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「女人禁制」は女性差別かという設問は、回答者に自由に答えさせているかのように見えながら、良識ある人には、予め決まった答えを選択させてしまいます。すなわち、「女性差別というほどのものではない」という現実的な答えです。
この様な選択をする分岐点は、どこにあるのか。鉄道の切り換えの転轍機に当たるものです。それは「差別」です。誘導尋問型アンケートの説明の時に、憲法改悪の是非を問うという設問を例に出しました。「改悪」だから、誰でも否と答えます。これに似ているのです。「差別=悪」だから、必然的に転轍機の方向は決まってしまうのです。
だが、差別が本当に悪なのか。そんなことは、いつ、誰が、どんな手続きで、何の正当性があって、どういう権限で、まるで絶対普遍の真理のように決めたのか。もしかしたら、それには単なる妄想かもしれない。実は、差別は素晴らしい事なのかもしれない。
差別用語狩りは行き過ぎている感じがします。ここ十数年、差別用語狩りが物凄いでしょう。私は同和問題推進委員に名前を連ねていますが、「えっ」と思う事が多々あるのですよ。ちなみに「片手落ち」が使えないので、「片落ち」と言うのです。では、「手落ち」があった場合はどうするのですかねぇ(笑)。
1992年の7月19日の朝日新聞は、竹下首相が遊説中に黒人を「黒」と表現したと非難されました。オゾン層の破壊で皮膚がんの発生が増えている、という話の中で、「発生するのは白人の方ですよ。黒や我々まだらには出ていない」と言ったのです。「まだら」は珍妙だし、「白人の方」も変です。
しかし、放送で「朝鮮人の方」なんて、よく言う。「朝鮮人の人」っていうのも聞いたことがある。その辺りは可笑しいけれど、黒や中間色の肌では皮膚がんが発生しにくいというのが、どこが差別なのですかねえ。黒人が黒じゃなかったら、何だろう。そのうち、「黒人」も言えなくなるのではないですかね。
私が子どもの頃は、足の悪い友達も「びっこ」こっちだぁぞーといって、鬼ごっこをやっていました。冒険するときも「びっこ」そっちは危ないぞと言っては自然と仲間が手助けしていました。そうやって私たちは何の意識もせずに遊んでいた。今でも大切な友達です。
それが差別だというならば、それでもよい。だが、現在は大人が変な意識を埋め込みすぎるので子供達は、障害者に近づかないようにしているのも事実です。遊んでいる姿を見ると足の悪い子どもはいつもポツンと一人でいる。仲間に入りたそうに見えるのです。
ともかく、この差別用語狩りも、何度も反省の声が出ているのですが、結論は、妥協的な良識論に落ち着くのです。行き過ぎはまずいと思うのですが、今、私が話した子どもの頃の話は、実際には、怒られるのです。
ここに「差別=悪」というイデオロギーが関係しています。差別用語狩りの行き過ぎは自制しよう、と言っても、「差別=悪」という前提がある以上、行き過ぎるに決まっています。一体、我々は何を根拠にして、差別は悪いと思い込んでいるのか、いや、思い込まされているのか、よく考えてみる必要があるのではないでしょうか。
おまえは差別されても平気なのか、なんて言うのは、一番根拠になりそうで、実は何の根拠にもなりません。誰だって差別されるのは嫌です。しかし、差別するのは好きでしょう。だったら、こう言えばいいではありませんか。私を差別するな、だが、私は差別するぞと。
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