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石原莞爾将軍が目指した王道楽土、民族協和を描いた満州国ですが、日本人が新たに国を建国するという未曾有の体験でもあった訳です。そこには軍事的と経済的あるいは革新官僚による新しい国家組織のビジョンが含まれていたと思うのです。これは明治維新以来、国家思想として行った最大の国家プロジェクトではないでしょうか。
台湾の領有と開発事業なども大プロジェクトでしたが、台湾の場合は植民地経営です。満州国の場合は、最初から意識的に計画的に国を建国したという点が特異な体験だと思うのです。石原莞爾の理想通りに、日・満・中・朝・蒙の五民族が五族協和で建国できていればアメリカ合衆国のアジア版のようなものになっていた可能性がある訳です。
王道楽土、五族協和といった理念の問題は差し置いても、戦後日本の繁栄の基礎に満州国体験があるというのは否定できない事実です。満州で宮崎正義や、戦後に新幹線を手がける十河信二、それに岸信介や椎名悦三郎といった官僚たちが、ある種の大規模な計画経済を行って、重工業を中心としたインフラを整備したことは、戦後の日本経済の復興にとって掛け替えのない経験となっているのです。加えて社会経験としての満州生活も大きい。
今でも大連の街に行くと、戦後の日本のマイホームの原型が伺えます。子供達がそれぞれ部屋を持ち、家庭が居間で顔を合わせて、客を応接間で迎える。満州体験を持つ清岡卓行氏の本を読むと、消費物資もあって、映画も満映があり、遊園地もある。戦後社会を先取りしたような経験をしているのです。だから内地に帰ると辛くてしようがない。
内地は当然のことながら戦前のままですから、満州というものが、無駄になってしまいましたが、大規模な都市計画や、産業を構築したという満州計画が、岸、椎名といった固有名詞も含めた意味で、戦後日本の繁栄の基礎を構築したのだと思うのです。私の同志も大連へよく行きますが、日本人にとってとても美しい豊かな町だといいます。
当時の大連の女学校の生徒が内地へ修学旅行に来て、日本人がみすぼらしく見えたといいます。日本の汽車は小さいと笑う、満鉄の「特急あじあ号」に比べたら、確かにそう見えたかもしれません。新京(現在の長春)が首都と定められた後も、満州に関わりの深い人たちの間では大連が中心でした。
日本の鉄道で列車番号は、東京を中心に下りが奇数、上りが偶数となっています。「あじあ号」も大連発が11列車なのです。つまり大連を起点にして発着しているのです。岸信介が満州体験について面白いことを言っています。彼は満州で自分のやりたいことを色々行って日本に帰ってくる。
商工省に戻って会議をやったら、日本の官庁の会議は全然話が進まない。会議のための会議をやっている。日本の官僚機構は腐っているじゃないかと言うのです。満州では、言い出した者が責任を取る、そして必ず実行した、と。(笑)
アメリカ合衆国と満州国を比較すると、アメリカ合衆国はインディアンを虐殺しました。だが、アメリカは成功して、満州国はたった13年で結局、地上からなくなってしまいました。満州国がアメリカにならなかったのは、最終的には日本が戦争に負けたということに尽きてしまいます。
イギリスは勝ち続け、アメリカはそのイギリスとの戦争に勝って独立しました。18世紀のオーストリア継承戦争や7年戦争で、イギリスがフランスに負けていたら、アメリカ合衆国は全く存在しなかったでしょう。つまり、当然のことながら、戦争の勝敗が歴史を決める、という冷厳な歴史の法則から目をそむけてはいけないということでしょう。
昭和9年9月号の「文言春秋」に、近衛文麿が「新日本の姿を示せ」という題で、アメリカ訪問記を寄せています。すでに日本は国際連盟を脱退、日米関係が日増しに険悪さを募らせていた時期に書かれたものです。
この中で近衛は、何としても満州国の現状をアメリカ人に受け入れてもらえるよう、我々は死力を尽くさなければならないと力説しています。彼の観察によれば、アメリカは満州だけの問題なら何らかの妥協をする余地がある。しかし、日本が中国全土を取るつもりでいるのではないかという大きな危惧ももっている、と言います。
満州事変の調査のために派遣されたリットン調査団の報告書にも同趣旨のトーンがはっきりでていますが、もし日中が和解し、満州国の現状を変えれば満州国の存在を受け入れてもらえる可能性はあるというのです。現に国際連盟はそれを受け入れようとしました。当時のアメリカではまだ、そのラインの人が多かったということを近衛は書いている。
しかし中国本土に手を出したら、満州国建国がかえって日本にとってたいへんな禍根となるだろうということはわかっていたのです。近衛の見通しは、間違っていなかったと思います。だから3年後、総理になってから石原莞爾の言う事を聞かなかった近衛の責任は一層大きいといえます。北支へ出た時点で石原莞爾の思想は破綻させられたわけです。
アメリカに負けたのではなく、日本軍部は自ら墓穴を掘ったのです。石原莞爾は、独立して満州建国を目指す。だが、暴走する軍部は、最終的には万里の長城より先に手を出したのです。懸命に不拡大のために奔走した石原莞爾が関東軍の参謀副長を辞して日本に帰国するとき、満州国軍に向けて行った演説が残っています。
それによれば、石原莞爾の考えは非常に明確で、蒋介石には土下座して謝ってもかまわないから、とにかく満州国だけは認めてほしい、という。そうすれば、中国本土にある日本の権益はすべて手放しても構わないし、もし、英米がそれを狙うなら、国民党軍と一緒になって追い払ってもよいとまで言っています。それなのになぜ、軍部は暴走したのか残念でならない。
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