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  アメリカの本土防衛とは  仲條拓躬2026/02/19(木) 17:12 
  自転車の青切符導入について  仲條拓躬2026/02/19(木) 17:06 
  星の死である超新星爆発  仲條拓躬2026/02/18(水) 19:08 
  独自の意見を模索する  仲條拓躬2026/02/18(水) 19:05 
  顕微鏡が明らかにした世界  仲條拓躬2026/02/17(火) 16:32 
  マリ・キュリーの見た地上の星  仲條拓躬2026/02/16(月) 18:22 
  海の色合いとは  仲條拓躬2026/02/16(月) 18:21 
  オリンピックで有名になったクオーツ  仲條拓躬2026/02/16(月) 18:12 
  大物であった久原房之助の人生  仲條拓躬2026/02/16(月) 18:10 
  医学の進歩を千年以上遅らせた理由  仲條拓躬2026/02/13(金) 14:42 






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アメリカの本土防衛とは
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/19(木) 17:12
No. 8150
 
 
多くのアメリカ人は第二次世界大戦前の事を、産軍複合体が社会と経済に強い影響力をふるうことがなかったので比較的平和な時代だったと考えていたそうです。だが実際、アメリカ史における「戦時」は短くありません。

戦争の準備期間まで考えれば、アメリカ史の大部分になってしまうのです。20世紀の100年間だけを考えてみても、アメリカが実際に戦争をしていたのは19年間。これに冷戦を戦争の準備期間だとすると、戦争と戦争準備だけで50年間となってしまいます。

20世紀の半分を、戦争と戦争準備で過ごしているのです。アメリカが独立宣言したのが1776年から現在までの期間でも、この比率はあまり変りません。アメリカ合衆国の歴史全体において、およそ13%を大規模な戦争が占めています。

これにアメリカ先住民との戦闘と冷戦の期間を加えると、アメリカ軍が戦闘しているか、戦争の準備を行っている時間は、全体の56%にまで跳ね上がります。戦争と戦争準備は、アメリカにとっては珍しいことではないのです。

アメリカは本土防衛の経験が乏しいと思います。最後にアメリカ本土に対して大々的な攻撃が行われたのは1812年の米英戦争のことで、この時にはイギリス軍が首都ワシントンを占領して、ニューオリンズに攻撃を仕掛けています。

外国の軍隊がアメリカ本土に侵攻して来る可能性は、その後の100年ばかりは少なかったが、20世紀のアメリカ史には、本土を攻撃される事に対するアメリカ国民の恐怖が読み取れる事例が、見受けられます。

第一次世界大戦では、メキシコがドイツ側に加わってアメリカを背後から襲う可能性がある。第一次世界大戦後には、イギリス軍がアメリカ本土を攻撃した場合に備えてレッド計画を立案している。第二次世界大戦前から大戦中にかけて、アメリカ国民は、日本軍がアメリカ西海岸を攻撃して、占領するのではないかという現実離れした危機感を抱いていた。

また、ドイツ軍のスパイ組織がアメリカ国内にいてナチスのアメリカ侵攻を助けるという恐怖もあった。これらの脅威はどれ1つとして現実化しませんでしたが、これらの脅威に対処するために立案しようとしていたのです。アメリカが真剣に本土防衛に取り組むことになったのは、ソ連との冷戦時代です。

ソ連が原爆開発に成功した瞬間から冷戦が終結するまでの40数年、ソ連との核戦争が起これば、人類が滅亡する恐怖心は、米国人一人ひとりの心に重くのしかかっていました。冷戦時代には、アメリカ本土が攻撃される可能性があるだけでなく、核戦争の場合にはアメリカ本土こそが最前線となるのだと、アメリカ人ならば誰でもよく理解していたのです。

冷戦時代のアメリカ人の心理は、当時のアメリカ人が、世界の運命は米ソ首脳というごく少数の人間たちの手に握られており、お互いに疑心暗鬼に陥っただけでもとんでもない災厄が訪れるという考え方のもとに生きていたという事実です。

何世代にもわたって、アメリカ人は核戦争の危険性と本土に対する脅威とを、感じながら生きてきたのです。当時のアメリカ人は、一発でも大陸間弾道弾が発射されれば、それを止める術はないということを、誰もが理解していました。少なくともレーガン大統領が戦略ミサイル防衛構想を主張するまでは、核ミサイルは防御不可能だとされていたのです。

可能なのは「抑止力」で、ソ連も結果が人類滅亡であるとわかって入れば、先制攻撃を仕掛けることはない、どちらも確実に破滅するという相互確証破壊がアメリカの安全保障の理論的基礎となり、それによってアメリカ人の生命と財産が守られてきたのです。

 





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自転車の青切符導入について
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/19(木) 17:06
No. 8149
 
 
ヤフーニュースによると2026年4月1日から導入される、自転車の「青切符」は、これまでの自転車の交通取り締まりのあり方を大きく変える制度となっています。現在、自転車の交通違反に対しては、警告にとどまるか、刑事罰の対象となる「赤切符」のいずれかしかありませんでした。

しかし、赤切符は警察・検察双方にとって手続きが非常に重く、実際に起訴されるケースが少ないため、取り締まりの実効性が低いという課題がありました。一方で、自転車運転者の法令違反が原因で、歩行者や自転車運転者が死亡・重症となるケースがあります。

様々な事案が発生しており、交通ルールが順守されていれば、悲惨な事故の防止に繋がった可能性があると指摘されていました。 今回の法改正により、16歳以上の自転車運転者を対象に、比較的軽微な違反であっても反則金の支払いを求める制度が適用されます。

対象となる違反は、信号無視、一時不停止、歩道での徐行違反、通行禁止場所の走行など、113種類にのぼる見込みです。反則金の額は違反内容によって異なりますが、概ね3000円から1万2000円程度に設定される予定です。

一方で、酒酔い・酒気帯び運転や、相手に危険を及ぼすような極めて悪質な走行については、これまで通り「赤切符」が交付され、刑事罰の対象となります。警察庁はこの新制度の導入により、自転車利用者の規範意識を高め、自転車関連事故の抑止を目指しています。

青切符の導入は、自転車利用者の安全意識を高め、より慎重な運転を促すと思われます。信号無視や一時不停止、ながら運転といった違反が反則金の対象となるため、自転車利用者は交通ルールをより意識するようになるでしょう。

危険な運転行為が減ることで、自転車単独事故や自動車との衝突事故の減少につながる可能性があります。自転車の危険行為が抑制され、歩道での歩行者との接触事故も減少するかもしれません。ひとつでも事故が減り安全安心な日本国になることを希求します。

 





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星の死である超新星爆発
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/18(水) 19:08
No. 8148
 
 
地球が生まれていない遠い昔のことです。冷たくて希薄なガスが浮かんでいました。中身は水素とヘリウムだけです。ガスの濃い部分が自己重力で収縮し、回転とともに平たくなっていました。中心部分ではガスが収縮するにつれて内部の原子同士が近づき、動きが活発になり、温度が上昇していきました。

やがて十分に高温となり、天然の核融合炉になったのです。漆黒の闇の中で、原子は物理法則に従って出会い、くっついたのです。やがて光が暗闇を照らしました。恒星の誕生です。水素原子が核融合して、ヘリウム原子が形成されていきました。

それから数十億年が過ぎ、星はすっかり年を取りました。もっていた水素燃料をみんなヘリウムに変えてしまったのです。近づく死を前に、星は幼少期のように再び内部で核融合反応を行います。

今度は、たくさんあるヘリウム原子3個が一つになって我らが炭素原子へと変身し、宇宙空間へ旅立ちました。天の川銀河の別の場所でも、恒星の誕生と死が続いていました。物語のもう1人の主人公も、死にゆく星の中心部で形成されました。

星の死である超新星爆発の中で、合計238個の陽子と中性子が融合してウラン原子になりました。それぞれ別々の場所でできた炭素原子とウラン原子、2個の原子は天の川銀河をどこまでもさまよいました。炭素原子は長い旅をして、小さな惑星の一部となりました。

そして数億年後、複雑な構造をした分子の一員となります。この分子は自己複製という珍しい特徴をもっていました。これこそが生命誕生の立役者であるデオキシリボ核酸、DNAです。生命の始まりには、炭素原子が微力ながら貢献したことになるといいます。

深い海の底に出現した単細胞の生命体にも、古代魚の虹色のうろこにも、海から陸に上がった両生類のかぎ爪にも炭素は必ず入っていました。どんな形を取るにせよ、炭素原子には自己意識も自由意志もなかったのです。

自然の法則に従って作動する宇宙装置の、ごく小さな歯車の一つでしかなかったのです。 では超新星爆発でできたウラン原子はどうだろうか。生まれたばかりの地球が燃えさかっていた時、そこにウラン原子が引き寄せられました。

超新星爆発の衝撃波に運ばれたか、太陽の重力に引っ張られたか。ともかくウラン原子は地球に飛び込んで、奥へ奥へと潜っていきました。地球は表面が冷えた後も、内部は融けた岩石や金属のマグマでどろどろしていました。

マグマはゆっくりと回転し、ウラン原子もその流れに乗るうちに地表へと押し上げられていきます。地球の深部は温度も圧力もすさまじいのですが、ウラン原子はびくともしなかったのです。原子はとても小さくて固く、古くて丈夫なのです。

最初の頃は地表の岩石にウラン原子がたくさん存在していたが、長い時間とともに岩石は深く沈み込み、高いマツ林にすっかり覆われました。万物は原子でできています。もちろん我々も。でも1世紀終盤になるまで、原子内部が熱狂のるつぼだとは誰も知らなかったのです。天の川銀河の両端に別れた2個の原子が、ついに出会うときが来たのです。

 





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独自の意見を模索する
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/18(水) 19:05
No. 8147
 
 
北朝鮮が様々なミサイルを発射してから、日本の報道は常に北朝鮮への制裁問題です。国連安保理15カ国のうち日本の制裁案に反対するのは、中国とロシアだけです。結局、中国・ロシア・北朝鮮という昔の共産主義が庇っているのです。

アメリカの高官は中国・韓国・日本を訪問して、協議に向けて中国政府との話し合いを模索します。その協議の場ならば、アメリカは北朝鮮と個別で会合してもよいといいます。これは、北朝鮮を協議に参加させるための米国の提案です。

北朝鮮は、前々から米国との直接交渉を求めていました。米国は、直接交渉には応じないと言いながらも、米朝が直接対話しても言いというのです。以前米国はマカオの銀行が北朝鮮政府のマネーロンダリングに協力していると非難して、北朝鮮の政府系企業の銀行口座を凍結しました。

北朝鮮政府は、マカオの口座の資金は違法なお金ではないと反論して、正当性を認めない限り協議には参加しないと宣言しましたが、米国は口座の凍結を解除するつもりはないといいました。日本政府は、安保理で北朝鮮に経済制裁を行う決議でないと意味がないと主張しています。

だが、日本政府の制裁案は、土壇場で安保理評決が延期され、中国による北朝鮮への説得の結果を待つことになりました。日本が強硬姿勢を崩せないのは、米国が日本の強硬姿勢を強く支持しているからです。

米国が赦してやれと言えば、日本政府は直ぐに態度を軟化させるでしょう。戦後のマインドコントロールされている日本は、米国が反対する外交政策は出来ません。日本にとって米国は唯一絶対の大親分なのです。これからの高市政権も同じ道を辿ることでしょう。

中国は、日本や米国が北朝鮮に経済制裁するのは構わないけど、中国が北朝鮮に経済制裁を強制させられるのは嫌だと考えています。北朝鮮の経済を支えているのは、中国なので国連制裁を発動すれば経済活動の息の根が止められてしまい、北朝鮮は追い詰められて、朝鮮半島での戦争の可能性が高まり難民が中国や韓国に入り込む事が考えられます。

日本政府が提案した北朝鮮への制裁案には、イギリスやフランスといった欧州も賛成していましたが、それは、国連の機能を維持する為に、日本に賛成していたのです。国連は米国中心の世界体制に意見できる唯一の機関なので国連の力を何としても維持したいと考えていました。

一方、アジア周辺諸国はというと中国側を支持して日本に対する批判的な姿勢を強めていました。そうなれば日本を外してアジアの問題はアジアで解決していく体制を作るかも知れません。

日本国が、孤立しない為にはアメリカの言いなりなるだけではなく、他国の意見も取り入れ独自の戦略を練った方が良いのではないかと思うのです。日本が独自の戦略を模索し提案して米国には十分理解してもらうことが大切だと思うのです。

 





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顕微鏡が明らかにした世界
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/17(火) 16:32
No. 8146
 
 
十六世紀後半に顕微鏡が発明されるまで、人の目に見えないものは「存在しないもの」でした。細菌やウイルス、寄生虫といった微生物、血液に含まれる白血球や赤血球、毛細血管のような細かな血管を肉眼で見ることはできません。

ゆえに、その存在は全く知られていなかったのです。イギリスの科学者ロバート・フックは、自作の顕微鏡を用いて昆虫や植物などを仔細に描写し、1665年に『ミクログラフィア』を著した。

その中でフックは、コルクを顕微鏡で観察すると小さな孔が無数に見えることを報告しました。それはまるで、修道僧が住む質素な独居房のようだった。フックはこの孔に、「小さな部屋」という意味で「セル(細胞)」と名づけました。

これは、生物学における極めて重大な発見でした。のちに、それは単なる「部屋」ではなく、生物を構成する最小の「単位」だと判明するからです。その後、生物学に大きな進歩をもたらしたのは意外な人物でした。

アントニ・ファン・レーウェンフックというオランダの織物商人です。レーウェンフックは、布地の縫い目や織布の糸を確認するため、拡大鏡をよく使っていました。彼はレンズに強い関心を持ち、500個以上のレンズを自作しました。

中には270倍にまで拡大できるものもありました。そのレンズで水滴を観察した時、彼は驚くべき世界を目の当たりにするのです。そこには、目に見えない「微小動物」が無数に存在していたのです。レーウェンフックは、さらに人体をも観察しました。

肉眼では見ることができなかった血球や精子を観察し、口の中にも微小動物(のちに細菌と呼ばれる) を初めて見つけたのです。ところが、こうした微生物が、単に「小さい」だけでなく、当時もっとも多くの人命を奪っていた「感染症の原因」であるということは、十九世紀後半まで知られなかったのです。

病気が流行することは知られていましたが、それが微生物によるものだとは誰も気づかなかったのです。十八世紀以前は、多くの科学者が流行病の原因を「瘴気」と考えていました。瘴気とは「有毒な空気」のことです。

腐ったものから発生した有毒な気体が、さまざまな病気の流行を引き起こすと考えられていたのです。マラリアの語源がイタリア語の「悪い空気(マルアリア:mal aria)」であることも、瘴気説の名残です。

また、過去何世紀にもわたってヨーロッパやアジアで大流行したペストは、致死率80パーセントにもおよぶ恐ろしい病気でした。医師たちは自らの感染を恐れながら、奇妙なくちばしのついたマスクをかぶって患者を診療しました。

くちばしの部分には大量の香料が詰められていました。これによって、瘴気から身を守れると考えたからです。もちろん現在は、ペスト菌という細菌が原因であることがわかっています。

微生物が病気の原因になるとわかったのは19世紀後半であり、抗生物質の開発は20世紀以降のことです。それ以前は、病気の根本的な原因はわかっておらず、その特効薬もなかったのです。

現代に生きる我々にとって、細菌やウイルスは病気を引き起こす恐るべき存在です。しかし、18世紀以前の人たちからすれば、目に見えない生物が体内に入り込んで増殖し、それが多くの病気を引き起こすなど、あまりに荒唐無稽に思われたに違いないでしょう。

そのような時代に、瘴気説に異を唱えた医師がいました。イギリスのジョン・スノウです。1849年、ロンドンでコレラが大流行した際、スノウはその原因を詳しく調べたいと考えました。コレラは、激しい下痢や嘔吐を起こす病気です。

今の言葉でいえば急性胃腸炎です。スノウは、もし空気に原因があるなら肺に症状が出るはずだと考えました。コレラの症状は胃や腸に現れます。この事からスノウは、病気の原因となる何かが口から入り、これが胃や腸に異常を引き起こすのではないかと考えました。

コレラが糞便や吐物を介して広がる細菌感染症だとわかるのは、約40年近く後です。スノウは当時から病因をほぼ正しく言い当てていたのです。しかし、瘴気説が有力だった当時、スノウの報告は医学界から黙殺されました。

1854年、コレラが再度流行した際、スノウは町の地図に感染者がいた場所を細かく書き入れました。この作業で彼は、感染者がブロードストリート周辺に不自然に密集していることに気づきます。その中心には、住民が使うポンプがあったのです。

このポンプの水が病気の原因であるのは明白でした。スノウがポンプの取手を取り外し、水を使えないようにしたところ感染者は激減し、コレラの流行は3日で終息しました。のちの調査で、排泄物がブロードストリートの井戸に漏れ出しており、これが水を汚染していたことがわかったのです。

だが、コレラの原因が水にあるというスノウの報告は無視され続け、相変わらずコレラは定期的に流行しました。下水設備はなかなか改められず、スノウの提言は公衆衛生に反映されなかったのです。やはり瘴気説を捨てられなかったのです。

 





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マリ・キュリーの見た地上の星
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/16(月) 18:22
No. 8145
 
 
舞台はパリ。1898年のある朝、キャンバス地の袋を積んだ馬車がロモン通りを走っていました。袋の中身は、はるばる東欧のボヘミアから取り寄せたくず鉱石です(その中にはウラン原子も含まれていたはず)。

馬車が停まったのは粗末な小屋で、以前は近くにある医学校の死体置場でした。小屋で待っていたのが31歳のマリ・キュリー、それまでの物質観を塗り替えた科学者です。(我らの炭素原子は目の網膜に存在していた) 薄汚れた大きな袋を見てマリは小躍りします。

エックス線発見からまだ数年しかたっておらず、マリと研究仲間で夫でもあるピエールは、皮膚や壁さえも透過する驚きの性質が生まれる仕組みを突き止めたかったのです。夫妻のお目当ては岩石に含まれるピッチブレンド鉱石でした。

現在は閃ウラン鉱と呼ばれ、エックス線に似た放射を生み出す物質です。ひもを切って袋の口を開けると、鈍い茶色の鉱石が出てきました。松葉も混ざっていて、さわやかな香りが漂う。これからピッチブレンドから物質を分離しなければならない。

それは想像を絶する重労働で、のちにマリは「その作業が生活のすべてとなり、まるで夢の中みたいだった」と書いています。劣悪な環境のなかで夫妻はウラン含有量が50〜80パーセントのピッチブレンドを精製しました。

抽出された物質はガラス容器に入れて壁際に置かれました。これだけでも十分に立派ですが、マリとピエールはもっと希少な獲物を狙っていました。2人はさらに3年かけて何トンもの鉱石を精製し、1グラムのわずか10分の1という微量の物質の分離に成功します。

それが、マリがラジウムと名づけた物質でした。ほとんどの物質は高温にさらされると性質が激変しますが、貴重なラジウムは極端な温度にも全く影響を受けないことがわかりました。不思議な性質はほかにもありました。自発的にエネルギーを出すのです。

化学反応ではない未知の仕組みが働いているようです。マリはそれを放射能と呼んだ。計算すると、ラジウムが発するエネルギーは同じ量の石炭を燃やした時よりはるかに大きい。放射能は化学的なエネルギーの10万倍にもなりそうだ。

マリとピエールはこの時点では理解しきれていなかったが、これは分子がもつエネルギーと、もっと深いところに蓄えられたエネルギーの違いでした。実験小屋の棚には、ピッチブレンドの精製に使用したビーカーや瓶がずらりと並ぶ。

ある夜、夕食後に小屋に行ってみた夫妻は驚いた。ガラス容器がぼうっと光を発しているのです。マリはガス灯をつけようとする夫を制した。瓶やフラスコや試験管がどれも青っぽく光っているのです。

「粗末で貧相な小屋で光を放つ試験管、それは地上の星だった」とマリは後年記しています。放射能を有する原子の内部で何かが起きています。青い光はそのせいに違いない。マリの出した結論は正解でした。

何千年ものあいだ、原子は不可分なものとされてきました。そもそも原子を意味するatomという単語が、ギリシャ語で「切り分けられないもの」という意味です。だから原子は物質の最小単位となります。

夫妻が見た「地上の星」は、原子それ自体が一つの世界であり、誰も知らなかった舞台で、誰も見たことのない活動が行なわれている証拠でした。しかも化学反応の影響を受けないときている。謎を解くには、新しい戦略、新しい自然法則、新しい技術が必要です。

マリ・キュリーが使ったノートや料理本は、1世紀以上を経た今でも放射能をもっています。1906年、ピエールが馬車にひかれて即死します。マリはその後2年間精力的に研究を続け、66歳、再生不良性貧血で死去しました。

放射線を日々浴び続けたせいではないかといわれています。マリは、自分が世に送り出したラジウムが医療や産業に貢献すると信じていたから、その危険性は頑として認めなかった。しかし先見の明を持つ作家H・G・ウェルズが、ほどなくその不吉な側面に気づいてしまいます。彼は科学の最新成果を取り入れて、胸踊る物語に仕立てる天才でした。

タイムマシンを登場させ、宇宙人の襲来を描いたウェルズは、原子が兵器になる未来世界を想像しました。1914年に出版された『解放された世界』のなかで、彼は「原子爆弾」という言葉をつくり、無力な一般読者に向けて発射しました。

設定は1950年代で、当時からすると想像もつかない遠い未来です。ライト兄弟が初めて飛行機で空を飛んでから10年しかたっていないのに、ウェルズは原子力でイギリス海峡を渡る飛行機を想像したのです。

ゴーグルとヘルメットを着用したパイロットは、目の前に現われたベルリン市街をまっすぐ見すえています。表情を引き締めた彼は前かがみになって重たい爆弾を持ち上げ、針を歯でひっこ抜き、腕を伸ばして下に落としました。

爆弾は目標に命中してさく裂し、すさまじい爆風で飛行機は左右に激しく揺れます。ベルリン中心部は、火山が噴火したように火の海となりました。科学が小説に追いついたのは、それからわずか20年後のことだったのです。

 





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海の色合いとは
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/16(月) 18:21
No. 8144
 
 
目に飛び込んでくるのは、海中ではね返った青い光です。白っぽい太陽光には、さまざまな色の光が混ざり合っています。色の違いは光の波長の違いで、波長が短い方から紫、 藍、 青、緑、黄、 橙、赤に見えます。

太陽光が海の中に入ると波長の長い赤などは吸収され、波長の短い藍や青はあまり吸収されません。それが水分子や水中の微粒子などに当たってはね返ると、我々の目に飛び込んで青く見えるのです。

青にも様々な色合いがあるのはなぜかというと青の波長にも幅があるためです。海中に入った光をはね返す物質には様々なものがあります。水分子のほかに、海底の砂や石、プランクトン、浮遊している微粒物質などです。

物質により特定の波長の光が吸収され、吸収されなかった光が反射します。そのため、反射する光も物質によって異なるので違った見え方をするのです。熱帯の海はなぜ美しい青色なのというと透明な海水と白い砂の海底のおかげです。熱帯の海の浅いところは栄養分が少なく植物プランクトンがあまりいないので綺麗な透明です。

その上、サンゴ礁が作った白い砂の浅い海底は、光を均等にはね返すので、その「白」と「青」が混じって美しい色になるのです。 夜の海が暗く見えるのはなぜかというと月の光がとても弱いためです。月の光は太陽に比べてとても弱く、満月でもおよそ37万分の1の明るさです。

弱い懐中電灯で夜の海を照らしても海中が見えないのと同じで、エネルギーの少ない月の光は海の水を透過できないので黒っぽい色にしか見えません。満月に照らされる夜の海。月の弱い光は海に反射してしまい、黒に近い青になります。

 





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オリンピックで有名になったクオーツ
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/16(月) 18:12
No. 8143
 
 
クオーツ時計はクオーツ片を使い、電流を流すと規則正しく振動し、LSIを使用して、正確に時を刻む時計で水晶発振時計と言います。クオーツとは水晶という意味で、反射的に「時計」を想像する人が多いと思います。

この「クオーツ」が日本で初めて登場したのは、東京オリンピック(1964年)の時でした。大会の公式時計に使われ、一躍世界に日本の時計の優秀性をアピールしました。このクオーツを武器に、日本は世界の時計市場に進出し、ついには時計王国スイスを追い抜きましたが、それまでの道のりは長かったのです。

クオーツを開発したのは服部セイコーグループです。しかし、セイコーが初め開発を目指していたのが「音叉式」という、まったく違う技術の開発でしたが、この音叉式時計の特性を持っていたのはアメリカの会社で、商品化の許可がどうにもおりないので、それなら、クオーツを開発しようということになり、苦労の末に完成したのです。

世界初のクオーツ式腕時計は、当時の価格は45円です。庶民にはダイヤの指輪なみの値段でしたが、今では価格もぐっと下がり、その優秀性が全世界に認められ親しまれています。

ちなみに、電池の寿命がくると、クオーツの腕時計は進んだり、遅れたりせず、パタっと止まるそうです。中には寿命がきたら、秒針が2秒おきに動いたりするものも出ているそうです。

 





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大物であった久原房之助の人生
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/16(月) 18:10
No. 8142
 
 
戦前の昭和初期には政治勢力が4つありました。一つは天皇周辺の宮中グループで、これは元老、首相経験者や大臣、侍従長、宮中高官、それに枢蜜顧問官、貴族院議員でもあった華族の大部分が含まれていたと言います。

二つ目は軍部、とくに陸軍で、中堅、小壮軍人が上層部を動かしていました。三つ目は政党で、1928年の第一回普通選挙から、政局に影響があったのは政友会、民政党の二大保守政党で、1940年にすべて解消しました。

四つ目は官僚で、外務、内務、大蔵、商工各省の官僚が、行政の実権を握っていました。このような時代に久原房之助と言う大物がいましたが、毛嫌いされていたので、この四つのいずれにも足場を築けませんでした。

それは田中好義一内閣の退陣の頃から「重臣ブロック」という言葉を口にして、批判の対象としたので、重臣側の反発を買い、久原房之助の批判は昭和天皇の耳にも届いていました。『昭和天皇独白録』には「久原房之助などが『重臣ブロック』という言葉を作り出し田中内閣が倒れたのは重臣達、宮中の陰謀だと触れ歩くに至った」と。

昭和天皇が指しているのは、張作霖爆殺事件のとき田中首相が「犯人は帝国軍で、これを厳罰に処します」と上奏していたのに、のちには一転して「帝国軍人が犯人とは確かめることができませんでした」と上層し、天皇から「前と言う事が違う、辞表を出したらよかろう」と叱責され、内閣総辞職に追い込まれたことにあります。

このほか久原房之助が「日中ソ三国緩衝地帯」設置論で朝鮮を「手渡す」ことに言及したことも、重臣層を刺激したことは間違いなく、久原房之助は危険人物と見られていたのです。久原房之助は阿部、米内内閣で内閣参議に就任していましたが、これに先立つ近衛内閣で参議候補にのぼった際、内大臣の湯浅倉兵が久原房之助の名前に×印をつけました。

首相が元老、重臣の推挙で決まった戦前戦中の昭和で、久原房之助が天下をとる事は不可能だったのです。次に軍部はどうだったかと言うと陸軍の実権は、二・二六事件のあと皇道派を一掃した統制派が握り、東条英機、梅津美治郎、武藤章の系列です。

久原房之助が親しかったのは荒木貞夫や小磯国昭など皇道派の人脈で、二・二六事件に関与したことから陸軍主流からは疎遠でした。二・二六事件後から東条時代が終わるまで軍との関係で時の流れに乗ることは出来ませんでした。

第三に政党は、政友会の幹事長になりましたが、当選回数がモノをいう党内では「鈴木喜三郎・鳩山一郎」の大派閥の壁は大きかった。政友会正統派の総裁は、鳩山一郎派の力を借りて乗っ取ったもので、実力で制圧していたのではありません。

最後に官僚の力はこの時代でもとても強かった。内務・警察官僚は治安の要所を押え、地方には官僚出身の知事が君臨していました。経済官僚は国家総動員法をはじめ統制経済を推進しました。外務官僚は阿部内閣で貿易省の新設を結束して潰しました。

久原房之助の「官歴」は田中内閣の時の逓信大臣の短い期間だけです。息のかかった官僚を育てる時間はなかったのです。こうして久原房之助は時の四大権力に基盤を持たず怪物として異端者として終戦を迎えました。

二・二六事件に関わって空費した2年の歳月はこの激動期に才能を発揮する機会を奪ってしまったのです。だが、終戦を向かえても久原房之助の政治に対する意欲はまだ消えてはいませんでした。占領軍から戦犯容疑者に指定されましたが、病気で拘留は免れました。

容疑は田中義一や荒木貞夫ら「軍国主義者」とされた人物と親しかったこと、二・二六事件に関与したことでしたが、一年足らずで指定が解除され公職追放されました。ようやく政界復帰のチャンスがめぐってきたのは、吉田内閣の1952年の総選挙です。

時すでに82歳。山口二区から無所属で出馬して、佐藤栄作(のち首相)に8000票の差をつけてトップで当選しました。だが衆議院の議席はたった5ヶ月しか続かなかった。翌年3月、吉田内閣は解散を断行し、総選挙で久原房之助は落選しました。

岸信介、佐藤栄作の兄弟がこの山口二区で立候補し、公認されず組織のない久原房之助がはじき出されてしまい政界を永遠に退いてしまったのです。一匹狼では難しい、この事からも助け合いの輪とはとても大切なものだと実感する久原房之助の人生でした。

 





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医学の進歩を千年以上遅らせた理由
   投稿者: 仲條拓躬    
2026/02/13(金) 14:42
No. 8141
 
 
世界保健機関(WHO)のロゴマークをご存知ですか? 国連のシンボルの中央に、蛇の巻きついた杖が大きく描かれています。これは「アスクレピオスの杖」と呼ばれ、古くから世界中で広く用いられている医療のシンボルマークです。

アスクレピオスとは、ギリシャ神話に登場する名医です。紀元前五世紀頃の古代ギリシャでは、その神殿「アスクレペイオン」が病人の治療施設になっていました。今人類が享受している医学のルーツは、古代ギリシャにあるのです。

そして、この頃にギリシャで生まれ、今でも「医学の父」と尊ばれるもっとも著名な医師がヒポクラテスです。ヒポクラテスとその弟子たちが著した『ヒポクラテス集典』は、七〇篇を超える資料からなる医学書です。

中でも、医師の心得や守秘義務、倫理観を説いた「ヒポクラテスの誓い」は、医師が学生時代に教科書で勉強し、国家試験にも出題される重要なテーマだといいます。二千年以上前のコンテンツが、いまだに医学教育で用 いられているという事です。

むろんヒポクラテスの偉業は、これだけではありません。当時、多くの人が病気を神がかり的なものと捉え、いわば魔術的な治療を施されていた中で、ヒポクラテスは患者を丁寧に観察することの大切さを説いたのです。

患者の脈拍や呼吸、肌のつや、尿、便など、多くの情報を熱心に記録し、症例集としてまとめたのです。当時の治療は、食事や入浴、運動などの生活習慣の改善や、薬草を用いたものでした。のちの医師たちは、こうした記録を参照して治療に生かすことができました。

ヒポクラテスは、まさに世界最古の医療データベースをつくったのです。ヒポクラテスは、四種類の「体液」のバランスが乱れて病気が起こると考えました。この「体液」を、血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液と呼びました。

人の体はこれらの体液でできていて、それぞれに独自の機能があるとしました。現在は、黄胆汁や黒胆汁といった用語は存在せず、架空の理論であるにすぎません。だが、この「四体液説」は、その後二千年近く正しいと信じられ続けることになります。

例えば、うつ病のかつての呼び名「メランコリア」は、ギリシャ語の黒 (melas) と胆汁(khole) の造語です。黒胆汁が原因の病気だと考えられた名残でしょう。また、「リウマチ(rheumatism)」 は、ギリシャ語の「流れる (rheuma)」が語源です。

体液の流れが停滞することで、関節などの腫れが起こると考えられていた名残です。19世紀頃まで広く行われた瀉血も、四体液説に基づくものです。瀉血とは、血液を抜く治療のことです。余った血液を体外に排出することで体液のバランスが改善し、あらゆる病気がよくなると考えられていたのです。

医療の歴史において、瀉血は長らく人気の治療でした。静脈を刀で切開して流血させたり、ミミズに似た吸血動物であるヒルを体に吸いつかせたりして、患者の血液を除去するといった治療は日常的に行われていました。

19世紀頃になってもなお、医師たちは患者の血を抜くためにヒルを壺の中に備蓄していたほどです。「ヒル」の英語である“leech” には、「医者」という意味もあります。ヒルが医者自体を表す俗称として使われるほど、ヒルによる瀉血は長らく好まれたのです。

ヒポクラテスののち、西洋医学にもっとも大きな影響を与えた人物が、二世紀頃の古代ローマで活躍したクラディウス・ガレノスです。ガレノスは、ヒポクラテスの教えを発展させ、古い文献を収集して膨大な理論を築き上げ、中世では医師の君主ともいわれました。

宗教的な理由で人体解剖が禁止されていた当時、ガレノスは猿や豚などの動物の解剖を繰り返しました。脊髄を様々な部分で切断し神経の支配領域を調べたり、腎臓と膀胱をつなぐ尿管を結んで尿が腎臓でつくられることを示したりなど、様々な知見をまとめました。

また、ガレノスは四体液のバランスを整える上で瀉血をもっとも重視し、加えて薬草治療や下剤、手術など、数々の治療法をまとめ上げました。ガレノスの著作は計500万〜1000万語に上るともいわれ、その学説はキリスト教の教義と結びつき、侵すことのできない理論となったのです。

当然ながら、動物を解剖した経験に基づくガレノスの理論には、様々な誤りが含まれていました。しかし、その大きすぎる権威に誰も異を唱えることはできなかったのです。時にガレノスは医学の進歩を千年以上遅らせたとまでいわれていますが、こうした経緯が理由なのです。

 






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