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既に日露戦争前にもみられた日米対立は、戦後ようやく顕在化し、第一次世界大戦後の国際協調の時代においても、根底で存在していました。米国での排日移民法が成立してからは日本のマスコミでも取り上げられるようになりました。
日米対立に関しては多くの日米未来戦記が出版され、フィリピン島攻防戦、太平洋上の日米艦隊決戦などが話題となっていたのです。一方軍人である石原莞爾は、既に1925年頃、日米間の「世界最終戦争論」に達していました。
石原莞爾の場合は日米戦争を日蓮の教義に基づいて、世界における人類の最終戦争と位置付けているところに独特の戦争史観が加わっているのです。石原莞爾は世界の戦史を研究した結果、戦争は持久(消耗)戦争と決戦(懺滅)とが交互に繰り返されてきたとし、持久戦争であった第一次世界大戦の後に来る次の戦争は、決戦戦争であると考えていました。
その戦争の時期は、「米国に西洋文明の集中完成すること、日本の文明の大成すること、飛行機が無着陸世界一周をなし得ること」を前提に1930年から数十年後に起こると予言しました。来たる日米戦争は、西洋文明と東洋文明が対決するといいます。
一種の終末論的発想であり、前途の見通しの暗い戦時体制化にあった当時の日本国民には、明るい希望を与えるようでした。石原莞爾は1940年9月「人類の前史終わらんとす」という講演をまとめた『世界最終論』を刊行、80版を重ねました。
ここではロケットや核兵器を予想したような、「自由に成層圏にも行動し得るすばらしい航空機」や、「一挙に敵に懺滅的打撃を与える決戦兵器」の出現を予言しているのです。ただし1930年代の日本にはこのような世界最終戦争を遂行する力はないので、満蒙地区が必要であり、ここに石原莞爾にとって満州事変の根本的必然性があったのです。
「世界最終戦争論」には天才的なひらめきを感じさせるところがあるのは事実ですが、科学的根拠があるわけでなく、戦略的発想と宗教的ドグマから得たようなものでした。最終戦争という発想は、石原莞爾が1923年の関東大震災の知らせをベルリンで聞いたとき、啓示を得たことにあるともいわれています。
(『石原莞爾選集』第三巻、石原莞爾平和思想研究会顧問・仁科悟郎教授解説)。石原莞爾は日蓮宗の宗教グループ国柱会に属していたから、その中には多くの石原信者がいたことは事実で、過去に国柱会の行事に参加すると私の目からも明らかでした。
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