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国民というのは、成熟した判断ができるものなのでしょうか。例えば第一次世界大戦は最初にオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フェルディナンドがサラエボでセルビア人に暗殺され、これに大衆が熱狂しました。
ブタペストでは「セルビアの豚に死を」と人々が叫び、ウィーンでは新聞が「強盗と人殺しのセルビア」と書いた。セルビア政府の関与を示すいかなる証拠もなかったのに、です。世論に押されるように、暗殺事件の1ヶ月後、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビア政府に宣戦布告した。
これにロシアが怒り、それに対してドイツが怒り、露仏同盟によりフランスが英仏同盟によりイギリスまでが参戦していったのです。各国で、志願兵たちが長蛇の列をなし、「やれ、やれ」の声がどんどん高まっていったのです。
反戦運動家は売国奴として暗殺されました。どの国でも、日常の漠然とした不満を解消しようとするかの如く、国民の戦意の昂揚は留まる所を知らなかったのです。サラエボ事件が起きた時点で、ヨーロッパの君主や首脳で、大戦争をしようと思っていた人は誰一人いなかったでしょう。
ところが国民が大騒ぎした結果、外交でおさまりがつかなくなり、大戦争になってしまったのです。民主主義国家であるがゆえの主権在民により戦争が始まり、その結果、850万人が犠牲となったのです。第二次世界大戦も同じです。
ドイツが侵略して、全体主義国家だと言われていますが、第一次世界大戦後、ワイマール時代のドイツは民主主義国家です。ワイマール憲法は主権在民、三権分立、議会制民主主義をうたった画期的なものでした。その民主的な選挙で1932年、ヒトラーのナチ党が第一党となったのです。その後もドイツ国民は常にヒトラーを支持しました。
ドイツは第一次世界大戦後のべルサイユ条約で、軍用機を持ってはいけないなど軍備は著しく制限されていましたが、それを破棄し強力な再軍備を始めるため、1933年に国際連盟を脱退しました。その際の国民投票では95%の支持を得ました。
1936年に非武装地帯のラインラントに進駐した時は98%、1938年にオーストリアを併合した時は99%が国民投票で支持したのです。精神分析学者でナチスに追われアメリカに亡命したエーリッヒ・フロムは、『自由からの逃走』で、自由と民主主義の中からヒトラーが台頭した理由を心理学的にこう分析しています。
「自由とは面倒なものである。始終あれこれ自分で考え、多くの選択肢の中からひとつを選ぶという作業をしなければならないからである。これが嵩ずると次第に誰かに物事を決めてもらいたくなる。これが独裁者につながる」。ヒットラーは独走したというより、国民をうまく煽動して、その圧倒的支持のもとに行動したのです。
民主主義、すなわち主権在民を見事に手玉にとった手品師だったのです。日本も少なくとも昭和12年の日中戦争勃発までは民主主義国家でした。普通選挙法は大正14年に可決されています。アジアでは最初で、イギリスより7年遅れただけです。
反資本主義を掲げる社会大衆党は、昭和11年と12年の2つ総選挙を経て、それ以前の5議席から36議席にまで大躍進しているのです。この頃、民政党の斉藤隆夫は国会で反軍、反戦演説をしています。日米船の期間中は東条英機の独裁でしたが、それはルーズベルト大統領のアメリカも、チャーチル首相のイギリスも同じです。
東条やヒットラーに任期がなかったがルーズベルトに任期があった、ということを本質的違いに指摘する人もいますが、形式的なことです。戦争に熱狂した国民は任期が来ても圧倒的に支持するに違いないからです。実際にルーズベルト、大統領として史上例のない四選もされました。
ヒトラーとほぼ同じく、1933年から1945年までアメリカを仕切ったのです。満州事変から大東亜戦争にかけて、国民はもちろん、朝日新聞をはじめとする新聞も、殆どが軍国主義を支持しました。日中戦争時には、憤激した世論に押された国会が軍部を押し、強硬手段をとらせるなどということもありました。
戦後、連合国は第二次世界大戦を「民主主義対ファシズム戦争」などと宣伝しましたが、それは単なる自己正当化であり、実際は民主主義国家対民主主義国家の戦争だったのです。どの国にも煽動する指導者がいて、熱狂する国民がいたのが歴史の真実なのです。
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