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1812年のナポレオンによるロシア遠征の時、フランス側で赤痢や発疹チフスが流行し、数千人の兵士が命を落として遠征の失敗につながったと言われています。1861〜1865年の南北戦争でも、赤痢は北軍で4万5000人、南軍で5万人の死者を出したと思われています。
1853〜1856年のクリミア戦争ではコレラと同時に赤痢が兵士たちの間に蔓延しました。1854年にフローレンス・ナイチンゲールらの看護団が戦場に到着した時には、恐ろしいことに2000人の赤痢患者が一つの病院に集められ、不衛生な状態で回復か死を待つばかりの状態で放置されていました。
20世紀に入ってからも、1914〜1918年の第一次世界大戦でやはり赤痢が流行しました。戦争と赤痢の関係は古く、紀元前480年頃、ペルシャがギリシャに侵攻したペルシャ戦争の時代からあったようです。
正確な死者数はわからないのですが、戦争中に数十万人の兵士たちが病気で命を落としたと考えられており、その病気は赤痢かペストだったというのが歴史学者たちの意見です。権力や地位なご意に介さず、赤痢は代々のイングランド王を襲ってきました。
1216年にイングランド東部の戦いに出たジョン王を死に追いやり、1307年にスコットランドと戦っていたエドワード1世の命を奪ったのです。百年戦争のさなかの1422年には、ヘンリー5世がパリ郊外のバンセンヌ城で明らかに赤痢と思われる病気で死亡しました。
エリザベス1世の時代にスペインの無敵艦隊を打ち破ったフランシス・ドレーク卿も赤痢で命を落とした1人で、1596年1月にパナマのポルトベローの沖に停泊していた船で死んだのです。ドレークは船室に閉じこもって、激しい下痢を訴えていました。アイルランドの農村部では、 昔から赤痢が風土病となっていたようです。
17世紀イングランドの学者アンソニー・ウッドは、オリバー・クロムウェルのアイルランド遠征に従軍した兄弟のトーマスが、1649年に「赤痢と呼ばれる風土病で生涯を閉じた」と書いてあります。17世紀イギリスを代表する医師トーマス・シデナムも 「アイルランドの風土病赤痢」についての記述を残しています。
歴史をさらにさかのぼると、のちのジョン王を伴って1185年にアイルランドへの軍事遠征に出た聖職者で歴史家のジェラルド・オブ・ウェールズも「アイルランドの風土病」に言及しています。
クロムウェルの軍隊は1655年にカリブ海地域の一部の植民地化を試みるも、再び赤痢とおぼしき病に襲われました。 イギリス艦隊が4月にサントドミンゴに到着してまもなく、彼らは 「激しい下痢に悩まされ、具合が悪くなり、死者も出て、数百人が途中で脱落した」。
2週間後の文書には次のような報告があります。「雨がひどくなり、兵士たちは弱り、下痢で死んだ者もいる」。こうして作戦は中止されました。他の多くの伝染病と同様に、赤痢も栄養状態が悪い人々が罹患することが多い。
赤痢は通常は汚染された食物や水を介して感染します。時にはハエが媒介したり、患者の排泄物からうつったりする可能性もあります。この為、予防には手洗いが欠かせないのです。人が過剰に集中し、衛生状態が悪い場所ではすぐに感染が広がるため、難民キャンプや福祉施設、戦場の野営地な狭く不衛生な空間では感染のリスクはきわめて高くなります。
包囲戦などは、包囲する側にとっても包囲される側にとっても特に危険が大きいのです。 17〜18世紀の奴隷船は特に環境が劣悪で、赤痢や他の伝染病にまつわるおぞましい話がいくつも残っています。1664年にはカリブ海の島、バルバドスからこんな報告が上がっています。
奴隷の間で大量の死者が出た。王立アフリカ会社 (イギリスが奴隷貿易を目的に設立した会社)の医師は、病人や衰弱した者をみな一緒に閉じ込めていた為に悪性のジステンパーにやられたに違いないと断言しました。奴隷たちの状態はあまりにひどく、買い手はほとんどつかなかった。
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