奪っています。
この岩手弾正も齋藤道三の家臣で、やはり弘治二年の合戦では齋藤道三方についていた。竹中半兵衛重治は天文十三年(一五四四)に生まれました。父は菩提山城にはいって間もなく亡くなったので、若くして家を継いだのです。
織田信長の鋭鋒が美濃へ向かわなかったら、たぶん一万石相当の領地を守ってそのまま老けていったことだろうが、稲葉山城の攻防戦が激しくなるうちに、のちの天下人の羽柴秀吉とのつながりができて、歴史の表舞台へ登場することになったわけです。
齋藤義竜が亡くなったのち、織田信長は稲葉山城へしばしば攻撃をかけるのですが、どうしてもこの天然の要塞に拠る名城を落とせなかったのです。当主は少年だったのですが、美濃衆が結束して頑強な抵抗ぶりを示したのです。この事実の中へ、のちに戦術家として傑出した才能を見せた竹中半兵衛重治の名がすべりこんでいくことになるのです。
永禄四年の夏、稲葉山城へ迫った織田信長の軍は、重治の十面埋伏の陣に誘いこまれて、あやうく総崩れになろうとした。このとき、後陣に控えていた木下藤吉郎秀吉が命令一下、足軽たちに旗をふらせると、暮靄にしずむ金華山の峰つづきに、点々と松明が点りはじめた。
城を空にして出撃していた斎藤勢は、すわや謀られたと浮き足立って、せっかくの包囲を解いて引き揚げてしまったので、織田信長はようやく危地を脱することができたのです。たいそうおもしろい話ですが、出典は『絵本太閤記』です。まじめに取り上げることはできないけれども、竹中半兵衛伝説の典型的な一例として興味深いです。
永禄四年というと、竹中半兵衛重治は十八歳。竜興の周囲には道三以来の重臣たちが幾人もいます。どちらかというと馬鹿にされていた西美濃の土豪の小件が、大事な決戦の采配を振らせてもらえるわけはない。それが、江戸時代の後半期寛政ごろともなると、竹中半兵衛重治が出なければ面白くないということになるのです。
民衆は傑出した英雄に拍手を送るが、無条件にのさばらせることもしないです。彼を抜け、あるいは一矢を酬いる小英雄を見つけ出して、それにも声援を惜しまない。むしろ人気は、そうした小英雄のほうに集まるのです。
竹中重治は半兵衛伝説を生むに足る条件をそなえていました。氏素性と縁のない小城のあるじであり、すぐれた軍師として豊臣秀吉の大業を助け、しかも三十六歳という惜しむべき若さで死んでいます。戦陣にあっては神のごとき明察ぶりで敵将の心理を読んだが、平常は婦人のような柔和な物腰だったといいます。
わずか十数人で稲葉山城を陥す、この重治を、もし竜興が重用していたら、また、竹中半兵衛重治がもし三十六歳という若さで陣歿しなかったらとそうした「もしも」という仮定の上にあれこれと想像を働かせたくなるだけの魅力が、重治にはあるのです。それが竹中半兵衛伝説を産み出したのです。重治は竜興に仕えたが、冷遇されていました。
年が若いうえに、顔立ちがととのいすぎていて、一見いかにも女々しく見えたのだろう。風采が戦国むきのタイプではなかったのです。ふだん竜興が馬鹿にしているので、家臣たちも竹中半兵衛重治を軽んじていました。稲葉山城へ出仕したとき、下を通る竹中半兵衛重治を目がけて、櫓の上から小便をひっかけた者がありました。
重治は自若として汚れをおし拭って自分の城へ帰ったが、北方城主の安藤守就を訪ねて、いきなり兵を少々貸してくださいと頼んだのです。守就の娘は重治に嫁いでいます。おとなしい婿の唐突な言葉に守就が驚いて問いただすと、「いささか恨みに思うことがあるので、稲葉山城を陥そうと思います」という。 守就は肝をつぶして、懇々とその無謀を諭した。
竹中半兵衛重治は「そうですか」といって、来たときと同じように静かに帰っていったが、それから2,3日たつと、城内に人質としてはいっている弟の病気見舞いだと称して、七、八人の家臣に大きな長持を運びこませ、自身も十人ばかり引き連れて登城をしました。
長持には武具がはいっていました。夜半、武装をととのえた重治は、みずから夜番の将を斬り、家臣たちを指揮して、あっという間に城の要所要所を抑えました。城の内で合図の鐘を鳴らすと、ひそかに集結していた竹中半兵衛重治の手勢が城内へ雪崩れこみました。竜興は城内の混乱を鎮めることができず、城を捨てて祐向山城へ逃げこんだのです。
こうして天下の堅城はまことあっけなく落城してしまったのです。稲葉山城を攻めあぐねていた織田信長が、この事件を見のがすはずはない。すぐに重治のもとへ、稲葉山城を引き渡せば美濃半国を与えようと取引きを申し出ました。
しかし竹中半兵衛重治は、「城を陥したのは、お屋形(竜興)に反省してもらうためで、隣国に売るためではない」といって断わり、やがて竜興に城を返して菩提山へ引き揚げてしまったのです。
これは伝説ではなくて史実なのですが、織田信長さえ手こずった城をわずか十数人で占領するというのも痛快だし、そのあと何の未練もなく、引き揚げてしまうというのも爽かです。人は、「やった」と思い、「さすが」と感心します。竹中半兵衛重治の人気は、こういうところから生まれるのです。
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