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ヒトラーがラインラントに進駐した1936年、日本では226事件が起きて軍部独裁が進みます。さらに総理大臣の広田弘毅が、軍部大臣現役武官制を復活させます。もともとは山縣有朋が1900年につくった制度で、「陸軍大臣、海軍大臣は現役の軍人でないといけない」というものです。
これは山縣の悪知恵で、内閣ができても、軍部が大臣を出さなければ、内閣は倒れてしまいます。さすがに「こんな愚かな制度があるか」ということで、海軍出身の山本権兵衛が総理大臣のときに「現役」という条件を外し、OBでもいいことにしました。
これなら、内閣は軍部のいいなりにならなくて済みます。それを、軍部が怖くなった広田弘毅が元に戻してしまったのです。日本の政党政治は骨抜きになります。中国では、蒋介石の国民政府が共産党の打倒に乗り出し、攻撃していました。
共産党は、大長征で逃げ回ります。逃げ回る途中でリーダーになったのが、毛沢東です。そして1936年、西安事件が起きます。張学良が若いときはアヘンを吸って遊んでいるプレイボーイでしたが、実は根性があります。
お父さんが殺されると、蒋介石の国民党と結んで日本に抵抗を始めたのでした。この張学良が西安で、上司の蒋介石を監禁して、こう迫ります。「今、日本が中国に攻めてきているのに、共産党と喧嘩している場合か。一致団結して日本を倒すのが先だろ」と。
毛沢東は、周恩来を西安に送り込みました。西安で、周恩来と蒋介石、張学良が話しあい、 蒋介石は解放され、国民政府と共産党が協力して、日本に対抗しようということになりました。けれど、蒋介石はものすごく執念深い人で、自分を監禁した張学良を許さず、その後、長く拘束しました。
第2次世界大戦後に台湾に逃げたときも、蒋介石は張学良を連れていき、拘束を解きませんでした。解放されたときには晩年を迎えていました。100歳まで生きて、回顧録を残しています。立派な人です。1937年、 盧溝橋事件が起きて、日中戦争が始まります。
首相の近衛文麿は翌年、「爾後、国民政府を相手にせず」という声明を出します。おかしいです。戦争している相手を「相手にしない」とは、どうやって戦争を終わらせるのかという話です。日露戦争を始めるときは伊藤博文が終わらせ方まで考えていました。
それに比べると、いかに国の指導者の能力が落ちていたかということです。相手にしないということは、交渉するという選択肢を自ら捨てることです。交渉しない以上、中国全土を攻め落とさない限り戦争は終わりません。泥沼への突入です。石原莞爾が中国と戦争をしてはいけないといい続けたのがよくわかります。
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