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1951年、サンフランシスコ講和会議で、日本は連合諸国と平和条約を結びました。これで日本は、連合国の占領下から解放されて主権を回復し、独立します。さらに平和条約を結ぶのと同時に、日米安全保障条約を結びました。
日本は、このとき吉田茂がいたことで明治維新のとき、阿部正弘が描いたグランドデザインは、「開国富国強兵」の3本柱でした。吉田茂は平和条約を結ぶにあたって、この3枚のカードを机の上に置いて考えたのだと思います。
そして、「開国」と「富国」に力を入れることにしたのでしょう。そして「強兵」は日米安保条約で代替しようと考えたのだと思います。サンフランシスコ講和会議で結ばれた平和条約には、日本全権団のメンバー全員がサインしていますが、日米安保条約にサインしたのは吉田茂1人です。いわば、吉田茂1人で安保条約発効させている格好です。
これで日本はアメリカの犬となってしまいます。これにはいろいろな見方があるでしょう。吉田茂がワンマンだからという見方もあれば、1人で責任を負う覚悟だったからという見方もあります。おそらく両方だったのだと思いますが、後者の意味合いが強かったのではないでしょうか。
サンフランシスコ講和会議では、ソ連や中国など東側諸国とは平和条約を締結できませんでした。当時の日本では、西側諸国とだけ講和するのではなく、すべての交戦国と全面講和すべきだという主張も強く、国論は二分されていました。
けれど、吉田茂は「すべての国と講和しようとしたら時間がかかりすぎる。早く独立するのが日本のためだ」と判断したのだと思います。サンフランシスコ講和会議の後、台湾やインドなどとも個別に講和していきます。
日本がソ連と講和するのは1956年、日ソ共同宣言を発表したときです。これで日本もようやく国連に加盟します。拒否権を持つ5大国すべてが認めてくれなくては、国連には加盟できません。この宣言には、北方領土については「平和条約締結後に歯舞諸島と色丹島を引き渡す」と明記されていました。
1952年、アメリカは水爆実験をして、もう一度ソ連を引き離そうとします。でもソ連も翌年に水爆の保有を宣言します。原爆のときは、米ソに4年ぐらいのタイムラグがありましたが、水爆では1年です。果たして原爆や水爆を保有する国も増えてしまい地球はどうなってしまうのであろうか。
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