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1939年4月24日。アドルフ・ヒトラーは数日前に誕生日を迎えたばかりでした。ドイツの若手研究者パウル・ハルテックは総統に特別な贈り物をするために、陸軍宛ての一通の手紙をたずさえてハンブルクの通りをいそいそと歩いていました。
原子物理学の最新研究で、従来兵器とは比較にならない爆発力を得ることが可能になったのです。原子爆弾を総統にプレゼントしたいとハルテックは考えていたのですが、あいにくそれは実現しませんでした。
ナチスドイツの息がかかった地域では、ユダヤ人や自由主義思想、あるいはその両方の物理学者はみんな殺され、投獄され、欧州から追放されていたからです。同じ年の8月2日、アルベルト・アインシュタインへの任務を帯びた2人の科学者が、米国ロングアイランド、カッチョーグに車を走らせていました。
2人ともハンガリー出身の物理学者で、この日だけは任務を果たすために協力しましたが、その後は対照的な人生を歩むことになります。1人は前出のレオ・シラード。当時はみんなそうでしたが、彼にも戦争の足音が聞こえていました。
マンハッタンから出掛ける時は、いつも決まった研究者が運転手をしてくれるのですが、たまたまこの日は用事がありました。そこでシラードはエドワード・テラーという若い科学者に頼むことにしました。
ブダペストで迫害を受け、家族ともどもミュンヘンに逃げたテラーですが、このとき交通事故で右足を失っています。1930年代初頭にはドイツにもいられなくなり、最終的に米国に落ち着きました。
テラーの運転で向かったカッチョーグには、アインシュタインの夏の別荘がありました。案内された食堂は本や書類だらけで、偉大な科学者とシラードはテーブルについた。テラーは若手の立場をわきまえて、隣の台所に控えていました。
ドイツでハルテックがヒトラー総統に手紙を出したのは、それが自分の義務だと考えたからです。シラードも、原子爆弾の恐るべき可能性をフランクリン・ルーズベルト大統領に伝えなくてはと思いました。
そこで大統領の注意を惹くために、比類ない名声と影響力を持つアインシュタインの署名をもらうことにしたのです。手紙を読みながら、アインシュタインの心は激しく揺れました。この新しい知識は危険で、ひとたび実用化されたら後戻りはできない。
長期的にどんなことになるのかわからないが、ヒトラーに核兵器をもたせるのは想像すると恐ろしい悪夢です。アインシュタインは、マンハッタン計画と呼ばれる米国の原爆開発に関わることはなかったのですが、原子核のもつ力を戦争に使う可能性を大統領に示唆することになったのです。
ペンを持つ手が一瞬止まり、アインシュタインはためらいがちに署名しました。戦後アインシュタインは、ドイツが原爆開発に失敗するとわかっていれば署名はしなかったと記者に話しています。ただし若きエドワード・テラーにそんなためらいは皆無で、原子を兵器にする作業に早く取り掛かりたかったのです。
ソ連の物理学者G・N・フレロフもまた、国の指導者に原子核連鎖反応の軍事利用を繰り返し進言していました。だが、1942年2月にはソ連はドイツ軍に包囲されていました。そんな危機的な状況で、開発に何年もかかる「原子爆弾」は問題外でした。
フレロフは空軍中尉として赴任していた北西部のボロネジで、大学図書館を訪ねました。 原子物理学の論文を発表したばかりで、欧米の名だたる研究者の反応を知りたかったのです。ところがどの学術誌のページをめくっても、全く言及がない。
自分の論文はそんなに価値がないのか。フレロフはとまどい、傷ついたが、やがて気がついたのです。米国とドイツの学会誌から原子物理学関係の論文が排除されているのは、両国がひそかに原子爆弾を開発中だからです。ほえる犬は目立つ。
学術誌から情報が消えたことで、フレロフは核兵器開発をいっそう強くスターリンに働きかけました。殺傷能力を飛躍的に高めることができる。ドイツでも、米国、ソ連でも、そのことを指導者に知らせたのは軍人ではなく科学者だったのです。
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