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  スマホ依存者へのアドバイス  仲條拓躬2025/05/08(木) 08:28 
  世界各国の選挙の動き  仲條拓躬2025/05/08(木) 08:26 
  朝鮮半島併合の事情とは  仲條拓躬2025/05/08(木) 08:24 
  北欧でのIQ上昇の頭打ちの原因  仲條拓躬2025/05/08(木) 08:21 
  世界の政党情勢  仲條拓躬2025/05/08(木) 08:18 
  世界中のだれの眼にも奇跡  仲條拓躬2025/05/03(土) 09:20 
  オリンピックの金メダルとは  仲條拓躬2025/05/03(土) 09:18 
  満州国を取り巻く環境とは  仲條拓躬2025/05/03(土) 09:16 
  石原莞爾の世界最終戦総論  仲條拓躬2025/04/28(月) 17:51 
  時効について  仲條拓躬2025/04/28(月) 17:49 






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スマホ依存者へのアドバイス
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/05/08(木) 08:28
No. 7832
 
 
自分のスマホ利用時間を知りましょう。1日に何度スマホを手に取り、どのくらい時間をかけているのかを把握するために、アプリを使ってみるといいでしょう。そうすれば、スマホに奪われている時間が一目瞭然です。自分を知ることが、変化への第一歩になります。

目覚まし時計と腕時計を購入しましょう。スマホでなくてもいい機能は、スマホを使わないようにしましょう。毎日1〜2時間、スマホをオフにします。毎日2時間、オフにすることを周りの人にも伝えましょう。そうすれば、返事がないという怒りのメッセージが届いたり、人をイライラさせたりせずにすみます。

プッシュ通知もすべてオフにしましょう。スマホの表示をモノクロにしましょう。色のない画面のほうがドーパミンの放出量が少ないのです。それによって、どのくらいスクロールを続けたくなるかが大きく左右されます。

運転中はサイレントモードにしましょう。危険な瞬間に気が散るリスクが減ります。悪いタイミングでお知らせや通話が来ると、いちばん必要なときに集中が妨げられる可能性があります。それに応答しなかったとしても、です。

職場で集中力が必要な作業をするときはスマホを手元に置かず、隣の部屋に置いておきましょう。チャットやメールをチェックする時間を決めましょう。例えば1時間ごとに数分などです。人と会っているとき、友達と会っているときはスマホをマナーモードにして少し遠ざけておき、一緒にいる相手に集中しよう。そうすれば一緒に楽しく過ごせるはず。

あなたがスマホを取り出せば、周りにも伝染します。取り出さないようにすれば、それが連鎖反応になって、皆があなたを見習うはずです。子供と若者へのアドバイス。教室でスマホは禁止でないと学習能力が低下します。

スクリーンタイムを制限し、代わりに別のことをしましょう。1日のスクリーンタイムは何分までならいいのか、分単位で推奨するのは難しいですが、どうしても具体的な数字が欲しいなら、大人も子供も仕事や勉強以外でスマホ他のスクリーンに費やしていいのは最長で2時間です。

それでも睡眠、食事、職場や学校への移動時間を除けば、起きている時間の6分の1を費やしていることになります。8歳未満の子供なら1時間が限度です。私がいちばんいいと思うのは、別のことをする時間を設けることです。宿題をする、運動をする、友達に会うなど、それに集中する時間を決めましょう。

我々は相手を真似ることで学びます。子供は大人がしているようにします。大人に「しなさい」と言われたようにではなく。寝るときは、スマホやタブレット端末、電子書籍リーダーの電源を切りましょう。少なくともベッドに入る1時間前には。スマホを寝室に置かない。少しでも眠れないなら置かないほうがいい。朝起きるために目覚まし時計を買おう。

どうしてもスマホを寝室に置くなら、着信音を消しマナーモードに。寝る直前に仕事のメールを開かない。ストレスの対処法。ストレスの兆候を見逃さないようにしよう。これらの兆候はストレス以外のことが原因の可能性もあります。不明な場合は医療機関に連絡をしましょう。中でもいちばんいいのは心拍数を上げる運動です。

とはいえ、マラソン大会に出ろと言っているわけではありません。脳から見れば、ただ散歩するだけでも驚くほどの効果があります。とにかく大事なのは運動をすることです。それで心拍数が上がればなおよいのです。最大限にストレスレベルを下げ、集中力を高めたければ週に3回45分、できれば息が切れて汗もかくまで運動するといいでしょう。

 





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世界各国の選挙の動き
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/05/08(木) 08:26
No. 7831
 
 
1960年代に西側が共産主義の経済的成功に対して抱いた恐怖の源泉がどの程度、目立ちはしますが基本的に重要ではないロシアの技術的成果 (スプートニク)にあったのか、それとも単純な誤情報にあったのか、あるいはそうした情報の意図的な誤解にもとづくデマにあったのかは知るよしもないでしょう。

しかし、1956年のハンガリー革命の鎮圧と1968年のプラハの春の弾圧をきっかけとして、共産主義を名乗る国々で共産主義が信頼を失っていきました。1989年にベルリンの壁が壊され、その後、ソビエト連邦が最終的に崩壊するころ〔1991年12月〕には、共産主義の経済的失敗は明らかでした。

ドイツを二つの国に分けたことは、おそらく経済史上最大の制御された「対照実験」であり、その結果ははっきりしていました。東ドイツの社会主義経済の生産性と実質所得は、西ドイツの市場経済が達成したものと比べればわずかでしかなかったのです。

第二次世界大戦後、ヨーロッパの労働者階級の共産主義への支持は、着実に低下していました。イギリスでは、2回の炭鉱労働者のストライキで政府が敗北し、労働組合が一時的に力を取り戻した1974年には、社会主義イデオロギーも一時的に復活しました。

しかし、1976年にはイギリスの労働党政権がIMF(国際通貨基金)に屈辱的な融資を求めざるを得なくなり、新たに任命されたジェームズ・キャラハン首相は労働党大会で次のように語りました。「私たちは、減税と政府支出の増加によって雇用を増やし、不況から抜け出すことができると考えてきました。しかし、率直に言って、そのような選択肢はもはや存在しません」。

1981年に社会主義プログラムを掲げてフランソワ・ミッテランがフランス大統領に選出されたころには、財政と経済の現実は急速な方向転換を迫りました。少なくとも二世代の間に、西側の民主主義国における社会主義は終わりを迎え、ヨーロッパの左派の主流はそれをあっさりと放棄しました。

戦後の社会民主主義の初期の成功も侵食されていた。ヨーロッパの社会民主主義の灯台的存在であったスウェーデンの社会民主党は、1932年から途切れることなく政権を維持してきたが、1976年に敗北しました。社会主義者とマルクス主義者の派閥は、主要政党の内外に残ってはいましたが、それは過激派の残党という程度に落ちぶれていました。

ほかのイデオロギーの信奉者と同様に、それらの残党のメンバーも現実的な政策を提案することに関心はありませんでした。生き残った活動家たちはますます狂信的になり、抗議すること自体を優先し、その主要な敵は、自らの信念とは少ししか違わない信念を支持する人たちであることも多かったのです。

1970年代になると、デレク・ハットンやアーサー・スカーギルのような攻撃的なマルクス主義者が目立つようになる一方、トロツキストのグループであるミリタント派は労働党に浸透することに成功しました。しかし、そのような過激なイデオロギーは有権者の支持を得られなかったので、1983年の総選挙で労働党は惨敗することになったのです。

左派の伝統的なイデオロギーはすたれていきましたが、しばらくの間は伝統的な左派政党は生き延びることができました。イギリスとアメリカの両国において、トニー・ブレアとビル・クリントンという、賢明でカリスマ性のあるリーダーが登場してきたのは両党にとって幸運でした。

ブレアの「ニューレイバー」(新しい労働党) や 「第三の道」、クリントンの「三角測量戦術」という曖昧なブランドによって、影響力が低下しつつあった労働者階級の優先事項と、台頭しつつあった、グローバル救済主義と能力主義という個人主義を好む、教育を受けた若い世代の優先事項の現実的な融合に向けてそれぞれの党の立ち位置を修正していった。

ブレアは「犯罪に厳しくする」と約束し、クリントンは「三振でアウト法」〔前科二犯の者が三度目の有罪判決をうけると終身刑となるという法律〕を支持する一方、ブレアの財務大臣は福祉給付金を引き上げ、クリントンの妻は健康保険を改革しようとしました。能力主義は、生まれにかかわらず、最も優秀な人が出世できることを求めました。

そこで、新たにアカデミーやチャータースクールを通して、教育の機会を増やし、教育の質を改善しようとしました。ブレアはさらに就学前教育のための国家プログラムを追加しました。両方の有権者にアピールする政策と、彼らの個人的な魅力の組み合わせによって、党の多様化した支持者をひとつにまとめることができたのです。

オバマは同じ魔法を使いましたが、ブレアには同じような後継者はいませんでした。2019年のイギリス総選挙では、グラストンベリー音楽祭で「ああ、ジェレミー・コービン」と歌った感情的な若者と、労働党に浸透していた過激派によって、1983年の惨敗が繰り返され、保守党のボリス・ジョンソンに大勝利をもたらしたのです。

 





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朝鮮半島併合の事情とは
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/05/08(木) 08:24
No. 7830
 
 
日清戦争で実際に持ち上がった問題は朝鮮半島についてです。この朝鮮半島は、当時、鎖国状態でした。その鎖国状態だったところにヨーロッパ列強の植民地的侵略の手がどんどん伸びてきたのです。

ちなみに、日本の開戦後、まだ鎖国していたのは、アジアでは朝鮮半島だけでした。ここで大変問題なのは、中国が西洋諸国の植民地にされているように、鎖国状態のアジアの国々は、19世紀末のヨーロッパ列強のアジア進出のために、ほとんどが植民地化されているか、征服されています。

そうなると、朝鮮半島はまだ鎖国をしているということはいずれ植民地支配されてしまう。さらにロシアの南下政策で勢力がどんどん迫っているのです。その時そこに三国干渉がやってきたわけです。

ロシア、ドイツ、フランスが、日清戦争による日本の朝鮮半島から中国大陸へかけての進出、そして日本がそこに領土も利権も獲得することに異議を申し立てたのです。その中でも南下政策を進めるロシアが一番強硬でした。

これは歴史的にずっと続いてきた地理的な条件にもとづく方針で、ロシアは常に南下政策をとっています。それはロシアのロマノフ王朝以来の、ソ連邦になっても変わらなかった外交政策です。

この三国干渉というのは、日清戦争の成果を踏みにじるもので、日本としてはとても我慢が出来ませんでした。そして遂に10年後、日露戦争という形に表れるのです。日露戦争は幸い、日本の勝利で幕を閉じることができました。

そして再び遼東半島の利権は回復され西洋諸国の植民地政策もストップしました。そのほか、朝鮮半島についての利権も獲得して手出しさせなくしたのです。さらに南樺太についての利権も獲得したので、ソ連は日本に恨みを持つのです。

満州及びそれに繋がる蒙古という地帯は、日本人の方から言うならば、五族が住む未開の地で日清、日露の苦労の末に獲得した地帯で、しかも、アジアの解放、人種差別廃止、独立をするためだという理屈となって、特別な意味を持っていくわけです。

多くの日本人や韓国及び周辺諸国ではどのような反日教育を施されどのように理解しているのかわかりませんが、これが歴史の真実でしょう。

 





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北欧でのIQ上昇の頭打ちの原因
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/05/08(木) 08:21
No. 7829
 
 
ある書物では、記憶力や集中力といった知能がスマホのせいで低下していることを分析しているものがあります。現代のライフスタイルは座りっぱなしの時間が多く、睡眠時間も減っています。その影響についても指摘されていますが、これは我々の頭が悪くなっているという意味だろうか。昔よりは賢くなっているはずではないのか。

欧米では、IQ(知能指数)の平均スコアがここ100年で30も上昇しています。近代的なIQテストは20世紀初頭に開発され、当時の平均スコアは現在とまったく同じで100でした。我々が賢くなるにつれて、テストも難しくなりました。

現在IQテストを受けて100を取る人、つまり平均点を取る人は100年前のテストなら130で、人口の3%に相当する最も賢いグループに属していたことになります。一方、20世紀初頭に100点を取っていた人は、当時それが平均的な知能とされていたのですが現在のテストでは70しか取れず、精神遅滞の基準を満たすことになります。

だが、100年前に生きていた人たちが我々よりも頭が悪かったということではありません。今の我々と同じように、人生の実際的なことには対応できていました。我々のIQのスコアが上がった原因としては、こういったことが考えらます。現代人のほうが知能テストに出てくる抽象的、数学的な思考の訓練をずっと多く受けています。

なにより学校に通う期間が長くなりました。現在スウェーデン人の半数が高校を卒業していますが、100年前はほとんどの人が7年間の国民学校を出ただけでした。それに、現代の仕事はもっと複雑です。現在の仕事を例に取ってみればわかります。100年前、医師が使える薬はそう多くなかったでしょう。まだ抗生物質も発見されていない時代です。

それが今では何千種類もの製剤が手に入り、医学の知識も広範囲にわたり、すべてを把握することは誰にもできないくらいです。我々のIQは下がっているより長く教育を受け、より難しい仕事をこなし、複雑さを増し続ける世界に我々は住んでいます。それに合わせて、我々は知的能力を発達させ、IQテストで試されるような思考を訓練してきました。

世代ごとにIQが高まる現象は、ニュージーランドの大学教授ジェームズ・フリンにちなんだフリン効果として知られています。だが、フリン効果はデジタル化だけによるものではありません。IQは1920年代から10年単位でほぼ同程度上昇していますが、当時はまだテレビもインターネットもなかったのです。

ただ、ジェームズ・フリンは90年代の終わりから気懸かりな傾向に気づいていました。 北欧ではIQの上昇が頭打ちになり、今では平均スコアが毎年いくらか下がっているほどです。それほど劇的なものではない、年に0.2程度の低下ですが、北欧では1世代後には6〜7も下がることになるのです。そうなると、誤差範囲とはとても言えません。

フリンは、おそらく世界の他の地域でも同じことが起きるだろうと予測しています。フリンによれば、これは学校が昔より緩くなり、20〜30年前ほど読書が推奨されなくなったせいだといいます。それ以外に考えられるのは、身体を動かす時間が減ったことです。怒濤のように流れてくるすべての情報を処理することが難しくなった、とも考えられます。

 





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世界の政党情勢
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/05/08(木) 08:18
No. 7828
 
 
2020年までに、伝統的な政党に対する信頼が失われていたことは、西側社会ではほとんど普遍的な現象でした。そして、選挙の番狂わせは予測できたのですが、それらの番狂わせはさまざまな形をとりました。

2017年のフランス大統領選挙では、左右の既成政党の候補者が、極左と極右の候補者にはるかに遅れをとっていたため、アン・マルシェ 運動を組織してから、たった一年しか経っていない中道派のマクロンが、中道を駆け抜けることができました。しかし、その翌年、彼は「黄色いベスト運動」の反乱に直面することになります。

一方、ドイツでは同じ年に行なわれた選挙でCDU(キリスト教民主同盟)とSPD(社会民主党)を合わせた得票率が50パーセントに達しなかった。大連立政権の発足に手間取り、その後、両党の支持率が低下するにつれて、ますます政権は不安定になっていきました。

ドイツの二つの主要政党は、現職の党首が選挙で負けて辞任したため、すでに三人目の党首が誕生しています。アメリカでは、2016年に政治的背景も経験もないポピュリストのトランプが共和党の大統領候補として選出され、彼の気まぐれな発言のもとに、党の上層部と投票基盤の多くをまとめあげました。

イタリアでは、2018年に初のオール・ポピュリスト政権として不安定な政権が誕生しました。イデオロギーや哲学をほとんど持たない二つの抗議政党による連立政権で、当然のことながら翌年には崩壊し、同じように不安定な政権と交代しました。

EU離脱(ブレグジット)を問う2016年の国民投票の結果は、それまでのイギリスの政治システムを覆しました。そして、2019年12月の総選挙で労働党は50以上の議席を保守党に奪われ、そのほとんどが、ストークやドン・バレーのような伝統的に労働党が強かった労働者階級の地域でした。

しかし、これらの出来事は、もっと長期的なトレンドが顕在化したものでしょう。この一世紀の間、ヨーロッパの政治は、資本主義社会主義かというイデオロギーで定義され、投票行動は主に 社会階級によって決まっていました。

しかし、「資本主義者」や「社会主義者」という用語の意味も、そして左派と右派という対立の軸も、次第にはっきりしないものになっていきました。これらの用語は、政治的立場やグループを表す 「進歩派」、「活動家」、「ポピュリスト」のような新しい用語にとって代わられました。

グリーンピースからブレグジット党まで、またマーメイドからペギーダまで、単一争点の圧力団体が力を増す一方、伝統的な政党の党員数は急速に減少していきました。そして、社会階級を投票行動に結びつけていた歴史的なつながりは完全に切断されました。

アメリカの政治は、これまで大きな支持を得た社会主義の政党や運動がまったくなかったという点で異なっています。バーニー・サンダースとアレクサンドリア・オカシオ=コルテスが社会主義者と自称しているとしても、それは政治的な用語がどれほど変化したかを示すものに過ぎないでしょう。

その社会主義は、クレメント・アトリーやフランソワ・オランド〔第24代フランス大統領。任期2012〜2017年〕の社会主義ではなく、ましてやマルクスやレーニンの社会主義ではない。著者の一人が1968年に書いた「なぜヨーロッパの政治はアメリカよりもはるかにイデオロギー的なのか」というエッセイを思い出しています。

それは、このトピックがエッセイのテーマとして意味を持つ、ほとんど最後の瞬間でした。2020年にはこの逆が正しいように見えるかもしれませんが、アメリカの政治はイデオロギー的というよりも「部族的 (tribal)」というほうが正確でしょう。ジョー・バイデンはイデオロギーの人ではないし、ドナルド・トランプも同様です。

「左派」と「右派」という用語が政治の世界で使われるようになるのは、1789年にフランス国民議会で反国王派が議長の左側に座り、王党派が右側に座ってからのことです。この用語が政党を表すために使われ始めたのは、フランス第三共和政〔1870〜1940年〕の時期です。当時のグループは、中道右派、中道左派、極左などと呼ばれていた。

選挙権が拡大するにつれ、左翼政党への支持が高まり、1930年代になると左右の分裂によってヨーロッパは二極化し、最も破壊的な戦争につながったのです。1945年当時、社会主義はヨーロッパの労働者階級の間では高く評価される一方、アメリカでは社会主義を支持する者はごくわずかでした。

戦前のルーズベルトの大胆な政策がアメリカの資本主義を救ったのに対し、ヨーロッパの各国政府はナショナリズムと経済的保守主義という破滅的な組み合わせに撤退していたのです。そして、1945年以降、ヨーロッパの有権者は何か違うものを求めました。

共産主義のもとで、ロシアはドイツに対して軍事的に勝利し、東ヨーロッパのほとんどは1989年までソビエトの支配下にとどまりました。ロシアは1953年に水素爆弾の実験を行ない、1957年にはスプートニク〔世界初の人工衛星〕を宇宙に打ち上げました。その後20年間、共産主義の経済的・技術的成果の評価は誇張されたままだったのです。

 





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世界中のだれの眼にも奇跡
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/05/03(土) 09:20
No. 7827
 
 
石原莞爾平和思想研究会同志である戦争経験者が語る。昭和20年8月15日、焦土と化した日本列島を真夏の太陽が照りつけていました。抜けるような青空とジージー鳴く蝉の声。今日の日本の出発点となったこの日を、今でも忘れられないのです。

精魂こめて築き上げてきたもの、死ぬ覚悟で守り続けていたものが、一瞬にして消滅したあとの無力感。襲い掛かる疲労感や絶望感が複雑に重なり合い、何かをしようという気力もなく、日本人は空腹を抱えながら、幾日も過ごしたのです。

その状態でも、日本人は少しずつ前へ歩き始めました。瓦礫の山に、焼けトタンを繋ぎ合わせて小屋を建てました。そして焼け残った電車やバスが何事もなかったように動き出しました。8月15日は、複雑な何かの終わりであり、復興を目標とする出発点となりました。破壊の後に創り出すものは何か。

国家の復興・再生であり、それはとりも直さず、日本人の人間性の解放でもありました。戦後の出発は戦争のみならず戦前的価値や存在をまず否定することから、新たな第一歩が踏み出されたのです。戦前から戦後へ、8月15日を境に徹底的に破壊されたもの、形を変えて生き残ったものと、様々な変容が我々のまわりにはあるでしょう。

その象徴的なものは天皇像でした。戦前の「現人神」から、戦後の人間天皇という象徴天皇となり、それは連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占拠方針によるものでありましたが、同時に、深くは日本人の文化と倫理と国家観に根ざす問題でもあったのです。

史上初の敗戦という事態をもたらした戦争責任との関連で、様々な天皇制論議がなされました。日本人の大多数は「国民統合」のよき「象徴」として天皇が、国民とともに歩まれることを歓迎したのです。その人間天皇にかわって、「神」として君臨したのが、GHQの総司令官ダグラス・マッカーサー元帥であったのです。

東京の中心、宮城とお濠をへだてて向き合っている第一生命ビルの屋上に9月17日以来、星条旗が鮮やかに翻り続けました。この旗、マッカーサーの命ずるままに、民主主義となったのです。ワシントンからの指令の第一の目的は、日本の「非軍事化」で、電撃的に処理されました。

8月15日現在、日本本土に57個師団約257万名余の兵力を有し、陸海合わせて約1万6000機の航空機が残っていました。これらがおとなしく武器をすて、武装解除が完了したのは10月15日のことです。

一発の発砲もなく、ただ1人の負傷者もなくこれが完了したというのは、世界中のだれの眼にも奇跡としかうつりませんでした。あの神風特攻隊がある日本軍が、あれだけソ連を苦しめて一度も負けなかった日本軍が何の抵抗をみせないとは。スターリンでさえこう洩らしたといいます。

 





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オリンピックの金メダルとは
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/05/03(土) 09:18
No. 7826
 
 
オリンピックの五輪の旗の色は、青・黒・赤・黄・緑で、世界の五大陸(アジア、アメリカ、アフリカ、オセアニア、ヨーロッパ)の結合を意味しています。華やかなに見えるオリンピックですが、スポーツといえども国同士の駆け引き表舞台があれば裏舞台もあるのです。

過去、ソフトボールがオリンピックとして正式競技として採用されると、宇津木氏は日本代表として選ばれました。だが意気揚々としていた宇津木氏だが、「五輪憲章」における帰化選手の規定に基づいた中国の反対で出場を阻まれ、涙を飲んだのです。

だが、その後のアジア大会では、宇津木氏は日本チームの旗手として日本国を代表して、日の丸を揚げ、先頭に立って入場したのです。「この国で自分はこんなに大事にされているのだ」と心が震えたと言います。

規定という枠では15歳の愛知県の浅田真央氏の事ですが、実力があるというのに4年に一度のオリンピックに出場できませんでした。当初のオリンピックは参加することに意義あると言うことでしたが、いつの間にか勝つことに意義がある事となり、政治に関与しないことがオリンピック顕彰でしたが、その約束はことごとく破られました。

ヒトラーも政治に利用しました。戦後、共産圏は選手にご褒美として年金を出しました。体操選手のコマネチはまるで子供でした。大きくならない注射をしたのです。だが、アメリカに亡命して太りました。政治的に利用しなかったのは日本くらいでしょう。

だが、その日本でも「金じゃなければメダルじゃない」を掛け声にマラソン選手で円谷幸吉氏はエチオピアのアベベに及ばすゴール寸前で競り合い金には及びませんでした。円谷はプレッシャーに耐えかね次回オリンピックを控え頚動脈を切って自殺したのです。オリンピックとは華やかだけではなく裏舞台もあるのです。

そして、トリノオリンピックはソ連が崩壊して、冷戦が終わってから15年が経っていました。冷戦のために4年に一度のオリンピックを選手には関係ないはずのオリンピックですが政治的にボイコットしたこともありました。もちろん、東京オリンピックもボイコットされて幻のオリンピックとなってしまいました。

アメリカに原爆を落とされても、アメリカを崇拝できる日本人。冷戦に敗れたロシア人は、日本人のように敵媚びたりはしないし、尊敬もしない。トリノオリンピックのフィギュアスケート女子では、米ソ冷戦が再燃したようです。

最終日を控え、1位はアメリカのコーエン、2位はロシアのスルツカヤ、3位は日本の荒川静香。コーエンの祖父はウクライナ人で、1970年代にアメリカに移民したのです。ウクライナ人は、ロシア人と同じスラブ民族です。

彼女はアメリカ人ではなくソ連人でした。アメリカは、審査員に「ロシアは既にフィギュアでは3つの金メダルを取っている。4つも同じ国が金を取るのは、フィギュアスケートの発展を妨げる」と圧力を掛けたのです。

結果は、荒川静香が1位、2位コーエン、3位スルツカヤで、解説者は激怒していました。コーエンは2回転んだがスルツカヤは1回しか転倒していないのに何でコーエンが2位なのかと陰謀論が証明された瞬間だったのです。

この金メダルが米国ではなく日本でよかった。米ソに勝っちゃったわけで・・・鳥のオリンピックで金メダルとらなきゃ銅賞もなーい↓↓ではいけませんよ。銅もありがとうと言う気持ちじゃないと酸化することに意義があるのです(笑)今は金が高騰していますから

 





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満州国を取り巻く環境とは
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/05/03(土) 09:16
No. 7825
 
 
満州国が存在していた場所は、ツングースと言う土地であり、清朝発祥の地でした。中国の地図では、万里の長城の東北に位置するので「関外」「関東」「東北」とも呼ばれていました。中国ではもともと西蔵、台湾と同じように「化外」の特別な地として自国の土地としての意識はありませんでした。その面積は日本内地の約3倍もありました。

明治維新をへて近代国家への仲間入りをした大日本帝国が、この「赤い夕陽」の満州の荒野をはじめて意識したのは、明治27年から始まった日清戦争の時でした。さらに10年後、シベリアより南下してきた帝政ロシアを敵として、その満州で日本は国連を賭しての戦争を戦いました。その時の「宣戦の詔勅」には、こう書かれています。

「露国は依然満州を占拠し、益々その地歩を蛩固にして、ついにこれを併合せんとす。もし満州にして露国の領有に帰せんか、韓国の保全は支持するに由なく、極東の平和またもとより望むべくもあらず。」日露戦争は、満州の荒野をアジアの平和のための「日本の生命線」として、その主導権争奪をめぐり戦われたものでした。

戦争は、戦争指導のよろしきを得て、ロシア軍を破り、日本の辛勝で終結しました。その結果として、日本は大きな権益を国際的に満州の大地に獲得することができたのです。日露戦争後の日本の国策は、この大きな権益の保持、強化、発展ということを主眼として進められました。

大正から昭和への政策決定の推移を眺めてみると日本人にとって満州とは何か、どんな意味を持っていたのか、ごく基本的なイメージが浮かんできます。さらに、明治末の辛亥革命によって清国が滅びたあと、中国では近代的な統一された国家を建設しよう、という国民革命運動がさかんになっていました。

日本はこの中国ナショナリズムとも正面から衝突せざるを得なくなったのです。そして国民革命運動が満州や蒙古にまで伸びてくるのを恐れた日本は、清朝滅亡後、素早く手を打って満州の権益諸権利を持つことに成功します。しかしこの「対華二十一か条」の要求が、一挙に全中国人の心のうちの反日排日感情をよび起してしまったのです。

その結果は、大正8年5月の、5・4運動に代表される中国の、激しい日本敵視という現実に直面し、また英米とも対立を深め、もはや中国人の協力をえながら満州を開発することの不可能を、日本は覚悟しないわけにはいかなくなったのです。

 





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石原莞爾の世界最終戦総論
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/04/28(月) 17:51
No. 7824
 
 
既に日露戦争前にもみられた日米対立は、戦後ようやく顕在化し、第一次世界大戦後の国際協調の時代においても、根底で存在していました。米国での排日移民法が成立してからは日本のマスコミでも取り上げられるようになりました。

日米対立に関しては多くの日米未来戦記が出版され、フィリピン島攻防戦、太平洋上の日米艦隊決戦などが話題となっていたのです。一方軍人である石原莞爾は、既に1925年頃、日米間の「世界最終戦争論」に達していました。

石原莞爾の場合は日米戦争を日蓮の教義に基づいて、世界における人類の最終戦争と位置付けているところに独特の戦争史観が加わっているのです。石原莞爾は世界の戦史を研究した結果、戦争は持久(消耗)戦争と決戦(懺滅)とが交互に繰り返されてきたとし、持久戦争であった第一次世界大戦の後に来る次の戦争は、決戦戦争であると考えていました。

その戦争の時期は、「米国に西洋文明の集中完成すること、日本の文明の大成すること、飛行機が無着陸世界一周をなし得ること」を前提に1930年から数十年後に起こると予言しました。来たる日米戦争は、西洋文明と東洋文明が対決するといいます。

一種の終末論的発想であり、前途の見通しの暗い戦時体制化にあった当時の日本国民には、明るい希望を与えるようでした。石原莞爾は1940年9月「人類の前史終わらんとす」という講演をまとめた『世界最終論』を刊行、80版を重ねました。

ここではロケットや核兵器を予想したような、「自由に成層圏にも行動し得るすばらしい航空機」や、「一挙に敵に懺滅的打撃を与える決戦兵器」の出現を予言しているのです。ただし1930年代の日本にはこのような世界最終戦争を遂行する力はないので、満蒙地区が必要であり、ここに石原莞爾にとって満州事変の根本的必然性があったのです。

「世界最終戦争論」には天才的なひらめきを感じさせるところがあるのは事実ですが、科学的根拠があるわけでなく、戦略的発想と宗教的ドグマから得たようなものでした。最終戦争という発想は、石原莞爾が1923年の関東大震災の知らせをベルリンで聞いたとき、啓示を得たことにあるともいわれています。

(『石原莞爾選集』第三巻、石原莞爾平和思想研究会顧問・仁科悟郎教授解説)。石原莞爾は日蓮宗の宗教グループ国柱会に属していたから、その中には多くの石原信者がいたことは事実で、過去に国柱会の行事に参加すると私の目からも明らかでした。

 





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時効について
   投稿者: 仲條拓躬    
2025/04/28(月) 17:49
No. 7823
 
 
時効とは人を殺しても一定期間逃げ回れば罪に問われなくなるという事です。有名な3億円事件やグリコの社長誘拐事件の時効が成立しました。犯人は、時の経過により時効が成立すれば、罪に問われないということです。

だが、これは刑事上の時効で、民事上にも時効が別にあります。例えば友達からお金を借りても返す期限が10年経てば返す義務がなくなります。サラキン業者から借りたお金は時効期間が5年で時効が成立します。

ちなみに、飲み屋のつけの場合は、1年で時効が成立します。それを防ぐには訴訟を起こすしかないです。裁判で勝訴すれば同じ給料債権でも一気に時効期間が10年に延びるという裏技があります。

公訴の時効は、刑事訴訟法250条から255 条に定められています。犯罪発生後、一定期間内に、犯人を裁判所に公訴しなければ、刑が科せられないという制度です。公訴時効の期間は、殺人罪など最高刑が死刑に当たる罪の場合15年、無期の懲役や禁固に当たる罪は10年、凶悪犯罪で長期 10年以上の懲役に当たる罪は7年です。

刑の時効は、刑法31条から34条に定められています。在宅や保釈事件で判決確定後、逃亡などで一定期間、刑の執行を受けなかった時、時効で刑の執行が免除となる制度です。死刑の場合は30年、無期の懲役・禁固20年、10年以上の懲役で時効期間15年です。

時効が定められている理由は法律にその根拠を示してはいませんが、時の経過で犯人を処罰する必要がなくなることや長い逃亡生活で、事実上制裁を受けたと同じ苦しみを味わっており、証拠があまりなく、関係者の記憶が薄れていて証明が困難な場合などがあるためだと思います。

だが、改正により、例えば、殺人罪(既遂)や強盗殺人罪など、「人を死亡させた罪」のうち、法定刑の上限が死刑であるものについては、公訴時効は廃止されました。これにより、犯罪行為の時からどれだけ時間が経過しても、犯人を処罰することができるようになりました。

時効に関して先進国のドイツでは、殺人事件を30年に延長して殺人事件の一部は時効を廃止、アメリカは大部分の州が殺人の時効を廃止しています。日本の刑罰で一番重いのは死刑です。死刑制度がなくなると、凶悪事件を起こしてもいずれは社会に復帰できることになり、被害者遺族の反発が大きい。そこで考えられるのは「終身刑制度」です。

「終身刑制度」とは、仮出獄を一切みとめず、一生服役させる制度であり、死刑と無期懲役の間に位置します。死刑廃止が世界的な傾向の中、終身刑をおくことで犯罪を抑止することを目的とした制度です。だがこの構想もなかなか進んでいません。

与党でも、死刑制度を残しておきたい自民党と、前面廃止を主張する公明党に、保守党がからみ、3党足並みがそろわないのが現状です。また、「終身刑は死刑よりも罪は重い」と考える人たちもいるし、終身刑だと、刑務所自体も増やさなければならないだろうし、国民の税金で3食の飯も食わせなければなりません。世界の風潮にのることはむずかしそうです。

 






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