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日本の運命を決した大東亜戦争に至る三国同盟成立の背景を論ずるには、17世紀から始まった欧米列強諸国によるアジア侵略の歴史に遡らなければならないでしょう。長い歴史の歩みをゆっくりと刻んでいたアジア諸国は、僅か400年前に、突如として圧倒的な軍事力と策略をもって押し寄せた白人諸国の前に、植民地とされていったのです。
長く蓄積されてきた豊かな富も、大切に守り続けてきた資源も根こそぎ収奪され、華やかなヨーロッパ文化の繁栄の犠牲となったのです。インドでは、1604年の東インド会社設立以来、一般民衆は悲惨な奴隷状態におかれ、綿の原料はイギリスへ運ばれ、産業革命により大量生産された綿製品はインドに逆輸出されて基盤産業が崩壊したのです。
二重に収奪された富はイギリス商人の手に集中する様になりました。それを跳ね除けと1857年にはセボイの反乱などの大反乱が起きましたが、2年後の1859年にイギリス軍によって鎮圧されたのです。
ちなみに大東亜戦争では日本軍に支援されたインド独立義勇軍も戦って遂に宿願の独立を成し遂げましたが、そのインドの国旗には、国が奪われる前の綿産業の繁栄を象徴する綿車が描かれていたのです。
中国大陸では1840年に起こったアヘン戦争、1851年の太平天国の乱、1856年のアロー号事件などによって、1644年以来200年以上続いていた清帝国は、欧米諸国に占領され、租界がつくられていったのです。
長崎の出島のオランダ商館からこうした情報を逐一得ていた日本は、あの恐ろしく強かった大清帝国が欧米諸国によって思うように蹂躙されていく実態を知り、いかにして日本の独立を維持できるかが喫緊にして最大の課題となったのです。
明治維新はそうした危機感の中で、旧幕藩体制が薩長を中心とした西南諸藩に妥協する形で国家統一が行われ、挙国一致して欧米の侵略に備えました。清帝国は、1894年、その新興国日本との朝鮮半島をめぐる争いに敗れると、益々王朝の存続は困難になりました。
1911年、日本の支援者によって支えられた孫文の辛亥革命が起きて、遂に300年近く中国大陸を支配してきたが清王朝は滅亡したのです。そうした混乱の中、中国に隣接した満州も混沌とした状態におかれていました。満州はもともと満州族の地であり、歴史的に漢民族の中国とは民族も文化も異にする地域です。
その広大な満州の地は、清国弱体化の混乱に乗じた帝政ロシアの植民地獲得政策によって実効支配がすすみ、このままでは地続きの朝鮮半島も、やがてはロシア領となるのは明白でした。そうなれば朝鮮半島と鼻の先にある日本は、ロシアの太平洋進出として領土を奪われる危険に晒されたのです。
明治日本政府は、こうした国家存亡の危機に直面して、強大なロシアを相手に、窮鼠猫を噛むが如くに敢然として戦いを挑んだのです。1904年に日露戦争が勃発しました。世界の見る目は弱小国日本に到底勝ち目は無いと情をもってみられていました。
欧米諸国間同士の勢力争いが幸いして、アジアにおけるロシア勢力の拡大を望まないイギリスの支援もあり、日本は203高地、日本海海戦、奉天会戦と、甚大な犠牲のもとに辛うじて勝利を収め、世界史の奇跡として非白人諸国民の熱狂的祝福を受けたのです。
だが、日本の国力と兵力は底をつき、これ以上戦いを続けることは困難な状態にあり、ポーツマスでの和平交渉では、戦勝国とは言いがたい条件で涙を飲んで妥結せざるを得なかったのです。ロシアも日本と同様巨額の戦費調達に苦しみながらも、緒戦の敗戦を挽回すべく国家の威信を賭け、満州に大兵力を結集しつつありました。
したがって、日本が講和を急いだのはやむを得ないことでした。交渉の駆け引きにおいて戦勝の犠牲に見合っただけの有利な条件を結べなかったので、日本の世論は激高しました。外相小村寿太郎はこの汚名を晴らすべく帰国後、持ち上がったアメリカのユダヤ人実業家ハリマンとの満州鉄道の共同経営案を一旦取り決めた後でキャンセルしました。
そのことで、アメリカ財界の怒りを買ってしまったのです。屈辱感をもったロシア国民の間には、日本への復讐心と、満州への執着心を残すことになり、これが40年後の日米開戦と、スターリンによる、一方的な日ソ中立条約破棄による、満州国への軍事侵攻の伏線となったのです。
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