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1914年6月、オーストリアのフランツ・フェルディナント大公夫妻が、バルカン半島のサラエヴォでセルビア人の民族主義者に暗殺されます。第1次世界大戦の引き金になったサラエヴォ事件です。しかし、不思議な話です。
バルカン半島は当時、民族紛争で大荒れでした。そんなところになぜ、皇位継承者のフランツ・フェルディナント大公がわざわざ出向いたのでしょう。それは、オーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世が賢くなかったからです。
ハプスブルク家は賢帝が出ない不思議な家系ですが、この人はまた、とんでもない頑固者でした。あまりの頑固さに息の詰まった妻が、放浪の旅に出てしまったくらいです。妻が放浪の旅をしている間に、2人の子どもの皇太子が、若い女性と心中してしまいました。
そこで甥にあたるフランツ・フェルディナント大公を皇位継承者にしました。フランツ・フェルディナント大公は、ボヘミア生まれの下級貴族のお嬢さんと恋をして、幸せな家庭を築こうとしていました。
フランツ・ヨーゼフ1世は頑迷そのものですから、下級貴族の妻を許しません。結婚は認めるが、子どもに皇位継承権は与えないし、ウィーンの宮廷で2人が並んで座ることも許さない、というのです。
そんな2人も、地方に出かければ、並んで座れて、拍手喝采で迎えられます。だからフランツ・フェルディナント大公は地方に頻繁に出かけ、そこで凶弾に倒れたわけです。ともあれ、皇位継承者がセルビア人に殺されたとあって、オーストリアは激怒します。
しかし、それならオーストリアとセルビアの戦争になるはずです。それがなぜ、第1次世界大戦に発展したのでしょうか。望まない戦争に引きずり込まれた、列強の愚かさがそこにあります。暗殺事件の1ヵ月後、オーストリアはセルビアに宣戦布告します。
ドイツもロシアもフランスも本来、これに何の関係もありません。ただし、ロシアはセルビアの後ろ盾になっていましたし、ドイツはオーストリアと同盟を結んでいます。ロシアは兵士に動員をかけます。戦争の準備くらいして見せなければ、格好がつきません。
ロシア皇帝のニコライ2世は、総動員を望んでいませんでした。総動員したら、ドイツを刺激してしまいます。ところが参謀の大臣たちは 「部分動員は技術的に難しい」などと主張して食い下がります。
すったもんだの末に疲れ果てた皇帝は、「しかたない」と、総動員を認めてしまいました。ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世もあまり賢くありませんでした。戦争をする気なんてなかったのに、ロシアが総動員したと聞いて「では、こちらも」と動員をかけます。
露仏同盟を結んでいるフランスも、「ロシアがやるなら、こちらも」と動員します。こうして悲惨な戦争が始まりました。愚かです。『夢遊病者たち、第一次世界大戦はいかにして始まったか』(クリストファー・クラーク著、小原淳訳 / みすず書房)という名著があります。
誰も望んでいない戦争にずるずると引き込まれていく第1次世界大戦前夜の様子が、見事に描かれています。ドイツ組と大英帝国組、アメリカの国力は「1:1:1強」です。第1次世界大戦の構図を確認します。もともと三国同盟がありました。
19世紀に、ドイツとオーストリア、イタリアが結んだ同盟です。しかし、オーストリアと領土問題を抱えていたイタリアは、第1次世界大戦では当初、中立を守ります。ドイツ側には、3B 政策で深く結びついていたオスマン朝 (トルコ) がつきました。
このドイツとオーストリア、オスマン朝の陣営を、現在では中央同盟国と呼びます。いわば「ドイツ組」です。この「ドイツ組」に対峙したのが、露仏同盟を結んでいたロシアとフランス、そしてドイツと覇権を争う大英帝国です。
こちらは「大英帝国組」と考えればわかりやすいでしょう。第1次世界大戦はまず、このような「3カ国 対 3カ国」の構図で始まったわけです。戦場はヨーロッパです。第1次世界大戦は総力戦でした。
軍事力だけでなく、国全体の経済力、生産力で戦う戦争ということです。そこで両陣営を工業生産力で比べてみると、中央同盟国のドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国と英仏ロシアの連合国3カ国の工業生産力は、かなり拮抗しています。
中央同盟国にオスマン朝が加わることも考えれば、ほぼ互角といっていいでしょう。しかし、この2つの陣営とほぼ同じか、それを大きく上回る工業生産力を、アメリカ1カ国が持っていました。
かなり大雑把にまとめれば、当時の列強の国力は、次のような数式で表せるでしょう。ドイツ組: 大英帝国組:アメリカ=1:1:1強の3強です。実際に戦ってみるとドイツが強く、 まず、東のロシアをタンネンベルクの戦いでこてんぱんにやっつけます。次にドイツは、西のフランスを倒そうとしますが、フランスは意外にしぶとく、西部戦線は膠着するのです。
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