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実際、外国人にとって、日本文化を根っこから理解するのは難しいところがあると思います。宮沢賢治を例とすると。宮沢賢治の作品は、国や民族を超えたコスモポリタン型文学としてよく知られていますが、作品を理解するうえで一般の外国人の感覚からは不可解に思うところがあるでしょう。
『烏の北斗七星』は、烏と山鳥の戦いを展開した戦争物語です。主人公の烏が敵の山鳥を殺す前の日に殺生のため苦しみ、何度も祈ります。「どうか憎むことの出来ない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなくなりますように、そのためならばわたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません」。
山鳥を敵としたのになぜ、征伐に躊躇してしまうのか。そして殺した山鳥をなぜ、涙を流して丁重に葬ったのか・・・。いずれの場合も、正邪をはっきりさせなければ気がすまないという外国人のごく一般的な価値観からは、烏がなぜ悩むのか、不自然な行為に映る。これが外国人の大方の素直な印象でしょう。
日本で勉強している外国人は、宮沢賢治への不可解な疑問を潜在させたまま、日本の社会・文化を勉強しています。その中で、ようやく宮沢賢治が書こうとしていた烏の心境が理解できるようになると言います。それは日本人の独特な死生観や思考が慣習に常にありながら、常に見えにくい部分であると言うことに気がつきます。
宮沢賢治の作品の根底にある一貫したものとは、日本独特の価値観です。「死の美学」という日本文化全体に通じる1つの特長でしょう。死を神聖視し、美化しています。この死生観はおそらく、仏教、神道、それに武士道の3つが醸成しあっているように思えます。
宮沢賢治の作品はこういう日本の死生観を前提にして成立しているのです。その作品は国境を越えた響きを届けながら、よく理解を深めなければ、文章の奥に隠れた部分は見つからないと思います。
日本人は外国人にこうした日本独自の死生観について説明をしていません。『烏の北斗七星』が日本固有の死生観ないしは日本的な思考を前提にしていることを知るのは、外国人には至難なことでしょう。異文化理解の課題として受け止めてほしいと思うのです。
多くの外国人が日本人について研究すると、異質な死生観への認識に到達するのに十数年かかったといいます。半世紀前の戦争で悲惨な経験をさせられたと近隣諸国は、日本に対してある種の感情的な抵抗感が根強いです。
戦前、日本が占領したところでは神社を建て、日本式の礼拝を強制する愚をおかしました。それは、日本人の死生観・生活観などの思考の押し付けであったと、多くの日本人が反省しました。文化の発信が、他国固有の文化を無視した押し付けであってはいけません。異文化の相互理解は、違う文化を尊重した上で成り立つものだと思います。
日本と中国の間では昔から「同文同種」と言う思いが強くあります。お互い分かっているという思いが先入観になり、往々にして誤解を生んでいるのです。同文同種が錯覚であるという認識抜きには、交流を積んでも逆効果になりかねません。
両国間には、理屈ではなかなか説明できない文化の違いが横たわっています。文化や歴史を学ぶ点で模索を繰りかえし、時には失敗や誤解を招きながらも、理解をより深めていき知識更新していくことが大切だと思います。
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