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東京裁判は、ニュールンベルク裁判と同じく、原告は「文明」だと叫ばれ、将来の戦争防止が裁判実施の目的だと強調されました。さらに、この裁判は新しい国際法概念を生み出すものだといわれています。
原子爆弾まで含めた戦禍に苦しんだ当時として、このように指摘された東京裁判の意義は、平和を願うものとして、多くの日本人に受け入れられました。処刑された5人の陸軍大将、1人の陸軍中将、1人の文官重臣の死も、そういった平和な新世界の到来を求める祈りの象徴とみなされたと言えます。
ところが、その後、東京裁判の効果と反応は意外なほど、消極的であるとしか思えません。新たな国際法概念を確立するものだと強調されていましたが、その後の国際紛争の経過を見れば、そこに東京裁判の意思が実現された事例は1度もありません。
「戦争を裁く」という法概念も、所詮は戦勝国対敗戦国という特殊な関係でなければ執行できないことを、あらためて確認させられる想いでした。日本人の反応にしても、ひたすら大東亜戦争をはじめ日本が行った戦争すべて侵略戦争とみなしました。
日本人自身がみずからを侵略者と規定して、国家意識と軍事問題に関しては極度の萎縮作用を示す姿勢がうかがわれるだけでした。過去の日本の政治体制が一種の無責任体制であり、戦争を含めた政治行為の多くが、その無責任体制の産物であったとは、しばしば指摘されるところです。
東京裁判は、その点についても深刻かつ明確な検討の機会を与えたはずなのですが、東京裁判の建設的な効果は、殆ど見当たりません。さらにいえば、戦後の日本と国際社会に対して、東京裁判は歪んだ方向づけをしたのではないかと感じられます。
その一例として、アメリカの教科書は原爆のおかげで、本土決戦で死ぬはずの日本人の命は救われたと書いています。日本はというと「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」と碑を広島に建てたのは日本人です。
これでは日本人が原爆を投下したことになります。東京裁判のインドのパール判事が来日した時におかしいと言ったのに改めないし、新聞もテレビでも報道しないのです。靖国神社を参拝すると決まってA級戦犯の問題が出てきますが、東京裁判それ自体、戦勝国が敗戦国を裁く見せしめに処刑されているわけです。
何処の国でも自国のために命をはったのだからお墓に埋葬されるのも当然だと思うのです。日本の指導者よりも、広島、長崎に原爆をおとし、東京、神戸を始めとする大都市に焼夷弾による爆撃をかけ、女性、子供、老人といった非戦闘員を何十万人と焼き殺した、連合国こそA級戦犯ではないのでしょうか。しかし、日本人はそのことを言いません。
東京裁判を命じた「敵の将軍」ダグラス・マッカーサーは、後に日本の大陸進出を肯定した発言をしています。戦後の朝鮮半島で南下してくるソ連、または中国共産主義の巨大な脅威を目のあたりにして、明治以来の日本の大陸進出が、極東の平和を守るための自衛の戦いだったことをようやく理解するに至ったのです。
さらに、有名なイギリスの歴史学者、H・ウェルズは終戦直後、大東亜戦争で日本が果たした世界的役割について、「大東亜戦争は大植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種の平等をもたらし、世界連邦の基礎を築いた」と述べています。
このような世界民族平等の理念は、現在の国際連合発足の基礎にもなったものです。大東亜戦争はアジア解放のための戦いだったのです。結果的に日本は敗れたとはいえ、その戦争目的は最終的に達成されました。これをどうして「侵略」とただ単純に東京裁判で裁くことができるだろうか。
マッカーサーは米上院外交委員と軍事委員会の合同会議で、「太平洋戦争は日本にとって正当防衛の戦争だった」と発言しています。理論・情緒・政治的配慮から歴史を語ってはいけません。大切なのは、歴史の「現実」を直視することなのです。
石原莞爾将軍が、亡くなられるまでの間、私の父は身の回りの世話をしていて、東京裁判では将軍をリヤカーに乗せて運んだ人物の一人です。様々な石原莞爾将軍のお話を父からお聞きしました。
第二次世界大戦で、人類最初の原爆の洗礼を受けて再起不能と思われながら、遠からず地球上に日本の時代が来るとまで驚嘆せしめるほどの発展を遂げた我が国も、物質至上主義、経済優先の弊害と、消費生活中心の都市型文化の行き詰まりを予言したのは石原莞爾です。
勝者の敗者に対する裁きは、東京裁判がその象徴例で、日本を一方的に断罪し、その呪縛は強烈で、今でも日本人の歴史観を拘束しているほどです。戦乱に慣れているヨーロッパの国々は、負けても戦のつねとして、直ぐに再起を考えるが、平和慣れで、米国にマインドコントロールされている日本は再起不能の状態で、半世紀以上が経った今ですら敗戦国意識を引きずり、トラウマとなっているのです。
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