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1956年に修士課程を終えたカールは、シカゴ大学にとどまり、今度は物理学と天文学で博士号を取得することにしました。天文学の博士課程は、ウィスコンシン州ウィリアムズ・ベイにあるヤーキス天文台が舞台となります。
台長はユーリーの宿敵ジェラルド・カイパーでした。1956年夏、カイパーはカールをテキサス州のマクドナルド天文台に誘いました。そこで2カ月火星の観測をするのです。当時カイパーは、この惑星で唯一の惑星天文学者でした。
その頃は火星と地球の位置関係が好都合で、30年ぶりの大接近を迎えることになっていました。だが、交代で望遠鏡をのぞいていたカイパーとカールは、やれやれと首を振ってばかりでした。気象条件が悪かったのです。テキサスではなく、火星の激しい砂嵐が全体に吹き荒れて何も見えません。仕方ないので、2人は夏の夜を語り合って過ごしました。
カイパーは若き科学者に、斬新な発想を効率よく検証し、「封筒の裏に走り書きするような」とりあえずの計算を最適に行なう方法を伝授しました。以後カールは、その方法を日常的に実践することになります。太陽以外の恒星の周りを回る惑星は、いったいどんな世界なのだろう。その夏、2人の想像力は天の川銀河の中をどこまでも駆け巡りました。
未知の世界への扉が大きく開き始めたのです。宇宙に思いを馳せた1956年の夏を振り返ると、その後の科学の進展が実感できます。1956年といえば、有人どころか無人探査機もまだ宇宙に飛び立ったことがなく、宇宙から我らが小さな地球を宇宙から眺めた者は皆無でした。ところが翌年にすべてが変わります。
1957年10月4日、ソ連のバイコヌール宇宙基地からロケットが打ち上げました。ロケットはアンテナが伸びる銀色の球体を放出し、軌道に乗せました。人工衛星スプートニク1号です。スプートニク1号は単純な送信機で、9分で地球を1周しました。
世界中の人びとが、夜ごと屋根に登って空を見上げました。このちっぽけな人工衛星は、どんなにあり得ない夢もかなうことを教えてくれました。人間がつくったものが夜空に浮かび、星のようにまたたいているのです。
スプートニク1号の成功は米国を震撼させました。財産と自由を巡る二つのイデオロギーが、真っ向からぶつかっていたのが冷戦です。ロシア人がいち早く宇宙に飛び出してみせたことは、西側の世界観に泥を塗るのと同じでした。
スプートニク1号を軌道に乗せ、米国の頭上を飛ばすことができるのなら、もっと危険なものを送り込むことだって朝飯前だろう。東西を二つの大洋に守られ、南北の国は弱く決して歯向かわない。そんな米国も、上空からの攻撃には無防備でした。
敵に偵察され、核兵器の標的となる新しいルートが出現したのです。もはや地球上に絶対安全な場所など存在しない。 独自の宇宙開発計画を進める必要に迫られた米国は、1958年、スプートニクから1年もたたないうちに米航空宇宙局NASAを設立しました。
スプートニクの成功はもう一つ副産物をもたらしました。カイパーは何年も前から地球を一つの惑星ととらえていたが、科学がようやくそれに追いついたのです。現代の私たちには当たり前のように思えるが、死もためらわない熱狂的な愛国主義が沸騰していた当時の人びとにとっては、知性も魂も揺るがす衝撃的な発想だったのです。
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