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戦前の昭和初期には政治勢力が4つありました。一つは天皇周辺の宮中グループで、これは元老、首相経験者や大臣、侍従長、宮中高官、それに枢蜜顧問官、貴族院議員でもあった華族の大部分が含まれていたと言います。
二つ目は軍部、とくに陸軍で、中堅、小壮軍人が上層部を動かしていました。三つ目は政党で、1928年の第一回普通選挙から、政局に影響があったのは政友会、民政党の二大保守政党で、1940年にすべて解消しました。
四つ目は官僚で、外務、内務、大蔵、商工各省の官僚が、行政の実権を握っていました。このような時代に久原房之助と言う大物がいましたが、毛嫌いされていたので、この四つのいずれにも足場を築けませんでした。
それは田中好義一内閣の退陣の頃から「重臣ブロック」という言葉を口にして、批判の対象としたので、重臣側の反発を買い、久原房之助の批判は昭和天皇の耳にも届いていました。『昭和天皇独白録』には「久原房之助などが『重臣ブロック』という言葉を作り出し田中内閣が倒れたのは重臣達、宮中の陰謀だと触れ歩くに至った」と。
昭和天皇が指しているのは、張作霖爆殺事件のとき田中首相が「犯人は帝国軍で、これを厳罰に処します」と上奏していたのに、のちには一転して「帝国軍人が犯人とは確かめることができませんでした」と上層し、天皇から「前と言う事が違う、辞表を出したらよかろう」と叱責され、内閣総辞職に追い込まれたことにあります。
このほか久原房之助が「日中ソ三国緩衝地帯」設置論で朝鮮を「手渡す」ことに言及したことも、重臣層を刺激したことは間違いなく、久原房之助は危険人物と見られていたのです。久原房之助は阿部、米内内閣で内閣参議に就任していましたが、これに先立つ近衛内閣で参議候補にのぼった際、内大臣の湯浅倉兵が久原房之助の名前に×印をつけました。
首相が元老、重臣の推挙で決まった戦前戦中の昭和で、久原房之助が天下をとる事は不可能だったのです。次に軍部はどうだったかと言うと陸軍の実権は、二・二六事件のあと皇道派を一掃した統制派が握り、東条英機、梅津美治郎、武藤章の系列です。
久原房之助が親しかったのは荒木貞夫や小磯国昭など皇道派の人脈で、二・二六事件に関与したことから陸軍主流からは疎遠でした。二・二六事件後から東条時代が終わるまで軍との関係で時の流れに乗ることは出来ませんでした。
第三に政党は、政友会の幹事長になりましたが、当選回数がモノをいう党内では「鈴木喜三郎・鳩山一郎」の大派閥の壁は大きかった。政友会正統派の総裁は、鳩山一郎派の力を借りて乗っ取ったもので、実力で制圧していたのではありません。
最後に官僚の力はこの時代でもとても強かった。内務・警察官僚は治安の要所を押え、地方には官僚出身の知事が君臨していました。経済官僚は国家総動員法をはじめ統制経済を推進しました。外務官僚は阿部内閣で貿易省の新設を結束して潰しました。
久原房之助の「官歴」は田中内閣の時の逓信大臣の短い期間だけです。息のかかった官僚を育てる時間はなかったのです。こうして久原房之助は時の四大権力に基盤を持たず怪物として異端者として終戦を迎えました。
二・二六事件に関わって空費した2年の歳月はこの激動期に才能を発揮する機会を奪ってしまったのです。だが、終戦を向かえても久原房之助の政治に対する意欲はまだ消えてはいませんでした。占領軍から戦犯容疑者に指定されましたが、病気で拘留は免れました。
容疑は田中義一や荒木貞夫ら「軍国主義者」とされた人物と親しかったこと、二・二六事件に関与したことでしたが、一年足らずで指定が解除され公職追放されました。ようやく政界復帰のチャンスがめぐってきたのは、吉田内閣の1952年の総選挙です。
時すでに82歳。山口二区から無所属で出馬して、佐藤栄作(のち首相)に8000票の差をつけてトップで当選しました。だが衆議院の議席はたった5ヶ月しか続かなかった。翌年3月、吉田内閣は解散を断行し、総選挙で久原房之助は落選しました。
岸信介、佐藤栄作の兄弟がこの山口二区で立候補し、公認されず組織のない久原房之助がはじき出されてしまい政界を永遠に退いてしまったのです。一匹狼では難しい、この事からも助け合いの輪とはとても大切なものだと実感する久原房之助の人生でした。
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