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  軍部が暴走したのが残念だ  仲條拓躬2024/10/11(金) 20:34 
  2024北陸の旅日記2日目−2  仲條拓躬2024/10/09(水) 15:49 
  2024北陸の旅日記2日目  仲條拓躬2024/10/09(水) 15:48 
  2024北陸の旅日記1日目-2  仲條拓躬2024/10/08(火) 16:43 
  2024北陸の旅日記1日目  仲條拓躬2024/10/08(火) 16:42 
  松尾芭蕉に松島を詠んだ句がない  仲條拓躬2024/10/08(火) 16:29 
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  レプリコン・ワクチンについて  仲條拓躬2024/10/07(月) 16:21 
  優秀な女性の誕生  仲條拓躬2024/09/30(月) 16:24 






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軍部が暴走したのが残念だ
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/11(金) 20:34
No. 7612
 
 
石原莞爾将軍が目指した王道楽土、民族協和を描いた満州国ですが、日本人が新たに国を建国するという未曾有の体験でもあった訳です。そこには軍事的と経済的あるいは革新官僚による新しい国家組織のビジョンが含まれていたと思うのです。これは明治維新以来、国家思想として行った最大の国家プロジェクトではないでしょうか。

台湾の領有と開発事業なども大プロジェクトでしたが、台湾の場合は植民地経営です。満州国の場合は、最初から意識的に計画的に国を建国したという点が特異な体験だと思うのです。石原莞爾の理想通りに、日・満・中・朝・蒙の五民族が五族協和で建国できていればアメリカ合衆国のアジア版のようなものになっていた可能性がある訳です。

王道楽土、五族協和といった理念の問題は差し置いても、戦後日本の繁栄の基礎に満州国体験があるというのは否定できない事実です。満州で宮崎正義や、戦後に新幹線を手がける十河信二、それに岸信介や椎名悦三郎といった官僚たちが、ある種の大規模な計画経済を行って、重工業を中心としたインフラを整備したことは、戦後の日本経済の復興にとって掛け替えのない経験となっているのです。加えて社会経験としての満州生活も大きい。

今でも大連の街に行くと、戦後の日本のマイホームの原型が伺えます。子供達がそれぞれ部屋を持ち、家庭が居間で顔を合わせて、客を応接間で迎える。満州体験を持つ清岡卓行氏の本を読むと、消費物資もあって、映画も満映があり、遊園地もある。戦後社会を先取りしたような経験をしているのです。だから内地に帰ると辛くてしようがない。

内地は当然のことながら戦前のままですから、満州というものが、無駄になってしまいましたが、大規模な都市計画や、産業を構築したという満州計画が、岸、椎名といった固有名詞も含めた意味で、戦後日本の繁栄の基礎を構築したのだと思うのです。私の同志も大連へよく行きますが、日本人にとってとても美しい豊かな町だといいます。

当時の大連の女学校の生徒が内地へ修学旅行に来て、日本人がみすぼらしく見えたといいます。日本の汽車は小さいと笑う、満鉄の「特急あじあ号」に比べたら、確かにそう見えたかもしれません。新京(現在の長春)が首都と定められた後も、満州に関わりの深い人たちの間では大連が中心でした。

日本の鉄道で列車番号は、東京を中心に下りが奇数、上りが偶数となっています。「あじあ号」も大連発が11列車なのです。つまり大連を起点にして発着しているのです。岸信介が満州体験について面白いことを言っています。彼は満州で自分のやりたいことを色々行って日本に帰ってくる。

商工省に戻って会議をやったら、日本の官庁の会議は全然話が進まない。会議のための会議をやっている。日本の官僚機構は腐っているじゃないかと言うのです。満州では、言い出した者が責任を取る、そして必ず実行した、と。(笑)

アメリカ合衆国と満州国を比較すると、アメリカ合衆国はインディアンを虐殺しました。だが、アメリカは成功して、満州国はたった13年で結局、地上からなくなってしまいました。満州国がアメリカにならなかったのは、最終的には日本が戦争に負けたということに尽きてしまいます。

イギリスは勝ち続け、アメリカはそのイギリスとの戦争に勝って独立しました。18世紀のオーストリア継承戦争や7年戦争で、イギリスがフランスに負けていたら、アメリカ合衆国は全く存在しなかったでしょう。つまり、当然のことながら、戦争の勝敗が歴史を決める、という冷厳な歴史の法則から目をそむけてはいけないということでしょう。

昭和9年9月号の「文言春秋」に、近衛文麿が「新日本の姿を示せ」という題で、アメリカ訪問記を寄せています。すでに日本は国際連盟を脱退、日米関係が日増しに険悪さを募らせていた時期に書かれたものです。

この中で近衛は、何としても満州国の現状をアメリカ人に受け入れてもらえるよう、我々は死力を尽くさなければならないと力説しています。彼の観察によれば、アメリカは満州だけの問題なら何らかの妥協をする余地がある。しかし、日本が中国全土を取るつもりでいるのではないかという大きな危惧ももっている、と言います。

満州事変の調査のために派遣されたリットン調査団の報告書にも同趣旨のトーンがはっきりでていますが、もし日中が和解し、満州国の現状を変えれば満州国の存在を受け入れてもらえる可能性はあるというのです。現に国際連盟はそれを受け入れようとしました。当時のアメリカではまだ、そのラインの人が多かったということを近衛は書いている。

しかし中国本土に手を出したら、満州国建国がかえって日本にとってたいへんな禍根となるだろうということはわかっていたのです。近衛の見通しは、間違っていなかったと思います。だから3年後、総理になってから石原莞爾の言う事を聞かなかった近衛の責任は一層大きいといえます。北支へ出た時点で石原莞爾の思想は破綻させられたわけです。

アメリカに負けたのではなく、日本軍部は自ら墓穴を掘ったのです。石原莞爾は、独立して満州建国を目指す。だが、暴走する軍部は、最終的には万里の長城より先に手を出したのです。懸命に不拡大のために奔走した石原莞爾が関東軍の参謀副長を辞して日本に帰国するとき、満州国軍に向けて行った演説が残っています。

それによれば、石原莞爾の考えは非常に明確で、蒋介石には土下座して謝ってもかまわないから、とにかく満州国だけは認めてほしい、という。そうすれば、中国本土にある日本の権益はすべて手放しても構わないし、もし、英米がそれを狙うなら、国民党軍と一緒になって追い払ってもよいとまで言っています。それなのになぜ、軍部は暴走したのか残念でならない。

 





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2024北陸の旅日記2日目−2
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/09(水) 15:49
No. 7611
 
  続きまして、バスで移動して紫式部公園に行きました。源氏物語の作者として名高い紫式部を偲んでつくられた紫式部公園です。園内には金箔で仕上げられた十二単姿の紫式部像や、全国でも珍しいといわれる寝殿造りの庭園が造られ、故谷崎潤一郎の麗筆で刻句された紫式部の歌碑なども立っています。

ここに書く「日野の杉むら埋む雪 小塩の松に けふやまがへる」この和歌は、紫式部が長徳2年(996)、越前守に任ぜられた父(藤原為時)とともに越前国武生(越前市)に訪れ、1年半ほど滞在していた頃、紫式部が初雪の降った日野山をみて詠んだものです。

都近くにある小塩山(約640m)の松に散り乱れる雪に思いを馳せながら、都を懐かしんでいるという。紫式部が武生に来たのは感受性の強い娘盛りの数え19歳の頃といわれ、滞在期間中の経験はのちの源氏物語の執筆にも影響を与えたと考えられています。

同公園からは越前富士とも呼ばれている美しい日野山(約800m)が東部に見えますが、このような背景があって、紫式部像は日野山を眺めているように造られています。また、この庭園には総檜で造られた釣殿もあります。

釣殿は当時、納涼や月見の宴、詩歌管弦の場所として使われ、「紫式部日記絵巻」に描かれているように風雅な舟遊びのための乗降場所でもあったといわれています。入口はいると寝殿造庭園と釣殿の説明が書いてありました。庭園の広さは3千坪です。

ここに父・為時とともにまひろが暮らしたのです。当時越前は大国だったので国守りの館であるこの邸宅は平安貴族の住宅様式となる寝殿造りであった、と考えられます。「寝殿造り」とは、寝殿(正殿)を中心とした数楝の建物、池や築山がる庭園で構成されています。寝殿は建物がなく、盛り上がった場所が記されていただけでした。釣殿はありました。

釣殿は、納涼や月見の宴、詩歌を楽しむ場所であり、平安絵巻に描かれる舟遊びの乗降の場所です。池に面しています。上がって座る事もできました。池には赤い橋がかかっていて、いい雰囲気です。小川のせせらぎ、そしてその奥に現れる黄金に輝く紫式部像、かたわらには、吉永小百合氏の記念樹があるのです。

駐車場にある「紫ゆかりの館」にも行きました。絵とか人形とかが飾られていました。スクリーンには、「光の君へ」再び道長とまひろが出会い、その後どのように源氏物語を書き始めるようになるのかが映し出されていました。姫君診断というのもありました。タッチパネルで質問に答えて、自分がどんなタイプの姫君かわかるのです。

その後は、日本海さかな街「日本海側最大級の海鮮市場」に向かいました。店舗数や規模は大きいのですが あまり郷土色を感じさせる食事処が少ないように感じました。お食事は「かに喰亭ますよね」というところの堀こたつでお造里定食を予約しておきました。

アルコールはパネルタッチで頼んでくださいといいながら入った注文を店員は観ていなかったらしく、なかなか飲み物が来ないので乾杯が出来ずに呑まない女性はしびれを切らして速攻で食べてお土産屋に行ってしまいました。蟹はついてきませんでした。

食事して買い物した後は新幹線を乗るため、米原に向かいました。改札口は2階にあります。トイレは外にありとても分かりにくいので皆様苦労していました。早く着いたため、団体切符を変更して帰りは皆様、ばらばらになってしまいました。

東京駅で反省会を行う予定です。東京駅の構内には、美味しいグルメが充実しています。東京駅構内には、和食から多国籍料理まで多彩なジャンルのグルメがありますが、夕方だったため、どこのお店も満員で解散となってしまいました。とても残念でした。

 





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2024北陸の旅日記2日目
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/09(水) 15:48
No. 7610
 
 
朝、4時30分から一番風呂に入って、7時から朝食を食べました。朝食はバイキングではなく個々にお膳で係りの方がご飯をよそってくれてお部屋に待機して、とても気が利く素晴らしい方でした。前日もとても良くしていただいたのにお気持ちを渡していなかったと事務局から聞いて、とても残念でした。

2日目の態度の悪いバスの運転手にあげなければよかったです。8時30分に記念写真を撮っていただき、東尋坊に向かいました。東尋坊とは永平寺の僧侶の名前だと地元の方にお聞きしました。駐車場に着くと東尋坊タワーが聳え立っていました。

お土産屋さんの商店街を歩いていくと東尋坊の入り口が現れました。荒々しい岩肌の柱状節理が延々と1kmに渡って続く勇壮です。東尋坊は、国の名勝・天然記念物に指定されています。なかでも岸壁の高さが20メートル以上に及ぶ大地の断崖は日本海の荒波が打ち寄せる姿は恐ろしいほどの迫力です。

遊覧船ではライオン岩、ろうそく岩など自然の造形が目を楽しませてくれるといいます。これだけ大規模なデイサイトの柱状節理は世界的に珍しく、朝鮮半島の金剛山・スカンジナビアのノルウェー西海岸と並ぶ、地質学的に大変貴重な場所、と考えられているようです。

たしかに、自然の芸術みたいなものを感じます。人間には作れない崇高なものです。東尋坊は、福井県の人気観光地で、日本海に突き出した断崖が続く景観が有名です。自殺の名所としても有名な場所ですが、個人的にはテレビのサスペンスドラマでよく見る風景だなと思いながら散策を開始しました。

東尋坊は、険しい岩壁が続きます。最も高いところでは、約25mの垂直の崖があるらしいです。千畳敷と呼ばれるエリアを人と比較すると、大きさが分かります。驚きポイントは安全柵が無いところです。

東尋坊付近では、自殺者が多いと言われています。年間24人が自殺しています。東尋坊の中心的な場所には、観光客がいっぱい集まっていますので少し離れたところで起こっているようでした。少し離れただけで、静かで寂しいところにがらりと変わります。そんな静かなところに、ありました。

いのちの電話ボックスです。人目の少ないところに、設置されていました。なんでこんなところに、電話ボックスがと思いますが、死のうと思っている人にとっては、ここが最後の「つながり」となるかもしれません。この先には、断崖絶壁しかないのです。ここで、電話をかけるかどうか。

ここで、誰かとつながれるかどうか。この電話ボックスの前で、死にゆく人は何を思うのだろうか。だが、近年はこの辺りはポケモンGOのジムやポケスポットなどあり多くの方が集まってくるので自殺する方も減少したようです。そこを抜けると東尋坊横にはお土産屋さんやご飯屋さんが並んでいます。

続いて、天皇誕生日あり、私の誕生日である2024年2月23日、越前市にある「しきぶんぶんミュージアム」に大河ドラマ「光る君へ」の大河ドラマ館が開館しました。早速、現地に着くとバスの我々を降ろす場所が違うからと言って駐車場の係員とバスの運転手が怒鳴りあいの喧嘩をしているのではないか。とても気分が悪いです。

事務局の女性が「時間がもったいないから」喧嘩をやめさせちゃいました。素晴らしい。すぐにチケットをもらって館内へ入りました。入口展示されていた袿(うちき) 左手の案内が手作り感ありありで少しチープな感じでした(笑)

さらに、中に入ると、まひろ(紫式部)(吉高由里子)、藤原道長(榎本佑)、藤原為時(岸谷五郎)がお出迎え記念撮影できるようになっていました。係りの若い女性はとても親切で写真を丁寧に撮影してくれました。

「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」(現代訳)。寒い夜も苦しさに耐えて学んだのに希望(=越前国司任官)が叶えられず、血のような涙が襟を濡らしています。任官されなかった翌朝は、青い空が目に染み入ります。放送では為時自身ではなく、まひろがしたためた奏上を、道長が気付いて忖度したと描かれていました。

主要な登場人物の紹介パネルがありました。まひろ(紫式部)(吉高由里子)、藤原道長(榎本佑)、道長の嫡妻源倫子(ともこ)(黒木華)、道長の長兄で病死した関白藤原道隆(井浦新)、 道長の姉で、先々帝円融天皇女御で一条天皇皇太后の藤原詮子(あきこ)(吉田羊)と、道隆の娘で一条天皇中宮の藤原定子(さだこ)(高畑充希)。

まひろの夫になる藤原宣孝(のぶたか)(佐々木蔵之介)、まひろの父藤原為時(岸谷五郎)と、道長の父で関白藤原兼家(段田安則)、陰陽師の安倍晴明(はるあきら)(ユースケ・サンタマリア)、道長の次兄で急逝した藤原道兼(玉置玲央)と、中宮定子の女房で後の枕草子の作者、ききょう(清少納言)(ファーストサマーウイカ)です。

日本画家の諌山恵美(宝樹)氏がドラマの衣装人物画を描いています。まひろが裳着(もぎ)で着ていた唐衣(からぎぬ)と袿(うちき) 裳着は女子が成人(初潮)したことを周りに示す儀式。

安倍晴明が占いで用いた星図。晴明も福井県とゆかりが深く、晩年敦賀(越前)に移り住んだとされ、晴明神社(敦賀市相生町)に祀られています。また嫡流の土御門(つちみかど)家は応仁の乱の戦禍を逃れ、若狭国名田庄(おおい町名田庄)に移り住んでいます。

びわ湖大津(滋賀県)、宇治(京都府)にも大河ドラマ館があるようで、前述の来館記念証を提示すると、割引が受けられるそうです。展示内容は意外と少なく、かなりじっくり見学しても20分ほどです。外に出ると想創庵(そうそうあん)と言い、式部が越前で体感したイマジネーションを、現代のAI技術で表現した五感で感じる拡張世界のコーナーが。

内部に吊るされた文字は、源氏物語や紫式部の歌から導かれたワードで式部の魂の叫びが視覚に訴えかけてくる感じです。またデザインだと思っていた白い斑点には、来館者のコメントやイラストでした。想創庵を出た先は、光る越前SHOPというお土産売り場です。

越前和紙や越前焼といった地元名産品のガチャ。ここでしか入手不可能のオリジナルガチャ(500円) 缶バッヂなどがありました。次に県民には毎年秋に開催されるたけふ菊人形の会場がありました。本日から開催されるとテレビでも放送していたので混んでいました。ゴーカートや観覧車などのミニ遊園地も併設されていてとても広かったです。

 





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2024北陸の旅日記1日目-2
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/08(火) 16:43
No. 7609
 
 
今回の特別展では、日本初公開となるアロサウルスとゴルゴサウルスの標本が北アメリカからやって来ました。カナダ・アルバータ州で見つかったゴルゴサウルスの全身骨格化石の実物が7500万年前の地層に埋まったままの状態でしっぽまで全身を一般公開されるのは世界初です。

また、ユタ州で発見され、ジュラ紀を代表する大型肉食恐竜アロサウルスのホロタイプ標本は日本初公開です。今ここでしか見ることのできない恐竜たちをぜひご覧ください。また、今しかゲットできない特別展限定グッズがあります。館内では「バッドランドの恐竜たち」の限定グッズが販売されています。

これらは特別展開催中にのみゲットできる限定グッズです。モノトーンで普段使いしやすい文房具やかわいいぬいぐるみに変身したバッドランドの恐竜たちなどその他にも多くのグッズが並んでいます。ぜひショップに立ち寄り、お気に入りの1品を見つけてください。

常設展のダイノストリートは両側に実物の化石が展示されていて、美しい標本に興奮します。最初から見応えがあります。ダイノストリートを抜けて1階に上がると「恐竜の世界」ゾーンです。最初に現れる動くティラノサウルスです。岩石や鉱物が展示されています。続いて「ダイノラボ」という、なんと本物の化石に直接触ることのできるコーナーです。

このアンモナイト、実物なのです。あっという間に時間が過ぎてしまい六女のためにたくさんのお土産を購入して、福井県立恐竜博物館を後にしました。1日では見切れないです。上野のカハクのように何度も行ける場所ではないので退館するとき寂しかった。

その後はあわら温泉の隠れ宿「ゆ楽 YURAKU」に向かいました。この日の宿泊場所です。時代が「文明開化」に沸いた明治の開湯から、138年といいます。文化の発展と交通手段の進展とともに発展を続け、関西の奥座敷と称されるほどとなったといいます。

福井県下随一の名湯・芦原温泉(あわらおんせん)。四季が彩る庭園につつまれた落ち着きと、やすらぎ溢れる館内。大浴場は窓いっぱいに広がる庭園の花と緑につつまれる、至福の庭園大浴場「光仁の湯」、湯舟に巨石を配した野趣あふれる殿方大浴場「たろうの湯」、お肌ツルツル美人の湯、婦人大浴場「はなこの湯」がございます。

温泉街の玄関口であるあわら湯のまち駅から、少々離れた立地に在るものの、それを生かした広い敷地に純和風・数寄屋造り(すきやづくり)の建物が並び、目玉となる三カ所の天然温泉大浴場、色調と空間演出を異とする二つの宿泊棟、その他多数の「癒し」と「遊び」の施設が整った、浸かって癒し(たのしい)、泊まって楽しい宿泊施設となっています。

到着した宿泊客に宿の「第一印象」を刻みつけるのが、入り口に構えられた立派な門です。「日常空間」である「町」と「非日常空間」である「温泉宿」を区分し、この先に待つ「非日常空間」への期待を抱かせてくれる、素敵な仕掛けとなっています。

宿の建物は、伝統的な数寄屋造り「数寄屋造り」は茶の湯の精神に則った建築様式で、「格式を重んじた装飾性の高いデザインを排し、自然との調和とシンプルな構成」に重きを置いた造りが特徴です。「ゆ楽」の建物もその技法に則り、落ち着いた佇まいと建物各棟に囲まれた中庭を「見せた」配置とされています。

巨石と馬、そして何故か古代ギリシア風の武人像が出迎えてくれる入り口を潜ると、フロント兼備のロビーへ。外観そのまま、落ち着きある造りの空間に幅広のソファが並ぶ、寛ぎの場。ロビーの一角には、福井県や芦原温泉の「ご当地みやげ」を揃えた、おみやげ処が併設されています。

品物も「越前そば」や美味しいお菓子(とお酒)、「温泉グッズ」や各種小物などが取り揃えられています。売店の向かいには、ビールサーバーを備えた喫茶コーナーもあります。50円のサービス券がもらえます。マンガコーナーも設定され、中庭を望む落ち着いた空間で人気コミックの世界に没入できます。懐かしのスーパーファミコンがありました。

無料で利用できる岩盤浴コーナーも設定されています。廊下の突き当りが入れ替え制の大浴場で右へ折れると宿泊棟です。「ゆ楽」館内には色調を変えた二つの宿泊棟・黒壁館と白壁館が存在しています。大浴場に隣接した黒壁館はその名の通り黒に塗られた廊下が伸びる、シックな空間です。

こちらには露天風呂付の特別室も設定されており、「ワンランク上」の設備が整えられている印象です「黒壁館」のお隣は、対となる宿泊棟・白壁館こちらも名前通り「白」で統一され、シックな装いの黒壁館とは対照的な、優しく明るい色合いです。泊った部屋は二人部屋でしたが、トイレと風呂が一緒なのが残念だったかな。

宴会場は広かった。北陸の海の幸を頂けるお料理も豊富でした。福井ならではの旬の味覚を頂きました。宴会の後のカラオケはなく外にもローソンしかないので、一番大きなお部屋に集まり二次会を行い夜中まで語り続けて1日目は終了しました。

 





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2024北陸の旅日記1日目
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/08(火) 16:42
No. 7608
 
  毎年、北陸には出かけます。現地の皆様は来ていただけるだけで感謝ですとのお言葉を胸に今年も北陸に旅行することとしました。北陸には羽田空港から飛行機です。JAL長崎空港の近藤という手荷物検査の女性に理不尽なことをされたので、JALは乗りません。ANA751便で小松空港へ向かいました。

現地に着いたら貸し切りバスを手配していたので早速、バスに乗り込み九谷焼見学に向かいました。現地に着くと九谷焼の説明を聞きました。九谷焼とは、石川県南部(金沢市・加賀市・小松市・能美市)で生産されている磁器で、色絵磁器に分類されているそうです。早速、皆様は購入していたので復興支援に役立っていたかな。

続いて、永平寺に向かいました。パンフレットによれば、永平寺は約780年前の1244年(寛元2年)、道元禅師によって開創された出家修行の道場です。福井市の東およそ16qを隔てた大仏寺山には、七堂伽藍を中心とした大小70余棟の諸堂が建ち並びます。

境内は約33万平方メートルの広さをもち、樹齢550年といわれる鬱蒼とした老杉に囲まれた静寂なたたずまいの中、修行僧が日々禅の修行に励んでいます。修行僧は石段を登って山門の前にやって来る、修行期間は人それぞれで決まりはないといいますが、これから始まる修行の日々に、どんな覚悟を抱いて山門をくぐるのだろうか。

撮影は可能ですが、修行中の僧の撮影は禁止されています。「龍門」から参道を歩きます。「七堂伽藍・しちどうがらん」と呼ばれる建物は回廊で結ばれています。山門・仏殿・法堂(はっとう)・僧堂・大庫院(だいくいん)・浴室・東司(とうす)と歩き「通用門」をくぐります。

「山門」ここから修行の日々が始まる「山門」は築約270年、永平寺で最も古く、釘や金具を一切使っていない木組み造りです。「傘松閣(さんしょうかく)」永平寺にある傘松閣は156畳敷の大広間です。大広間の天井には230枚の日本画がはめ込まれています。著名な日本画家144名が描いた花鳥風月をモチーフにした絵があります。

花鳥風月に則った絵ですが、中に5枚だけ動物が描かれた絵があります。これらの絵を探し出し願いを込めて祈りを捧げると、恋や念願が叶うそうです。境内には70余りもの殿堂楼閣が建ち並び、中でも「七堂伽藍」と呼ばれる7つのお堂は、僧侶が修行をする清浄な場所として特に重要な建物とされており、今も修行僧が日々厳しい修行に励んでいます。

樹齢700年に及ぶ老杉や回廊で結ばれている法堂や僧堂などは荘厳な雰囲気が漂います。永平寺参拝後にお昼は永平寺近くの永平寺の館「雪粋」というお蕎麦屋さんに入りました。地酒は黒龍ではなく、永平寺町が誇る地酒白龍永平寺の自然・大地・水・風土が生かされた白龍を呑みました。

美味しいお酒が造られるわけは この地にあるのです。お店の女将さんがひとりひとりに注いでくれるのです。とてもおいしかったです。お蕎麦は、ちょっと柔らかめの香り高いお蕎麦でした。お蕎麦を引き立てる薄味のつゆのぶっかけ蕎麦も食べました。

思ったほど辛くない大根おろし、蕎麦つゆが大根おろし、めちゃいい感じで、蕎麦のうまみを引き出してくれる感じです。都内にはないお蕎麦屋さんでした。遠くまででかけた甲斐がありました。とっても美味しいお蕎麦でした。

その後はメインの福井県恐竜博物館に向かいました。東京の上野国立科学博物館など全国各地で恐竜に会える場所には色々行ってきました。六女の娘は恐竜が好きで、どんどん恐竜に詳しくなっていきました。日本一の恐竜博物館である「福井県立恐竜博物館」に行くことを知った六女は羨ましがっていました。

福井県立恐竜博物館は、屋内にある「福井県立恐竜博物館(本館)」と、発掘現場の近くにある「野外恐竜博物館」に分かれています。福井県立恐竜博物館(本館)の周りには、1日では周りきれないほど楽しめる場所が集まっています。

「かつやま恐竜の森公園」の中に、恐竜博物館本館をはじめ、チャマゴン広場・ディノパーク・巨大昆虫冒険ツアー・どきどき恐竜発掘ランドなどの遊びスポットがあります。福井県立恐竜博物館(本館)は、「恐竜の世界」「地球の科学」「生命の歴史」の3つのゾーンから構成されています。

子供から大人まで楽しんで学習できる、また研究者も満足できる学術的に裏付けされた展示をめざしているそうです。福井県立恐竜博物館は、リニューアルのため2022年12月〜2023年夏まで臨時休館していたので、リニューアル後は、巨大スクリーンや見える収蔵庫ができたり、恐竜研究体験ができたりしました。

今回の特別展は、恐竜発掘の聖地であり、今もなお研究の最前線である北アメリカ大陸の恐竜がテーマとなっています。恐竜の誕生した三畳紀から白亜紀までの1億年の歴史を4つのゾーンに分けて展示しています。今しか見られない福井県立恐竜博物館の特別展に感動しました。

2024年特別展「バッドランドの恐竜たち〜北アメリカの1億年〜」が父の命日である7月12日(金)から開催しました。たくさんの日本初を見ることができる特別展です。恐竜研究の聖地バッドランドとは北アメリカ大陸の西部に広がる荒野であり、樹木や水が少なく起伏の激しい地域です。恐竜時代の地層が露出しており、今までたくさんの恐竜の化石が発掘されている恐竜研究の聖地です。

カナダ・アルバータ州のロイヤルティレル博物館と姉妹提携を結んでいることで実現した今回の特別展では、そんな恐竜研究の聖地「バッドランド」から日本初公開の化石や恐竜マニアにはたまらない「ブラックビューティー」など全身骨格16体、総展示数60点もの化石が展示されます。見どころ恐竜マニア待望の「ブラックビューティー」。

この特別展の1番のみどころは、「ブラックビューティー」と呼ばれるティラノサウルスの実物頭骨化石です。この化石は地中のマンガンを取り込むことで黒くなりました。漆黒に輝くこの化石は、頭骨だけでもとても迫力を感じます。とても保存状態の良いこの美しい化石をぜひ見ていただきたいです。

 





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松尾芭蕉に松島を詠んだ句がない
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/08(火) 16:29
No. 7607
 
 
湾内に浮かぶ二百数十の島々、それだけでも驚いてしまうのに、島のひとつひとつが何かを連想させるような奇異な形をしているのです。こうした松島の絶景は、平安時代から京にまで噂が届いたといいます。

松島紀行関係は中世から書かれており、松尾芭蕉以前に松島を喧伝したものには、宗因の「松島一見記」、大淀三千風の「松島眺望集」などがあります。三千風は「日本行脚文集」の巻頭に本朝十二絶景をあげ、第一に富士山を見る駿河田子、第二に奥州松島をあげています。

1643年に出版された「日本国事跡考」に、松島のながめを日本三景の一つにしています。これらにより松島は知られるようになったのですが、当時の交通事情からして奥州は遠い国であり、わざわざ風景を見るために旅立つ者などはいませんでした。

しかし松尾芭蕉の「おくのほそ道」が出されると、移りゆく湾内の景色を映した名文に影響されて、是非一生に一度は見たいと訪れる俳人が現れるのです。松尾芭蕉の弟子・各務支考がいます。彼の目的は門弟獲得のためというところもありましたが、桃隣や青房、北華など、純粋に松尾芭蕉を慕って奥州へ旅立った俳人も少なくないのです。

時代が過ぎると、俳諧の宗匠たる者は、「おくのほそ道」を辿って松島は見ておかないと示しがつかないという風潮さえでてきたらしく、多くの俳人たちが次々と松島を訪れています。文人で画家の中山高陽は1772年に仙台を訪れたときに地元の俳人五城から聞いた話として次のようなことを書いています。

「仙台は奥に松島を控えているので、遊覧客が多い。また近年は無類の輩が松島一見の行脚人とし称してやって来て、いろいろと悪いことをするので、仙台の人は懲りて、こうした者を快く思っていない。だからちゃんとした理由があって来た人とか、姓名が知られている文人だけとしか、親しみ交わらない」(奥遊日録)

俳諧宗匠がやってくると、地元の俳人達はこの宗匠とともに連句の座に連なる事を楽しみに、宿泊、食事はもちろんのこと、名所旧跡の案内にいたるまですべてが無償で行う。自称宗匠は毎日遊び暮らし、連句会がいつ開かれるのかと聞かれれば笑って一日延ばしにし、いつの間にか姿を消してしまう者が紛れ込むほど、松島を訪れる俳人は多くなったのです。

五城のこの話は、仙台に限ったことではなく、俳諧を楽しむ者が多くなると、作品を作るのにも欲が出て、きちんと宗匠に添削してもらいたいとか、ともに歌仙を巻いて高度な遊びを体験してみたいと言う者は、地方に行けば行くほど多かったと言います。

俳諧宗匠はこうした人を相手に俳諧を教え、その教科書でどこまでも旅を続けることが出来たのです。ニセ宗匠に一杯食らわせられたという話は、全国的にありました。松島が今も観光客を引き付けているのは、「おくのほそ道」のおかげ、といっても過言ではありません。しかし「おくのほそ道」には、松尾芭蕉が松島を詠んだ句は載っていません。

載っているのは芭蕉と一緒に旅をした曾良の「松嶋や鶴に身をかれほととぎす」だけです。曾良はこの奥州行脚で芭蕉が詠んだ句を書き付けていたが、旅日記には芭蕉の松島の句は記されていないのです。「松島やああ松島や松島や」という句をよく聞きますよね。

芭蕉はこの絶景を前にしてあらわす言葉を失い、ただこう言って口をつぐんだと言われていますが、これを作ったのは相模の田原坊という俳人と言う事が分かっています。いつの間にか、芭蕉でさえ絶句してしまった風景という話が作り出されてしまったのでしょう。

松尾芭蕉が句を作らなかったはずがないという思い込みもあったのだろうか。松尾芭蕉に松島を詠んだ句がないことを知って一番残念に思ったのは、地元の民だったに違いありません。(笑)

 





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宇宙の果てはどうなっている
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/07(月) 16:25
No. 7606
 
 
誰でも一度は気になったことがある疑問ではないだろうか。太古の昔から現代に至るまで、数え切れないほど多くの人が、この問いについて考え、そして答えを出すことをあきらめてきたことでしょう。だがその点、現代を生きる我々は極めて幸運です。

20世紀初頭から現在に至るおよそ100年余りの期間は、人類史上のどの時代に比べても圧倒的なスピードで科学技術が発達し、多くの分野で革命的な変化がもたらされた時代でしょう。いわゆる宇宙観もまた、例外ではないのです。

我々の住む宇宙はどのようなもので、その中の我々はいかなる存在なのか。前世紀初頭に一般相対性理論が登場するまでは、宇宙全体、すなわち「時空」がダイナミックに変化し、しかもそれを正確に予言することができるなどということは想像もできませんでした。

やや遅れて発展した量子力学から導き出された原子核や素粒子の物理法則は、我々の母なる太陽のエネルギー源をついに明らかにしました。のみならず、様々な重さの星々がどのように進化したのかを知るまでに至ったのです。

あるものは静かに、そしてまたあるものは華々しく死んでいく様子を、自然科学の言葉で語ることを可能としました。そしてこの数十年で爆発的に発展した人類の天文観測能力は、我々が原理的に観測可能な約464億光年の半径内で起きています。

星や銀河の誕生と進化のドラマをほぼ見通すところにまで到達しました。その結果、星や銀河、そして宇宙そのものの進化の理論は、驚くべき精度で観測的検証が行われています。ビッグバン宇宙論の精度が格段に向上したことにより、今や我々は「宇宙の果てはどうなっているか」という根源的な問いに一定の答えを出すことができるようになっています。

もちろん、自然科学が客観的な実験と観測に基づく以上、どうしても限界というものがあり、期待するような完全な回答ではないかもしれません。「果て」があるということは、そこで限られた一つの世界があるということです。

では、その世界が含まれる、さらに広く高いレベルの「世界」はどこまで広がり、そこにまた果てはあるのだろうか。この際限のない問いに対しては、いかに進歩した現代の科学といえども満足な回答は出せていないでしょう。

しかし、わずか100年前に比べれば、「宇宙の果て」に関する科学者の知見が飛躍的に進歩したことは間違いなでしょう。数千年に及ぶ人類の文明史の中で、我々がたまたまそのような時代に生まれついたというのは、まことに幸運と呼ぶべきではないでしょうか。

 





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宇宙についての問いかけ
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/07(月) 16:23
No. 7605
 
 
一般社会向けの講演会で宇宙論の話を聞いていると、どなたかが、質問することがあります。 「宇宙人はいますか?」です。ビッグバン宇宙論の話をした後で、出てきた質問です。その次に多い質問が「宇宙の果てはどうなっているか?」「ビッグバンで宇宙が始まる前はなにがあったのか?」といったものです。

私も、人間関係などの小さなことで悩んでいる眠れない夜、宇宙というものについてあれこれ考えているうちに恐ろしくなったことがあります。この宇宙、すなわち我々が認識する物質とそれが埋め込まれている時空がかつてビッグバンという大爆発で誕生したのならば、その「宇宙」が始まる前はなにがあったのか。

時空や物質を生み出すさらに高い階層の世界があるべきではないか。それを宇宙と呼ぶのであれば、ビッグバンで誕生した「宇宙」というのは宇宙の一部でしかない。今後もし、さらに科学が発展すれば、時空と物質という狭い意味での宇宙を生み出す、より大きな基礎法則や世界が明らかになる可能性があります。

人によってはそれを神や霊の存在と結びつけようとしているのかもしれません。しかし、今度はその法則を生み出す源はなんなのか、という疑問に必ず突き当たるはずです。結局のところ際限がないのです。

となると、どこまで科学が進歩したとしても、我々はなぜ存在するのか、我々は一体何者なのか、という根源的な疑問には永遠に答えは出ないことになります。ここまで考えて、なんとも言いようのない恐怖を感じたものです。

宇宙に関する書物を読むと宇宙論や銀河形成、さらには超新星やガンマ線バーストといった極限天体など。すばる望遠鏡などの最新宇宙観測データに触発されつつ、超新星や銀河などの天体現象に基づいて宇宙の全体像に迫るようなことが書かれています。

そんな今でも、人間社会で悩んでいた時に抱いた疑問はむろん、なにも解決していない。それでも生きていく上でそれほど不安を感じなくなったのはおそらく歳のせいであろうか。宇宙の果ての果て、そのまた果ての永遠に続きそうな問いが綺麗に解消するような魔法の回答を現在の科学に求めてもそれは無理なことでしょう。

過去にさかのぼる方向の「果て」について、現時点で科学者が確実な自信を持って言えるのは、この時空と物質としての宇宙が、今から約138億年前にビッグバンで始まったということだけです。そのため講演会で宇宙の果てについて質問しても、回答は会場を寒くさせてしまうことでしょう。少し失望してしまいます。

しかし考えてみると、宇宙がビッグバンで始まったことを科学として自信を持って言えるということだけでも、偉大すぎるほどの科学的成果と言うべきではないだろうか。それ以前は、そのようなことは科学の対象ですらなく、神話や伝承の領域であったのだから。

さらには、宇宙がどうしてそのように始まったのか、という問いに対しても、直接観測は不可能で理論的に不完全ながらも、現在の科学知識に基づいてある程度までは推論することが可能です。もちろん科学の常として、推測を重ねていくに従って確度が下がることはやむをえないでしょう。

まず宇宙論の基盤となっている相対性理論について説明し、ビッグバン宇宙論が確立していく過程やその根拠を示して、本当に宇宙はビッグバンで誕生したとしか考えられない、ということを納得するしかないでしょう。

 





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レプリコン・ワクチンについて
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/10/07(月) 16:21
No. 7604
 
 
厚生労働省は、10月1日に高齢者を対象に新型コロナワクチンの定期接種を始めるとしました。そこで使用される、レプリコン・ワクチンは、治験している海外では承認されていないワクチンにもかかわらず、日本で認可されており安全性が懸念されます。

レプリコン(自己増殖型)ワクチンとは、「注入されたmRNAが自己複製されるワクチン」とのことです。レプリコン・ワクチンの懸念について、一般社団法人日本看護倫理学会は声明をだしており、科学ジャーナリストの石田正彦氏は「懸念について」まとめて紹介しています。

参議院議員の川田龍平議員は、政府、自治体に対して一旦停止要請の署名を開始しています。なぜ海外で承認されていないワクチンが日本だけで承認されるのかという疑義(治験を行ったベトナム、米国で認可されていないのになぜかわかりません。

自己複製型RNAがワクチン接種者から体外へ出て他者へ何らかの悪影響をおよぼすのではないかという危惧。臨床試験での重篤な副反応の情報開示の不足。そして長くRNAの効果が持続することでヒトの遺伝情報が改編されるのではないかという恐れ。

mRNAワクチンでも副反応による死亡を含む重篤な症状があり、予防接種法の救済対象になる人は年々増え続けています。ワクチンは基本的に健康な人に接種するものであり、健康被害が出てはいけないもの。どうしても副反応が出てしまうこともあり、ワクチン接種は強制ではなく任意。一般社団法人日本看護倫理学会は緊急声明を出しています。

科学ジャーナリストの石田雅彦氏は、yahooニュース9月11日号でレプリコン・ワクチンの懸念について過去記事などから問題点をまとめて紹介しています。新型コロナ「レプリコン・ワクチン」接種開始への懸念とは、専門家のまとめ(石田雅彦)エキスパートYahoo!ニュース

参議院議員・川田龍平メルマガ。9月23日号【レプリコン・ワクチン一時中止要請!!】このレプリコン・ワクチンには国民に十分な情報が提供されていません。また、接種者から非接種者に伝播(シェディング)する懸念も払拭できていません。

不安だらけのレプリコン・ワクチンを定期接種化することについて、政府はいったん立ち止まって中止する決断が求められます。各自治体の長にも中止の要請活動を開始しています。薬害当事者の1人として、もう二度と被害者を出してはならないという強い決意から、オンライン署名を9月17日から正式にスタートしています。

 





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優秀な女性の誕生
   投稿者: 仲條拓躬    
2024/09/30(月) 16:24
No. 7603
 
 
中国に唐という大国ができると、朝鮮半島がざわつきます。百済と高句麗、新羅という3つの国で、「唐の犬になるべきかどうか」 を巡る内輪揉めが起きます。隋の煬帝を退けた高句麗では、「頑張れば何とかなるで。犬はやめよう」というグループがクーデターを起こして、政権を握ります。

百済でも、高句麗と組んで唐に対抗しようというグループが権力を握ります。この2国に挟まれたのが、新羅です。新羅には、唐に助けを求めるよりほかに選択肢がありませんでした。唐は朝鮮に大軍を出します。こうして663年、白村江の戦いが起きました。

日本も朝鮮に出兵し、唐と新羅の連合軍と戦います。 日本はもともと百済の要請に応じて、たびたび朝鮮半島に兵を送っていて、日本に仏教が伝来したのは、その見返りでした。しかし、白村江の戦いで、日本と百済は大敗します。やがて高句麗も滅びました。

白村江の戦いで負けた後、日本はパニックに陥ります。唐から郭務粽という将軍がやってきて、日本に敗戦処理を求めます。第2次世界大戦後のマッカーサー将軍みたいなものです。しかし幸運なことに、この後、唐と新羅が喧嘩を始めました。

この喧嘩のおかげで、日本は立ち直る時間を稼げました。日本にとっては幸運でした。武則天が女帝の「ロールモデル」となり、持統天皇が生まれます。中国では7世紀前半、名君と呼ばれた唐の2代皇帝、太宗が、約四半世紀にわたって国を舵取りしました。

貞観の治と呼ばれる、中国が最も栄えた時代のひとつです。その跡を継いだのが、高宗です。名君の子どもというのはだいたい出来がよくないもので、高宗もそうでした。ただ、高宗が幸運だったのは、お父さんの死後、お父さんのガールフレンドのなかに武則天という賢くてかわいい女性を見つけて恋したことです。

高宗は皇后を離縁して、655年に武則天を皇后に迎えます。この後50年にわたって、 世界帝国となった唐を武則天が仕切ってくれました。今でいえば、ヒラリー・クリントンが50年、大統領をやっているような感じです。

武則天のような切れ者の女性が、世界帝国を50年も仕切っていたら、周辺の国でも「私が仕切ってやろう」と思う優秀な女性が現れます。武則天がロールモデルとなり、日本に持統天皇という女帝が生まれたのでした。

 






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