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  1960年代の世界の動き  仲條拓躬2026/01/05(月) 15:13 
  GDP の世界の順位  仲條拓躬2026/01/05(月) 15:12 
  2026年を迎えて  仲條拓躬2026/01/01(木) 00:00 
  2025年最後の挨拶  仲條拓躬2025/12/30(火) 09:42 
  サンフランシスコ講和会議の内情  仲條拓躬2025/12/29(月) 14:32 
  戦後日本の幸運  仲條拓躬2025/12/29(月) 14:31 
  5カ国で世界を仕切ろう  仲條拓躬2025/12/29(月) 14:30 
  ルーズベルトの戦後のビジョン  仲條拓躬2025/12/29(月) 14:28 
  ドイツのヒトラーの動き  仲條拓躬2025/12/29(月) 14:26 
  軍部が怖くなった広田弘毅  仲條拓躬2025/12/29(月) 14:25 






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1960年代の世界の動き
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/01/05(月) 15:13
No. 8097
 
 
1962年、西ドイツの首相、アデナウアーとフランスのド・ゴールが会談しました。ドイツとフランスは、それまでの100年で3回、全力の殺しあいをしています。普仏戦争と第1次世界大戦、第2次世界大戦です。その結果、どうなったかというと、ヨーロッパの力が弱まり、アメリカやソ連が大きい顔をするようになったわけです。

そこで2人は、「こんな愚かなことはもうやめよう」と合意しました。独仏首脳が歴史上初めて胸襟を開いて話しあったのです。アデナウアーとド・ゴールは、自分たちだけが胸襟を開くのではいけないとわかっていました。

フランス国民とドイツ国民が、互いを必要としていることを学ばなければいけない。そう考えて2000を超える姉妹都市協定を結び、共通の歴史教科書をつくることにしました。 同じ歴史教科書で学んだ若者たちが、姉妹都市を行き来して交流し、現代に至る独仏の同盟関係ができました。ヨーロッパ統合の根底にあるのは、この独仏同盟です。

連合王国がEUを離脱するブレグジットが2016年に起きて、EUの行方はどうなるのかと心配する人がいますが、あくまでEUの根幹にあるのは、独仏同盟です。1963年に連合王国がEECに入りたいといったのを、ド・ゴールが「いらない」と蹴ったくらいです。

だから、独仏同盟が壊れない限りは、 EUは壊れないと思います。それは「ドイツとフランスが喧嘩していいことは何もない」ということを、両国民が哲学、思想のレベルまで掘り下げて、理解したからでしょう。

1964年、中国も原爆実験に成功します。その翌年、姚文元が「新編歴史劇 「海瑞罷官」 を評す」という論文を発表しました。これが文化大革命の発端になります。清廉な政治家を主人公にした歴史劇を、毛沢東へのあてこすりだと批判した論文から、中国の大混乱が始まったのです。その背景をひもとくと、毛沢東の大躍進政策は大失敗に終わりました。

そこで実務に強い劉少奇やケ小平が、中国の運営を担うようになりました。毛沢東は共産党主席のポジションはキープしましたが、国家主席の座は劉少奇に譲りました。「共産党のことだけやってくださればいいです」と、引導を渡された格好です。

それに毛沢東は飽き足らなくて、また革命を起こしたわけです。夢想家肌の革命家である毛沢東は、創業の人です。組織運営には強くありません。そんな毛沢東が起こした文化大革命で中国がさらに混乱したのも、日本の幸運だったと思います。

ただ中国は、めちゃくちゃな混乱の最中でも、核ミサイルなどの軍事開発では手を緩めませんでした。その根底には中ソ対立があり、アメリカよりもソ連への対抗意識の方が強かったというのが今日の見方です。

 





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GDP の世界の順位
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/01/05(月) 15:12
No. 8096
 
 
フルシチョフはキャンプ・デービッド会談からの帰路、北京に立ち寄り、毛沢東と会談をしました。この頃のソ連は絶好調でしたから、「あと15年でアメリカを追い抜いて、世界一の大国になる」という意気込みを見せていました。

それに毛沢東が反応します。GDP の世界1位はアメリカですが、2位は当時、連合王国でした。「ソ連がアメリカを抜くのなら、私たちは連合王国を抜いて、3年で抜いてやる」と考えます。特に根拠はありません。毛沢東という革命家は、詩人気質の夢想家でした。

ここから大躍進政策が始まりますが、大躍進政策とは、簡単にいうと、鉄をたくさん生産して連合王国を追い抜くという政策です。そして鉄をつくることがすべての目的になってしまいました。鉄であれば何でもいいと、農村でも木を切り倒しては燃料にして、鉄くずを溶かし、粗悪な鉄をつくりました。

大躍進政策は大失敗に終わり、飢餓などから数千万人の死者を出したともいわれます。しかし、こんな馬鹿げたことを毛沢東がやってくれたおかげで、日本はその間に工業国として成長できたわけです。もっと早くにケ小平の時代になっていたら、中国はもっと早くに日本のライバルになっていたでしょう。

1960年は「アフリカの年」といわれていて、アフリカの国々がたくさん独立しました。1961年1月、ケネディがアメリカの大統領に就任します。アメリカはキューバと断交します。この年の4月、ソ連が人類初の有人宇宙飛行に成功し、ガガーリンは「地球は青かった」という言葉を残します。

これに対抗して、ケネディは有人での月面着陸を目指すアポロ計画をスタートさせます。フルシチョフは意気軒昂でしたが、経済ではアメリカに追いつけません。東ヨーロッパの復興は進まず、ベルリンでは東ベルリンから西ベルリンにどんどん人が逃げ出します。

そこで8月に「ベルリンの壁」を築きました。1962年には、キューバ危機が起きました。キューバにソ連がミサイル基地を建設しているということで、米ソは核戦争の一歩手前までいきました。けれど、ケネディの要請を受けた形で、フルシチョフがキューバからの「攻撃的武器」の撤去を命じ、何とか収まりました。

当時は米ソ冷戦でしたが、2020年代の今日は米中冷戦といわれます。米ソ冷戦と米中冷戦には大きな違いがあります。米ソ冷戦には、ベルリンの壁が象徴するように、人と人との交流がありませんでした。米ソ冷戦の特徴は鎖国にあります。一方、米中冷戦の今、中国とアメリカの人材交流はすさまじいです。

新型コロナウイルス禍で渡航が制限される前、中国からアメリカには約37万人が留学していました。アメリカにいる約100万人の留学生のうち、4割ほどが中国人だった計算です。一方、日本からアメリカへの留学生は2万人を切っていました。同じ冷戦でも、人の交流が途切れないところが、米中冷戦と米ソ冷戦との大きな違いです。

 





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2026年を迎えて
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/01/01(木) 00:00
No. 8095
 
 
新たな1年が始まりました。同志・会員の皆様におかれましては、様々な思いを胸に抱きつつ新しい年を迎えられた事と存じます。日頃の当会の運営に対しましてはご理解とご協力を賜りますこと厚く御礼申し上げます。

毎年、会費が集まらず会報誌を作成することが出来ませんでした。また、ホームページについてもドメイン料金や容量などの増額なので自腹で運用するには負担が大きくなりましたので今年度で更新を断念してSNSに移行しております。

SNSでは3万9千人を超えるメンバーが集まり、ひとつの動画に対して75万人閲覧件数を記録し、958万件を超えるアクセスやメール・掲示板の投稿も数万件頂き感謝しております。どうも有り難う御座いました。

さて、昨年を振り返りますと震災や台風などの自然災害が多い年でございました。年末には青森県東方沖で大きな地震と津波が発生しており、多くの方々が被災しております。未だに日常を取り戻せない方が多数おられます。

政府および自治体の速やかな、効果ある復旧作業を期待するものです。被災された方々には一日も早い日常が取り戻せるよう祈念致します。こうして災害の多い1年でありました。もともと日本は地震国ではありますが、被害が大きい地震が増しているように思えます。

また、過去最悪の温暖化が世界を覆い尽くし 生活や農林水産などの生活面にも悪い影響を与え、それに関連しているのかわかりませんが、各地で熊が冬眠できず我々の生活圏内に現れ国民を震え上がらせています。

経済面では円安・原材料費の高騰・人材不足・ステルス増税・物価高などでおコメの値段が過去最高となっており、多くの中小企業や国民が影響を受け、現在も状況は改善しておりません。

景気の拡大を実感して恩恵に浴するのが一握りの大企業に限られることなく、中小企業も国民も皆がそう思える1年にするために一人一人が努力しなければならないと強く感じますが、今後も増税が懸念されるところでございます。

経済面では「企業業績が最高益を更新した」「昨年の賃上げは30年振りの高水準で経済の活性化が図られた」と希望的なニュースが伝えられております。明るい面だけが強調されておりますが、「深刻さを増すばかりの人手不足」、「原材料費の高騰」、根幹である政治は各種増税を唱え、国民不在の様相を呈しております。

政治面では自民党の裏金問題に端を発した政治とカネの問題で公明党をはじめ国民の支持を失った自民党は、これまでのように野党抜きで何でも決定ができなくなり一定の民主化が見込めるようになりました。日本初の女性首相が誕生したのですからこれからの国会を見守りたいものです。

世界ではロシアのウクライナへの軍事侵略が止まず、イスラエルでは人道無視の殺戮が続いて終息の見通しが立ちません。力対力、力による服従は何も生み出さないことに思いを馳せ、英知を出し合って平和裡に解決が図られる事を願うばかりございます。加えてアメリカの権益を強烈に追及するトランプ政権の発足により、今後の世界経済政治がどのように影響を受けるのか目が離せません。

さて、行政を巡る動向についてですが、最も大きな問題と致しまして、103万円の壁に106万円・130万円の崖などの問題や罰則付きで時間外労働の上限規制の厳守が全業種・規模を問わずに適用される2024年問題がございます。新たな法律や規則が定められ施行されていますが、難解でわかりにくい法律ばかりです。

ただ事業者の取り組みに対して政府など行政は指導,啓発といった言葉を繰り返してきましたが、これを超えた、本当に効果のある実務的な援助による施策の策定と実行がこの問題の解決には必要不可欠でないでしょうか。これまでよりもう一歩踏み込んだ行政の展開を期待したいものです。

従って当研究会としてはこれまでの石原莞爾関係のみに限らず歴史を振り返ってより有用な同志の方に役立つよう適切な時期に会合や懇親会・説明会・講習会・研修会などを実施していく心算でございます。取り組みは同志の皆様のご支援とご協力が不可欠となっておりますので、どうかよろしくお願い申し上げます。

我々は明日がくるのは当たり前と考え、世界の情勢どころか、自国のあり方まで考えずに過ごしてきたように思えます。異常気象というものが、いつ何処で自分たちの生活が脅かされるか、まるで予測がつかない混乱と不安定な状態となりました。

現在の日本の経済情勢は大変厳しく、高齢化や人口減少などの問題が山積みしています。米国の言いなりになり防衛問題も、従っていれば安全な生活が得られる時代ではなくなります。日本は大東亜戦争後、自分でものを考えられなくなったのではないでしょうか。

世界の中での責任を自覚し、それを果たそうとする意志が欠如していた事か。現実を見ずに、言うことを聞いていれば、嫌な事が通り過ぎてくれて、自分の命も財産も守られると勝手に思い込んでいなかっただろうか。もはや世界はそれを許してはくれないでしょう。

恒久平和には、微力で何もできませんが同じ志を持つ「石原莞爾平和思想研究会」に名前を連ねてくれた方々が大勢集まってくれたことがせめてもの救いです。これからの未来の事を考えれば落胆することがあると思いますが、回避する方法を考えて歩んでいこうと思います。

我々は、今のような時代だからこそ、未来の子供たちのためにも自らの可能性を最大限に生かし、これまでの歴史に新たな視点を加えながら、時代を切り開いていかなければならないと思います。

最近は体力も衰える時期となりました。死が遠い近いにかかわらず、誰もがつねに、同じ重大さをもって、同じ問いを投げかけられ、寿命から逆算して減っていく人生の残り時間を惜しみ怯えるのではなく、また新たな一日をもらったと感謝の思いで臨みたいものです。本年も引き続きよろしくお願いいたします。

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2025年最後の挨拶
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/12/30(火) 09:42
No. 8094
 
 
いつもの如く、今年もあっという間に時が過ぎ去ったと言う感じです。年末は、様々なところで一年間の総括が行なっています。今年の年明けは集中豪雨や台風などの自然災害が多い年でございました。年末には青森県東方沖で大きな地震と津波が発生しており、多くの方々が被災しております。様々な変化を伴いながら、未曽有の危機に対処した年でした。

未だに日常を取り戻せない方々が多数おられます。政府および自治体の速やかな、効果ある復旧作業を期待するものです。もともと日本は地震国でありますが、被害が大きい地震が増しているように思えます。

また、過去最悪の温暖化が世界を覆いつくし、生活や農林水産などの生活面にも影響を与え、それに関連しているのかわかりませんが、各地で熊が冬眠できず我々の生活圏内に現れ国民を震え上がらせています。

経済面では円安・原材料費の高騰・人材不足・ステルス増税・物価高などでおコメの値段が過去最高となっており、多くの中小企業や国民が影響を受け、現在も状況は改善しておりません。

景気の拡大を実感して恩恵に浴するのが一握りの大企業に限られることなく、中小企業も国民も皆がそう思える1年にするために一人一人が努力しなければならないと強く感じますが、今後も増税が懸念されるところでございます。

政治面では自民党の裏金問題に端を発した政治とカネの問題で公明党をはじめ国民の支持を失った自民党は、これまでのように野党抜きで何でも決定ができなくなり一定の民主化が見込めるようになりました。日本初の女性首相が誕生したのですからこれからの国会を見守りたいものです。

世界に目を向けるとロシアのウクライナへの軍事侵略が止まず、イスラエルでは人道無視の殺戮が続いており、ロシア、中国の独裁化が強化されております。力対力、力による服従は何も生み出さない事に思いを馳せ、英知を出し合って平和裡に解決が図られる事を願うばかりでございます。

加えてアメリカの権益を強烈に追及するトランプ政権により、今後の世界経済政治がどのように影響を受けるのか目が離せません。時が経ち戦争を体験された方の多くが鬼籍に入られた今、微力ながらもいかにして恒久平和を実現するかを模索してきた我が石原莞爾平和思想研究会の存在意義と役割が重要なものとなってくると確信いたしております。

現在、大きな問題になっている、「自国の防衛問題」はアメリカから指示されたことです。当然ながら日本の国益を前提にしていないのです。歴史観は固執することなく、見直されるものであり、日本人が、過去にしてきたことで、何が悪かったのか、何が間違っていたのか、何が正しかったのかを確りと理解しなければならないでしょう。

正しかったことは、正々堂々と主張し、理解されるよう努力しなければならない。そうすることによって、日本のアイデンティティーが確立され、国際社会から信頼されるようになるのではないでしょうか。隣国は外交で日本の過去の戦争責任を追及し、反省と謝罪を要求してやみません。

戦後、大東亜戦争が、「自衛の戦争」か「侵略の戦争」だったかをめぐって議論が続けられていますが、すべての戦争を「侵略」の一言で片付けてしまい謝り続ける事で本当に真の恒久平和が訪れるのでしょうか。脅かされたり騙されたりしないためには検証したり考察したりするべきだと思うのです。

先の大戦での多くの祖先の尊い犠牲の上に平和な生活があることを忘れてはいけません。去年は長崎に今年は広島に行きました。広島、長崎を思うことは人の本質を真面目に考え、無辜なる被害市民に敬意を払いつつ、恒久平和のため勇気を奮い食い止めなければなりません。これからの日本が何をなすべきかを考えなければならないと思うのです。

いまこそ日本人ひとのひとりが恒久平和に向けて意識を高めるときではないでしょうか。どうぞ我々石原莞爾平和思想研究会の同志におかれましては希薄になることないよう絆を強固なものとしていただければ幸いに存じます。

皆様のご健勝とご多幸、そしてご活躍、我々に夢と希望を与えてくれたような出来事が一つでも多く経験できる事を祈念致しまして、私の今年最後の挨拶とさせていただきます。よいお年を。

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サンフランシスコ講和会議の内情
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/12/29(月) 14:32
No. 8093
 
 
1951年、サンフランシスコ講和会議で、日本は連合諸国と平和条約を結びました。これで日本は、連合国の占領下から解放されて主権を回復し、独立します。さらに平和条約を結ぶのと同時に、日米安全保障条約を結びました。

日本は、このとき吉田茂がいたことで明治維新のとき、阿部正弘が描いたグランドデザインは、「開国富国強兵」の3本柱でした。吉田茂は平和条約を結ぶにあたって、この3枚のカードを机の上に置いて考えたのだと思います。

そして、「開国」と「富国」に力を入れることにしたのでしょう。そして「強兵」は日米安保条約で代替しようと考えたのだと思います。サンフランシスコ講和会議で結ばれた平和条約には、日本全権団のメンバー全員がサインしていますが、日米安保条約にサインしたのは吉田茂1人です。いわば、吉田茂1人で安保条約発効させている格好です。

これで日本はアメリカの犬となってしまいます。これにはいろいろな見方があるでしょう。吉田茂がワンマンだからという見方もあれば、1人で責任を負う覚悟だったからという見方もあります。おそらく両方だったのだと思いますが、後者の意味合いが強かったのではないでしょうか。

サンフランシスコ講和会議では、ソ連や中国など東側諸国とは平和条約を締結できませんでした。当時の日本では、西側諸国とだけ講和するのではなく、すべての交戦国と全面講和すべきだという主張も強く、国論は二分されていました。

けれど、吉田茂は「すべての国と講和しようとしたら時間がかかりすぎる。早く独立するのが日本のためだ」と判断したのだと思います。サンフランシスコ講和会議の後、台湾やインドなどとも個別に講和していきます。

日本がソ連と講和するのは1956年、日ソ共同宣言を発表したときです。これで日本もようやく国連に加盟します。拒否権を持つ5大国すべてが認めてくれなくては、国連には加盟できません。この宣言には、北方領土については「平和条約締結後に歯舞諸島と色丹島を引き渡す」と明記されていました。

1952年、アメリカは水爆実験をして、もう一度ソ連を引き離そうとします。でもソ連も翌年に水爆の保有を宣言します。原爆のときは、米ソに4年ぐらいのタイムラグがありましたが、水爆では1年です。果たして原爆や水爆を保有する国も増えてしまい地球はどうなってしまうのであろうか。

 





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戦後日本の幸運
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/12/29(月) 14:31
No. 8092
 
 
1948年5月、イスラエルが独立を宣言します。アラブ諸国が反発して、戦争が始まりましたが、イスラエルが勝利して建国します。朝鮮半島でもこの年、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が南北に分かれて樹立されました。

1949年1月、ソ連と東欧諸国は、マーシャル・プランに対抗して、コメコン(経済相互援助会議) をつくります。西側は、NATO(北大西洋条約機構)をつくって、軍事同盟を結びます。この年の5月、ドイツ連邦共和国 (西ドイツ) が成立し、10月にはドイツ民主共和国(東ドイツ) が成立しました。

1949年は重要な年で、ソ連が原爆実験を成功させています。アメリカがソ連にいうことを聞かせられたのは、原子爆弾を独占していたからです。「変な気を起こしたら空から原爆を落とすぞ」と脅しをかけていたわけです。

それはソ連も百も承知で、だからスパイ活動も駆使して必死に原爆をつくったのです。ソ連が原爆を持ったことで冷戦は決定的になります。1949年には国共内戦も終結しました。勝ったのは毛沢東の共産党で、北京を押さえます。

蒋介石の国民党政府は台湾に逃れます。アメリカは焦ります。アメリカは蒋介石の中国と組んで、ソ連を封じ込めるつもりでした。北京を毛沢東に奪われては、その目算が狂います。しかも、あろうことか毛沢東とスターリンは、中ソ同盟を組みます。自分の花嫁がライバルの花嫁になった格好です。

そこから戦後日本の幸運が始まりました。中国がソ連と組むまで、日本に対するアメリカの方針は「もう二度と馬鹿な戦争をさせない」でした。だから、工業を発展させる必要はないと考えていました。

しかし、北京を共産主義陣営に奪われ、ソ連に近い東アジアで人口が多く、近代的な国といったら、もう日本しかありません。だから、国共内戦の終結後、アメリカは手のひらを返すように、日本の復興を助けてくれるようになります。日本の幸運はもう一つあって、 1950年に始まった朝鮮戦争です。

アメリカが一所懸命、日本を復興させようとしているときに、すぐ近くで戦争が始まり、特需が発生したのです。朝鮮特需です。今の貨幣価値にして30〜40兆円という規模の有効需要が生まれました。平たくいえば、何をつくっても売れるわけです。日本の戦後復興に弾みがついたのです。

 





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5カ国で世界を仕切ろう
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/12/29(月) 14:30
No. 8091
 
 
アメリカが第2次世界大戦に参戦した時、大統領のフランクリン・ルーズベルトは、大戦終結後の世界の見取り図をつくっていました。その見取り図に従って戦後、国際連合ができて、国際通貨基金(IMF) と国際復興開発銀行 (IBRD) も発足します。

世界大恐慌後のブロック経済で、「金融がおかしくなると怖い」とわかったからです。国際連合には5つの常任理事国があります。アメリカと連合王国、フランス、中国、ソ連です。いわば5人のポリスで、この5カ国で世界を仕切ろうと考えたわけです。

連合王国を率いるのはチャーチル、フランスはド・ゴール、中国は蒋介石で、ソ連はスターリンでした。連合王国とは、かつての大英帝国です。第2次世界大戦で大英帝国は植民地の多くを失ったので、連合王国と呼びます。

ところが、ルーズベルトの死後、5人のポリスのうちの2人、アメリカとソ連の関係が悪くなっていきます。自由主義・資本主義を掲げるアメリカと、共産主義・社会主義のソ連の対立です。1946年3月、チャーチルが「鉄のカーテン」演説をします。

ソ連から鉄のカーテンを下ろされてしまった以上は、こちらも反共連合が必要だという訴えです。東ヨーロッパ(東欧)と西ヨーロッパ (西欧)の分断が進み、冷戦が始まります。1946年、中国では、蒋介石の国民党政府と毛沢東の共産党がまた喧嘩を始めました。

国共内戦です。普通に考えれば、国民党政府が勝つはずでした。国民党政府は国土の3/4を押さえていましたし、アメリカの支援で武器弾薬も豊富でした。しかし、この頃の共産党は大変しっかりしていて、毛沢東が「三大紀律八項注意」というルールを軍に守らせていました。 例えば、「お百姓さんからは何一つ奪ってはいけない」といったルールです。

一方、蒋介石の国民党は戦争のためといって村から物資を勝手に持ち出します。ですから共産党の方が支持されて、蒋介石を台湾に追い払ってしまいました。5人のポリスのうち、早くも1人が脱落して、アメリカは目算が狂いました。

アメリカは1947年にマーシャル・プラン(欧州復興計画) を発表します。アメリカがお金を出すから、みんなでヨーロッパを再建しようという計画です。アメリカのいう「みんな」には、ソ連や東欧も含まれていたのですが、「アメリカからお金をもらうなら、アメリカのいいなりだろ」といぶかるソ連、東欧は、初めから不参加でした。

ドイツは敗戦後、連合国4カ国に分割占領されていました。ソ連、アメリカ、連合王国、フランスの4カ国です。ドイツの東側はソ連の占領地域でしたが、そのなかで首都ベルリンは特別扱いで、4カ国の分割占領でした。

マーシャル・プランを実行するため、アメリカは西側3カ国(米英仏) が占領するトライゾーンを統合しようとします。すると、これに反発したスターリンが1948年6月、ベルリン封鎖に出ます。トライゾーンとベルリンを繋ぐ道路と鉄道を封鎖してしまったのです。

西ベルリンの食料などはトライゾーンから運ばれていたので、こうすれば西ベルリンは干上がるだろうと考えたわけです。アメリカは飛行機をがんがん飛ばして対抗しました。ベルリン空輸です。陸路がだめでも空路があるというわけです。1年ほどでスターリンはあきらめ、封鎖を解いたのでした。

 





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ルーズベルトの戦後のビジョン
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/12/29(月) 14:28
No. 8090
 
 
フランスがヒトラーに降伏したのをいいことに、日本はフランス植民地のインドシナに進駐します。1940年に北部インドシナへ、1941年には南部インドシナへ。ヨーロッパの混乱に乗じた火事場泥棒です。

これに怒ったアメリカから石油を全面禁輪にされて、日本は千上がります。石油の備蓄は約2年分しかありません。備蓄は刻一刻と減っていくわけですが、「後になるほどしんどくなるから、1日でも早く戦争を仕掛けなくては」などという倒錯した議論になっていきます。

戦争を仕掛ける必要なんてなくて、要は、アメリカに禁輪を解いてもらえればいいわけですから、インドシナから軍を引き揚げるか、引き揚げたふりをするだけでもよさそうなものです。しかし、外交力が落ちている日本にはそれすらできず、1941年12月、ハワイの真珠湾に奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まります。

1941年8月、フランクリン・ルーズベルトは大英帝国の首相チャーチルと会談して、大西洋憲章を発表しています。この時点では、アメリカはまだ参戦していませんでしたが、 領土の不拡大や民族自決、国際経済協力などをうたう8カ条の憲章を通じて、ルーズベルトは、すでに戦後のビジョンを描いていました。

1942年1月、ナチスはヴァンゼー会議を開いて、ユダヤ人を絶滅させる方針を決めます。ここから絶滅収容所がフル稼働します。この頃にはもう、戦争に勝てないことが薄々、 わかっていたのでしょう。6月には、ミッドウェイ海戦で、日本が大損害を受けます。

8月には、アメリカが科学者を総動員して原子爆弾を開発するマンハッタン計画を始めます。1943年には、ソ連とドイツの間で、スターリングラードの戦いやクルスクの大戦車戦があり、ドイツの劣勢が鮮明になります。

この年の7月、ムッソリーニが失脚して、イタリアは9月に降伏し、10月にはドイツに宣戦布告します。賢い判断です。ドイツが勝ちそうなときに戦争にぱっと入って、ちょっとおいしい汁を吸い、負けそうになったらいち早く降伏して許してもらう。こういうところがイタリアの賢さです。

1944年、ルーズベルトは、ブレトンウッズ会議を通じて、国際通貨基金(IMF) 国際復興開発銀行 (IBRD) の設立を決めます。世界恐慌後、各国が自国本位に展開したブロック経済が、第2次世界大戦を招いたことへの反省です。

さらに、ダンバートン・オークス会議で国際連合憲章の草案を話し合います。1945年2月、 アメリカのルーズベルト、大英帝国のチャーチル、ソ連のスターリンが集まり、戦後処理の方針を決めました。ヤルタ会談です。

4月にアメリカ軍が沖縄に上陸し、ルーズベルトが死去。トルーマンがアメリカ大統領に就任します。同じ月 (1945年4月) に、連合国50ヵ国が集まってサンフランシスコ会議が開かれ、その結果、6月に国際連合憲章が調印されています。

ルーズベルトはドイツや日本が降伏する前に亡くなりましたが、その前に国連発足の道筋をつけていました。 戦後の見取り図を周到に描いて、 参戦に踏み切ったという意味で、傑出した政治家だと思います。

 





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ドイツのヒトラーの動き
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/12/29(月) 14:26
No. 8089
 
 
1938年3月、ドイツはオーストリアを併合します。ヒトラーは、さらにドイツ人が自治権を要求しているという理由で、チェコスロヴァキアのズデーテン地方を領土として要求します。さらに、「領土要求はこれが最後だ」と弁明しました。

ヒトラーは巧妙に領土を広げてきました。その背後には、第1次世界大戦後のヴェルサイユ体制の原則である「民族自決」がありました。「なぜドイツだけが民族自決を許されないのか」というのが、ヒトラーの建前です。

これを受けて、同年9月、ミュンヘン会談が開かれます。仕切ったのは、大英帝国の首相チェンバレンです。チェンバレンが腰抜けだからヒトラーを助長したともいわれますが、英仏にはもともと、ヴェルサイユ体制でドイツだけに過酷な条件を押し付けた負い目がありました。 だから、ここでドイツに民族自決を認めたら、いよいよイコールの立場になる。

それでドイツの拡大は終わるだろうと思ったのでしょう。実際、ミュンヘン会談の後、ロンドンに戻ったチェンバレンは「フェアな裁定で、ヨーロッパに平和をもたらした」という理由で国民の喝采を浴びています。しかし、ヒトラーはもっと悪質だったのです。

同年11月、「水晶の夜」と名付けられた、ユダヤ人の迫害が始まります。翌年1939年3月、ヒトラーはボヘミアとモラヴィアを保護領としますが、これは民族自決とは関係がありません。いよいよ大英帝国とフランスは「これはまずい」と気づきます。

ヒトラーは1939年5月、ムッソリーニと鋼鉄同盟を結びます。ドイツとイタリアの連帯は強化されました。ヒトラーはさらに8月、独ソ不可侵条約を結びます。日本はあっけにとられます。日本は1936年にドイツと日独防共協定を結び、ソ連を封じ込める約束をしていましたから。

国際連盟を脱退した日本には、ドイツとイタリアくらいしか仲間はいないというのに、仲間の情報すらろくに入ってきません。外交力の低下です。ときの平沼騏一郎内閣は、「欧州の情勢は複雑怪奇なり」という声明を出して、総辞職しました。ヨーロッパの情勢がわからないという理由で総理の座を投げ出したというのですから、びっくりです。

1939年9月、ヒトラーはポーランドに侵攻します。ドイツ軍は再軍備を始めてからわずか4年ですから、十分に準備ができていません。それでもポーランドには勝てました。 英仏もとうとうヒトラーに宣戦布告しました。第2次世界大戦の始まりです。

この時点で、 英仏が総力を挙げていたら、ナチス・ドイツは終わっていたかもしれません。しかし、英仏もまだ本腰が入りません。ポーランド侵攻後、ヒトラーは半年ほどかけて必死に準備をして、1940年5月、フランスを攻めます。

ヒトラーは電撃戦でフランスを押し込み、パリに進軍します。それを見ていたムッソリーニのイタリアが参戦します。イタリアはなかなか賢いところがあって、いつも戦争に入るのは遅くて、出ていくのは早い。リアリズムの国です。

1940年9月、日独伊三国同盟が結ばれました。ヒトラーは、フランスを降伏させました。フランス中部にドイツに協力するヴィシー政権ができます。しかし、大英帝国に攻め入るだけの海軍を、ヒトラーは持っていません。そこで、飛行機を飛ばして、がんがん攻めます。

1940年7月に始まった「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる空爆です。けれど、爆撃機の航続距離が長くないので、ロンドン上空にいられるのは30分ほどでした。 だから、ロンドンの人たちは頑張り続けることができました。

面白いことに、ドイツ軍の飛行機を迎撃した大英帝国の空軍のパイロットの半分はポーランド人だったそうです。ドイツに攻め入られたポーランドの人々が亡命してきて、仕返しをしたわけです。大英帝国は、使えるものは徹底的につかったのでした。

 





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軍部が怖くなった広田弘毅
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/12/29(月) 14:25
No. 8088
 
 
ヒトラーがラインラントに進駐した1936年、日本では226事件が起きて軍部独裁が進みます。さらに総理大臣の広田弘毅が、軍部大臣現役武官制を復活させます。もともとは山縣有朋が1900年につくった制度で、「陸軍大臣、海軍大臣は現役の軍人でないといけない」というものです。

これは山縣の悪知恵で、内閣ができても、軍部が大臣を出さなければ、内閣は倒れてしまいます。さすがに「こんな愚かな制度があるか」ということで、海軍出身の山本権兵衛が総理大臣のときに「現役」という条件を外し、OBでもいいことにしました。

これなら、内閣は軍部のいいなりにならなくて済みます。それを、軍部が怖くなった広田弘毅が元に戻してしまったのです。日本の政党政治は骨抜きになります。中国では、蒋介石の国民政府が共産党の打倒に乗り出し、攻撃していました。

共産党は、大長征で逃げ回ります。逃げ回る途中でリーダーになったのが、毛沢東です。そして1936年、西安事件が起きます。張学良が若いときはアヘンを吸って遊んでいるプレイボーイでしたが、実は根性があります。

お父さんが殺されると、蒋介石の国民党と結んで日本に抵抗を始めたのでした。この張学良が西安で、上司の蒋介石を監禁して、こう迫ります。「今、日本が中国に攻めてきているのに、共産党と喧嘩している場合か。一致団結して日本を倒すのが先だろ」と。

毛沢東は、周恩来を西安に送り込みました。西安で、周恩来と蒋介石、張学良が話しあい、 蒋介石は解放され、国民政府と共産党が協力して、日本に対抗しようということになりました。けれど、蒋介石はものすごく執念深い人で、自分を監禁した張学良を許さず、その後、長く拘束しました。

第2次世界大戦後に台湾に逃げたときも、蒋介石は張学良を連れていき、拘束を解きませんでした。解放されたときには晩年を迎えていました。100歳まで生きて、回顧録を残しています。立派な人です。1937年、 盧溝橋事件が起きて、日中戦争が始まります。

首相の近衛文麿は翌年、「爾後、国民政府を相手にせず」という声明を出します。おかしいです。戦争している相手を「相手にしない」とは、どうやって戦争を終わらせるのかという話です。日露戦争を始めるときは伊藤博文が終わらせ方まで考えていました。

それに比べると、いかに国の指導者の能力が落ちていたかということです。相手にしないということは、交渉するという選択肢を自ら捨てることです。交渉しない以上、中国全土を攻め落とさない限り戦争は終わりません。泥沼への突入です。石原莞爾が中国と戦争をしてはいけないといい続けたのがよくわかります。

 






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