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  ルーズベルトの戦後のビジョン  仲條拓躬2025/12/29(月) 14:28 
  ドイツのヒトラーの動き  仲條拓躬2025/12/29(月) 14:26 
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  日本は火力大国へと変貌  仲條拓躬2025/12/23(火) 19:28 






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ルーズベルトの戦後のビジョン
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/12/29(月) 14:28
No. 8090
 
 
フランスがヒトラーに降伏したのをいいことに、日本はフランス植民地のインドシナに進駐します。1940年に北部インドシナへ、1941年には南部インドシナへ。ヨーロッパの混乱に乗じた火事場泥棒です。

これに怒ったアメリカから石油を全面禁輪にされて、日本は千上がります。石油の備蓄は約2年分しかありません。備蓄は刻一刻と減っていくわけですが、「後になるほどしんどくなるから、1日でも早く戦争を仕掛けなくては」などという倒錯した議論になっていきます。

戦争を仕掛ける必要なんてなくて、要は、アメリカに禁輪を解いてもらえればいいわけですから、インドシナから軍を引き揚げるか、引き揚げたふりをするだけでもよさそうなものです。しかし、外交力が落ちている日本にはそれすらできず、1941年12月、ハワイの真珠湾に奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まります。

1941年8月、フランクリン・ルーズベルトは大英帝国の首相チャーチルと会談して、大西洋憲章を発表しています。この時点では、アメリカはまだ参戦していませんでしたが、 領土の不拡大や民族自決、国際経済協力などをうたう8カ条の憲章を通じて、ルーズベルトは、すでに戦後のビジョンを描いていました。

1942年1月、ナチスはヴァンゼー会議を開いて、ユダヤ人を絶滅させる方針を決めます。ここから絶滅収容所がフル稼働します。この頃にはもう、戦争に勝てないことが薄々、 わかっていたのでしょう。6月には、ミッドウェイ海戦で、日本が大損害を受けます。

8月には、アメリカが科学者を総動員して原子爆弾を開発するマンハッタン計画を始めます。1943年には、ソ連とドイツの間で、スターリングラードの戦いやクルスクの大戦車戦があり、ドイツの劣勢が鮮明になります。

この年の7月、ムッソリーニが失脚して、イタリアは9月に降伏し、10月にはドイツに宣戦布告します。賢い判断です。ドイツが勝ちそうなときに戦争にぱっと入って、ちょっとおいしい汁を吸い、負けそうになったらいち早く降伏して許してもらう。こういうところがイタリアの賢さです。

1944年、ルーズベルトは、ブレトンウッズ会議を通じて、国際通貨基金(IMF) 国際復興開発銀行 (IBRD) の設立を決めます。世界恐慌後、各国が自国本位に展開したブロック経済が、第2次世界大戦を招いたことへの反省です。

さらに、ダンバートン・オークス会議で国際連合憲章の草案を話し合います。1945年2月、 アメリカのルーズベルト、大英帝国のチャーチル、ソ連のスターリンが集まり、戦後処理の方針を決めました。ヤルタ会談です。

4月にアメリカ軍が沖縄に上陸し、ルーズベルトが死去。トルーマンがアメリカ大統領に就任します。同じ月 (1945年4月) に、連合国50ヵ国が集まってサンフランシスコ会議が開かれ、その結果、6月に国際連合憲章が調印されています。

ルーズベルトはドイツや日本が降伏する前に亡くなりましたが、その前に国連発足の道筋をつけていました。 戦後の見取り図を周到に描いて、 参戦に踏み切ったという意味で、傑出した政治家だと思います。

 





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ドイツのヒトラーの動き
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/12/29(月) 14:26
No. 8089
 
 
1938年3月、ドイツはオーストリアを併合します。ヒトラーは、さらにドイツ人が自治権を要求しているという理由で、チェコスロヴァキアのズデーテン地方を領土として要求します。さらに、「領土要求はこれが最後だ」と弁明しました。

ヒトラーは巧妙に領土を広げてきました。その背後には、第1次世界大戦後のヴェルサイユ体制の原則である「民族自決」がありました。「なぜドイツだけが民族自決を許されないのか」というのが、ヒトラーの建前です。

これを受けて、同年9月、ミュンヘン会談が開かれます。仕切ったのは、大英帝国の首相チェンバレンです。チェンバレンが腰抜けだからヒトラーを助長したともいわれますが、英仏にはもともと、ヴェルサイユ体制でドイツだけに過酷な条件を押し付けた負い目がありました。 だから、ここでドイツに民族自決を認めたら、いよいよイコールの立場になる。

それでドイツの拡大は終わるだろうと思ったのでしょう。実際、ミュンヘン会談の後、ロンドンに戻ったチェンバレンは「フェアな裁定で、ヨーロッパに平和をもたらした」という理由で国民の喝采を浴びています。しかし、ヒトラーはもっと悪質だったのです。

同年11月、「水晶の夜」と名付けられた、ユダヤ人の迫害が始まります。翌年1939年3月、ヒトラーはボヘミアとモラヴィアを保護領としますが、これは民族自決とは関係がありません。いよいよ大英帝国とフランスは「これはまずい」と気づきます。

ヒトラーは1939年5月、ムッソリーニと鋼鉄同盟を結びます。ドイツとイタリアの連帯は強化されました。ヒトラーはさらに8月、独ソ不可侵条約を結びます。日本はあっけにとられます。日本は1936年にドイツと日独防共協定を結び、ソ連を封じ込める約束をしていましたから。

国際連盟を脱退した日本には、ドイツとイタリアくらいしか仲間はいないというのに、仲間の情報すらろくに入ってきません。外交力の低下です。ときの平沼騏一郎内閣は、「欧州の情勢は複雑怪奇なり」という声明を出して、総辞職しました。ヨーロッパの情勢がわからないという理由で総理の座を投げ出したというのですから、びっくりです。

1939年9月、ヒトラーはポーランドに侵攻します。ドイツ軍は再軍備を始めてからわずか4年ですから、十分に準備ができていません。それでもポーランドには勝てました。 英仏もとうとうヒトラーに宣戦布告しました。第2次世界大戦の始まりです。

この時点で、 英仏が総力を挙げていたら、ナチス・ドイツは終わっていたかもしれません。しかし、英仏もまだ本腰が入りません。ポーランド侵攻後、ヒトラーは半年ほどかけて必死に準備をして、1940年5月、フランスを攻めます。

ヒトラーは電撃戦でフランスを押し込み、パリに進軍します。それを見ていたムッソリーニのイタリアが参戦します。イタリアはなかなか賢いところがあって、いつも戦争に入るのは遅くて、出ていくのは早い。リアリズムの国です。

1940年9月、日独伊三国同盟が結ばれました。ヒトラーは、フランスを降伏させました。フランス中部にドイツに協力するヴィシー政権ができます。しかし、大英帝国に攻め入るだけの海軍を、ヒトラーは持っていません。そこで、飛行機を飛ばして、がんがん攻めます。

1940年7月に始まった「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる空爆です。けれど、爆撃機の航続距離が長くないので、ロンドン上空にいられるのは30分ほどでした。 だから、ロンドンの人たちは頑張り続けることができました。

面白いことに、ドイツ軍の飛行機を迎撃した大英帝国の空軍のパイロットの半分はポーランド人だったそうです。ドイツに攻め入られたポーランドの人々が亡命してきて、仕返しをしたわけです。大英帝国は、使えるものは徹底的につかったのでした。

 





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軍部が怖くなった広田弘毅
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/12/29(月) 14:25
No. 8088
 
 
ヒトラーがラインラントに進駐した1936年、日本では226事件が起きて軍部独裁が進みます。さらに総理大臣の広田弘毅が、軍部大臣現役武官制を復活させます。もともとは山縣有朋が1900年につくった制度で、「陸軍大臣、海軍大臣は現役の軍人でないといけない」というものです。

これは山縣の悪知恵で、内閣ができても、軍部が大臣を出さなければ、内閣は倒れてしまいます。さすがに「こんな愚かな制度があるか」ということで、海軍出身の山本権兵衛が総理大臣のときに「現役」という条件を外し、OBでもいいことにしました。

これなら、内閣は軍部のいいなりにならなくて済みます。それを、軍部が怖くなった広田弘毅が元に戻してしまったのです。日本の政党政治は骨抜きになります。中国では、蒋介石の国民政府が共産党の打倒に乗り出し、攻撃していました。

共産党は、大長征で逃げ回ります。逃げ回る途中でリーダーになったのが、毛沢東です。そして1936年、西安事件が起きます。張学良が若いときはアヘンを吸って遊んでいるプレイボーイでしたが、実は根性があります。

お父さんが殺されると、蒋介石の国民党と結んで日本に抵抗を始めたのでした。この張学良が西安で、上司の蒋介石を監禁して、こう迫ります。「今、日本が中国に攻めてきているのに、共産党と喧嘩している場合か。一致団結して日本を倒すのが先だろ」と。

毛沢東は、周恩来を西安に送り込みました。西安で、周恩来と蒋介石、張学良が話しあい、 蒋介石は解放され、国民政府と共産党が協力して、日本に対抗しようということになりました。けれど、蒋介石はものすごく執念深い人で、自分を監禁した張学良を許さず、その後、長く拘束しました。

第2次世界大戦後に台湾に逃げたときも、蒋介石は張学良を連れていき、拘束を解きませんでした。解放されたときには晩年を迎えていました。100歳まで生きて、回顧録を残しています。立派な人です。1937年、 盧溝橋事件が起きて、日中戦争が始まります。

首相の近衛文麿は翌年、「爾後、国民政府を相手にせず」という声明を出します。おかしいです。戦争している相手を「相手にしない」とは、どうやって戦争を終わらせるのかという話です。日露戦争を始めるときは伊藤博文が終わらせ方まで考えていました。

それに比べると、いかに国の指導者の能力が落ちていたかということです。相手にしないということは、交渉するという選択肢を自ら捨てることです。交渉しない以上、中国全土を攻め落とさない限り戦争は終わりません。泥沼への突入です。石原莞爾が中国と戦争をしてはいけないといい続けたのがよくわかります。

 





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日本は軍縮会議から離脱
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/12/29(月) 14:23
No. 8087
 
 
「7」と「6.975」の違いが許せない日本は、グランドデザインを見失い、国際協調の枠組みから自ら離脱していきます。1930年に開かれたロンドン軍縮会議は、巡洋艦や駆逐艦などの保有量を決める会議でした。

日本が要求したのは、対英米比で「10:7」で、 最終的に「10:6.975」で妥結しました。 限りなく「10:7」に近いです。首相の浜口雄幸が粘ったからです。ところが、天皇陛下が「10:7」と決めたのに、「10:6.975」で妥協したのはけしからんという、 めちゃくちゃな理由で、浜口は殺されてしまいます。

そして1936年、日本は軍縮会議から離脱します。なんと愚かなことでしょう。当時、アメリカのGDPは日本の3倍以上ありました。 つまり、 軍縮会議がなければアメリカは、日本の3倍以上の艦隊をつくれるわけです。

アメリカは大西洋と太平洋に面していますから、艦隊が10あったとして、太平洋側の日本に向けられるのは半分の5です。アメリカの6割の規模の艦隊があれば、日本の方が有利です。それなのに 「6.975 はけしからん」などといって交渉が決裂すれば、アメリカは日本の3倍くらいまでやすやすと艦隊を強化できるわけです。

明治維新のグランドデザインは、阿部正弘が開国に際して示した「開国・富国強兵」です。この3大方針のうちの「開国」、すなわち国際協調を、日本は捨ててしまいました。張作霖を殺害した日本軍は、満洲でさらに柳条湖事件を起こします。

1932年には、清朝最後の皇帝の溥儀を祭り上げ、満洲国の建国を宣言します。これは放っておけないということで、国際連盟がリットン調査団を満洲に派遣します。リットン調査団は報告書を出しましたが、これが大甘でした。

「満洲国の主権は中国にある」といいつつ、「日本の権益も尊重する」というのです。だから「非武装の自治政府をつくることを提案する」と。満洲の主権が中国にあるのは当たり前の話です。では「日本の権益」とは何でしょう。

勝手に軍隊を送り出して中国から奪い取ったものです。こんな大甘な報告書ですから、「はい、わかりました」と認めてしまえばよさそうなものです。こんな幸運を、日本は自ら蹴とばします。満洲国の承認にこだわって1933年、国際連盟から脱退します。

この年にアメリカで大統領に就任したのが、フランクリン・ルーズベルトです。ルーズベルトは、公共事業に投資するニューディール政策を進め、経済を立て直していきます。ドイツでは1932年7月、ナチスが第1党になりました。

翌1933年1月、大統領ヒンデンブルクは、ナチスの党首ヒトラーを首相に指名します。 ヴァイマール共和国の重鎮は、ヒトラーを操れると思っていたのです。なにしろ最初のヒトラー内閣では、閣僚が20数人いるなかで、ナチスからの入閣はわずか3人でした。

同年2月、国会議事堂放火事件が起きます。ヒトラーは、これを「共産党の仕業だ」と喧伝すると、3月には全権委任法を強引に成立させて、独裁体制を築いてしまいます。放火事件にはナチスが深く関与していたといわれます。1934年、ヒンデンブルクが死去すると、ヒトラーは首相と大統領を兼務し、「総統」と呼ばれるようになります。

これを「第3帝国」と呼びます。神聖ローマ帝国、そしてビスマルクがつくったドイツ帝国に続く3番目の帝国という意味です。日本に続いて、ヒトラーのドイツも、ムッソリーニのイタリアも国際連盟を脱退しました。国際協調の時代は終わりを迎えつつあるのです。

 





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自由な上海で中国共産党が誕生
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/12/29(月) 14:21
No. 8086
 
 
中国の上海には、いろんな租界がありました。いわば列強の植民地です。租界には中国の権力が及ばないので、自由がありました。だから 中国共産党は1921年、上海のフランス租界で誕生しています。

韓国の若き独立運動の志士で、やがて大統領になる李承晩も1919年、やはり上海のフランス租界で臨時政府をつくっています。上海はある意味、自由な街でした。ロシアは、第1次世界大戦中にレーニンが革命を起こし、戦線から離脱していました。

その後、内戦が続いていましたが、1922年、ロシア共産党が勝ち抜き、スターリンが書記長になって、ソビエト連邦が成立します。世界は国際協調と軍縮の時代に入ります。 第1次世界大戦では戦車や戦闘機、毒ガスも登場して、凄惨なことになりました。

「さすがにやりすぎた」「こんな愚かなことをやってはいけない」と、みんなが反省したのです。1921年、ワシントン会議が開かれます。史上初の軍縮会議です。ここで英米仏日の4カ国条約が結ばれました。この時、日英同盟は破棄されました。

ロシアが混乱に陥ったので不要になったということもありますが、中国で火事場泥棒を働いた日本に、欧米が疑惑の目を向けたという事情もあったようです。1925年、ドイツとフランスが、「もう喧嘩はやめよう」と、ロカルノ条約を結ぶと、世界は明るい空気に包まれました。

しかし、同じ1925年にヒトラーの著書 『我が闘争』 が出版されています。中国では、孫文の跡を継いだ蒋介石が、 北京の軍閥政府を倒すために動き始めます。 そして1927年、南京に国民政府をつくります。 孫文は第1次国共合作で共産党と手を組みましたが、 蒋介石は反共クーデターを起こして決裂します。

日本はこれを機に、山東半島に出兵します。蔣介石の軍が北京に入ります。すると、北京で軍閥政府を取り仕切っていた張作霖は北京を捨てて、特別列車で故郷の満洲に向かいます。この列車を日本軍が爆破し、張作霖を殺害します。

張作霖は満洲の大軍閥の総帥で、張学良という子どもがいました。張学良は、アヘンを吸ってはガールフレンドと遊んでいます。「この息子なら簡単に操れて、満洲の利権を奪える」と考え、お父さんを殺したのです。これに張学良は激怒し、宿敵の国民党政権と組んで、日本に抵抗を始めました。プレイボーイでも、中国人の魂を持っていたのです。

 





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アンモニアという独自技術
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/12/25(木) 14:54
No. 8085
 
 
現在建設中の火力発電所も、最初は石炭を使いますが、順次アンモニアに変えていくといいます。日本に再エネの先端産業がない今、政府とエネルギー業界が期待をかけているのが、残された数少ない独自技術「アンモニア」です。

突然、アンモニアと言われても「尿」や「臭い」のイメージしかないかもしれませんが、今、少なくとも日本のエネルギー界においては一つの大きなトピックになっています。アンモニアの化学式はNH3であり、これを燃焼しても、CO2が出ないという点が注目を集めているのです。

そして、これを火力発電に活用することで、2050年までに「ゼロエミッション火力」を実現するという壮大なプランをぶちあげたのがJERAです。JERAは洋上風力事業にも注力しているものの、その根幹にあるのは、やはり火力発電です。

日本のCO2排出の4割を占める火力発電のうち約半分を担うJERAが、2050年までのカーボンニュートラルを宣言する中で導き出した一つの答えが「アンモニア」でした。現在の火力発電は、燃料に石炭を使うものとLNGを使う2種類があります。

石炭を使う発電所は『ボイラー型』、LNGを使う発電所は『タービン型』と呼ばれていますが、我々が目指すのはボイラー型発電所の燃料を、石炭からアンモニアに変えていくことです。さらに、タービン型の燃料を水素に変えていくのです。

アンモニアや水素はCO2を出しません。これらを石炭とLNGに混ぜて燃やすことで、発電量はそのままでCO2を削減することができます。この組み合わせこそ、最も早くてコストも小さい火力の脱炭素化だと思っていますと、JERAの奥田久栄副社長はその狙いを打ち明けています。

実際、JERAはすでに2021年6月から、愛知県の碧南火力発電所の燃料にアンモニアを混焼させる実証実験を始めており、2024年に20%へ混焼割合を引き上げることを目指しています。そして最終的には、2050年までにアンモニアだけを燃やす 「専焼」につなげて、CO2排出をゼロにしたい考えです。

その過程で2030年までに、非効率な石炭火力をすべて停廃止するというのです。先述の通り、アンモニアの化学式はNH3であり、水素(H)を含むことが特徴です。このため、政府の戦略では「水素・アンモニア」と一つの括りで紹介されることも多いのです。

欧州や中国が力を入れる水素ではなく、あえてアンモニアを本命視する背景には、水素という新しいエネルギー資源においても日本は「輸入国」にならざるを得ないという事情があるからです。水素は、現在ブルー水素やグリーン水素といった区別がされており、今後は100%再エネから作られる「グリーン水素」が主流になってくるでしょう。

しかし、前提条件として、再エネによる発電量が大きく余っていないと、通常の電力需要を賄った上で水素の製造に振り向けることができないでしょう。このため、水素生産地として有力視されるのはノルウェーやオーストラリアなど、広大な敷地を背景に再エネが余る国々です。

一方で日本は適地も少なく、再エネの導入率を上げるので精一杯のため、結局は水素も輸入に頼ることになるのです。しかし、実は水素を輸送する手段はまだ確立されていません。そのため、水素を窒素と化合させてアンモニアに変えた上で輸送するというのが、現実的な選択肢なのだといいます。

「(オーストラリアのように)水素が地産地消で使えるところは、わざわざアンモニアを使う必要はありません。諸外国でアンモニアが注目されない理由はここにあります。そして一度水素から作ったアンモニアを、輸入後にもう一度水素に分解するよりは、直接燃やしたほうがロスは少なく、低コストで環境に良い。ボイラー式の発電所であればアンモニアを上手に燃やせると踏んだので、まず直接燃やすことにしました」と奥田氏は話す。

 





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宇宙の中心はどこ
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/12/23(火) 19:34
No. 8084
 
 
宇宙の中心が地球であると考えられていたのは、太陽や月、星々が、毎日地球のまわりを回っているように見えたからです。コペルニクスは、地球中心の天体理論の限界を悟り、太陽中心の理論を打ち立て、従来の説を覆しました。

太陽は速いスピードで動いています。地球は太陽のまわりを秒速約30km (時速10万km以上)で公転し、太陽は天の川銀河の中心のまわりを時速約86万kmで公転しています。銀河の中心から太陽までは約2万6000光年ですが、太陽は2億年以上かけて天の川銀河の中心を回っていると考えられています。

銀河系の直径は約10万光年、太陽は銀河系の中心から約2万6000光年の位置にあります。太陽系全体はいて座の方向に向かって、秒速240kmで移動しています。コペルニクスの時代、宇宙とは太陽系や遠くの星々のことでした。

遠くの星までの距離は分からず、宇宙全体の大きさも未知でした。星雲と呼ばれる天体の多くが天の川銀河に似た別の銀河であることが分かったのは、1920年代のことです。 しかも、宇宙全体は、風船をふくらましたように膨張していることも同時に分かりました。

風船の表面全体を宇宙にたとえると、どこかを中心に決めると、そこからほかの天体は飛び去って行くように見えます。これはどの天体を中心にしても同じです。つまり、宇宙全体には、ここが絶対的な中心だと言えるところは、どこにもないのです。私たちの銀河をふくらむ風船の表面を宇宙にたとえると、ここが本当の中心と言えるところはないのです。

 





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アインシュタインが相対性理論
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/12/23(火) 19:32
No. 8083
 
 
光の速さは真空中では、秒速約30万kmです。1905年、アルベルト・アインシュタインが発表した論文の中で、光の速さは宇宙のどこであっても一定であることを示しました。ちなみに、光が水などの媒質中に入ると、少し遅くなります。

光の速さはいつ分かったのかというと19世紀中頃のことです。光の速さを史上初めて科学的に求めたのは、デンマークの天文学者オーレ・レーマー (1676年)でした。 レーマーは天体現象を利用して光の速さを求めたのですが、大きな誤差がありました。

地上で初めて光の速さを測ることに成功し、本当の速さに近い値を出したのは、フランスの物理学者アルマン・フィゾー (1849年)です。雷が光っても、すぐに音がしないのはなぜかというと音の速さが、光の速さより遅いからです。

雷の光は音より先に届きます。音速は常温の空気中では秒速約340m、水蒸気中では約470m、水中では約1500mと速くなりながら変わりますが、光速は音速の約90万倍近くあります。このため雷の音は、光を目にしてから耳に届くことになるのです。

光より速いものって、物質のなかにはありませんが、超光速はあります。宇宙は、物質も空間も時間もないところから、突如想像を絶するエネルギーとともに誕生したと考えられています。このとき、空間と時間、すなわち「時空」も誕生しました。

最初、目に見えないほど小さかった時空は、誕生後、光速をはるかに超えるスピードで一気に広がり、現在のような広大な宇宙となりました。宇宙にある物質は光速を超えられませんが、物質を入れている時空は物質ではないので、光速度の限界には縛られません。

こうして宇宙全体は、現在も超光速で広がり続けていると考えられています。宇宙は138億年前のインフレーションという猛スピードの膨張から始まり、ビッグバンでさらに拡大し、現在も膨張を続けています。

観測では、宇宙が始まってから38万年後以降の様子が分かっています。アルベルト・アインシュタイン (1879〜1955年)は、スイスの特許局で技術者として働きながら物理学を研究し、1905年に3つの画期的な論文を発表しました。

そのうちの1つ「動いている物体の電気力学」という地味なタイトルの論文が世にいう特殊相対性理論の論文です。この論文でアインシュタインは、光速度は一定であり、当時真理とされていたニュートン力学は、物体が光速に近づくと成り立たなくなる近似的な理論であることを示しました。

アインシュタインが相対性理論で示したこと
@どんな物体も光の速度(光速)を超えられない A 光速に近づくと、外からは縮んで見える B運動している物体は、時間がゆっくり進む C重力が強いところでは、時間の経過が遅くなる D 重力があるところでは、まわりの空間がゆがむ E物体には、莫大なエネルギーが潜んでいる (CとDは、1915−16年発表の「一般相対性理論」の結論)

 





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石炭しか頼れなくなった
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/12/23(火) 19:30
No. 8082
 
 
火力への依存を深める中で、石炭火力への再評価は進みました。LNG火力は一般的に、ミドルロードと呼ばれ、再エネ発電の周波数変動を吸収するための小回りが利く電源として認識されており、常に安定して大規模な出力のできるべースロード電源ではありません。

それまでベースロードを担ってきた原発がほぼ全停止となったことから、日本では発電コストだけで見ると安い石炭火力を重視する流れが出来上がってきたのです。2010年代は、日本中の電力会社が滑り込みのように石炭火力の計画を打ち出しました。

その理屈は、最新鋭の石炭火力発電はほぼ稼働していない老朽石油火力発電よりはCO2排出量がマシであること、もう一つはガス会社も参入できるLNG火力と比べると、石炭火力なら電力会社が競争力を保てるということも背景にありました。

当時の、資源エネルギー庁は、地方電力が進めるLNG火力計画さえも石炭火力に置き換えようという議論が真剣に行われているほどでした。このように、福島原発事故という世界エネルギー史上に残る悲惨な事故を受け、日本が火力へと一気にシフトしたことは現実的に唯一の選択肢であり、火力発電が間違いなく、その後の日本の安定供給を支えてきたことは歴然たる事実です。

ただ世界を見ると、この日本の火力シフトの時期は、まさに世界がパリ協定へと向かっているタイミングでした。そんなタイミングに、日本では自国特有の事情を重視するなかで「安定供給のためなら脱炭素は後回しでいい」もしくは「本気で脱炭素したいなら原発を動かす」というスタンスが支配的になったことも、重要な事実でしょう。

もう一つ、この時期の日本のエネルギー界の重要な転換点として指摘しておきたいのが「太陽光バブル」です。2012年7月、野田佳彦政権は「再生可能エネルギー特措法」を施行します。再エネのFIT (全量買取制度)を盛り込んだこの法律が、日本の再エネ拡大に大きなインパクトをもたらしたのは間違いのない事実でしょう。

だが、同時にエネルギー業界に少なからぬ歪みも生んだのです。このFITは、福島事故後に再エネへの関心を一気に強めたソフトバンクグループの孫正義社長が、菅政権と資源エネルギー庁の部長を巻き込む形で強力に推進したものですが、その結果、太陽光発電の買取価格が1キロワット時当たり4円(20年買い取り保証)と異様に高いものになりました。

これが「太陽光バブル」をもたらしました。特にコスト削減努力をしなくとも、参入すれば誰でも稼げる価格設定であったため、エネルギーに全く関心のない企業や、ときにはグレーな企業までも参入し、太陽光発電で稼ごうとする流れが一気に起きたのです。

しかも、そうした企業が発電する不安定な太陽光の電力を制御するのは、送配電を担う電力会社になります。このバブルが、もともと再エネに前向きではなかった電力会社がより再エネにアレルギーを感じるようになる一因となった側面は確かにあるはずです。

一方で、レノバを始め、再エネの未来を信じる企業たちがこのタイミングに台頭してきたのも事実です。だが、電力会社の再エネへのアレルギーは、(原発の再稼働を前提とした) 送電網の開放の遅れなどとなって顕在化し、世界で再エネ価格が一気に下落していくこの時期に、日本では再エネを通じたイノベーションの芽が摘まれてしまうことになるのです。

結果、日本には大手の電ア力・ガス会社が10社以上あるにもかかわらず、この時期に台頭した「グリーン・ジャイアント」のように未来に賭けた「変身」を遂げる企業は一つも出てこなかったのです。

 





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日本は火力大国へと変貌
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/12/23(火) 19:28
No. 8081
 
 
京都議定書が発効した2005年、世界は「原子力ルネッサンス」に沸いていました。温暖化対策の観点から、世界で毎年30基の原発建設が予測されていたほどで、三菱重工業、日立製作所、東芝と3つもの原発メーカーを抱える日本は、原発輸出を国策の一つに掲げました。

2006年には、経済産業省の資源エネルギー庁が「原子力立国計画」をぶち上げ、さらに東芝が米原発大手のウエスチングハウスを買収したことで日本は名実ともに原発立国へ進んでいきました。

その政策の是非はさておき、原発を主軸に据えたことに加え、当時はまだ太陽光産業でもギリギリ競争力を保っていたことから、実は、脱炭素(当時はまだなかった言葉だが)をめぐる目標も野心的な数字が掲げられていました。

たとえば、2009年の新成長戦略では「環境・エネルギー大国」がうたわれ、2010年のエネルギー基本計画では、2030年までの目標としてこんな大胆な数値が盛り込まれていたのです。

電源構成に占めるゼロ・エミッション電源(原子力及び再生可能エネルギー由来)の比率を約70%(2020年には約50%以上)とする。(現状34%)2021年現在のエネルギー基本計画で、2030年のゼロ・エミッション電源比率目標が50%台で議論されていることを踏まえると、10年以上前のこの数字の意欲が見て取れます。

そして、これは世界全体で見ても高い数字だったのです。これを一変させたのは、もちろん2011年の福島第一原発の事故です。事故後、すぐに民主党の菅直人政権が全国の原発停止に動いたこともあって、各電力会社は安定供給のため、休止中のものも含めて火力発電を一斉に焚かなければならなくなりました。

象徴的だったのは、菅首相が2011年5月6日に中部電力の浜岡原発の停止を要請したことで、中部電力は管内のLNG (液化天然ガス) 火力を全開運転するための燃料確保に追われ、カタールから急遽大量のLNGを調達しなければならなくなったことです。

中部電力関係者は否定しますが、このときのLNG価格は法外なものだったと業界内では語られているそうです。いずれにせよ、東日本大震災を機に日本は「火力大国」へと変貌することになるのです。

特に、石炭と比べるとCO2排出量が少ないことから「クリーン」とされ、1970年代から日本が主導して世界の市場を作ってきたLNGを原料とするLNG火力はその中心を担う存在となりました。

世界最大のLNG輸入国となった日本は、中東などLNG産出国から足元を見られた「プレミアム価格」を吹っ掛けられているとして、交渉力を高めるための世界会議を主催するなど、LNGを中心としたエネルギー政策に舵を切っていくのです。JERA(ジェラ)は、LNGを本丸とする経産省の再編構想のなかで「世界一のLNGバイイングパワーを持つ企業」として登場したものだったのです。

 






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